プラマイゼロ±

 某美少女戦士の内部戦士を中心に、原作、アニメ、実写、ミュージカル等問わず好き勝手にやってる創作、日記ブログです。

いいやつは幸せになんてなれない(前)

2017-07-05 23:59:56 | SS






 その日の最後の業務は守護神の定例会議であった。

 それは会議と名は付けど議論は基本的にそこまで深刻でなく、報告や日常業務、各自持ち場の確認、情報交換などで占められている。立場はあれど気心知れた仲間たちのやり取りはそれほど重苦しいものでもなく、いつも通りつつがなく会議は終了した。

 最後の業務なので、会議の終了はすなわち一日の業務そのものの終了を意味する。マーズは当然そのつもりで会議室を出ようとしたところ、ふと、ヴィーナスに呼び止められた。

「あ、マーズ、この後なにかある?」
「もう部屋に戻るつもりだけど」
「なら、ちょっといいかしら」
「なに?」

 なにか話があるのなら、会議中にすればいいのに。そう内心訝ったマーズの考えを悟ったのか、ヴィーナスはそっとマーズの耳元でささやく。

「部屋まで来てほしいの・・・大事な話があるわ・・・ふたりっきりで」

 ヴィーナスはマーズの返事を待たずに、すれ違うような動作で部屋から出て行ったが、マーズは吐息が耳にかかった感触に爪先から頭のてっぺんまで怖気がせり上がっていくのを感じるのだった。





 マーズは怖気を振り払うかのように廊下を闊歩していた。
 ヴィーナスの、仕事の後ふたりで部屋で大事な話がなんなのか見当もつかないが、こわいので逃げるという選択肢は戦いの戦士であるマーズにはなかった。案外真面目な仕事の話で、単純にマーズに関わることでマーキュリーとジュピターの耳に入れるほどではなかったり、あのふたりに知られないで済むことなら、と思うようなことなのかもしれない。友人としても、プライベートなことならなおさら、一対一でしかできないことは少なからずあるだろう。誘った手段がたまたまああなってしまっただけで、ヴィーナスに他意などない。そう言い聞かせ、マーズは己を鼓舞するように殊更に大股でヴィーナスの部屋に向かった。

 大きく深呼吸をして、ノックを三回。ドア越しでも遠いと思える距離から返事があったので、マーズは覚悟を決めて扉を押し開いた。

「・・・ヴィーナス?来たけど」
「マーズ、こっちこっち」

 扉を開けてすぐ視界に入るところにヴィーナスはおらず、マーズは声を頼りにヴィーナスを探す。

「どこなの?人を呼んでおいて」
「こっちよ、こっち」

 声は、私室の中でもいくつも別れている部屋のひとつの扉の向こうだ。友人としての長い付き合いの中で、マーズはそこを開ければヴィーナスの寝室であることを知っている。嫌な予感がしないでもなかったが、この時点では友人としての信頼のほうが勝っていた。なにか荷物でもあってたまたまその場所になったとか、きっとそうだ。
 正直ここに来る間幾度かマーキュリーの顔がよぎったのだが、マーキュリーはマーズがヴィーナスの寝室に入ったくらいで取り乱すような性質ではないだろう。わざわざヴィーナスに呼ばれたと報告してから行くのも違う気がしたし、そもそも、彼女は会議が終わるとさっと出て行ってしまったのだ。

「・・・入るわよ」

 声をかけて、ドアを開けた。まっさきに、近しくとも他人の部屋の匂いを感じる。目でも探してみると、ヴィーナスはベッドの上に座っていた。腰かけているのでなく、文字通り座っていた。背筋を伸ばし膝を折り腿の下に脛を挟む、地球では正座と呼ばれているらしいその姿勢は、なにかを待ち望んで構えているようだった。

 マーズはヴィーナスになにかの覚悟のようなものを感じ、一瞬逃げようかと思った。事実、足は無意識に数ミリほど後退していた。しかし、本能でなくこれまでの経験と記憶と意地が彼女の足をとどめた。ピンヒールにぎゅっと力を入れ、細い足首で全身を支える。

 マーズには予知の力があり、気配にも敏い。ただ、不幸な未来を回避する能力に優れているはずの彼女の問題は、「いいやつ」であることだった。日頃クールビューティーで釣れない態度を取りつつも、友人思いで、退くを良しとしない情熱と正義感を持っている。それは容姿だけでない彼女の持って生まれた美しさであった。

