彼女を見つけたのは偶然だった。
それは晴れやかな昼下がり。
空は抜けるように青くて、吹きぬく風は緑の香りを纏って、例え機械仕掛けの虚構という現実を知っていてもさわやかさを感じる、そんな空気だった。
何となく気分がよくて、仕事の空き時間が少し余裕があったことも手伝って、普段は渡り廊下を突っ切ればすぐ行ける道をわざわざ裏庭を通っていくことにした。自分には珍しい気まぐれだったけど、たとえ偽物であれ自然が快いと思う気持ちを、たまには大切にすることにする。
だからだろうか、『本物』にも触れてみたくなった。
地球を模した月の中、珍しい『本物』。向かうはジュピターの薔薇園。
ジュピターが植物を好むのはパレスの中では知らないものがいないほど有名なことになっている。
というのも、月の技術でいくらでも相応の『自然』を作ることができるのに、わざわざ種や球根から手間暇をかけて薔薇園を一つ作りあげてしまう真似をするのはジュピターが初めてだったから。クイーンの許可も得た上で四守護神の一人のやることだから、流石に誰も口出しはしなかったけど、はじめは好奇に満ちた眼で見ていた者も多かった。何を隠そう、私もその一人だった。
マーズのように過剰な機械仕掛けを苦手と感じるようには思わないけど、敢えてそんな手間をかけているのは、かわいい顔をしてひねくれているのかとすら思ったものだけど。しかし本人は私の考えなどどこ吹く風で、笑顔で何か私にはよくわからない理屈の言葉を言って手を止めようとはしなかった。
それは私には理解できなかったけど、私室も観葉植物で溢れているところを見ると、どうやら本当に単なる趣味らしい。そして現在は誰もが見惚れるような薔薇園を着々と作っているわけで。
果たしてあの時彼女は何と言っていただろうか。
そんなことを考えながら、裏庭へ。一人で作っているだけにまだ規模が小さい未完成のそれは、それでも既に誰もが目を奪われずにはいられないほどの存在となっている。
緩やかな風と眩い日差し。陽の光を浴び薔薇の花香る裏庭。
ジュピターの、薔薇園。
「…え」
やあ、なんて軽い挨拶が聞こえた。
ちょうど私からは影になっていたので気づかなかった。声を頼りに移動すると、薔薇園の少し向こう、少し小高い丘の芝生の上、長い手足を組み合わせ寝そべる人物が一人。
「……ジュピター」
「どうしたの、マーキュリー、珍しいね」
ジュピターは少しとろりとした目でこちらを見、軽く手をあげ挨拶をしてきた。こちらから見えなくても向こうからこちらの姿は丸見えだったわけで、向こうは挨拶してきたのだろう。
別にこちらがこの距離から挨拶しようが恐らく向こうは気にしない。でも私には何となく好ましくない距離で、気が付けば彼女に向かって歩いていた。
「……いらっしゃい」
ジュピターは芝生の上に寝そべったまま、目を細め少し鼻にかかったような声を出す。その様子から察するにさっきまで眠っていたのかもしれない。
それにしても私室でもあるまいにいらっしゃいというのはどういう了見かと思う。一応ここは公共の場なのに。
虎視眈々と薔薇園の面積を広げるために今現在いる芝生の位置をも狙っているのか、それとももう自分の場所同然に振る舞っているのかもしれない。
だとしたら、かわいい顔をして、やっぱり侮れない。
寝そべったままの彼女を見下ろすように立つ。人と話すときに相手の目を見るのは、リーダーから教わった。
「私はたまたま通りがかっただけで…ジュピター、あなたは何してるの」
「………んー」
「薔薇園のこと考えてたの?」
「ああ…それもあるかな。植物のこと考えてね…」
「好きなのね」
「うーん…やっぱり恋してるのかな」
「……………こい?」
ジュピターの言葉は要領を得なくて、やっぱり目つきはとろりとしている。寝ぼけているのかもしれないが、それでも、要領を得ないはずの言葉には聞き覚えがあった。
先ほどより鮮明に脳に蘇る記憶。
彼女は以前も言っていたはずだ。恋をしている、と。
あれは、薔薇園を作りながら私に答えてくれた言葉。
「恋って…」
「うん、片思い中」
「誰に?」
「植物」
「植物?」
「あたしは綺麗に咲いてほしくていろいろ手をかけて目をつけて気にして、でもちょっと機嫌損ねると咲いてくれないしね。機械仕掛けならもっと楽でいい結果が手に入るかもしれないのに、それでもこんな風に手間暇かけて必死になっちゃうのはきっとあたしが片思いしてるからなんだよ」
