2012年2月16日から17日にかけて、「さらば」と「ヤマト2」についてつらつら考えたことをTwitterに投稿しました。
話があっち飛びこっち飛びしてますが、ずっと言葉にしかねていたことをようやく書き表すことが出来たので、記録しておきます。
つまり何が言いたいのかというと「さらば」の斉藤ヽ(´ー`)ノマンセー。
映画の尺であの深みはただ事で無い。
「さらば宇宙戦艦ヤマト」と「宇宙戦艦ヤマト2」は、対立する思想を持つ作品ではない、と思う。「さらばはキャラが死ぬからダメ、ヤマト2は死なない分さらばより高尚」という見方に対して、ですが。
ヤマト2にも戦いの中での死は数多く出てくる。戦果を上げられぬ無念の死も多い。11番惑星での空間騎兵隊壊滅などはその典型。そして、仲間や一般人を守る為の戦死が描かれる、これはさらばとまったく変わらない。違うのは、主人公古代進と幾人かのメインキャラの生死。
(私は鉄腕アトムを観たことが無いので敢えてこう書くが)「さらば宇宙戦艦ヤマト」で観客は、それまで予想もしなかった結末を突きつけられた。イスカンダ ルへの旅をともにした仲間たちが、次から次へと命を落としていく。最後には最大の感情移入対象である主人公・古代進まで。
その衝撃を、当時の観客の一人であった私はこのように受け止めた。「彼らは、私たちを守る為に戦い、死んでいったのだ」と。だって、私は「地球人」だったから。物語の中だろうが外だろうが、「地球人」という概念が変わるわけではないから。
まあ、そこらへんは「ナイーブと書いてバカと読む、痛い思春期のガキ」ならではの受け止め方ですが。
ただ、「アニメのキャラクターに対して恩義や罪悪感に近い感情を抱いてしまったこと」、しかも「あくまで他者としてキャラクターと自己との関係性を認識す るに至ったこと」が、思春期のガキにとってどれほど大きな精神的事件だったのか、想像していただけるのではないでしょうか。
そしてヤマト2です。テレビシリーズという尺がある分、キャラクターの描き方は相対的に細やかになり、キャラの背景がはっきりして感情の吐露も増えました。別に妄想力駆使しなくても、今彼らが何を考えているか、その行動の動機がなんなのか、よく分かる作りになってきます。
ヤマト2はヤマト2で見応えありましたし、映画と違う展開には、先が読めない面白さを感じて惹きつけられました。白色彗星戦の影の主役が斉藤始だと気づいたのも、ヤマト2があったればこそです。私以外誰も言ってないけどホントだよーー!>影の主役
しかし、数多の犠牲を払った後に、古代進は地球に生還しました。負けて帰るのも勇気の要ること、そりゃそうです。彼を責めるつもりなぞありません。ただ、主人公の生還によって、物語の中の犠牲者と観客との間には、一つのクッションが置かれました。
ヤマト2で「彼らの犠牲の上に我々の明日がある」と深く心に刻むのは、観客ではなく古代や雪。観客が直接に喪失感で打ちのめされる訳では無い。だって、ヤ マト2で死んでいったのは斉藤やテレサ、新米といった新しいキャラがほとんど。いや徳川さんや加藤山本も死んじゃいましたけど、でもねえ…
ともあれ、「さらば宇宙戦艦ヤマト」が当時のナイーブなガキ(私)にとって特異な体験となり得たのは、作中のキャラがその死の瞬間まで実に活き活きと「生 きて」いたからなのですよ。そして、最も「生きた人間」として活写されていたのが斉藤始であったことに、初鑑賞から二十余年を経て気づいた次第。
「さらば宇宙戦艦ヤマト」の斉藤、凄いですよ!簡単に言語化できない深いレベルでの描写がてんこ盛り!というかむしろ大半が台詞以外の描写でできているという贅沢さ!目線とか動作とか表情とかで語る語る。この贅沢さはマジ影の主役。