 だが、「いいやつ」は往々にして幸せにはならないのがこの世の掟である。

「・・・・・・ヴィーナス、なにか用?」
「あのねっ、マーズ」

 ヴィーナスの少し切羽詰まったようなしかしやや甘えた声は、呼ばれた理由が仕事関係ではないことをマーズに理解させた。守護神としては安心したが、違う不安が大きくなったマーズは部屋に目を泳がせる。意外なほど片付いていた寝室は、ヴィーナスの性格上整然としているというよりは殺風景な印象を与える。

「あっ、あっ、あのね」
「なに」
「えっと、その、あの」

 頬を染め、顔を伏せ胸の前で指を意味もなく組み合わせるさまは、まるで告白直前の恋する乙女のようである。愛の女神で四守護神のリーダーという肩書を持つ者のもじもじは、見る人が見れば心を乱し、星ひとつ傾けることも不可能ではない破壊力だ。が、鉄の女マーズにとっては煩わしい前置きでしかない。美の無駄遣いであった。

「ちょっとお願いがあるの。あんまりほかのひとに聞かれたくないからここまで呼んだんだけど」
「だから来たんだけど。なんなの」
「・・・最近、マーキュリーが来てくれなくて」
「え?」

 え、と返事はしたが、実はうすうす予想していたことではあった。マーキュリーが来ない、と言うのはおそらくこの寝室だろう。いつものことじゃないの、そんな感想をなめらかな会話のためぐっと飲み込むのに成功したマーズは、それでも己の頭に浮かんだことを口にした。

「マーキュリーが来ないって、マーキュリーに来てほしいなら私じゃなくてマーキュリーを呼ぶべきでしょう」
「呼んだって来ない・・・」

 あまりにも重大な問題であった。

「・・・まあ、マーキュリーにだって、断る権利くらいは」
「愛の女神に寝室に呼ばれて喜ばない人なんているの?」

 マーズだって喜んで来たわけではないのだが、それはまた意味合いが違ってくるので黙っておいた。
 好きだから呼ぶ、じゃなくて愛の女神が呼んでやっている、そういう態度だから嫌がられるんじゃないの。そうも思ったが、実際のところマーキュリーがなにを思っているかは謎なのでそれも黙っておいた。ヴィーナスが下手に出て哀れっぽく誘ったところでマーキュリーがほだされるとも思えない。
 恋愛に関して他人が入り込む余地などなく、ましてや愛の女神と脳みそフルスロットルの軍師様など、マーズの思考回路とはそもそもが異なっている。マーズが言えることなどほとんどなかった。

「・・・悪いけど、恋愛相談なら私じゃなくてジュピターにでもしてくれない?占ったところで見えるものなんてないわよ」
「違うの相談じゃないの!状況がこれで、それに対してやることが決まって、だからマーズに協力を仰いでるの!」

 どこまでも前向きなヴィーナスであった。
 落ち込んで益体のない愚痴を聞かされるのかと身構えていたマーズは、思いのほか建設的な方向に話が向かっていることに安堵した。具体的にやることがあるのなら、話くらい聞いてあげてもいいか、そう思うのはやはり彼女が「いいやつ」だからである。

 そしてそれは彼女の不幸への序曲であった。

「協力って?」
「マーズ、してくれるの!?」
「・・・話くらいは聞くわ」
「うぅ、ありがとう・・・」

 マーズは少し迷ったが、話も少し長くなりそうなのでベッドに腰かけることにした。腰かけているのと正座で目線の高さが妙にちぐはぐだ。

「あのね、あたしだってひとりでできる努力はしたのよ。こうやって部屋も片付けたし」
「ああ・・・」

 妙に清潔感のある感じがしたのはそれか、とマーズは納得した。もともとヴィーナスの部屋は雑多にものが転がりごちゃごちゃしていた印象があったからだが、清潔にするだけでなく、過剰な飾りを好まないマーキュリーに合わせてあげたのはなかなか前向きな行為だと言えた。マーズに最初他人の部屋という印象を与えた匂いだって、よくよく嗅いでみれば、お香だ。主張が強すぎないから却ってマーズはよそよそしく感じたが、マーキュリーには好みかもしれない。セクハラだけでなく意外と健気なこともする。
 だが、それが健気と言えるのはこうやってマーズがヴィーナスの部屋に来たからである。そもそも部屋に来ないマーキュリーにヴィーナスの努力は届いていない。

