入浴時に起こる恐ろしいことは、枚挙にいとまがない。
それは家族が留守の夜の、シャンプー中の背後の気配であったり、予期せぬ侵入者であったり、湯船から突然に飛び出す手足であったり、気づけば体に絡んでいる自分のものでない毛髪であったり。映画やドラマでおなじみのシチュエーションだが、現実で火野レイはすべて経験済みだった。と言っても、もっぱら、解決をお願いされる立場であったのだが。
無防備極まりない姿でいる場所というのは、それだけ恐怖心をあおるものがあるのだろう。風呂に怖いものがいるという依頼を受けて実際に現場に出向いたことも一度や二度ではない。もっとも、その真相はほとんど気のせいや偶然で済まされるものだったり、幻覚や幻聴であったり、実際に回りくどい嫌がらせを受けていたりなど、巫女より病院や警察を頼るべき事態が散見されていた。
持って生まれた霊感で生と死という世界の裏表を見てきたが、人間社会の裏表まで見せられる羽目になっているのは職業病というほかない。中学生にしてその手の修羅場をやたらにくぐっているレイは、たとえ祖父が留守の夜だろうが、いまさら入浴に恐れを抱くほど繊細ではなかった。
だが、恐れを抱かないのと、現実に事が起こらないというのは別である。レイがまさしく髪の泡を落としている最中に、その気配は濃厚にレイに忍び寄っていた。
家族は留守。シャワーの音が外の物音をかき消す。湯気が視界を朧にする。そんな誂えたようなシチュエーションで、実際に、解決する立場ではなく当事者として自分にそういう予感がやってきて、確かにこれは恐怖をあおるシチュエーションだ、とレイはため息をつきながら思う。
すりガラスの向こうに影。曇った鏡越しにそれを確認しながら、レイは洗ったばかりの髪をまとめ上げた。振り返る気はない。からからと引き戸で開く音を背中に聞く。
「・・・いっしょに入らないか?」
鏡に映るのは、レイの背後に立つすでに服を着ていないまこと。といっても鏡はずいぶん湯気で曇っていたから、少なくともレイはまことの無駄なキメ顔(推定)を見なくて済んだ。だが、そのせいでレイの表情での抵抗もまことには届かなかった。
レイの返事を待たずにずかずかと浴室に入り込んできたまことを追い出すのに、病院も警察も霊感も役には立たない。さらに培った経験すら無意味だ。筋力で劣るレイに、まことを追い出す術は、ない。
「・・・いや」
せめて口で反論をしてみたが、その声をかき消すようにまことはかけ湯を自らに浴びせていた。
「レイの家のお風呂、広いからいいよね」
結局、レイはまことともに入浴していた。湯船の端と端に背を預け、否応なく向かい合う形にさせられる。
まことが神社にいるのはなんらおかしいことではない。レイは家族が留守で、その家にまことはやってきた。それだけだ。だが、彼女はレイが風呂から上がるのを部屋で待っているはずではなかったか。
そもそも、広いお風呂がいいなら満喫すべくあとでひとりで入ればいいのに。そう思ってレイは思ったままの言葉を口に出そうとした。が、目の前に突如現れた自分のものでない足が湯船から出てきたことで、遮られてしまった。まことが湯船の中で足を伸ばしているらしい。
まことの住むアパートの部屋の浴槽は、長身のまことにはレイが思う以上に窮屈なのかもしれない。ばたばたと水しぶきを上げることはしないが、開放的になっているのか水面を滑るように足先を動かすまことを見て、レイは顔をしかめた。
まことの足が長いのは重々承知だが、急に自分のリーチを超える距離から足がやってきたら、いかなレイとて驚く。実体があろうがなかなかの美脚だろうが、衝撃を与えるという点でそこは等しい。
「ちょっと、足の裏を顔に向けるのやめてくれない」
「・・・ああ。ごめんごめん」
レイが咎めると、あっさりとまことは足を沈ませた。実に素直だ。だが、言葉が通じているだけに、露骨な欲求のみを突き付けてくる幽霊より質が悪い。
「・・・なんで来たのよ」
「えー、レイといっしょにお風呂入りたくて」
「いっしょに入っても背中なんか流さないわよ」
「そんなの最初から期待してないよ」
「・・・流させないわよ。終わってるから」
「ちえー」
やっぱりもっと早く来ればよかった、とつぶやくまことの神経はレイには理解できない。だって、レイは風呂に入るときにまことに「待ってて」と言ったのだ。それなのに。それなのに。
湯煙が浮かぶ中レイはまことを睨むが、まことはまるっきり意に介さない。背中を湯船の壁に滑らせ、顔に向けるのをやめた足を、それでもレイのほうに持ってくる。結果、湯船で足で壁ドンされる羽目になったレイは居心地が悪いったらない。
「・・・あの」
「なに」
「邪魔」
「うーん」
邪魔と言ったからには引いてくれなければ困るのに、まことはかすかに唇を曲げ何かを考える仕草をした。このやりとりのどこに悩む要素があるというのだろう、とレイは思う。