一例を挙げれば、私がアイコンに選んでいるシーンの直前とか。被弾の激痛を堪えている一瞬の描写があるからこそ、「慌てず急いで正確にな!」の言葉が持つ 意味が分かる。ここでその台詞を言う斉藤という人間の性格や、抱えている感情の豊かさも。つまり、人間として丸ごと観客の前に提示されている。
「さらば宇宙戦艦ヤマト」という映画を観る観客は、そうした描写を一旦丸ごと受け入れる。その後、各々の感受性に則って物語を咀嚼していくのだが、こうし た「活きた人間描写」は斉藤というキャラに着目するか・しないかにかかわらず、観客の感情を動かす大きな要因となっていくのではないだろうか。
そんでまあ何が言いたかったのかというと、意外とヤマト2にもさらばの贅沢な描写は残照として影響及ぼしているんではないかと。映像に切り取られた僅かな 描写でもテレビシリーズと匹敵する深みを有している、そういう意味でさらばの斉藤はすごく実写映画的なキャラだと思います。
斉藤の描かれ方には作画監督の湖川友謙さんのお力が大きいのではないかと踏んでいたのですが、監督の舛田利雄さんが斉藤に大変思い入れを持っていらっしゃったという話をちらっと読みました。なんだかすごく納得です。
「さらばとヤマト2は対立しない」という話が途中でグダグダになってしまった(汗)あーつまり何だ、「犠牲を払って守った者」と「守られた者」の「構図そ のもの」は変わってないと言いたかったんだよ、守られた者の中身が変わっちゃっただけで。さらばの死者もヤマト2の死者も本質は同じだと思うんだ
斉藤もテレサも新米も「若者」なんだよね…そんでヤマト2で古代や雪が死ななかったのは「たまたま」。ちょっと運が悪けりゃ死んでた可能性もある。というかエネルギー伝導管の直撃受けた時点でフツー死んでる(汗)いやそれは本質とはまるで関係ありませんが(汗)
グダグダのままですが寝るッ!おやすみなさい(;・∀・)
話があっち飛びこっち飛びしてますが、ずっと言葉にしかねていたことをようやく書き表すことが出来たので、記録しておきます。
つまり何が言いたいのかというと「さらば」の斉藤ヽ(´ー`)ノマンセー。
映画の尺であの深みはただ事で無い。
「さらば宇宙戦艦ヤマト」と「宇宙戦艦ヤマト2」は、対立する思想を持つ作品ではない、と思う。「さらばはキャラが死ぬからダメ、ヤマト2は死なない分さらばより高尚」という見方に対して、ですが。
ヤマト2にも戦いの中での死は数多く出てくる。戦果を上げられぬ無念の死も多い。11番惑星での空間騎兵隊壊滅などはその典型。そして、仲間や一般人を守る為の戦死が描かれる、これはさらばとまったく変わらない。違うのは、主人公古代進と幾人かのメインキャラの生死。
(私は鉄腕アトムを観たことが無いので敢えてこう書くが)「さらば宇宙戦艦ヤマト」で観客は、それまで予想もしなかった結末を突きつけられた。イスカンダ ルへの旅をともにした仲間たちが、次から次へと命を落としていく。最後には最大の感情移入対象である主人公・古代進まで。
その衝撃を、当時の観客の一人であった私はこのように受け止めた。「彼らは、私たちを守る為に戦い、死んでいったのだ」と。だって、私は「地球人」だったから。物語の中だろうが外だろうが、「地球人」という概念が変わるわけではないから。
まあ、そこらへんは「ナイーブと書いてバカと読む、痛い思春期のガキ」ならではの受け止め方ですが。
ただ、「アニメのキャラクターに対して恩義や罪悪感に近い感情を抱いてしまったこと」、しかも「あくまで他者としてキャラクターと自己との関係性を認識す るに至ったこと」が、思春期のガキにとってどれほど大きな精神的事件だったのか、想像していただけるのではないでしょうか。