「でも、こんななにもない部屋でひとり寝して待ってたらかえってさみしくなってきちゃって」
「ええ」
「仕方ないからこっちから忍んで行ったら異次元空間に落とされるし」
「ああそう」

 ヴィーナスが勝手に好みに合わせたと言っても、実際はそういう展開はマーキュリーには好みではないのだろう。マーキュリーの行動があまりにも正しいので、却ってマーズに突っ込む余地がない。

「で、部屋きれいにしたってまず来てもらえないんじゃ意味ないじゃない」
「正論ね」
「だから、このままでも美しいあたしもちょっとは相手に歩み寄ってみようと思って。ありのままだと美しすぎて畏れ多いって思ってるのかもしれないし」

 美しすぎて畏れ多い相手が忍んできたとき、果たして異次元空間に落とすだろうか。マーズはふと考えたが、やっぱりマーキュリーのことはわからないので黙っていた。もともと感情を剥きだしにするタイプではないので、単に素直になれないだけかもしれない。どこまでも己を棚に上げマーズは思う。

 そもそも、そういう展開や過剰なコミュニケーションを好まないというだけで、傍から見ればマーキュリーはそのままのヴィーナスをそこまで疎んじてはいないように見える。これもあくまでマーズが傍から見ているだけなのでマーキュリーの実際の心境など知る由もないのだが、あながち外れているわけではあるまいとも思っていた。これは持って生まれたシックスセンスで知り得たことではなく、友人として過ごしてきた長さがマーズにそう思わせているのだ。

 だが、それを言わないのは彼女が「いいやつ」だからだ。それに無責任なことを言ってかえって事態を停滞させることもなかろう。マーズは、あくまで友人という己の立場をわきまえてこの場にいる。

「・・・ま、相手に合わせてあげるっていうのは、いいんじゃないの」

 だから、ただ前向きな言葉を返した。だがこの発言こそが無責任であったことをマーズが痛感するのはまもなくのことである。

「それで、私はなにをしたらいいわけ」
「あのね、その・・・マーキュリーって水色が好きじゃない」
「ええ」

 冷静を旨とする彼女には寒色と相性が良い。ただ、本人は深い冷たさを感じさせる青よりはやわらかい水色を好むと聞いたことがある。マーズは、マーキュリーのそういうところにも好感を持っていた。そして、そこにヴィーナスが目をつけたのは、特に不自然なことではないように思えたのだ。この時点までは。

「だから・・・その、ちょっと、染めてみようかと思って」
「え、染めるって・・・まさか」
「うん、毛、水色に染めようかと」

 マーキュリーが水色が好き、という話の流れから、水色の花でも送るのかと思っていたマーズは、意外なヴィーナスの言葉に驚いた。相手の好みに合わせるということが、しかし予想とは違っていたからだ。
 相手の好みに合わせて容姿を変える努力をする、という行為がわりと世の中でありふれたものであることをマーズは知っている。体型を変えるべく生活の改善に励んだり、化粧や服装を変えてみたり、髪型を変えたりといったこともあるだろう。美しく生まれたがゆえに容姿に頓着しないマーズでさえ、他人が前向きな意思でそうしようとすることは否定はしない。

 だが、そのマーズでさえ、ヴィーナスの金髪が失われるのは惜しい気がした。それに、いくらマーキュリーが水色好きだからと言って、ヴィーナスが水色の髪になることを喜ぶとは思えない気もする。健気と言えば聞こえがいいが、ここまで来るとあまり自分を大切にしていないように思えたのだ。自然、マーズの眉間にしわが寄る。

「・・・本気?」
「何日か悩んだけど・・・もう決めたの」

 マーズの気は進まなかったが、ヴィーナスの決意は固い。

「・・・つまり、染めるのを手伝えってこと?」
「あっ、うん。ひとりだと大変だし、きれいにできてるかチェックしてもらおうと思って」
「・・・今?」
「なにか不都合?先に予定あるかって聞いたはずだけど」
「・・・いえ」

