豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

無所有の境地を目指そう

2014-05-23 14:54:17 | 日記
こんにちは。

欲望を捨て去った清涼なる、皆さん。


本日は昼過ぎ13時に起きて、久しぶりに座禅をした豊田です。

体のあちこちが痛い、笑

計画生活をやめてから2ヶ月くらいかな?

座禅をまったくやっていなかったのですが、していないと気が付かないのが不思議ですね。

体が、様々な動きをしているのですが、まったく気が付いていないという摩訶不思議。

計画を再開するのは、もうしないですが、座禅と読書は計画的にやっていこうと再考しています。


えーっと、またCMをしておきたいのですが、

とりあえずブログランキングをクリックして貰えると、ランキングが上がって嬉しいのでお願いします。

来てくれる人が増えて欲しいのです。

欲望を叶えたいと望んだ人がもしもそれを得られないと嘆き悲しむのです(大爆笑)



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また千鶴さんが、たまに気分で更新している『ダラックマのブログ』へも遊びに行ってあげてほしいな。

今日は更新しているのか、僕も知りませんが笑

たしか彼女は、今日の僕の暴言で、怒り狂っていました。

和室で座禅しているのですが、乱雑に散らかっているのを自分の責任なのに、彼女に当たってしまったのです。

まあ、それはいいとして、彼女のブログも、宜しくお願いします!!!!


※妻の『ダラックマのブログ』も一緒にお読みください。


さらに恥ずかしさに頬を染めながら『超個人的疑問』という自意識過剰な自伝も紹介しておきます。

昨日も、紹介しましたが、これは下手な文章ですが、いつも推敲しない僕が、なんどか確認して訂正したという珍しいものです。

単に自分の至らない半生を書いていったものですが、何しろ、他人の人生をのぞき見る機会も中々ないでしょうから、楽しんでいただけるとありがたいのであります。

まあ、しかし、怪しいかも知れません、笑


※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。


以上! 長々とCMでした。


さて『スッタニパータ』を今朝は読み返していましたが、やはり煩悩を捨てることに集中しています。

一番最初に強調されているのが、欲望です。

迷い、怒り、欲望を捨て去るのに、根本の『わがものにしたい』を捨てなくてはならないようです。

究極の境地を『無所有の境地』と表現しています。

この境地は心理的な状態を指していると思われます。

この無所有の境地を実現するためには『独り離れてあること』だと書かれています。

そして、この『独り離れてある』『無所有の境地』は『見解=知恵』に寄って到達される。


欲望を捨てるというのは、離欲もすてることである。

彼は、欲望から離れたいという欲すらあってはならないと説くのだ。

心の中で、欲望に悩み考えるという状態を一切滅してしまえば涅槃の境地に至るのである。

しかも、この境地は生老病死を超越して、苦の根本を滅尽させるという凄まじい境地なのだ。


体の欲求というのは『食う、寝る、やる』が基本だと思われます。

その他にも付随して、様々な心理的欲求、『虚栄心とか自己愛』がありますが、これらも欲求であります。

この『食う、寝る、やる』と『虚栄心と自己愛』を心の中に住まわせないことだと考えます。

見解というのは、観て分かることだと思います。

つまり、これらに対する欲求が苦の根本であると見抜いて、理解したならば、苦は取り除かれる。


なんと、この最上の境地は、焼肉が食べたいと思ったら、即行動するというだけです。

食べたいから、悩み考えるという心の中の状態をキレイサッパリ捨てることなのです。

食べたくても我慢するという心の中の状態をもキレイサッパリ捨て去ることなのです。

つまり、コミットメントしていることですね。


今やる、すぐやる、できるまでやる、トコトンやる、

状態です。


言葉を換えると、

与えられたものしか摂らないとか、

人事を尽くして天命を待つとか、

結果は気にしないとか、

私は何も気にしないとか、

今を生ききるとか、

日々是好日とか、

禅とか、

幸せであること、幸せになることとか、


になると思います。

目の前にある現実は無くすことはできないのですが、コレに対する理解が変容することをブッダは言ったのでしょう。

これは欲望と行為の間に心が入らないことです。

スルーするのです。

心の中で『あれが、これが』と悩み考えていることがないことですね。

心は空っぽで、ただ目の前の現実だけが、そこにある。

その目の前にある現実に即行動していくわけで、何の執着もないことが欲望がない状態です。

徹底的に心理学的な道ではないですか。


僕はこう考えました。

これは、単に至福に留まって満足している状態で生ききる事だと思うのです。

欲望や、それを起点にした怒りは、至福の上に巻き起こっているのですが、注意を向けなければ力を持てません。

そこに自分がのめりこんで『どうしても○○が欲しい』とならずに、スルーしていくと巻き込まれませんね。


これは、何かに似ている。

連想を、そのままにして静めるときにやっていた瞑想と、凄く似ているのです!!

今度は煩悩をそのままにして静めるということが必要なのですが、これは真我を起点にやることですね。

真我とは『幸せであること、幸せになること』です。

幸せであることは自然な状態なのに、自分以外の対象に幸せがあると勘違いしているだけなのです。


だから、ただ独り離れて、欲望を捨てるには、心に静粛をもたらすことです。

連想を静めるには、頭の注意を、例えば呼吸に向けて集中するなどの座禅法がありますよね。

この座禅法、つまり客観的自己観察を、心の側でもやることなのであります。

心の奥には、幸せが常にある、この至福を見失わずに、幻惑させる欲望たちを、ただ放っておく。

静かになるまで、これを続けること、保持することが修業なのでしょう。


マハラジも『私は在る』の感覚を見つけて、そこに留まりなさいとアドバイスしていました。

彼は、この方法で、たった3年で真我実現を果たしたのです。




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