「1 夜の帳(ちょう)にささめき盡きし星の今を下界(げかい)の人の鬢((びん))のほつれよ」
「鉄幹歌話三」(『明星』明治34・10)によると、
- 天上の夜の帳の歓語が蜜の如くあまく、円満であったに引替へて、下界に降された星の子の我は、今を恋の得がたきに痩せて、色なき髪の如何に乱れ多きかを見給へ-
「みだれ髪を読む」(著明 「なにがし=上田 敏」 上記と同号 )も同様な見解を示していますが、これらは、当時の新詩社同人達が自らを「星の子」と称し、一種の選民意識を有していた、とされています。
ただ、平出 修(黒 瞳子)『新派和歌評論』(明治34・10)は、天井の円満な星の恋と地上の煩悶する人間の恋とを対照とさせた構想である、と受け取っています。
晶子も『みだれ髪』三・四版では、 「夜の帳にささめきあまき星の今を下界の人の鬢のほつれよ」と改めたのに、『現代自選歌集』(大正4年3月 新詩社)では、 「夜の帳にささめきあまき星もあらむ下界の人ぞ鬢のほつるる」と平出修依りの歌に改め、さらに『晶子短歌全集』(大正8年10月)では、 「夜の帳にささめきあまき星も居ん下界は物をこそ思へ」と改作しています。
しかし最初、晶子はどこからこの歌を構想したのか? との想いをめぐらせると・・・・、
鉄幹が用いた最初の妻・滝野の雅名や登美子に与えた詩に入れた「芙蓉」。 それが蓮であり、楊貴妃の美しい顔を意図していること。また楊貴妃の激しく流す涙の貌(かお)が「欄干」であったり、藤村の「蓮花舟」にも長恨歌からの発想があったりして・・・・、
どうやら漢文を自由に操れる明治の人々には、白居易「長恨歌」への想い、が元々あるのではないでしょうか?
〔夜の帳に〕は、その「長恨歌」への想いが、『みだれ髪』巻頭歌としての栄誉を得ているではないのか? と思います。
陳鴻傳『長恨歌傳』より ―
東都門(ひがしともん)を望み馬に信(まか)せて帰り。 帰り来たれば池苑(ちゑん)皆(みな)舊(きう)に依(よ)る。 太液(たいえき)の芙蓉、 未央(びあう)の柳、 芙蓉は面の如く柳は眉の如し。 此れに対して如何ぞ涙(なみだ)垂(た)れざらん。 春風(しゆんぷう)桃梨(たうり)花(はな)開くの日(ひ)、 秋雨(しうう)梧桐(ごどう)葉(は)落(お)つるの時。 西宮南内(せいきうなんだい)秋草(しうさう)多く、 落葉階(かい)に満ちて紅(こう)掃(はら)はず。 梨園(りゑん)の弟子(ていし)白髪新(あらた)に、 椒房(せうぼう)の阿監(あかん)青娥(せいが)老いたり。 夕殿(せきでん)蛍(ほたる)飛(と)んで思(おもひ)悄然(せうぜん)。 孤燈(ことう)挑(かか)げ盡(つく)して未(いま)だ眠(ねむり)を成さず。 遅遅(ちち)たる鐘漏(しようろう)初めて長き夜(よる)、 耿耿(かうかう)たる星河(せいか)曙(あ)けんと欲(ほつ)する天(てん)。 鴛鴦瓦(ゑんあうぐわ)冷(ひやや)かにして霜華(さうくわ)重(おも)く、 翡翠衾(ひすゐきん)寒うして誰と共にせん。 悠悠(いういう)たる生死(せいし)別れて年を経(へ)、 魂魄(こんぱく)嘗(かつ)て来(きた)りて夢に入(い)らず。 -
*耿耿(かうかう)たる星河(せいか)曙(あ)けんと欲(ほつ)する天(てん)。
→ 「1 夜の帳にささめき盡きし星の今を下界の人の鬢のほつれよ」
ではないでしょうか?