 マーズはそこで、この恋愛相談にジュピターでなく自分が呼ばれた理由を察した。本来こういう場にいるのはマーズより遥かにジュピターの方が適切だろう。どちらも友人思いという点では一致しつつも、ぶっきらぼうなマーズより、ジュピターは親身になりきちんと考えたうえで真摯な回答をくれる。それゆえに、ジュピターはヴィーナスが髪を染めるということは、きっと表立って反対してくれるからだ。
 気持ちはわかるけど。そんなことを誰も望んでいない。そのままが一番素敵だよ。やさしくて、ヴィーナスの決意を鈍らせて事態を停滞させて、とても正しいその言葉を、ジュピターは言ってくれる。そしてそんな正論をヴィーナスは望んではいないのだ。ヴィーナスがマーキュリーからしか望んでいない言葉を、それでもここにいればきっとジュピターは言ってしまうであろうことを、この場に選ばれたマーズは言うわけにいかなかった。

「・・・とは言っても、私、自分のもひとのも染めたことがないし、なにがいるのか、なにをしたらいいのか知らないわよ」
「だいじょうぶ、ちゃんと染料と道具は用意してるの。ブラシで余すとこなく塗ってくれたらいいから」
「ちゃんとしたものなんでしょうね?肌に悪かったりとか、しない?」
「その辺はだいじょうぶよ。あ、でも、確か皮膚にべったり付いたままだとよくないかもしれないから、だからマーズにお願いしてるわけ」

 ふふん、とどこか誇らしげなヴィーナスを止める術はマーズにはない。髪は染めても永続的なものではないだろうし、もしかしたら、マーキュリーがヴィーナスの結果を見て、喜ぶにせよ否定するにせよ、思うことを言うかもしれない。そしてそれは直接的にヴィーナスの問題を解決しなくとも、事態を動かす結果にはなるかもしれないのだ。
 もしかしたらヴィーナスはそちらを狙っているのかもしれない、と思った。なら、なおさらマーズには否定できなかった。

「じゃ、浴室に行きましょうか。ここでやるとシーツが汚れるわ」
「・・・・・・」

 まさかヴィーナスの寝室に来て、挙句浴室にまで入ることになるとは。
 先を行きながらヴィーナスがばさばさと道しるべのように服を脱いでいくのは、きっと服が汚れるからだ。が、どうせなら直前に脱げばいいのに、この世で一番無意味な色気を発揮するヴィーナスに突っ込む気力はもう湧かない。下心など一ミリもないが、気の進まないことを気の進まない場所で気の進まないものを見せつけられながらやらされるという現実は、否応なくマーズの歩みを遅くした。
 
「じゃあ、マーズ、これでお願い」
「・・・うん?」
「このチューブを絞ってこのブラシの溝に塗って、あとはあたしにぺたぺたしてくれたらいいから」
「・・・・・・少なくない?」

 浴室にて、すでに下着一枚のヴィーナスがマーズに手渡したのは、間違いなくチューブとブラシだ。それをどうしたらいいかは察しが付く。だが、手渡されたチューブは絵の具ほどの大きさだ。長く豊かなヴィーナスの髪を染めるには圧倒的に量が足りないように思えた。

「やあねえ、これで充分よ」
「・・・そう?」

 染髪のことなどなにも知らないマーズである。髪一本一本すべて覆うほど染料がいるのかと思っていたが、性能がよく染まりがいいのか、こんなもので済むのか、と妙な感心を抱いた。思いのほか早く終わるかもしれない。

「・・・じゃ、さっさとやってしまいましょう。頭向けて」
「えっ、頭?」
「髪染めるんでしょ?」
「え、違う違う!毛だって言ったでしょ」
「毛、毛ってだから・・・」

 ふと会話がかみ合っていないことに気づいたマーズは、ヴィーナスの言ったことを反芻させる。そういえば毛を染めると言ったが、髪を染めるとは言わなかった。そして絵の具ほどの大きさのチューブ、半裸のヴィーナスの手は彼女自身の最後の砦にかかっている、そして、髪以外で染めるほど毛の密集する場所。

 合点は、マーズに雷のように落ちてくる。

「・・・・・・毛って・・・上、じゃなくて、下・・・?」
「やだ、察してくれてると思ったのにそんなあからさまに言われると照れ・・・・・・ちょっとマーズ、どこ行くの」
「・・・帰る」
「はぁ!?」

 マーズの回れ右は、コンパスのように正確に半円を描く。退くを良しとしない美しさは嫌悪感の前にはあまりにも無力だったが、本能的な振る舞いの美しさまでは失わなかった。マーズは、あんまりな現実を前にしてもどこまでも美しかったのだ。
 だが、終わりを自ら打つというのは許されなかったし、戦いの戦士のくせに相手に背中を見せてしまったのも失態だった。しゃらん、という軽い音が、チェーンが足に絡まって動きを妨害してるのに気づいてから聞こえてきた。