そしてヤマト2です。テレビシリーズという尺がある分、キャラクターの描き方は相対的に細やかになり、キャラの背景がはっきりして感情の吐露も増えました。別に妄想力駆使しなくても、今彼らが何を考えているか、その行動の動機がなんなのか、よく分かる作りになってきます。
ヤマト2はヤマト2で見応えありましたし、映画と違う展開には、先が読めない面白さを感じて惹きつけられました。白色彗星戦の影の主役が斉藤始だと気づいたのも、ヤマト2があったればこそです。私以外誰も言ってないけどホントだよーー!>影の主役
しかし、数多の犠牲を払った後に、古代進は地球に生還しました。負けて帰るのも勇気の要ること、そりゃそうです。彼を責めるつもりなぞありません。ただ、主人公の生還によって、物語の中の犠牲者と観客との間には、一つのクッションが置かれました。
ヤマト2で「彼らの犠牲の上に我々の明日がある」と深く心に刻むのは、観客ではなく古代や雪。観客が直接に喪失感で打ちのめされる訳では無い。だって、ヤ マト2で死んでいったのは斉藤やテレサ、新米といった新しいキャラがほとんど。いや徳川さんや加藤山本も死んじゃいましたけど、でもねえ…
ともあれ、「さらば宇宙戦艦ヤマト」が当時のナイーブなガキ(私)にとって特異な体験となり得たのは、作中のキャラがその死の瞬間まで実に活き活きと「生 きて」いたからなのですよ。そして、最も「生きた人間」として活写されていたのが斉藤始であったことに、初鑑賞から二十余年を経て気づいた次第。
「さらば宇宙戦艦ヤマト」の斉藤、凄いですよ!簡単に言語化できない深いレベルでの描写がてんこ盛り!というかむしろ大半が台詞以外の描写でできているという贅沢さ!目線とか動作とか表情とかで語る語る。この贅沢さはマジ影の主役。
一例を挙げれば、私がアイコンに選んでいるシーンの直前とか。被弾の激痛を堪えている一瞬の描写があるからこそ、「慌てず急いで正確にな!」の言葉が持つ 意味が分かる。ここでその台詞を言う斉藤という人間の性格や、抱えている感情の豊かさも。つまり、人間として丸ごと観客の前に提示されている。
「さらば宇宙戦艦ヤマト」という映画を観る観客は、そうした描写を一旦丸ごと受け入れる。その後、各々の感受性に則って物語を咀嚼していくのだが、こうし た「活きた人間描写」は斉藤というキャラに着目するか・しないかにかかわらず、観客の感情を動かす大きな要因となっていくのではないだろうか。
そんでまあ何が言いたかったのかというと、意外とヤマト2にもさらばの贅沢な描写は残照として影響及ぼしているんではないかと。映像に切り取られた僅かな 描写でもテレビシリーズと匹敵する深みを有している、そういう意味でさらばの斉藤はすごく実写映画的なキャラだと思います。
斉藤の描かれ方には作画監督の湖川友謙さんのお力が大きいのではないかと踏んでいたのですが、監督の舛田利雄さんが斉藤に大変思い入れを持っていらっしゃったという話をちらっと読みました。なんだかすごく納得です。
「さらばとヤマト2は対立しない」という話が途中でグダグダになってしまった(汗)あーつまり何だ、「犠牲を払って守った者」と「守られた者」の「構図そ のもの」は変わってないと言いたかったんだよ、守られた者の中身が変わっちゃっただけで。さらばの死者もヤマト2の死者も本質は同じだと思うんだ
斉藤もテレサも新米も「若者」なんだよね…そんでヤマト2で古代や雪が死ななかったのは「たまたま」。ちょっと運が悪けりゃ死んでた可能性もある。というかエネルギー伝導管の直撃受けた時点でフツー死んでる(汗)いやそれは本質とはまるで関係ありませんが(汗)
グダグダのままですが寝るッ!おやすみなさい(;・∀・)