静かな夜だったというのは、目覚めてから気づいた。
いつも通りの夜のはずなのに、いやに静かに思えるのは、通信機の呼び出し音が異様に耳につくからかもしれない。亜美は仲間からの呼び出しに、眠りから覚めた。時計は確認しなかったが、月の高さからとても深い夜であることはわかる。
通信機が鳴るのはひさしぶりだったし、普段それほど寝起きがよい方ではないが、この音にだけはとても敏感だ。亜美は呼び出しに応じると、ベッドから離れ窓を開けた。ベランダに出ると、裸足のまま、ためらうことなく手すりを乗り越える。
夜空に青い軌跡を描き、地に降りたのはすでに亜美ではなくひとりの戦士だった。高い月明りを背に、静かな夜を壊さないように足音を潜めながらマーキュリーは街を駆ける。
人々が静かに眠れる平穏を、守るために。
現場は、神社のすぐそばの一角。月明かりの死角になるような暗くさびれた場所。陽の当たる時間ではなんてことないようなところなのに、夜は違う姿をのぞかせる。
マーキュリーが到着する頃、現場には呼び出し主のマーズ、そしてジュピターが揃っていた。ヴィーナスとムーンはまだであること、そして先に来ていたジュピターとマーズが簡単には片づけられないような相手であることを早急に察し、マーキュリーはゴーグルを起動させる。
「マーキュリー、こいつ、すばしっこいんだ!捕まえられないか!?」
ジュピターの言葉と、ゴーグル越しの情報に、マーキュリーの頭脳が急速に回りはじめる。
敵は、一介のはぐれ妖魔の類で、新手の組織がらみではなさそうだ。だが、獣じみた黒い体で夜に紛れ、とにかく動きが早く、目で追うのも困難であった。都合よく街の灯りの前に姿を現さないそれは、月明かりの陰に隠れるたび戦士たちを難儀させていた。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前!」
マーズが次々と札を投げるが、そこにあるのはすでに残像で捉えられてない。だが、マーズはすっと指で挟んだ札を立てると、投げて周辺に散らばった札がふわりと光りだし、ぐるりと目に見えない結界を作り出す。
これで妖魔の行動はある程度制限されるはず。結界を張ることである程度防護壁が敷かれるだろう。ジュピターも構えなおす。マーキュリーはその間も敵の分析を進める。
飛行能力はなく、動きの速さに特化してはいるものの、攻撃力、防御力共に大したことはない。物理攻撃は可能だが、向こうも物理的な攻撃が可能。危険なのはスピードによる衝突だ。むしろ、それが敵の攻撃と言っていい。
車やバイクにはねられるような感覚をマーキュリーは想像する。今は夜だから人通りをさほど気にしないでいいが、日が出てしまうと危険だ。夜に同化する暗い姿を日中も保っているとは限らないし、なんとしても夜が白みだす前に片をつけなければならない。
ジュピターとマーズが戦う最中、なんとか敵の足を止めようと思案していたマーキュリーの前髪が、ふと、浮いた。先ほど飛び降りた時と同様、しかし、自分の意思でそこに向かっているわけではない空気の違和感が全身を包む。
「マーキュリー!」
ジュピターの声を聞くより早く、自分が置かれている現状が認識できた。敵を止めようとしていて、止まっていたのは自分の足の方だ。
風向きがこっちに向かってくる。データの数字が映るゴーグル越しに、夜の闇に紛れないはっきりした黒い影が目の前に。月明かりが遠く、人の死角である、下の角度から抉るように。
「(しまった・・・!)」
自分の体が自分の意志ではなく吹き飛ばされる。目の前を風と雷撃がほぼ走る。ばきりと人の体から発生するには不穏な音とともにマーキュリーは地面に背中をついた。
だが、予想していたダメージはない。しかし『目の前の雷撃』が自分の真上を走ったことと、そして人に伸し掛かられている重みがあることは気づいた。
顔の横に落ちてくる、月の光を浴びて輝く金糸のような髪。自分の体の上でぐったりと伏している姿。グローブとコスチューム越しにも感じる体温。
「・・・ヴィーナス!?」
「うっ・・・」
マーキュリーに覆いかぶさるようにしているその人は、先ほどまでいなかったセーラーヴィーナスその人。遅れてやってきたその瞬間、マーキュリーのピンチに飛び出したのかもしれなかった。だが、そんなことはマーキュリーにはどうでもよかった。
戦いの場において、今、ヴィーナスはマーキュリーをかばって、動かない。さきほどの異音はヴィーナスから。自分の中で血の気が引く音がうるさい。
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