 怒りより、恐怖や混乱にたっぷり支配された顔でマーズは振り返る。もうヴィーナスのことは視界にすら入れたくなかったが、退けないなら戦うしかない。

「お願い逃げないで!ここまで来てそれはないでしょ!!?」
「ふざけないで!!!そんなの自分でやりなさいよ!!!」
「言ったでしょ!!?セルフチェック大変なんだってば!!」

 この星の防衛のトップとナンバーツーが夜に声を大に論じ合うテーマが陰毛であるということは、四守護神の私室しかも浴室という気密性の高い場所ゆえに誰にも漏れなかった。だが、マーズにはそれを幸いと思える余裕などない。

 だいたい、そういうのは部屋にやってきて双方同意の意志があったのを確認したうえで結果初めて目にするのであって、そもそも部屋にさえ来ないマーキュリーを誘うアピールをするのに使うのには間違っているだろう。
 物陰で密売人スタイルでちらちらと興味を誘うように見せでもするのだろうか、それでマーキュリーが好きな水色に興奮し闘牛のように鼻息荒くヴィーナスの下半身に突進するのか。それともマーキュリーを適当に待ち伏せでもして、いきなり染髪したそれを露出狂のごとく見せつけるのだろうか。そしてマーキュリーが己の好みに合わせてくれた喜びに千筋の涙を流すとでも思っているのか。

 もちろん、恋愛というフィールドでマーキュリーがヴィーナスとふたりきりの時に見せる顔などマーズは永遠に知りえない。だから、実際にヴィーナスがこういう行動に出るからには、ひょっとしたらそれでマーキュリーも興奮を覚える性質なのかもしれない。当然それはマーキュリーの自由である。
 だが、それはそれ、これはこれ、である。そんなプレリュードオブロマンスに自分が関わることを考えるだけで吐き気を催したマーズは、おぞましい妄想を振りきるように叫んだ。

「なんで私がそんなことしなくちゃいけないのよ!!?」
「だって部下や女官に頼んだらあたしにメロメロになっちゃって図らずも浮気になっちゃうじゃない!!マーズならあたしの美しさにも耐えられると思ったから!!!」

 案外人選に理屈が通っているのが腹立たしい。
 実際ヴィーナスの言うことは意外と的を得ており、考えてみれば確かにマーズを選んだのは正しいのだ。メロメロというのはともかく、そもそも部下を私用で寝室に呼ぶのはよろしくない。さらにその先のことを頼んだらもう重大な労働問題で、下々に広がればマーキュリーが部屋に来てくれないどころの話ではなくなってしまうだろう。

 ヴィーナスの人選はなにも間違っていない。口の堅さと、精神力の強さと、ヴィーナスとは友人という関係性も加味すれば、残念なことにこの作業に最も適しているのはこの宇宙でマーズその人なのである。
 だが、その人選を正しく行う冷静さと思考を、なぜ毛を染めるという行為をなんの疑問もなく推し進めたうえで使ってしまうのか。その前にちょっと冷静になることはできなかったのか。

「ぜ、ぜ、ぜったいに、いや」

 マーズの頭の血管はすでに沸騰していた。こもる蒸気を吐くように荒い呼吸と文句を繰り返す。ここで強要されれば戦うことも辞さない気でマーズはヴィーナスを睨み付けた。チェーンで捉えてくるあたりヴィーナスも本気なのだろうが、マーズとて従えないものはある。

「なんでよ助けてよ!」
「嫌って言ってるでしょ!」
「ちゃんとお礼はするわよ!マーキュリーが来たら使おうと思ってた秘蔵グッズひとつあげるから!あ、ちゃんと新品!」
「なんだか知らないけど未使用でもお断りよ!!」

 炎の戦士であり、占いのときも火の傍にあることが多いマーズがそれでも暑くないこの部屋で汗を噴き出していた。戦いの場で危機にさらされたときのものより嫌な汗である。それでも、従えば己の大事なものをなくしそうで降参はできなかった。汗で滲む視界でなおヴィーナスを睨み付ける。

「・・・・・・いや」

 そして、大きく息を吸うと、これまでの絶叫を抑え込むように低い声で拒否の意を示した。
 冷静に考えれば、マーズが、する側である。これは断固拒否すればヴィーナスは手も足も出ないはずだ。ヴィーナスはしばらく小首を傾げて目を潤ませお願いのポーズをとってみたり、いろんなものをお礼にあげると言ってみたり(なお、その中に昇給は含まれなかった)哀れっぽくすがったりされたが、マーズは素気無く拒否することに徹底した。もっとも、嘆く半裸の友人を前にどういう態度でいればいいのかという迷いも若干はあったのだが。