楊貴妃を想う悲しみの玄宗皇帝が、見上げる天上の星々。その煌めく星々の空が曙けてゆく・・・・。
しかしどちらかと云えば、悲しみではなく、私は「曙けんと欲する天」を暗々裏に踏んでいると想いたいです。 晶子の最初の集を編むという行為そのものが、明るい未来に向かってゆく・・・・何か、そんな気がします。やっぱり初出がベストですよね・・・・。
そして、『長恨歌傳』の「梨園(りゑん)の弟子(ていし)白髪新(あらた)に、 ~~~ 「耿耿(かうかう)たる星河(せいか)曙(あ)けんと欲(ほつ)する天(てん)。」までを、蕪村、晶子の二人の天才がその詩を踏んで自己の想いを詠っています。
蕪村
*椒房(せうぼう)の阿監(あかん)青娥(せいが)老いたり。 椒房=皇后御所 阿監=宮女の取締役 青娥=花盛りの美しさ
*李白「長干行」 ― 「妾が髪 初めて額(ひたい)を覆(おお)い 花を折って 門前に劇(たわ)むる 郎は竹馬に騎(の)りて来たり 牀(しよう)を遶(めぐ)って 青梅(せいばい)を弄す 同じく長干(ちようかん)の里に居り 両(ふた)つながら小(おさ)なく 嫌猜(けんさい)無し 十四 君が婦(ふ)と為り 羞顔(しゆうがん) 未(いま)だ嘗(かつ)て開かず 頭(こうべ)を低(た)れて 暗壁に向い 千(ち)たび喚(よ)ばるるに 一(ひと)たびも回(めぐ)らさず 十五 始めて眉を展(の)べ 願わくは塵と灰とを同じゅうせん
→ 「青梅に眉あつめる美人哉」
李白「長干行」は、第一に藤村の「初恋」を想いますが、森本哲郎著 『詩人 与謝蕪村の世界』(講談社学術文庫 1996年)によると、 蕪村〔青梅に〕は「長干行」から取られた、と述べておられます。
私も納得しますが、白居易「長恨歌」にもヒントを得ていると思われます。 即ち、「青娥=花盛りの美しさ」の老い → に対峙する「美人」の若さ・初々しさ です。 蕪村は、「長恨歌」に対峙する美を想ったのです。
晶子
*夕殿(せきでん)蛍(ほたる)飛(と)んで思(おもひ)悄然(せうぜん)。
→ 「79 うすものの二尺のたもとすべりおちて蛍ながるる夜風(よかぜ)の青き」
晶子は同じ箇所を「長恨歌」と同様に、老いの美、哀れの美、不の美とも言えば良いのでしょうか? 椒房(せうぼう)の阿監(あかん)が「思悄然」としている様子を自身に化して詠んでいます。「青娥=花盛りの美しさ」が『みだれ髪』の「青き」をイメージしているところが、蕪村と同様で面白いと思います。
*孤燈(ことう)挑(かか)げ盡(つく)して未(いま)だ眠(ねむり)を成さず。
→ 「264 行く春の一弦一柱におもひありさいへ火(ほ)かげのわが髪ながき」 (訳)青春の一時ごとに想いがあります。とは言うものの、燈火の下で梳く私(=晶子)の髪は長く伸びて(あなた=鉄幹を)恨んでいます。
→「267 あえかなる白きうすものまなじりの火かげの榮(はえ)の咀(のろ×詛)はしき君」 (訳)しなやかな白い薄物を着ている鉄幹の眉が、燈火に映えて・・・・、呪わしくさえ(憎い)あなた。
孤燈挑げ盡して未だ眠を成さず― の心境と合致する詠みが成されています。
*遅遅(ちち)たる鐘漏(しようろう)初めて長き夜(よる)、
→「204 京の鐘この日このとき我あらずこの日このとき人と人を泣きぬ」