だが、まことなりに、合点がいくには少しの間が要ったようだ。むにゃ、と唇を動かし、まことは湯船から手を出した。
やはり、自分のものでない手が湯船から突然出てくるという事態はレイを驚かせる。たとえそれがまことのものであっても。
「おいで」
「・・・は」
「レイ、おいで」
今度こそ、レイはまことの無駄なキメ顔を正面で見る羽目になった。目の前で両手を広げて、明らかにレイを迎え入れる体勢を取るまことに、果たしてレイのしかめっ面や低い声のトーンは届いているのだろうか。
「なんで」
「向かい合ってるから収まりが悪いんだ。レイ、こっちでもたれたらいいよ」
「収まりが悪いなら出たら?」
「今入ったところだし」
「なら、私が出るわ」
「レイ、それはよくないぞ」
なぜかレイに説教をする口調で、まことはレイの手をつかんで引いた。湯船で暴れると危険という冷静さが、レイの選択肢から抵抗の二文字を奪う。まことはレイの体重も水の抵抗もないように引くと、体の向きを変え伸ばした太ももの上に腰かけさせた。
「ふー・・・」
ただでさえ熱い湯船の中で、レイは背後から抱きしめられる。一仕事終えたというようなまことの吐息をすぐ耳元で聞きながら、レイも露骨なため息を吐く。
「やっぱり、このほうが落ち着く」
「私は落ち着かないんだけど」
「そう?」
そう?などと言いつつ、解放する気はないらしい。腹部でかっちりと抱き込んでくるまことの腕を見つめ、レイはもう一度ため息をついた。
「・・・レイ」
「なに」
「髪、あげてるの、お風呂以外でもたまにやってよ」
「普段は下ろしてるほうが楽なのよ」
「これはこれでかわいいのになあ」
背後から、うなじの、髪の生え際にささやかに触れられる感覚。レイの肩口に、まことの髪が落ちてくる。自分のものでない長い髪が体に絡むという状況だけ見れば、それは恐怖でしかないのに。
「なあ、レイ。今度、泡風呂やってみたいんだけど」
「泡風呂?」
「空気のあぶくを出すのじゃなくて、湯船が石鹸の泡だらけになる、あれ。昔の洋画とかでそういうシーン結構あるんだけど」
「なんとなくわかるけど、ああいうの、普通の家でできるの?」
「できるよ、それ用の入浴剤使えば。で、やってみたくて」
「やれば」
「うちじゃなくて、ここでやりたいんだよ」
「広いから?」
「それもあるけど」
「けど?」
「・・・レイがいるから」
「ひとりでやって」
「人の家でひとりでやったらバカみたいじゃん!」
湯船の中で、抱き留められる手に力がこもるのが伝わってくる。苦しくはないが、簡単にほどくことはできない。背中に押し付けられた胸から、まことの脈拍がそのまま届きそうだ。
肌と肌が触れ合って、熱くて甘苦しい。熱いのは得意のはずだが、これはのぼせてしまうかもしれない。
すでにいささか、頭は胡乱になってきている。
「・・・・・・まこと」
「ん?」
これだけ近い距離で、それでなくても敏感なレイはすでに十分すぎるほど感じていた。まことがここにやってきた、理由。固く抱き留められた腕から感じる、この距離でも、レイしか探り取れない、その感情。
「・・・・・・こわい映画でも見たの」
体から伝わってくるのは、恐怖心。
レイは哀れみを込めたつもりで言ったが、それはいささか意地の悪い気持ちが混じっていたかもしれない。いずれにせよ、レイの背後でまことがわかりやすく体を跳ねさせたことは伝わってきた。湯船にいくつもの波紋が広がる。
図星は、正確に突いた。それでも振り返らないのは武士の情けだ。
「なっ・・・ん、で」
「お風呂まで押しかけてくるから、ひとりで入るのこわいんじゃないかって」
「いっ・・・や、あたしがこわいって言うか、レイが心配で。ほら、今日おじいちゃんいないし」
「・・・・・・ふっ」
「おい、なんだよその鼻で笑ったような」
ぬらぬらと人の領域に入り込んできたくせに、わかりやすすぎる。そんなわかりやすさでどうするつもりなのか。レイが気づかないと思っているのなら、それはまことの見通しが甘すぎる。
「泡風呂の話とかするから、そういうシーンのあるの、なにか見たんでしょう」
「・・・なんだよ、詳しいな。映画とか興味ないんじゃないのか」
「こういう仕事をしてると、興味がなくても知識として入ってくることは結構あるのよ」
「・・・・・・・・・」
「そもそも、お風呂って、『現場』になりやすいし」
「げ、現場って」
「水回りっておかしなものが寄ってきやすいのよ」
「ああ、お盆に海に近づかない、とか、そういう・・・」
「亜美ちゃんに美奈がまとわりつく、みたいな」
「そういう!?」
友人を引き合いに出して、レイは珍しく冗談を言った。それは、水回りの話を少しマイルドにする狙いもあったのだが。
水回りにおかしなものが寄る、というのは嘘ではない。生物には水が不可欠だが、死んだところでそれは例外ではないらしい。生物と水の因果関係のように科学的な証明はできないものの、レイは経験からそれを実感している。
