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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

私の小谷温泉 深田久弥とともに  深田志げ子/著

2021年06月13日 17時47分06秒 | 深田久弥


若き日のおおらかな恋。家族へのあたたかな愛情。そして、突然の別離。山の文学者・深田久弥夫人が遺した未刊行エッセー集。

1 九山とともに(金沢のお正月など
山 ほか)
2 山に逝った夫(山に逝った夫 深田久弥のこころざし
九山と俳句 ほか)
3 私の小谷温泉(私の小谷温泉
鳥海山懇親山行報告 ほか)
4 深田久弥の著書に寄せて(『シルクロードの旅』あとがき
『シルクロードの旅』選書版へのあとがき ほか)

「共産主義の世の中になるとね、みんな手を調べられるのだ。
何もしない軟らかい指の人は殺されるんだ。
お母さんのような手の人は大丈夫なんだ」

「本日は・・・」と型通りの挨拶の後
「俗に畳と女房は新しいのがよいと申しますが、これは新しい畳をいつまでも美しく保つために、日光に焼けぬよう、また物をこぼしたり、傷つけたりしないように取り扱いによく注意してほしいという戒めなのです。今日の花嫁のこの清らかな匂うような若き美しさを、花婿たるものは心して保つように」

古畳になるなら美しい艶やかな古畳になりたい。
ひどい焼け焦げや汚点だらけな古畳にはなりたくない。
私はそう自分に言い聞かせて我が家の古畳も大事に直射日光から防いでいる。

昔、学生時代のこの人のひたむきな眼を、私は受けとめようとはしなかった。
そのころはテニスに夢中だったし、女同士の細やかな友情で充ち足りた日々であった。
誰にも心の中に踏み込まれたくなかった。
もう青春を過ぎての出会いから、運命のように大人のつきあいが生まれた。
知らん顔をした昔の借りを返したい気持ちも幾らかはあった。
さりげない付合いがこの人となら出来そうだと信じた。

衣食住にもあまり八釜しい文句も言わず、ことに着るものは構わない人です。

近くの卯辰山へは幾度となく参ります。
山の好きな主人は頂の展望台に立って、遠くの山々を飽かずに眺めています。
「お父さん、もう帰ろうよ」と子供が泣きベソをかくまで我を忘れて眺めています。
スキーの用具だけは惜しみもなく買い与えます。

原稿を書くのは大抵夜10時過ぎ。

銀座を歩いても、一向に愉しそうな顔を見せたことのない人が、山に行くと処を得た手放しの嬉しさが全身に溢れてきます。

「山男が間違って文士になったような人」

春山のその尾根枕(ま)きて逝かれたる

「こちら韮崎の警察ですが」と言われた瞬間、ハッっ胸が騒いだ。
「お宅のご主人は今日、一行7人と茅ヶ岳登山中、午前11時23分、脳卒中のため女坂の上で倒れ、午後1時に亡くなりました。

火葬場で最後の顔を見たとき、この頭の中に一杯に詰まっているヒマラヤやシルクロードは、生身と一緒に一切跡方なく失せてしまうのかと惜しまれた。轟々と音を立てている真紅な窯の中に主人は消えてしまった。
焼けた骨はきれいな白だった。骨格がたくましかったので壷一杯になった。

60の手習いだと笑いながら毎晩テレビの英会話とフランス語、ドイツ語を熱心に聴いていた。
原稿を書くために原書はいつも読んでいたが、しゃべることは不得意なだけに一生懸命だった。

家族4人で飯豊山をテントを担いで縦走したのが一家で出かけた最後であった。
主人が書いた「日本百名山」の山のうち一緒に行った山が18ある。

鰻が大好物で週に2度くらいはリクエストされた。
茄子の糠づけは夏中絶やせなかった。
衣はきわめて質素で洋服を作るたびにまだ着られるじゃないかと承知せず、仮縫いを時間つぶしだといやがって一苦労した。

「買いたい本も我慢しているのだ。無駄なものは買わないでくれ」
「おまえの葬式は盛大にやってあげる」とよく言った。
「誰にも知らせずそっと骨にしてから、ハガキで通知するだけでいい」と私は反論した。

犬ふぐりまず現はれて坂となる
犬ふぐりたんぽぽの黄と隣りあひ


茅ヶ岳で急逝した主人の遺品の手帖に、メモのように記された2句である。
そのあとに大手門、望楼、新府城、本丸館址と単語が並んでいるから、前日韮崎に着いて、城址をぶらぶら歩いた折のものらしい。