→「343 春の宵をちひさく撞(つ)きて鐘を下りぬ二十七段堂のきざはし」
玄宗皇帝が楊貴妃を想って聴いた鐘の音、その人を想って・・・・、という意図が組み入れられた詠みです。 〔204 京の鐘〕は、鉄幹と一緒に登美子を想い、〔343 春の宵を〕は、河井酔茗を想ってのことです。 この鐘は堺市中之町の慈光寺の鐘で、晶子の五歳上の友・楠桝江がいた寺とされています。
陳鴻傳『長恨歌傳』より ―
進見(しんけん)の日、 霓裳羽衣(げいしよううい)を奏(そう)し以(もつ)て之(これ)を導(みちび)く。 定情(ていじやう)の夕(ゆふべ)金釵(きんさい)鈿合(でんがう)を授(さづ)け以(もつ)て之(これ)を固(かた)うす。 又(また)命じて歩搖(かんざし)を戴き金璫(みみかざり)を垂(た)れしむ。 明年(みようねん)冊(さく)して貴妃(きひ)となし后(きさき)の服用(ふくよう)を半(わか)つ。
霓裳羽衣=舞楽の名 鈿合=青貝摺りの香盒 冊=符命を与えて取り立てること
*定情(ていじやう)の夕(ゆふべ)金釵(きんさい)鈿合(でんがう)を授(さづ)け以(もつ)て之(これ)を固(かた)うす。
→「290 柳ぬれし今朝(けさ)門(かど)すぐる文づかひ青貝(あをがひ)ずりのその箱ほそき」 (訳)柳が雨で濡れる小雨の朝、細い青貝ずりの硯箱から取り出された筆で書かれた走り書きは、頼りなく・・・・、(これでも結婚の約束をしたのですが・・・・、)その紙切れを私に渡すと、鉄幹は(宿の)門をすぐに出て行きました。 (結婚の約束は、その青貝ずりの硯箱の様に、頼りないものです。)
この訳の解からない歌も、長恨歌の上記の引用だということに気付くと、何となく理解できる様です。 「鈿合を授け以て之を固うす。」 楊貴妃が皇帝に認められた印として、青貝ずりの香盒を戴いた訳ですから、これをもって晶子は、鈿合(でんごう)=青貝ずりの香盒→青貝ずりのその箱=青貝ずりの硯。であり、妻に迎えるという約束の印、を意図としました。 門すぐる文づかい=門を直ぐに出て行った。 と、早く帰りたいのが見え見えの、走り書きした文。 を掛けたフレーズ。 青貝ずりのその箱ほそき=青貝ずりの硯箱が細い。 と、妻に迎えるという約束の意志が頼りなく思える、の意。 晶子は余りにも多くのことを詠みたい為、 根本的に無理がある歌が多くあります。
この歌に続く歌が〔300 朝を細き〕ですが・・・・、舞姫の章にあることから、 「こづつみ」の振り仮名は間違いで、「こつづみ」が正解とされ、朝稽古にでも行く舞妓が、雨に濡れないように小鼓をだんだら染の袖で覆って行く情景、と訳されています。
「300 朝を細き雨に小鼓(こづつみ)おほひゆくだんだら染の袖ながき君」
しかし、舞妓の姿なら、「袖ながき君」という五句が入り込まないです。 即ち、振り仮名が正解で、漢字の方が間違いではないでしょうか。 「小鼓(こつづみ)」× → 「小包(こづつみ)」○です。
正解「300 朝を細き雨に小包(こづつみ)おほひゆくだんだら染の袖ながき君」 (訳)朝の小雨の中、風呂敷き包みを抱えて行ってしまった鉄幹。その着物の袖が長く、(通常の仕事をする人の袖丈でなく)着物が雨に濡れて(だらしなく)段だら模様になっています。 (こんな人と人生を伴にするのでしょうか?)