それは、今も、そうだ。
「ほんとうに、なんで、怖いってわかっててそんな映画見るのよ」
「学校でちょっと話題になってて・・・気になって」
「それでひとりでお風呂にも入れないとか、バカじゃないの」
「別にひとりで入れないわけじゃ・・・!」
「じゃあ、私が出てもいいわけね」
「そ、れは・・・」
「あなたもだし、映画の中でもそうだし、うちにお祓いを頼みに来る人もそうだけど、なんで自分から怖いってわかってるほうに行くわけ」
それは家族が留守の夜の、シャンプー中の背後の気配であったり、予期せぬ侵入者であったり、湯船から突然に飛び出す手足であったり、気づけば体に絡んでいる自分のものでない毛髪であったり。それらは水回りにすべて呼び寄せられたもので、今、レイがまことに味わわされたことだ。
それらはすべて、ちゃんと、レイに恐怖を呼び起させていた。水回りには、間違いなく怖いものが寄ってくる。
家族が留守とわかってまことを呼んだ。仕事の動向や同級生の噂話から、学生の間で怖い映画が流行っていることも知っていた。まことが微かな恐怖心を纏ってここに来たことも、持って生まれた能力で気づいていた。
それでもレイは待ってて、と言った。まことが来ることがなんとなくわかっていて、先に風呂に入った。
怖いものとわかっていたのは、自分のほうだ。まことの一挙一動が『こわいもの』で、それをわかっていて近寄ったのだ。
「だって、なんていうか・・・気になって」
「なにが」
「その映画の話聞いて怖いなって思うんだけど・・・見ないほうが気になって・・・見たら、思ったより怖くなかったって安心できるかもしれないけど、見なかったらずっと気になったままじゃないか」
まことはぼそぼそと言い訳をするように言ったが、結局はそこに帰結するのだ。レイは理解できなくとも納得できていた。
心霊スポットにわざわざ出向くような痴れ者も、ひとりで風呂にも入れなくなるとわかっていてホラー映画を見てしまう愚か者も、結局は気になって仕方ないから行動を起こすのだ。実際に事が起こると、自力ではどうにもできないくせに。
それは、人間の業とでも言うべきもの。だから、それは、レイも変わらない。
「・・・・・・」
怖いと、わかっていたのに。
怖くて怖くて、封印しようとしていたのに。
「まこと」
誰かを思うことは、初めての恋で懲りたはずだった。一度目の無意識での自分の振る舞いから学んで、二度としないと決めたはずだった。自分の欲望の深さ、重さ、傲慢さを自覚して、わかっていて誰かにもう一度それを向けてしまうのは、レイにとってとても怖いことのはずだった。
それなのに、こうやって家族が留守の家にまことを呼んでいる。自分から怖いものに近寄って、更に怖いものを解き放とうとしている。実際に事が起こってしまったら、もう、自力ではどうにもならないことが、最初から、わかっていたのに。
怖いものは、なによりも近くにいる。家族が留守だとわかっていて、ここに彼女を呼んでしまった、己の欲望だ。今だって、形だけの抵抗を試みてはみても、結局はこうして彼女の腕の中にいる。湯船から唐突に出てくる手足が水を弾きながらレイの視界に入り込んで、これだけ近い距離でレイの体に落ちて絡んで来る髪の毛は劣情に火を付けた。
まことが恐怖から逃れるためだけに来たとは、さすがに思えない。家族が留守のレイを気にかけてくれたのは本当だろう。だが、気になるなんて思わず、逃げてくれたら。ずっと、ずっとそう思っていたのに。
レイはまことの腕から、ほんの少しの力を込めて逃れた。筋力で劣るなど結局言い訳にもならない。逃げる姿勢を見せれば彼女は解放してくれる。それでも、レイはまことの腕の中にいたのだ。なによりもこわいものから、自分の欲望から、自分の意志で逃れることはできなかったから。
事を起こさない恐怖から逃れるために、結局自分から余計に怖いものに近づいてしまう、というのは恐怖作品の定石だ。それをまことはやっている。
「レイ?」
そして、レイも。
レイに近づいてきたまことも、まことを否定しまなかったレイも、どちらも怖いものがすぐ近くにいる。まことは無意識で、レイは自覚があっても逃れることができなかっただけだ。
たっぷりの土地と静けさが保証されたこの神社という空間で、泣こうがが喚こうが、助けなど来ない。わかっていたはずだ。それなのに血が騒いで疼く体を抑えることができない。もう、彼女を守ることはできない。
家族が留守なのを気にかけてくれたこの人がいじらしい。恐怖をまとってやってきたこの人が可愛らしい。今こうやって見当違いのものに怯えながら、とてもとても、とてもこわいもののすぐそばにいるこの人が、戦慄するほど愛しい。
『こわいもの』をもはや抑えることはできずレイは振り返る。幾重にも広がった湯船の波紋に、静かに二人の重なる影が揺れた。
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