「うぅ・・・ぐずっ、ねえ、どうしていやなのよ?さっきはいいって言ったのに」
「いいとは言ってないわよ。髪だって嫌だと思ったのに、どうしてそんなことを・・・」
「だってマーキュリーが来ないからー!」

 したらもっと来ないのでは、と言うのはあまりに残酷な気がしてマーズは口ごもった。ここまで熱烈に愛されているマーキュリーがある意味うらやましくもある。
 だが、やはり、それはそれ、なのだ。

「・・・マーキュリーには、私からもそれとなく声かけてあげるわよ」

 それは、根負けではなく、ある意味マーズの本心だった。友人に幸せであってほしいと思う気持ちは本物である。だからここに来たし、最初、頭の話だと思っていた時点では、嫌々ながらも諾と言ったのだ。

「要はマーキュリーに応えてもらえばいいんでしょ?」
「うぅ・・・マーズ、心配してくれるのね」
「いろんな意味で・・・まあね」
「じゃあやっぱり染めて・・・」
「却下」

 マーズがきっぱり言うと、ヴィーナスは諦めたのか、じゃらん、と足にかかったチェーンがヴィーナスの手元に戻った。痛みも締めつけられた跡もないのは見事である。疲弊したマーズが、一瞬だけ、いっそそれでマーキュリーを捕まえればと乱暴な考えが浮かんでしまったのは、日頃友人思いの彼女とて致し方ないことだろう。だが、現実それをしないヴィーナスにも、実際それでは引っかからないマーキュリーにも、マーズは結局のところ好感を持っているのだった。

「うっ・・・じゃあ、しかたないわ」
「違う手を考えるのね」
「わかったわよぉ・・・マーズがそこまでいやなら・・・じゃあ、ジュピターに頼む、から」
「は?」

 そこでマーズは、違う『手段』が出てくるのだと思っていた。だがヴィーナスが出したのは違う『人』の名前だった。

「・・・なん、で、ジュピター?」
「だって、マーズがやってくれないなら、ジュピターに頼むしかないじゃない」

 それはまた、認めたくないが正論である。マーズを除いてそういうことができるのはジュピターだ。むしろ器用さと、なんだかんだ言いつつやってくれそうという点ではジュピターに軍配があがる。
 が、ジュピターがヴィーナスにそんなことをしたと知ってはマーズは冷静でいられない。自分だってこうやってヴィーナスの寝室に来て浴室に来て、その間ジュピターのことは必死で考えないようにしていたのだ。
 やましいことをしているわけではないが、それでも。そして逆の立場だったらと思うと、それだけで。

「ふざけないで、お断りよ!」
「なんでマーズが勝手に決めるのよ。ジュピター本人に聞くもん」
「そんなのジュピターが聞くわけないでしょ」
「そんなのわからないじゃない!先にジュピターに頼んであとでマーズが怒ったらって思ったからマーズに声かけたけど、マーズがいやならジュピターに頼むもん」

 マーズは自分で否定しながら、己の意見よりヴィーナスのそんなのわからない、のほうが正論であることを知っていた。さすがに大喜びでやるとは思えないが、マーズに先に断られていると聞けばジュピターのおせっかい心は動いてしまうかもしれない。
 こんなところに来て、こんな場所でヴィーナスのあられのない姿を見て、それでその指で。ヴィーナスとマーキュリーのおぞましい妄想にもたらされた熱とは違う、もっと深いところから純度の高い熱が滲みだしてくる。

 自分が呼ばれてここに来ている以上、ジュピターが友人としてヴィーナスを思ってここに来ることを、マーズは否定できない。頭ではそう思っている。しかし、退くを良しとしないという意思でここに来られた時とは違い、ジュピターがここに来ることにマーズは明確な嫌悪感を感じる。

 だが、マーズはヴィーナスの気持ちも否定などできない。マーズが単純にいいやつだから、ではなく、マーズにはヴィーナスの気持ちがわかるからだ。
 自分が、ジュピターに相手にされなくなったらと思うと、正常な精神状態でいられる自信はない。もちろんマーキュリーとジュピターでは性格も性質も性癖も違うが、ヴィーナスの気持ちが、マーズにはよくわかっていた。

