ミリミリなアムちゃん +時々マカロン小隊

自衛隊好きによるまったり応援ブログ
自衛隊ネタ+αのコマ漫画メインに
自衛隊記念行事ルポなどをお届けします

松本地区 入隊・入校予定者 激励会2019! その1

2019年02月28日 | 地本さん 広報さん
春が来ました(といってもまだ2月ですが)
自衛隊にも新人さんがやってくる季節までもうちょい。
入隊・入校(高等工科学校、防衛大学校)を控えている新人さんを
激励する会が、自衛隊家族会の主催で行われました〜

自衛隊家族会は、その前身を「父母会」と呼称し
身内に自衛官がいる方が、自衛官のバックアップを目的として
様々に活動されていらっしゃいます。

…だったと思います。うろ覚えですんません。

今年も激励会に参加したごろんた。今回は余裕の3回目。
ということでカメラをお許しいただいて持参。
松本事務所の所長様から「式典の時でも動いて撮っていただいていいですよ」という
なんとも寛大なお言葉を頂戴し、「がんばって、制服撮るぞ!」と意気込む。
ごろんた、あんた何しに来たの?と言われないよう、ちゃんと式典も
撮影してきました。では、ドゾ



受付にいらっしゃった広報官さんたちです。
いつもありがとうございます!!



ごろんたのわがままに振り回されている、所長さんです。
いつも笑顔でいらっしゃるんですが、今回は一味違ったお顔も載せちゃいますよ〜〜〜ぐへへ…



控え室には「お偉いさま」が…



入隊・入校予定者の皆さんが入場



お偉い様のご祝辞を賜っております。





地方新聞の記者さん達もいました。去年はいたのか??どうか???覚えてない〜〜



記念品の授与



防衛大臣のご祝辞 岩屋さんかあ……言いたいことはあるがここでは控える!!(お祝いの席なので)



松本アルプス太鼓演奏〜〜〜〜♪♪









一曲だけでしたが、迫力ある演奏は素晴らしかったです!!!
ありがとう〜〜〜〜!!!!!!

式典終わって廊下へ…そこには







各方面からの「お祝い」が〜〜〜〜〜♪
さくさくっと終わってしまった激励会でしたが、とっても感慨深いものがございました。
ただ…ちょっと心配なのが、入隊人数。
年々少なくなっているような…
ごろんたもがんばって、気骨ある若者をスカウトせねば〜〜〜〜〜〜〜〜〜(´Д` )

さて! 広報官さんのお姿が少ないなあ…と思われたそこのあなた!鋭い!!!
次回!!!ごろんた渾身の力を振り絞ってお届けします、

松本地域事務所の広報官さん特集!

つっても、撮影した写真から「これ!」というのを掲載するだけですが…
いつもとはちょっとだけ趣向を変えて、というか
趣向をちょこっと凝らしてお届けしたい、と「今のところ」考えております!

顔出し許可をいただいております!
男前さんばかりなので、嬉しいです!

よろしければおつきあいください〜〜〜♪
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それゆけマカロン小隊 その112

2019年02月26日 | コマ漫画それゆけマカロン小隊



ちゃんちゃん♪
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それゆけマカロン小隊 その111

2019年02月24日 | コマ漫画それゆけマカロン小隊



何を思ったのかレスキューニャンコ、猫耳さんをガジガジ…
同じ猫族だから???
あでも、猫耳さんはバンダナ族?だろうし…
う〜ん…

さて、チッサイさんはどんなお菓子をもらったのでしょうか?
お菓子だけではないようですが…それが出てくるのは一体いつのことやら?

よろしければおつきあいください〜〜(^^)
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それゆけマカロン小隊 その110

2019年02月22日 | コマ漫画それゆけマカロン小隊


アップしてから気づきました
チッサイさんの縮尺がおかしい…
けど、ま、いっか〜〜〜〜(開き直り)
最近、細かいことにはうるさくなくなった…というか
めんどくさがりやになっているごろんたです。

まさかの今頃ハロウィンネタ。
それほど長い内容でもないのに、
次回へ続く、とかやってみたりする…
ネタがなくて困っているのか????
いや〜そうでもないんですが…
イベントシーズンはまだですね。
最近カメラを出していないので、点検しないと〜〜〜〜


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武器学校 土浦駐屯地祭2018  10-6

2019年02月20日 | 陸上自衛隊レポ
いよいよ、今回で土浦駐屯地祭2018レポ終わりとなります〜〜〜
残りの展示物をどどっと、掲載いたします!

