chilimiの部屋

大切なものすべて・・・

斜陽・・・

2007-12-05 15:24:20 | 家族の事
父の会社の倒産で、転落の一途を辿った我が家ですが、
祖父が頑張っていた時代には、プチ華麗なる一族のような
時代があったそうです。

祖父は、若い頃から世界中を駆け巡り、満州鉄道(満鉄)の工事に携わり、
『日本土木年間』(確かこんな名前の本)に名を残すほどの人物でした。

満州時代には、お手伝いさんが何人もいるような生活で、当時の写真を見ると、
毎年新年には、晴れ着を新調して家族写真を撮っていたり、祖母は護身用に
象牙の柄のピストルを持っていたり、父は5人兄弟の次男ですが、
長兄が胸を患った時には、体に良いからとインドの人が当時貴重だった
山羊の乳を毎日持ってきたり、日本が戦争に負けて命からがら引き揚げて
来るまでは、宝石などの財産も相当あったそうです

が・・・
引き揚げてすぐ、長女が女学校に革の編み上げブーツしか持っていなかった為、
それを履いて登校すると、生意気だと言われ、砂利道でボロボロにし、
下駄を買って欲しいと言うと「下駄を買うのも大変なのよ」と
言われたと言う位、日本に帰って来た時は、生活が大変だったのかもしれません。

その後、祖父が土木建築の株式会社を立ち上げて行くわけですが、
これが、我が家の運命の分かれ道だったのでしょうか・・・

これは、祖父が会社をやっていた当時の写真です。
祖父の後ろに写っている木札が、働いていた人の数で出勤簿のような
役目をしていました。

大学を卒業した父は大手ゼネコン「K島建設」に就職し、
大学時代に知り合った母と所帯を持ち、東京で幸せに暮らしていたと、
先日、叔母(先程の編み上げブーツの長女)が話してくれました。
そのままの人生でしたら、きっと今頃は普通に定年して、
夫婦で楽しい老後を過ごしていたでしょうか・・・

なぜ、父が祖父の会社を継いだのか・・・
それは、長男が父と母に会社を継いでくれと土下座までして
頼んだそうです。
長男(叔父)は祖父や親類から援助を受け、すでに自分の会社を立ち上げていたのと、
その頃、祖父の会社はオイルショックに向かっていく不景気の波に押され、
経営も芳しくなかったようで、それを父と母にいわば押し付けたと
これも叔母が話してくれました。

会社が倒産してから、父方の親戚とはほとんど交流が無くなり、
子供の私は、なんて冷たい人達なんだと思った事もありました。

父が会社をやっている当時は、周りから『お嬢』などと呼ばれ、
本当に可愛がられていましたが、
会社が倒産となると、ごく一部の人を除いて掌を返したように変わっていきました
・・・
なので、父が居なくなった後も、家へは帰らずに祖父の家へはよく行きました。
小学校の近くに、父が祖父の為に建てた家ですが、それもしばらくして
借金の形に取られ、どう巡ったのか?中学になって同級生が住んでいた時には、
相当ショックでした

祖父が今生きていてくれたらと、何度も思った事があります。
結局、父が姿を見せるきっかけになったのは、祖父の病状が
良くないと分かってからでした。

この写真は、ブログ用にセピアに加工しましたが、常に飾ってある大切な写真です。
本当に私は祖父が大好きでした。

辛い時には、この写真に向かって、おじいちゃんが助けてくれると
いつも願い事をしていましたが、
先日、テレビか何かで亡くなった人にお願いをしてはいけないと
言っているのを聞いて「今までお願いしまくりだよ」と
ちょっとでした。

母の入院中に、ほとんど交流の無かった叔母が、何度も病院へ足を
運んでくれ、昔の話をたくさん聞かせてくれました。
母は、義理の妹になるわけですが、母の人徳かなぁなんて・・・
勝手に思ったりしています