 ここで退いては、ジュピターに問題が飛び火する。そもそも自分がここに来たことすら知られたくないのに、ジュピターに話が行けば、「マーズはヴィーナスの寝室には来たけれど、結局怖気づいて逃げ出した」という不名誉すぎる前置きが語られることだろう。だからといって、ここで覚悟を決めて秘密裏に行うにしても単純に行為に嫌悪感がある。だが。だが。だが。

 マーズは脂汗をひどく滲ませ脳みそを回転させる。

「っ・・・ヴィーナス」

 人は守るべきものがあると、強くなるのか、弱くなるのか。それは時と場合と状況による。マーズは、友人の陰毛具合など知らないままの高潔な自分を守りたい。だがなによりジュピターを守りたい。

「・・・・・・お願い、一日待って」

 しかし、マーズはヴィーナスのことも、なんだかんだ言って大事なのだった。単純に突っぱねるだけのことができないとき、軽率な返事などでない。だが、散々マーキュリーに先の見えない焦らしをされてすでに覚悟を決めた友人に一日待てということが、どれだけ残酷かもわかっていた。同じことをジュピターにされると、自分には耐えられないからだ。

 いつの間にかマーズが懇願する側になっていたが、ヴィーナスが渋い顔をしながらもうなずいたことにマーズは安堵していた。
 マーズは「いいやつ」だった。いいやつは欲張りで、それゆえに不幸ごと背負ってしまうのだ。ヴィーナスの目線を背中に浴び、マーズは、浴室の湿気をすべて浴びたように汗に濡れ、よろめきながら部屋を出た。





 マーズは疲れていた。憑かれているといってもいい様相でパレスの廊下をさまよっていた。
 頭の中ではヴィーナスに、マーキュリーにどう相対すべきかの思考が陰毛のごとくもじゃついていた。マーキュリーに会っていっそ鳩尾に一撃を食らわせてヴィーナスの部屋に放り込むという手もあるが、それでは誰も幸せにはならないだろう。だが笑顔で「お疲れさまマーキュリー、ヴィーナスが陰毛を染めたがっていたわよ」などとほざこうものなら自分が檻付きの病室に放り込まれるかもしれない。

 だからといってほかになにができるというのだろう。頑ななマーキュリーを口で説得する自信などない。現時点では、マーキュリーとジュピターに知られないままヴィーナスのその部分を染め上げるのが最もトラブルがない、という現実がマーズに重くのしかかっていた。

「・・・・・・よ」

 想像だけでなにもかもうんざりして一度自室に戻ろうとしたマーズは、ふと、扉にもたれかかっている人物に声をかけられた。いつから待っていたのか、今もっとも会いたいような会いたくないような、複雑な気持ちがマーズに去来する。

「マーズ、遅かったな」
「・・・ジュピター、どうして」
「・・・ちょっと、心配で」
「・・・・・・・・・」

 余計なお世話よ、と憎まれ口を叩く気力もない。だが、そこにジュピターがいるだけで、マーズの気は緩んだ。これが保護の戦士の力なのか、親愛の感情によるものなのか、マーズには判別がつかないでいた。一方でジュピターはマーズの異変に気付いたらしい、眉を寄せ訝るような顔を見せた。

「だいじょうぶか?えらく顔が青いけど・・・」
「・・・青とかいうのやめて」

 マーズはげんなりしながら返事をした。水色の陰毛の想像をたっぷりしてしまっただけに、青いものを連想するだけで精神の負荷が大きい。もしここにいるのがジュピターでなくマーキュリーだったら、冷静に相手にできる自信はなかった。

「・・・なんか、あった?」
「・・・なにもないわよ」
「でもほんとに顔色が悪いぞ。早く寝たほうがいい」
「・・・・・・・・・」
「あー・・・地球では、眠れないときって、羊を数えるといいって聞いたことあるよ」
「・・・ひつじ?」
「羊、知らない?地球の動物なんだけど、こう、なんか、毛がもじゃもじゃで」
「毛がもじゃもじゃとか言うのもやめて!」

 いちいち、問題を連想させる言葉を投げかけられて、マーズは反射的に叫んでいた。ことの顛末を知らないジュピターはマーズの剣幕にやや驚いたような顔をした。

「な、なんだよ。羊、きらいか?かわいいのに」
「かわいいとかそういう問題じゃないのよ・・・」

 これでは完全に八つ当たりである。だが、ジュピターも悪いのだ。やさしさとは罪なものである。
 理由もわからず恨みがましい目をマーズに向けられる困惑はいかばかりか、それでもジュピターはやさしかった。