一式機動47ミリ砲(速射砲)

一式機動四十七粍砲(いっしききどうよんじゅうななみりほう)は、
1940年(昭和15年)前後に大日本帝国陸軍が開発・採用した対戦車砲である。
九四式三十七粍砲の後継対戦車砲として、太平洋戦争中後期に使用された。
日本軍では対戦車砲のことを速射砲と通称していたので一式機動四十七粍速射砲とも呼ばれる。
名前の「機動」は本砲が空気式のタイヤを装備し、そのまま車両で牽引し高速移動できることからきている
(そうでない車輪の火砲は「機動台車」と呼ばれる空気式タイヤを装備した台車に載せないと車両で高速移動する事が出来なかった)



一式機動四十七粍砲は九四式三十七粍砲の後継として、太平洋戦争中後期において使用された大日本帝国陸軍の主力対戦車砲である
。初速、精度など全般的な性能は列強各国の45mm級対戦車砲と比較して遜色のないものだったが、
75mm級以上が主流であった大戦後期の各国対戦車砲と比して小口径に過ぎるなど、威力不足からアメリカ軍が
第二次世界大戦中半以降から投入したM4中戦車を正面撃破することは難しく苦戦を強いられた。
さらなる後継対戦車砲である試製機動五十七粍砲は新規に採用する装備として要求される能力を満たさないと判断されて開発中止に、
本命である試製七糎半対戦車砲I型および、105mm大口径の試製十糎対戦車砲(共に自走砲化)は生産中に敗戦を迎えたため、
本砲は事実上の最後の制式対戦車砲となった。
生産力が不足していた日本においては75mm級高初速砲の生産がはかどらず、野砲と高射砲の需要に応えるのが精一杯であった。
そのため、これより攻撃力が高い対戦車砲の配備は行われず、野砲兵・山砲兵の野砲・軽榴弾砲・重榴弾砲・山砲、高射砲兵の高射砲、
野戦重砲兵・重砲兵の重榴弾砲・加農、また歩兵砲隊の四一式山砲(歩兵用)が対戦車戦闘に転用されたにとどまる。
火砲による対戦車能力の不足は九三式戦車地雷・九九式破甲爆雷・梱包爆薬等を使用した歩兵・工兵による対戦車肉迫攻撃(肉攻)で
補われる形となり、歩兵の損害が増大することとなった。

日本軍は本当に、ジリ貧だったんですね…
最後は「肉迫攻撃」って…なんとも発する言葉がありません……

さらにウィキにはこうあります。

1930年代に初中期に開発・採用された九四式三十七粍砲が実質的に日本初の本格的な対戦車砲であったが、
装甲貫徹能力に関して早くから列強各国の37mm級対戦車砲に比べて威力不足である事が指摘されていた。
しかし、日中戦争(支那事変)における国民革命軍やゲリラ相手の戦闘では深刻な脅威に遭遇することが無かったため、
より強力な対戦車砲の必要性に対する認識は薄かった。


なんか、この感じ、現在の日本に通じるところはないでしょうか?
「差し迫った状況にないから、のんびりしててもいいよね」
「中国そこまで来てないから、大丈夫でしょ」
みたいな…いやいやいや!!!日本危ないって!!
中国なめたらいけませんよ。ロシアも、朝鮮も。
今「平和」だと思えるのは、平和を守るために奮闘してくれてる方達がいるからなのですよ。
法律の壁だとか、気遣いしまくりの対不審船だの対韓国軍艦だの…
日本人は、自国を守る人たちを丸腰のまま(憲法という名のしばりだったり、遠慮外交のとばっちり)
危険の中へ放り出しているのですよ。その上で「平和だね〜日本」とかあほ言ってんじゃない!!!!