「片思い…」
「向こうはあたしのことどう思ってるか分かんないのに、好きだから頑張っちゃうんだよなぁ」
すー、と空気を大きく吐き出すようにして首だけをこちらに向けるジュピターの目はやはり寝ぼけているのかしら、と思わせる。でもつながっていないようでつながっている言葉は、思わず私の意識を捉えた。
片思いされていた薔薇は、やがてジュピターの手によって誰もが振り返る園に変化を遂げた。その時点で思いは通じ合っているのかもしれない、と。
「…片思いなら、咲いてはくれないんじゃないかしら」
「花は自分が咲きたいから咲くんだよ。あたしのために咲くわけじゃないし」
「…なら」
「でも、ここに連れてきたのはあたしだから、咲きやすいように少しでも元気でいられるようにしてあげないとって。いろいろやっていっぱい失敗して…やっとここの空気でここの土であたしの世話でも咲いてくれたから、向こうはやっとここで咲きたいって思ってくれたみたいだけど」
そこで微笑むジュピターは眠るような穏やかさで目を閉じる。果たして彼女が言う『片思い』に思いを馳せているのか。
上司でもある友人から、片思いとはもっと胸を焦がすものだと聞いていた。別に興味もなかったけど、ジュピターを見ているとそれほど悪いものでもないのかもしれない、と思った。
一方的な片思い。たとえ命が開き花が芽吹いても、本人の態度からしてジュピターはこれ以上報われることはない。だが、彼女の恋慕は結果として月の人間を楽しませ、自他ともに認める朴念仁の私が自分の意志でここまで来るほどになった。
機械と技術の力を借りれば、もっと鮮やかで華美な薔薇園を簡単に作ることは可能だろう。その気になれば私だってできる。だが、それが果たして人の心を動かすかは分からない。
少なくともそんなものに、私は興味が湧かない。
機械仕掛けを否定する気も、自然を過剰に崇めるつもりもない。月にいる以上仕方のないことだ。だが、それでも確かに、ジュピターの手で作り上げたものは人の心を動かしている。
私もジュピターの手で作り上げたものを、わざわざ足を運ぶほどには想っている。ならこれは彼女の言う『恋』なのかもしれない。
「そうね。なら私はずっとジュピターに恋をしていてほしいって思うわ」
「え?」
「私も、あなたがこれから作るもの、楽しみにしてるから…好きだから頑張れるっていうのなら、いつまでも好きでいてほしい」
「へえ、そう言ってもらえるとは思わなかったな」
「……私も、好きだから」
まだまだ規模の小さい、でも心奪われる、この世界。
「…ありがとう」
そして、花開くような、笑顔。
『恋』をしているとこういう表情ができるのだろうか、と思う。戦士の身でありながら、あまりにも甘い、優しい、作為のない笑顔。
なんだか、胸の内を引っ掻かれてるみたいな気分になった。
これはきっと、普段、策略を張り巡らせている自分には、あまりにもまっすぐで眩しい表情だから。
だから、目を逸らしてしまった。それをごまかすために私は慌てて、でもそんな様子を悟られないよう適当な言葉を吐き出す。
「……私、そろそろ行かないと」
「ん、ああ。ごめん、なんか引き止めちゃったみたいで。いつも忙しいのに…」
ジュピターはそんな私を気にするどころか向こうから詫びる真似をしてきた。私は慌てて取り繕う。
「いえ、ここには自分で来たのだし…」
「わざわざ来てくれたってことは、もしかして、意外と植物好きなのかい?あたしはマーキュリーこういうの興味ないもんだって思ってたけど」
「確かに興味は…そんなになかったわ。あなたが来るまでは」
「お?」
「綺麗だとは思うけど、自分には縁のないものだと思っていたし、自分が手入れするなんて考えもなかったものだから…あなたがやっているのを見て、はじめて素敵だと思った」
「そう。なら、よかったらあたしの部屋の鉢を一つあげるよ」
「えっ…」
あまりにあっさりと言われた言葉に私は驚いてしまった。
どうしてそんなに人に軽々しくものをあげると言えるのか、心血を注いで大切にしているものの一部ではないのか。恋をしているというほどに植物は彼女にとって大切ではないのか。
それを私に簡単にあげるという、彼女。
「あんまり手のかからないやつを選ぶよ。それか、自分で選ぶかい?」
「ちょ、ちょっと待ってジュピター。そんな、もらえないわ」
「え、どうしてさ?負担かい?」
「そうじゃなくて…大切なものなんでしょう」