これで二首の関係が、スッキリしました。
(唐)史官楽史 著 『楊太眞外傳』より ―
妃子(ひし)何(いくばく)もなく寧王(ねいわう)の紫玉笛(しぎよくてき)を竊(ぬす)んで吹く。 故に詩人張祜(ちやうこ)の詩に云(いは)く、梨花深院(りくわしんゐん)人の見るなし。 閑(かん)に寧王の玉笛を把(と)りて吹くと。 此(これ)に因(よ)りて又旨(むね)に忤(さか)ひ放(はな)ち出(いだ)さる。 時に吉温(きつをん)多く中貴人(ちうきじん)と善(よ)し。 國忠(こくちう)懼(おそ)れて計(けい)を温(をん)に請ふ。 遂(つひ)に入(い)り奏(そう)して曰く、妃は婦人なり知識なし、聖顔(せいがん)に忤ふあり、罪死(つみし)に當(たう)す。 既に嘗て恩寵を蒙る、只(ただ)合(まさ)に宮中に死すべし、陛下何(なん)ぞ一席の地(ち)を惜しむ、其れをして戮(りく)に就(つ)かしめよ、安(いづく)んぞ辱(はづかしめ)を外(ほか)に取るに忍びんやと。 上(しやう)曰く、朕(ちん)卿(けい)卿(けい)を用ふ、蓋(けだ)し妃に縁(よ)らざるなりと。
中貴人=宮中に奉仕する官名
*妃子(ひし)何(いくばく)もなく寧王(ねいわう)の紫玉笛(しぎよくてき)を竊(ぬす)んで吹く。
*天寶(てんぽう)四戴(さい)七月 = 玄宗皇帝の年号の四年、七月 の意。
→「345 病むわれにその子五つのをとこなりつたなの笛をあはれと聞く夜」
→「345 病むわれにその子五つのをとどなりつたなの笛をあはれと聞く夜」 「をとこ→をとど? と改正」 (訳)病んでいる私(晶子)に、詩に取り組んで五年目の夫(鉄幹)が誹謗(文壇照魔鏡事件)されました。それを哀れと聞く夜です 。
「をとこ」は「をとと」の誤植とされ、三四版では第三句を「をとうとよ」と改定。 病気の私を慰めるため、五つ年下の少年が吹いてくれた笛の音に感動した、と解されている。
文壇照魔鏡事件 ―『文壇照魔鏡 第壱与謝野鉄幹』なる小冊子が明治34年3月10日発行された怪文書。会名、所在地、人名すべて架空のもの。「文壇の醜態坐視するに忍びず、概然此言を為して自ら肅清の重任を担へるもの」という趣旨のもとに、第一編は専ら鉄幹を誹謗したものでした。
〔345 病むわれに〕は、「をとこ」が誤植とされたのには、「五つつの」というキーワードから生じているのですが、それは玄宗皇帝の年号が四戴(さい)→四歳→四つ というように、「五つつ」即ち、鉄幹の詩に取り組んでから五年経ったという晶子ならではの意味です。 鉄幹は、その五年前に韓国から帰り(護送される)、明治29年3月、明治書院の編集部主任となります。 7月、詩歌集『東西南北』を明治書院より刊行します。 これが「五つつのをとこ」です。 「をとこ」は、鉄幹である夫を意図することから、 「をとど」=夫 の誤植としても良いのではないかと思い、ここでは「をとど」としました。
又、「つたなの笛」とは、楊貴妃が笛を盗んだことからの引用だと推測され、文壇からいわゆる目立った行動をとった鉄幹への制裁を加えた事件ですから、以下の二首の「文壇照魔鏡事件」と連動した一首だと思います。
「390 幸おはせ羽やはらかき鳩とらへ罪ただしたる高き君たち」
「391 打ちますにしろがねの鞭うつくしき愚かよ泣くが名にうとき羊(ひつじ)」
(唐)史官楽史 著 『楊太眞外傳』より ―
是(これ)よりさき開元中(かいげんちう)、 禁中(きんちう)木(ぼく)芍薬(しやくやく)を重んず。 即ち今の牡丹なり。 数本(すうほん)紅紫浅(こうしせん)紅通(こうつう)白(はく)なるものを得たり。 上(しやう)因(よ)つて興慶池(こうけいち)東(とう)、 沈香亭(ちんかうてい)前(ぜん)に移植す。
