〈透明アンサー〉
私は彼以上にクズで最悪で生きる価値のない人間を知らない。
彼は酷く酔っ払っていた。陶器の可杯は回り終えた独楽のように傾き、七本のガラスの徳利は複雑なチェスの局面のように、テーブルのあちこちに置かれている。彼は徳利に入っている日本酒を、演技染みた飲み方でそのまま煽っていた。酒が切れたかと思うと声を荒らげ、新しい物を持って来いと若大将に命令する。若大将は「お金は大丈夫なんですかい?」と不安そうだ。
「つべこべ言わず持ってこい田舎もんがッ」
湯気立つ徳利を見ると、彼は突然上機嫌になり、私に酒を勧めるのだった。ガラスの徳利の中で湯気を立てる日本酒は、まるで清水のように透明でありながらも、鼻を近づけると熱燗特有の濃いAlcoholの匂いが鼻孔を刺激した。
彼とは飲み屋でたまたま出会った。意気投合したわけではないが、嫌よ嫌よと言いながら二軒も梯子してしまった。その間に分かったことは、彼が妻子持ちのアル中で、今日は職安に行く予定だったのだが、スーツの代金を全部酒に替えてしまったということだった。
彼はふらふらと立ち上がると、折ることも出来ない旧式の携帯電話でどこかに電話を掛けた。朝とも夜とも言えない時間である。時報くらいしか声は帰って来ないだろうと思われたのだが、これが意外、ちゃんと掛かったようだ。
「今高田馬場にいるんだけどよぉ。金がなさそうなんだわ。歩いて持ってこい。分かったな? 俺に恥掻かせたらただじゃおかねえからよ」
結局、彼の妻がやって来たのは始発が来る少し前の時間だった。もう怒る気力も失った彼女は、深い絶望を抱えた両目で私を確認すると、ぺこっと頭を下げた。今にも首が落ちてしまうんじゃないかと心配してしまう程、肉付きの悪い体だった。
彼は妻から茶封筒に入ったままの金を受け取ると「てめぇ子供をほったらかしてなにしてやがる!」と怒鳴る。そして片手を振りあげて彼女を追い払うと、何事もなかったかのように戻ってきた。親指に唾付けて封筒に入った千円札の束を確認し、満足気に笑った。
「アイツは要領の悪い女で、働きに出してもたったこれっぽっちしか稼がねぇ。あんなんは死んだほうがいいんですよ」
封筒に入った札を半分くらい取り出すと、若大将に押し付けて「釣りはいらねぇぞ」と言った。若大将は顔を青くしながら「いえいえ。こんなにいりませんから」と言って、実際の金額よりも少なく請求していた。
高田馬場駅で彼とは別れることになった。また別の場所で飲み直すのだという。
「あ~あ、良い気分だぁ」
これから通勤しようとするリーマンの中で、歌うように言った。
その時、
彼の隣で電車を待っていた男の子が、誰かに押されて転がった。鞠のようにころころと、電車の前に飛び出した男の子。彼はカッと目を見開くと、黄色い線を踏み越える。しかし足が縺れてしまって無様にこけた。顔面を点字誘導路に打ちつけて鼻血を噴出させる。男の目の前を、電車が無慈悲に通過した。男はまるで狂ったように泣き叫ぶと、ポケットに入っていた茶封筒を破り捨て、携帯電話をたたき割り、髪を掻き毟りながら絶叫する。
「なんで俺じゃないんだ!?」
--------あとがき-----------
これを提出したいと思います。
タイトルの〈透明アンサー〉は曲から頂いたって言うのと、
人間の本質って言うのは見抜けないんじゃないかなぁという諦観から、こんな名前にしてみました。
着想は「罪と罰」から頂いたのですが、結構変えてます。
特にラストで助けるのを失敗するのは、完全なオリジナルです。
彼は「最悪な人間」だったのかというと、そうじゃありません。
僅か1ミリくらいは、善良な面を残していました。
でもそれは子どもを助けるために走りだしたって所じゃないんです。
彼は自分が居なくなることで、自分の妻子を助けようとしたんです。
自分はどう仕様も無いやつだ。周りを巻き込んで不幸にせざるを得ない。
そんな男が「死に場所」を見つけ、最後の一華を飾ろうとするけれども、上手くいかない。
そんなのを狙って書いてみました。