…つい取り乱してしまいました、申し訳ございません……

では次にまいります

四年式15センチ榴弾砲

四年式十五糎榴弾砲(よねんしきじゅうごせんちりゅうだんほう)は、
日本陸軍が大正4年(1915年)に制式制定した榴弾砲。
試製砲は明治44年(1911年)に完成した。大正3年(1914年)には審査を兼ねて青島攻略戦に投入されたとも言われる。
性能は概ね良好と認められ、大正4年(1915年)3月には四年式十五珊榴弾砲として制式制定され、
昭和に入って四年式十五糎榴弾砲と改称された。
閉鎖機は垂直鎖栓式であるが、通常と異なり鎖栓部を上方に引き上げて開放するという変わった形式で、
形状も独特である。装薬可変式の分離薬筒。装薬は二号方形薬で、緩・中・急の3種類があり、
それぞれに一~五号までの装薬号が設けられている。
移動は砲身車と砲架車に分割して6馬輓曳。移動状態から結合して放列布置までには約10分、
放列砲車から分解して移動撤収に移るまでには約12分を要した。



採用以降、陸軍は野戦重砲兵の主火器として本砲を整備し、大阪砲兵工廠で280門が生産された。
大正7年(1918年)に野戦重砲兵連隊が独立編制になる頃から三八式十五糎榴弾砲との置換えが始まった。
しかし、第一次世界大戦前に計画され、三八式十五糎榴弾砲の機動性向上を第一目的としていた以上無理もないことではあるが、
第一次世界大戦中の砲兵戦術の急速な進歩により、配備当初から戦力価値の低い旧式砲となっていた。
特に射程が短いことは不評であり、後に装薬量を限界にまで増加し8800~8900mまで射程を延伸したが、
なお10,000mに満たず極めて不満の残る結果となってしまっていた。
本砲の射程不足を解消する試みは大正14年(1925年)に開始されたが、薬室を増積した試製砲は実用に耐えず、
もう一つの改善すべき点であった、結合時に砲身車と砲架車の車軸が前後左右とも多少高低差があってもスムーズに
作業できるようにすることに改修を絞り、砲身・砲架・揺架を改修した改造四年式十五糎榴弾砲が昭和5年(1930年)に完成した。
しかし、改造四年式十五糎榴弾砲は実用性は増したとはいうものの射程の短いのはそのままであり、
作業の許容性を増しただけ抗堪性は悪化した。その後、さらに作業性を増すため、昭和8年(1933年)、
9年(1934年)、11年(1936年)と逐次改修が加えられたが、その度に抗堪性は低下していった。
本砲は昭和7年(1932年)の第一次上海事変を皮切りに実戦投入された。昭和13年(1938年)には
新型の九六式十五糎榴弾砲が制式採用され、4式は旧式化したが、貴重な重砲として第二次世界大戦の終結まで運用され続けた。
昭和8年(1933年)の臨時装甲列車の主砲として搭載された。
※火砲の説明については全てウィキペディアより出典




さて!それではこれでラストです!!!!
これは〜〜〜〜ごろんたも歴史の時間に名前を聞いたことありますよっっ(^^)

クルップ砲(鹵獲品)

え〜〜〜ウィキにはクルップさんの説明はあるんですが
クルップ砲の説明がありません。
さらにググってみますと…日本でも歴史の重要な舞台にはその名が出てくるという、なかなかの火砲であります。
たとえば…
五稜郭での戦いではクルップ砲が20門以上配備 とか
扶桑 (甲鉄艦)にクルップ 1861年型 24cm(20口径)単装砲4基配備とか
幕末期に江戸幕府が所有していたオランダ製軍艦開陽丸(かいようまる)は、16cmクルップ砲18門装備などなど…
そして、興味深いものを見つけました〜

鎮遠(ちんえん, Zhen Yuen)は、清国海軍がドイツのフルカン・シュテッティンに発注して建造した甲鉄砲塔艦「定遠級」の1隻。
建造当時東洋一の堅艦と呼ばれた。日清戦争において日本海軍に鹵獲され、戦後に戦利艦として日本海軍に編入された。
この清国軍艦は明治27年威海衛沖で座礁して、日本軍に鹵獲されたのは明治28年。
案内板の写真に写っている、記念プレートに刻まれた年号も、明治27 8年…
ということは、土浦駐屯地で保管しているこのクルップ砲、もしや清国軍艦に装備されていたもの…??