「だからだよ。大切なものだから、マーキュリーにも好きになってもらえたらうれしい」
「それは…」
「もちろん、マーキュリーは忙しいから、負担だっていうのならちゃんと断ってほしい。でも、少しでも興味があるのなら…少しでもマーキュリーの心にいい感情を与えられたら…そのきっかけがあたしなら、あたしはすごく嬉しい」
ジュピターのその言葉に、私は今度こそ目を合わせることが出来なくなった。
なぜだか知らない。私は、リーダーに教わってから、相手の目を見て話すことを心掛けてきた。でも、なぜかそのときジュピターを直視できなくなった。
植物の鉢をもらえるというのは、正直魅力的な言葉。きちんと世話をできる自信はなかったけど、部屋に一つ鉢があるだけで、なんだか違う毎日が来そうな気がする。
これまで興味はなかったけれど、ジュピターを見て、私にも少しは何かを愛でる心が湧いたのなら、それを大切にしてみようと思うから。
それなのに、私は彼女の顔を真っ直ぐ見ることもできない。
「…いらない?」
「……そんな、ことは」
「じゃあ…仕事終わったらあたしの部屋においでよ。実物見ないと分からないだろうしね」
「…遅くなるかも」
「いいよ、何時でも待ってるから」
その言葉は嬉しいはずなのに、やっぱりジュピターの顔を見直すことはできなくて。私は軽くうなずいて、肯定の意を示してジュピターに背を向ける。
もう何も言ってほしくなくて、何となく心持がうまくいかなくて、何とか冷静なふりを装って静かに歩く。
それなのに。
「………あ」
もうジュピターから十数メートルは距離を取ったかというところで、ふと視界に淡い色が映った。
ふわふわと舞い降りてくるそれは、花びら。私めがけて降ってくるように舞い散るそれは、薔薇園から風に流されてきたものではない。
私はそれを知っている。ただ、こんな使い方があるなんて知らなかった。
「……フラワーハリケーン」
それは牽制や目くらましに使う、ジュピターの技の一つ。
攻撃技であるはずなのに、攻撃とするに相応しくないほどあまりにも圧倒的な美しさを、いつも戦うときに見ては思っていた。だが、今私を包むそれは、攻撃的な意思を含んだものでなく、ただ、美しく花びらが散るだけのもの。
花びらの嵐。思わずかざした掌にはらりと落ちてきた一片は、甘い香りを残し消えていく。
そこで振り返る私に、少し離れたジュピターは、先ほどいた場所で先ほどと同じ体勢のまま私を見て微笑み手を振った。距離があるせいか花弁が散っているせいか視界は少し霞んで、その笑顔は微かに滲んで見えた。
目がくらむほどきれいだった。
「………え?マーキュリー?」
裏庭を抜け、渡り廊下へ。そこでヴィーナスとすれ違って私は挨拶をした。するとヴィーナスはどこか慌てた様子で、私の腕を掴んで振り返らせた。
「……ヴィーナス?」
彼女に教えてもらった通りきちんと目を見て挨拶したつもりだけど、と訝ったが、ヴィーナスは私と向き合うと両手で私の顔を挟んで、怪訝そうな顔で睨んできた。
「マーキュリー、どうしたの、その顔」
「え、何かついているかしら?」
もしかして花びらか何かがついているのか、と思ったが、それなら顔がどうというのでなく何か付いていると言ってくれるはずだろう。私はヴィーナスの次の言葉を待っていたが、彼女はしばし私の顔を至近距離で覗き込んで顔をしかめていた。
「……あの、ヴィーナス?」
鼻がぶつかるほどの距離まで詰め寄られて、しかし顔を押さえられているために私は逃げられない。何のつもりなのかしばらくそうやって私を睨んでいて、彼女の目に自分が困惑した表情が見える。
たっぷり数秒。そして、唐突にふっと目を細めると、ヴィーナスは緩やかに笑んだ。
「マーキュリー」
愛の女神の表情で。
「恋、しちゃったのね」
確信的に言われる言葉に私の脳はついていかなかったけど。
愛の女神の目に映る私の顔は―どこか見覚えのある表情をしていた。
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ジュピはマキュにとってはちょっと不思議ちゃんだといい。でも好きになっちゃってどうしましょう、みたいな。
このあとヴィーは「マーキュリーがww恋www」みたいな感じでバカにしまくって鉄拳を食らうそうです。
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