*今の牡丹なり。 数本(すうほん)紅紫浅(こうしせん)紅通(こうつう)白(はく)なるものを得たり。
→「134 わが春の二十姿(はたちすがた)と打ぞ見ぬ底くれなゐのうす色牡丹」 三・四版では、第三句は「打ぞ見る」に改定。
この歌も晶子の自己陶酔の歌とされていますが、そうではなく「打ぞ見ぬ」は、『楊太眞外傳』の牡丹の花と同じ柄の着物だという発見への感激を示しています。
(唐)史官楽史 著 『楊太眞外傳』より ―
妃子(ひし)の琵琶は、邏サ檀なり。 寺人(じじん)白季貞蜀(はくきていしよく)に使い還りて其(その)木を献ず。 温潤(おんじゆん)玉の如く光耀(ひかり)鑒(かん)すべく、金纓紅文(きんのすぢくれなゐのあや)あり、 蹙(ちぢま)りて雙鳳(さうほう)を成す。絃(いと)は乃(すなは)ち末訶彌羅國(まかびらこく)より永泰(えいたい)元年貢(こう)する所のもの淥水(ろくすゐ)の蠶絲(きぬいと)なり。 光エイ貫珠 (かわんしゆ)の如し。 琴(きん)・瑟(しつ)・紫玉笛は乃ち姮娥(こが)の得し所なり。 祿山(ろくざん)三百事を進む。 管色(くわんしよく)倶(とも)に媚玉(びぎよく)を用いて之を爲(つく)る。
邏サ檀=檀は木の名。 邏サ=拉薩なり、唐時 吐蕃國の都城なり。 寺人=宦官なり。 宮中の雑役に服する官。 姮娥(こが)=古の仙女の名。 淮南子(えなんじ)に羿不死の薬を西王母に請ふ、姮娥之を竊(ぬす)み月宮に奔(にげ)るとあり。
*金纓紅文(きんのすぢくれなゐのあや)あり、蹙(ちぢま)りて雙鳳(さうほう)を成す。
→「304 浅黄地に扇ながしの都染(みやこぞめ)九尺のしごき袖よりも長き」
舞妓の艶姿ですが、中国の豪華な衣装・装束にも負けない日本の京都の豪華さを競ったものでしょう。
(唐)史官楽史 著 『楊太眞外傳』より ―
【新豊の女楽師 謝阿蠻(しやあばん)が舞が上手いので、気に入った玄宗と楊貴妃はそれを受け、清元小殿に於いて上は羯鼓(かつこ)、妃は琵琶、寧王は玉笛、他の人々もそれぞれの楽器を持ち寄って演奏する。 ・・・・】 旦(たん)より午(ご)に至るまで歓洽(たのしみ)常に異り、時に唯(ただ)妃の女弟(ぢよてい)秦國(しんこく)夫人のみ端座(たんざ)して之を観る。 曲(きよく)罷(や)む。 上(しやう)戯れて曰く、 阿瞞(あまん)楽籍(がくせき)今日(こんにち)幸(さいはひ)に夫人に供養(きようやう)するを得たり、 一(ひとたび)纏頭(てんとう)を請ふと。
阿瞞(あまん)=玄宗自ら呼ぶ所の名 纏頭(てんとう)=妓に花を贈ること。 昔は衣物を頭にかけて与えたり、因つて纏頭という。
*纏頭(てんとう)を請ふと。
→「251 かつぐきぬにその間(ま)の床(とこ)の梅ぞにくき昔がたりを夢に寄する君」 「かつぐ」は「かづく」の誤り。 恋人が夢に言寄せて語る恋物語に嫉妬し、聞きたくない為、頭から着物を被ったが、床の間の梅の香がして、その梅に縁のある女性(しら梅-増田雅子)が憎らしい、という風に解されています。
玄宗皇帝が「纏頭(てんとう)を請ふ」と言われている訳ですから、賜った着物を肩に掛ける、男が戯れて衣を被(かぶ)る訳ですが・・・・、 私は「かつぐきぬ」は、鉄幹が戯れて衣に「潜ぐ-かづく」ことを意味し、「担ぐ-かつぐ」としても良いと思いますが、・・・・何だかややこしいですが、・・・・ちょっと想像しすぎかなぁ・・・・でも、 「かつぐきぬ」は「君」に掛かるとすれば、ですから・・・・・。 元々の「かつぐ-担ぐ」でも良いのではないかと思います。
晶子の歌は自由奔放、大胆不敵で、こんなこと詠んでいいの? と想える歌も多いから・・・・。 まあどちらにしても「かつぐきぬ」は、晶子が『楊太眞外傳』に親しんでいたということです。