これが死ぬと言うこと。
北極のDポイント。吹き荒ぶ寒風。肉の焼ける匂い。絶望的な思い。出てきさえしない涙。そして、離れていった背中。
自分の体が崩れる音を風の音と聞き分けながら、その瞬間マーキュリーは氷の上に落ちた。
敵は離れていくのは感覚で分かるけれど、もう自分ではどうにも出来ないほどに意識は薄らいで、指さえ動かすことも出来ない。結局、幻覚を封じるだけで、ただの一体も倒すことが出来ずに自分は終わる。あれほどの炎熱に焼かれながら、氷に落ちた背中とこれから来る未来、否、結末は残酷なほど冷たい。死はすぐそこまで来ている。
既にマーキュリーに出来るのは、ただ静かに己の死を受け入れることのみだった。
もう目も開かないまま、薄れ行く意識に埋没していく思考。それが却って余計なものを削ぎ落とし、研ぎ澄まされたものとなっていく。
もっと自分に力があれば、ここに独り残ることも無かったのだろうか。否、自分より力のあるまことでさえ先に逝ってしまった。美奈子やレイも、どこか自分たちに起こることを悟るような表情で自分の元を去った。
ここを選んで死ぬ自分。誰よりも弱いのは嫌と言うほど分かっているし、まことを独りにしたくなかったのも確かだが、それはエゴだ。
まことはそんなことをは決して望まないし、弱いなら弱いで敵に対し囮にでも盾にでもなれたはずだから。そんなの、知性の戦士で無くたってわかることだ。むしろ、本当にうさぎのことを思うならそうするべきだった。
でも、出来なかった。
ただ、自分は単に勇気が無かったのだ。自分がうさぎの目の前で捕らえられでもしたら、彼女は自分のために泣いてくれることだろう。悲しんでくれることだろう。そして、自分のやるべきことを放棄してしまうかもしれない。決意が揺らいでしまうかもしれない。それが怖かった。
死ぬことよりも、足手まといになることのほうが怖かった。自分の可能性を自分で全て否定してでも、そばにいる勇気が無かった。それだけだ。
そして、ここで無力に死ぬ。
それでも、と思った。細胞の一つ一つが生きることをやめていく中、最早本能に似たひとかけらで、マーキュリー、否、亜美は思う。
マーキュリーは死に、生まれ変わった。だったら自分はもう二度と生まれ変わりたくなど無い。亜美はマーキュリーにいかほど悩まされ、どれだけ眠れない夜を過ごさせられただろう。マーキュリー自身、生まれ変わることを望んでなかったというのに。
ましてや月の王国で朽ちた命はマーキュリーだけのもので、亜美はそのやり直しを取って代わったわけではない。だからもしもまた生まれ変わるようなことがあっても、それはマーキュリーの能力を持った誰かで、マーキュリーでも、ましてや亜美でもない。こんな鎖は、ここで永遠に断ち切ってしまうべきなのだ。
それでも、全く馬鹿げた妄想でしかないのだけれど、水野亜美がもう一度やり直せるのであれば―
「・・・・・・・・・・・・ほ、しい、なぁ・・・」
自分に向けた遺言は、空気を震わせることさえなく、本人にさえ届かなかった。
周囲を取り巻く灼熱の空気は、寒風に流され熱を失って、何事も無かったように元の世界に戻る。
ただ、朽ちた戦士の骸を残して。
いつものとおり目が覚めて、いつものとおり学校に行く。いつものとおり誰と挨拶を交わすこともなく席に着き、教科書とノートを広げる。
そんないつものとおりの色の無い、ある日のことだった。学校で担任にある用事を頼まれた。水野亜美は学校で所謂『優等生』であったから。それを知っていたからこそ、何も考えることなく従った。
独りでありながら、持って生まれた頭脳のせいか酷く悪目立ちする自分。そんな自分が嫌で、でも回避の術を知らなかった。独りが辛いことである事さえ知らず、独りである自覚さえなく、ただ優等生の仮面を被り、ひたすら波風を立てず、静かに生きていく。それを正しいとさえ思っていなかった。ただそれだけしか、水野亜美には無かったから。
まるで傀儡のような、機械の様な、ノルマだけをこなしていく日々。悲しいことなんて、ありえない。自分には何も無いのだから。
だからその日もいつも通り、当たり障りのない挨拶をして、教室を出た。すると、まず水の匂いが鼻をついた。
女の子が廊下に立たされて、バケツを持って泣いている。
金髪をお団子に結った、年齢より幼く見える彼女。クラスが一緒だったことはないが、自分とは別の意味で有名なので顔くらいは知っていた。どじでうっかり者で、遅刻の常習犯。中学生にもなって子供のように泣く。居眠りや忘れ物も多く、所謂『劣等生』だ。しかしその純粋さから人当たりがよく、いつだって彼女の周りは明るかった。無意識に、知らない人のデータを脳内から引っ張り出す。しかし、それ以上に無意識に―
「また立たされてるの?」
水の匂いに誘われたのか、気がつけば彼女に声をかけ、ハンカチを差し出していた。それは嫌味でもなんでもなく、ただ水の傍にいること、そして素直に声を出して泣く彼女を心底羨ましいと思ったからだった。
