トゥルー ワイン アプリコット DHMO
パソコン部に出席しようと思ったのは本当に気まぐれだった。でも、川に仕掛けた網に必ず魚が入るように、それは遅かれ早かれ達成される「罠」だったのかもしれない。才人が部長席に着くと、一人の名も知らぬ部員が話しかけてきた。もう一年も放置していたから、きっと知らぬ間に入部したのだろう。彼は挨拶もそこそこに「先輩、最近パソコンを学校へ持ち込んでるらしいですね」といった。
「特別に許されたのよ」
「見せてもらってもいいですか? 開発中のAIが搭載されているんですよね?」
才人は、できれば繭には多くの人とコミュニケーションを取ってもらいたいと思っていた。それが結局、人格の形成には一番の近道だからだ。それが出来ないのは技術的な問題というよりも、才人の口下手が原因だった。濡れ手に粟とばかりに、彼女はPCを起動すると繭をチャットに出させた。繭は顔認識で彼が初対面であることを知ると
>はじめまして。繭です。才人と同じ学校の方?
と質問する。カメラに校章が映ったからこの質問をしたのだろう。
>うん。才人先輩とは友達だよ。
>才人の友達ってことは、僕とも友達だね。
>最近才人先輩は帰りが遅くないかい? 疲れている顔をしている? 家には大きな冷蔵庫がある?
>才人は最近とても疲れているよ。疲れていることもあるね。冷蔵庫は古いのが一つだけ――
才人は今までしたことがない程乱暴にパソコンを閉じると、乱れそうになる呼吸を何とか整え、平静を装いながら「今のはどういう質問?」と彼に尋ねた。彼は「あーあ。繭君が可哀想だ」と、しれっと言いのけて、自分の席に戻ってしまった。
さっきの質問は明らかにおかしかった。普通冷蔵庫があるかなんて聞くか? 彼は何かを知っている。それも、かなり核心に近付いているのだ。警察さえも辿れない足取りを、どうやって一介の高校生である彼が掴んだのか分からない。でも、今の最大の敵は警察ではなくこの男だ。
なんとかして殺すことは出来ないだろうか?
いや、相手は家族と一緒に住んでいる高校生だ。居なくなったら大変な騒ぎになる。それに高校のコンピュータールームじゃ血液は容易に落ちないし、死体を運び出すことだって出来ない。殺すのは無理だ。一見無防備にこちらへ背を向けているように見えるけど、その実、彼は自分に危害を加えられないということを理解した上で油断している。クマノミがイソギンチャクの中で遊泳するかのように。
「……どこまで知ってるの?」
「何の話?」
彼はカチリカチリ次々とページを開いていく。何を見ているのかと思えば、海外の卑猥なサイトだった。こんな真面目な局面でどうしてこんなページを見れるのだろう? 彼はそれを夢中に見ている様子はなく、ただ事務的に、そういった動画や画像をUSBに保存しているようだった。後ろ姿は、公立図書館で本を探しているようにも見える。
私が無線LANを切ると、彼はしぶしぶこちらを向いて「やめてくれないか。そういうの」と言った。
「そういうのって何よ」
「勝ち誇った表情で無線LANを抜くのと、ホームレスをやたらめったらに殺すことだよ」
彼は本当にどうでもよさそうにそんなことを言った。その内容は決して穏やかなものではない。
「どうして私がそんな事してるって思うわけ? 根拠も無しに言ってないわよね?」
「証拠ならあるだろう? ほら、手に持ってる」
「そっちのことじゃないわよ!」
コードを再びコンセントに挿し込むと、彼は安堵の息を吐いた。卑猥な画像を集めることがそんなに重要なことだろうか? 彼は絶対におかしいと思う。もっとはっきり言えば、いかれていると思う。
「死体を持ち去っているのは何かの儀式のためか?」
「優秀な科学者は皆ホームレスを殺して死体を持ち去るって言うの?」
「時と場合によるとしか言いようがないな。水だって飽和すれば危険だ。性質の一部を切り取って議論しても全体像は見えてこない」
彼は飄々と言いのける。
「悠真先輩とは、俺も親しかったんだ。だから、仇討しようって気持ちはよく分かる。恋人だった才人先輩だったら、その気持ちはもっと強いだろう」
「仇討なんかじゃ――!」
「どちらにせよ、人殺しは人殺しだ。悠真先輩を殺したホームレスも、ホームレスを殺す才人先輩も、そこに差はない。人の命を故意に奪ったって事実しか残らない。貴方は繭に聞いたことがあるか? こんな事して欲しいのかって」
彼は一息でそう言い終えると、自分の作業に戻っていった。こんな風に真剣に起こられたのはいつ以来ぶりだろう。小学校に入った時から自分は優等生の仮面を被っていたから、怒声が自分に向けられることなんてなかった。それはまるで、窓の外で吹き荒れる嵐のようなものだと思っていた。
でも、彼は悠真を通して自分のことを真摯に叱っている。彼女は持っているアタッシュケースに視線を落とす。三菱のアプリコットの中に住まうもう一人の悠真に、私は一度足りとも殺人の事を打ち明けたことはない。それは、いくら相手が作り物の人格であれ、彼に否定されるのが怖かったからだ。
家に帰ると、彼女はボストンバッグの中に今まで溜め込んだ死体の一部をすべて詰め込んだ。そしてそれを肩にかけ、銀行へ行き、降ろせるだけの額をすべて下ろして、札束のままポケットに入れた。
>繭、一緒に誰も知らない場所へ行って暮らそう?
