「おはよう、ヴィーナス」
「…んー…おはよ」
朝起きた後、目が覚めてすぐ隣にいる彼女に必ず挨拶する。
挨拶はとてもとても大切なことで、ただの意味のない言葉の掛け合いではない。相手の存在をきちんと認めることの証明であり、そのかける言葉づかいで、かける状況で、かける言葉が違う。相手によって使う言葉を変えるのは当たり前のようで、その実本当はとても尊いこと。
「おやすみ、ヴィーナス」
「おやすみぃ~」
眠る前も、必ず声をかける。
一日の始まりから、一日の終わりまで。始まりは彼女。終わりも彼女。彼女へのあいさつで始まり、彼女へのあいさつで終わる毎日。たとえ時折離れる時があったとしても、やがてまた当然のようにその日常が戻ってくる。たとえ日中どんなことがあっても、一日の始まりと締めくくりはヴィーナスと共に。
だから、おはようとおやすみは、あまりにもありふれていて、それでいてとても特別な彼女との言葉だった。
それが当たり前だった。
それが永遠に続くと、疑うこともしないでいたのに。
「ヴィーナス」
その日はあっけなく訪れた。
彼女は知らないところに行ってしまった。もう二度と帰ってこないのは誰が見ても明らかだった。
その亡骸は王国の守護を統べるその戦士の姿にふさわしくない、安らかな表情。伏せられた長い睫毛も、まだ赤みの残る頬も、金糸と見紛うつややかな髪も、生前と何一つ変わらない。愛の女神の名を決して貶めるようなことのない気高いまでに美しいその姿は、それでも、声をかけたらいつものようにぐずぐずと目を開けて、だらしない表情でおはようと言ってくれるんじゃないかと思ってしまう。
それでも、今、自分がかけるべき挨拶は、はじまりではない。一日の終わりであり、一生の終わりであり、永遠の別れの言葉。
「…おやすみ、ヴィーナス」
返事はなかった。もう冷たい亡骸にぽたぽたと涙がこぼれた。
彼女が生まれて産声をあげた時、周囲はきっと新たな生命を祝していた。彼女がいなくなった今、涙が止まらないのは自分で。涙を流して始まった彼女の生命は、今自分の涙で締めくくられている。
もうこの王国も数刻もしないうちに終焉を迎えるだろう。だけど、いつもみたいに一緒に眠るわけにはいかない。
これから、自分も長い眠りを迎える。だけどそれでも、自分の時間が彼女ともう一度交わることはありはしない。
一緒に死ぬこともできないけど、最後に、いつものようにおやすみと言う言葉が聞きたかった。そうすればきっと、底知れない先の未来まで、少しでも安らかな眠りを迎えられただろうから。
たとえ彼女にその言葉が届いていなくとも、せめて最後に彼女に挨拶ができたことを胸に抱いて、緩やかに歪む視界に最後まで彼女を映した。
美奈子はベッドに伏せっていた。ただ静かに泣いていた。
当然だった。これまで地球人として生きてきた彼女の初恋の相手は地球人の目線から見れば化け物で、しかもそれを自分の手にかけてしまったのだから。
僕のやり方は強引過ぎた。僕は、ほぼ初対面の彼女にヴィーナスと同じだけのことを期待してしまっていた。ヴィーナスなら、たとえ相手が誰であれ、敵は排除する。王国の守護を統べた存在であり、最強の戦士だった。
でも今目の前で泣いている彼女は、まだ生まれて十数年の、地球人の感覚と価値観を持って生まれてきた少女。なまじ容姿は似ているだけに、ヴィーナスとの違いが異様なまでに目につく。変身後の姿も、あの頃とは違う。
その姿を見て思う。彼女は、僕のパートナーではない。
それでも、これからパートナーになる。僕が知っているヴィーナスとは違うけど、やはり肌で感じるのだ。眠る前、月の王国でずっとヴィーナスに感じていたように、彼女は僕の運命の相手なのだと。
一緒に起きて、共に生きて、隣で眠る、誰よりも傍にいる分身の存在なのだと。
「……アルテミス」
やがて泣きはらした目を重そうに顔をあげる彼女は、まるで生まれたばかりの赤ん坊のように涙に濡れていた。その涙は、昨日までの『普通の女の子』に別れを告げる、僕があのときヴィーナスに流したような永遠の別離の涙だ。
普通の愛野美奈子は、僕の存在が殺してしまった。彼女は昨日までの自分の喪に服している。生命の終焉は他人の涙で締めくくられる。
そして、今日誕生した戦士の産声をあげている。生命の誕生は自分の涙から始まる。
新しい彼女。僕のパートナー。今日生まれて、これから長い長い時間共に過ごすことになる。だからあの時、最後の瞬間から今まで言えなかった言葉を、ようやく告げる。
「おはよう、ヴィーナス」
生まれてきてくれて、目覚めてくれてありがとう、そして、誕生おめでとう。
今、涙で暮れている彼女のこれから先が、どうか幸多からんことを。そして、おやすみで終わる一日が、おはようで始まる朝が少しでも長く続くことを祈って僕は彼女の誕生を祝福する。
あの日、おやすみのあと、告ぐことができなかった、ありふれていて何よりも特別な言葉を、君の誕生の一番に。
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初書きアル美奈。リアルタイムから好きな組み合わせで、今でもセラムンの男女カプで一番好きです。
誕生日ネタではないですが誕生ネタということで。意外性を狙って前半は誰が喋ってるか分かりにくい仕様にしましたら本当に分かりにくくてすみません。
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