彼女は涙を目に一杯溜めながらこちらを見る。凡そ自分らしくない行動なのに、人の視界に入ればまた目立つ可能性もあったと言うのに。
今まで誰かに、自分から声をかけられたことなんて無かったのに。そして何よりも―
『また』という彼女をまるでよく知ってでもいるかのような言葉が出たことに、亜美自身少なからず戸惑いを覚えていた。
「・・・五組の、天才少女?」
彼女が驚いたような表情をしたのは一瞬だけ。いきなり声をかけた自分を特に不審に思うことなく、それどころかどこか長年の友人のような親しみをこめたような言葉で。
天才少女なんて、自分にはそれしか価値が無いと嫌と言うほど思い知らされる言葉なのに、何故か彼女の声は心地よい。
「冷酷人間の春だにあなたの爪の垢を煎じて飲ませてあげたいわ・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・誰が冷酷人間ですってぇ!?」
「・・・あは、あははははは・・・」
そこで通称春だ―お団子頭の少女のクラスの担任であり、英語教師でもある、恐らくは少女を廊下に立たせた張本人が、耳ざとくも少女の言葉を聞きつけ怒りを露にしドアを開く。少女はその様子を見てバケツを頭に乗せたままばつが悪そうに笑った。
そこでバケツが揺れ、カルキの混じった水の匂いがした。ぱしゃ、と水の揺らぐ音がした。
亜美の中でも何かが揺らいだ。
「水野・・・亜美さん、だったわね?」
「あ、はい・・・」
「月野さんに関わるとろくなことが無いわよ~」
「あ゛ー!先生がそんなコト言っちゃっていいのー!?」
そこで少女、どうやら月野と言う苗字なのだろう―が、教師に向かい身を乗り出す。水の匂いが流れ、亜美の中で何かがぐらつくような感覚に襲われ、視界が一瞬揺らぐ―そう、水の中から外を見つめているように見えた。
次の瞬間バケツはひっくり返り、教師に水を浴びせ廊下の床にがらんと転がり落ちた。その音で亜美も正気に戻る。目の前にはずぶ濡れの教師とばつの悪そうな少女。
「・・・あらら・・・」
「・・・月野さんー!!!!!」
校舎中に響くような教師の絶叫。その様子を見て亜美は呆気に取られたが、すぐに担任に用事を頼まれたことを思い出し黙ってその場を去った。教師に対してあんな態度をとりつつ、教師もそれを煩わしそうにしていると言うのに、お互いを決して厭っているわけではない。それはそういうものに疎い亜美にも分かって、なんだか愉快なものがこみ上げてきた。向けた背中で未だに教師の説教が続いているのを聞く。それがどこか愉快で、何故か頬が緩んでしまう。
するとその頬に何かが伝うのを感じた。
最初は先ほどの水が顔に跳ねたんだと思った。しかし、顎を伝うほどに流れる水を気づかぬ筈がない。汗かと思って指先で軌跡を逆に辿って見ると、それは瞳に辿り着いた。
そこでようやく水野亜美は自分が涙を流しているのだと気付いた。
でも、理由が分からない。
でも。
「―あ、ぁ」
何だかそれがとても嬉しくて。たった数回言葉を交わした今の瞬間が、枯れた何かに水が沁みこんで行くような心地がした。
うれしかった。
マーキュリー、否、亜美が最期に自らに課した願望という名の遺言。それはここで、自分の意思で、記憶に振り回されることも無く叶ってしまったのだ。それは亜美自身は未だ気付いていない。
あの時の亜美は、彼女に声をかけられる勇気がほしかった。月の呪縛も立場も使命もマーキュリーの意思も遺志も無く、ただの少女として。ただの少女として自分を見つけて声をかけてくれた彼女に。
自分から、自分の意思で、彼女を見つけて、選んで、声をかけて―友達になりたかった。彼女と親しくなりたかった。
他の人間ならそんな簡単なこと、と鼻で笑うかもしれない。マーキュリーならどういう事情に置かれているのであれプリンセスに自分から声をかけるなんて、と思うかもしれない。でも、それはどれも推測でしかない。
ここにいるのは、他の誰でもない水野亜美だから。この気持ちは亜美だけのものだから。
だから自分で、それを誇れる。
月影が再び深く濃く揺らめく中、封じられた記憶との狭間。水野亜美は再び来るその日まで、理由さえ分からぬままに温もる心を抱き続ける。時は確かに、穏やかに、氷がとろとろと溶け出していくように残酷に流れていく。空に浮かぶ月が日に日に質量を増して真円に近付いていく。
一体、誰が望んだものか。
滴るような月の下、再び目覚めるその時は、もう、目の前に―
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大変お待たせしましたorzあんま恋愛って感じではなくてしかもうさぎ出番少なくて非常に申し訳ないのですが・・・Rの出会いシーンは無印の亜美ちゃんでは出来なかったことなんじゃないかと・・・
リクエスト自体は非常に嬉しかったです。ありがとうございました!
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