毎月25日の締切日までにお渡ししたことは長い年月にただの一度もありません。
月末までに書けばまだよい方で、翌月になることも度々でした。

東京に移って地の利を得て本はどんどん殖え、お金の方がいつも息を切らしていました。

山男の主人はまた一面、心優しい音楽好きであった。
戦争の初期までは、日比谷公会堂で新交響楽団の定期演奏をよく並んで聴いていた。
応接セットさえない洋間にサンスイ・ステレオをデンと据えて、親子思い思いに好きな曲を愉しんだ。モツアルトの好きな主人は、二男に毎月一曲ずつ買ってこさせては、仕事の合間によく聴いていた。その時々の気分でかける曲も異なった、主人にとっては一番手近な気分転換であったらしい。

「僕のお通夜の時には忘れずにあれ(モツアルトのピアノ協奏曲27番、変ロ長調)をかけてくれよ、坊さんのお経よりずっと供養になる」

急逝の一ヶ月前に、NHKの昼のプレゼントで、山中節を歌わされることになった。
「少しあがったと見えて、気がついたら2番をうたっていたんだ」

昭和23年6月の福井地震

今年は4回外国に行くことになっており、本も4,5冊出る予定で、主人にとっては最良の年になるはずだった。

戦後、段々と小説を書かなくなり、山の紀行、ヒマラヤやシルクロード等が主な仕事となった。
ヒマラヤやシルクロード等が主な仕事となった。
原書で読み、地図を広げて自分なりに納得してから書くようであった。

書くこと自体が遅かった。
太字用のペリカン万年筆で一字一字力を入れて書く。

文章には厳しく、滅多に人の文章を褒めなかった。
それだけに真によい文章に逢うと、心底から感嘆の声を惜しまなかった。
自分の文章を持たなくては駄目というのが持論のようであった。

急逝の折、岳人連載中の「世界百名山」「シルクロードの旅」「中央アジア探検史」
が執筆中で遺された。

最初に連れて行ってくれた小谷温泉から、急逝する前の年に登った日野山まで、30年間。
初めての山行は昭和16年6月の雨飾山でした。
「小谷温泉から雨飾山」
仁科三湖のほとりをゆっくり辿りました。
木崎湖の次の中網湖畔の小さな宿に泊まることにして・・・
翌朝、青木湖から終点の中土に下車して、小谷温泉まで4里の山道にかかりました。
このときの私はしおらしく、深田もまた優しくしてくれました。
人との出逢いの甘美な情緒は生涯にたった一度のものなのでしょうか。
「雨飾山という名前が悪いのよ」
宿の下駄で鎌池・鉈池という沼のあたりを歩きました。
湯峠を越えて越後へ出ることにして、・・・

バスの終点の糸魚川は柳並木の美しい町でした。
人影のない海岸は広々として、はじめて見る日本海でした。

一切経山とは何とよい名前の山であろう。
「酸ガ平」「鎌沼」
五色沼
家形山
兵子
姥湯
三階滝

対岸の岩にへばりつくような形で湯煙をあげているのが今宵の泊まりの姥湯であった。
見渡す山も渓流も美しく、此処にいる限り、公害はよその国の話かと考えてしまう。
右手正面に高倉山を仰ぎながら、緩い道を滑川温泉まで下った。
バスで着いた「峠」という名の駅は、その通り静かな山の中の駅で、駅前にお土産の饅頭を作っている茶店が一軒あるだけ。駅のホームは前も後ろも山である。

「森太郎、お前も飯豊山に来い。いいね、みんなで行くんだ」
浪人2年目の長男は「僕だって行くんだから、そんなこと言わないでいけよ」
次男;沢二
雲母(きら)温泉
大熊小屋

鳳凰山・・・青木鉱泉からドントコ沢
またこんな伝説を読んだこともある云々』とありますが、その伝説というのがもしや伊藤孝の『鳳凰山の伝説』ではなかろうかと・・・
もしそうであれば短い彼の生涯多分唯一の烈しい情熱をかたむけた『鳳凰山の伝説』が先生の著書のうち僅か今も活字となって生きていることになり・・・

甲斐駒ケ岳の頂で夫に指し教えられた鳳凰三山は今も脳裏に鮮やかである。
筆不精の夫は滅多に自分ではハガキなど書かない人だった。
余程この若い山男の研究に感銘を受けたから返事を出したに相違いない。

「神様はやりかけの仕事のある人間は決して殺さないものだ」というのが深田の持論であった。

さらに父の残した唯一の財産というべきヒマラヤと中央アジアを中心とした洋書のコレクションを散逸せぬよう、一括して国会図書館に納めた・

ジョニーウォーカーの黒
「お父さんが『これはいいウィスキーだから、こんど酒の分かるのが来たらゆっくり飲もう』と言って楽しみにしていたのよ。だから持ってきてあげたの」

「・・・北上川をはさんで正面に聳える岩手山の姿は一きわ雄大であった。
空を仰いでも雲一つない、平凡な表現であるが、『我が目を疑う』というのが、この光景を前にした時の、まさに私の心境であった。・・・母が父に『あなた、沢二があんなに嬉しそう』と語りかけていた」


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