 それは、鉄の女マーズの心を掴むほど。柔らかい手つきは、ゆるやかにマーズの頭を撫でた。

「・・・いっしょに寝ていい?」

 それは、夜の誘いではない。言葉通り、いっしょに寝る、そういう誘いだ。少し困ったように笑うその姿は当然のようにマーズの心に入り込んでくる。それがあまりにも甘やかで、マーズは気が付けばジュピターの胸の中に吸い寄せられていた。あたたかい腕に絡め取られて、激しい欲情とは違う穏やかで安らかな快感に飲まれて、それに抗うことができない自分にひんやりした恐怖を感じながらも。

 明日までにヴィーナスかマーキュリーを説得する方法を考えなければならないが、今夜はもうあまりにも疲れてしまった。下手な考え休むに似たりというから、しっかり休んで行動を起こした方がいいだろう。朝になればいやでもふたりに会うので、話をする機会はつくれるはずだ。

「・・・マーズ」

 眠れそうにないと思っていたが、こうやってジュピターの心音を聞いているだけで不思議と落ち着いていく。目を閉じ暗闇に落ちながら、なにも解決してはいなかったものの、あるべき場所に還ったような心地になって、マーズはようやく心に光が見えた気がした。 

「・・・えらく、汗かいてるね」

 ふと気づいたようなジュピターの言葉に、マーズの恐怖は外から湧いた。パレス内の温度は基本的に快適さを感じる範囲に設計されているし、ましてや炎の戦士マーズが汗をかくということは、火の傍に長くいる事態に迫られていたか、あるいは体調不良や内面が緊急事態に近いものと考えているのかもしれない。ジュピターの声のアクセントで、なんとなくマーズはジュピターに沸いた不穏を察する。

「やっぱり、なにか、あった?」

 なにかはあった。が、ジュピターの耳にとにかく入れたくない。だがなんと説明すればいいのか。敵と戦ってはいないし不吉な未来も見えていない。いや、ある意味ヴィーナスや己の嫌悪感と戦ってきたし、ここで手を打たねば不吉な未来に突き進むことになるので間違ってはいないのだが、そんなことはジュピターに言えない。
 単に修行で疲れたとでも言おうか。だがこんな時間に修行など、簡単にわかる嘘は却って不信と不安を招く。

 どちらかというと感覚生物のマーズは、必死に考えてももうどうにもならないことを悟りつつあった。本来ならこんなときにジュピターに接触すべきでなかったのだ。冷静なら適当にあしらうこともできただろうに、今、汗をかいていることが悟られても腕の中から抜け出せない。
 ジュピターに捉えられているわけではない。体というのは、脳なんかより素直なものだ。

「・・・あなたに心配してもらうことじゃないわ。放っておいて」
「でも・・・」
「ジュピター」

 言葉でできることなど、知れている。ジュピターに心配してもらっているのはわかるが、マーズに言えることはない。会うべきではなかったジュピターだが、来てしまったからには仕方ない。

 来てしまったからには離すわけにはいかないのだ。

「寝ましょう」

 それは、ジュピターが言っている意味とは違う、明確な誘いだ。マーズは憑かれている様相から一転本気の目を向ける。ジュピターはその様子に、先ほどの毛がもじゃもじゃの話以上にたじろいだようだった。

「・・・いいけど」

 あまり色気のないやりとりであったが。

 気の利いた誘い方なんてできない。でも、ここで断られたら立ち直ることはきっとできないから、マーズはいつもジュピターに甘えっぱなしだ。そして自分がそうであることを思うと、断られまくりということで妙な行動に出るヴィーナスの痛みは、やはりマーズには鼻で笑って切り捨てることなどできない。そしてマーキュリーの本意は知れずとも、厭っているわけでないことだけは知っている。だったら、ほんの些細なことでもきっかけさえあれば、話し合うことはできるはずだ。なにか。なにか、ひとつでも。

 しかし、所詮、マーズが一度に守れるのは己の腕の中のものだけだ。ジュピターをしっかりつかまえていれば、少なくとも今夜中にヴィーナスからジュピターに話が行くこともあるまい。マーズは目の前の部屋にジュピターを引っ張り込んだ。








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