クルップ砲についての情報があまりなかったので、
代わりに…ではないですが「鎮遠」のお話をちょこっっと…
清国の北洋艦隊のうちの一隻として朝鮮へと出動した「鎮遠」
日清戦争前の長崎に立ち寄っています。
長崎寄港の目的自体は、燃料の補給及び北洋艦隊の主力である定遠級戦艦の修理。
当時巨大な船を受け入れられるドックは長崎にしかなかったそうです。
ところが、ここで清国水兵が騒ぎを起こします。
これが「長崎事件」といわれるそうな…(歴史で習わなかった)

「1886年(明治19年)8月1日、清国海軍の北洋艦隊のうち定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻の軍艦が長崎港に入港した。
8月13日、500人からなる清国水兵が日本の許可無しに勝手に上陸を開始。長崎市内をのし回り泥酔の上、
市内で暴れまわり婦女子を追いかけまわすなど乱暴狼藉の限りを尽くす。
この内の一部の水兵が遊廓に押し掛けたが登楼には予約が入っており順番待ちがあった。
このことに怒った水兵は暴れだし、遊郭の備品を破壊したり盗み出したりした。
長崎県警察部の丸山町交番勤務の巡査2名が鎮圧に向かい、首謀者2名を逮捕し交番に連行した。
逮捕された水兵を奪還しようと、逃げていた水兵が仲間を連れ十数名で交番を取り囲んで襲ってきた。
しかし応援の警察官も交番に駆け付けてきたので、水兵達は逮捕され濱町警察署に連行された。
水兵は骨董店などで購入した日本刀を武器として用いたが巡査は警棒で応戦した。
8月14日、長崎県知事・日下義雄と、清国領事館・蔡軒の会談で、清国側は集団での水兵の上陸を禁止し、
又上陸を許すときは監督士官を付き添わすことを協定した。これを条件として、逮捕されていた清国水兵は清国側へ引き渡された。
8月15日、前日の協定に反し、午後1時頃より300名の水兵が上陸。棍棒を持つ者もあり、また、
刀剣を購入する者も少なくなかった。清国水兵数人が巡査3名の居る交番の前でわざと放尿し交番の巡査が注意すると、
彼らはその巡査を袋叩きにした。300人の清国兵は3人の巡査によってたかって暴行し、
1人が死亡し2名が重傷を負い重傷者の1名は翌日死亡した。これを見ていた人力車車夫が巡査達を助けようとして、
清国水兵に殴りかかった。これを契機に清国水兵の一団と巡査を助けようとする長崎市民とで乱闘となった。
止めようと駆け付けた警察官は清国水兵の数が多いことや日本刀等の武器を所持していたことから
一旦署に戻り帯剣して出直した。これにより清国水兵と斬り合う事態に発展し、
それぞれ死傷者を出す(清国人士官1人死亡、3名負傷。清国人水兵3名死亡、50人余りが負傷。
日本人側も警部3名負傷、巡査2名が死亡、16名が負傷。長崎市民も十数名が負傷)という大事件となった。」

とまあ、やってくれたね、中国人よ。
今でも中国人観光客のやりたい放題に辟易している国は多いそうですが…
日本でも結構問題になりましたよね。
結局変わらない民族なのね…と思わせてくれる事件でした。

これが韓国だったら今頃でも倍所請求しているでしょうね。
日本はそういうことしないのだ。被害者ビジネスと言われたくないし…。
たとえ今訴訟を起こしたとしても嘘はつかない、歴史の事実をつきつけるだけ。それが日本だ!

そしてこの事件が実は日清戦争において清国敗北の一因になったようです。
一応色々と協議して「まあるくおさまった」日本と清国に見えましたが…
またまたウィキさんより、

「北洋艦隊はその後も1891年と1892年に日本に訪問した。双方とも事前に日本政府の了解を得ており、
1886年とはうってかわって両国の親善が表向きはアピールされるものとなった。
1891年の訪問では北洋艦隊の随員が造船所や官公庁を訪問し、また旗艦定遠に日本の皇族や大臣、
海軍軍人を招いて内部を公開した。定遠への招待は清国側が日本に対して度量を示すためとされたが、
これはかえって定遠の艦内構造や北洋艦隊の士卒の練度の低さを日本海軍に暴露する結果となり、
日清戦争時の黄海海戦において清国敗北の一因となった」

長くなってしまいましたが、これにて土浦駐屯地祭2018レポ終了でございます〜〜〜
おつきあいいただきましてありがとうございました!!!!
次回はなんか…きっと…がんばります…はい……
よろしければおつきあいください〜〜〜(^^)
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