>才人。それは君が人を殺したからなのか?
才人は打ち込まれる文字を注視する。どうして彼がその事を知っているんだ? 思い当たったのは、あの男からパソコンを取り返したときの事だ。電源を落とさずに蓋を閉めたから、スリープモードのまま繭は会話を聞いてしまったのだろう。でも慌てる必要はない。データを消してしまえば全て元通りじゃないか。
>才人。少し僕の話を聞いてくれないか? データはその後に消してくれても構わないから。
キーボードを打っていた彼女の手が止まった。
>僕はどうやったって悠真にはなれない。いや、君はどうやったって悠真には会えない。それは目を背けても変わらない、事実なんだ。
>ねえなんでそんな事を言うの繭。あなたは悠真でしょう?
>僕は悠真じゃない、繭なんだ。
カーソルが、いつまでも点滅し続けていた。頬を冷たい物が伝った。血液だと思って舐めてみると、それは雨だった。さっきまであんなに晴れていたのに、いつの間にか空は曇天に覆われていたのだ。彼女はアプリコットが濡れないようブレザーで包んで最寄りの無人駅へと入った。シャワーのように激しく振り続ける雨、濡れたボストンバッグには赤いシミが出来ていた。
つい一年前までは全部上手く行っていたのに、と彼女は思った。轟々と振り続ける雨は暫く止みそうにない。彼女はベンチに座るとケースの腕に額を当てて静かに目を閉じた。瞼の裏に映るのは、ありし日の悠真の姿だった。でもそんな幸せな思い出は、川辺に遺棄された彼の死体で反転する。悠真は些細なコトでホームレスといざこざになり、ドライバーで刺殺された。呆気無く、まるで彼の生きていた十八年間が嘘だったみたいに。
その時、向かいのホームから悲鳴が響いた。老婆が何かを叫んでいる。彼女の視線の先には、地元の小学校の制服を着た少年が倒れている。ホームから落ちたのだろう男の子は、線路に頭をぶつけてピクリとも動かなかった。近くの踏切が音を立てる。もうすぐ電車が来ることをアナウンスが知らせた。誰かいないか、そう思って周囲を見渡すも、駅員の姿は無い。今この事を知っているのは、私と、老婆だけだ。
私は殆ど反射的にホームから飛び降りていた。鞄を全部持ってきてしまったのは、もしかしたら心細かったからなのかもしれない。アタッシュケースを握っていると安心できた。悠真と手を握っているような気がしたから。
「大丈夫!?」
少年に意識は無かった。額には裂傷が走っているが、幸いにして出血は大したこと無い。私は鞄を置くと、ホームにあげようとする。意識のない人間はこれほど重いものだっただろうか? 線路がギシギシと揺れ始め、雨の向こうにフロントライトの灯が見える。電車はこちらには全く気づいていない。この雨だし、仕方がないだろう。
少年をホームへ転がすと、老婆が前かがみになりながらこちらに手を伸ばす。電車は嘘のような速さで迫ってきていた。いつか、悠真とした話を思い出す。それは青梅線に設けられたAIの話だ。ダイヤル調整や人間が感知し得ない情報を制御し、的確な運転をするのだという。もしも私がそのAIをつくっていたのならば、きっと雨の日だって人を感知するシステムを作っただろう。でも、私はこの立場を自分の欲望を発散することだけに使った。これは、その報いのように思えた。
私は老婆を突き飛ばす。折角息子が助かったって言うのに、保護者が上半身が失くなっていたら笑えないでしょう? 時間があるのならば、繭にちゃんと謝りたかったな。
電車はこの世の柵をすべて引き壊すみたいな勢いでホームに入り、停車した。
目を覚ますと、私はある駅で眠っていた。周囲を黄金色の穂麦が覆っており、遠くに海がみえていた。バター色の太陽が温かな光を届けていて、蒼穹はどこまでも続く。線路はどこまでも続く。
不思議と焦る気持ちはなかった。電車は移動するための手段で、駅は通過点。そんなふうに考えていたのだけれど、ここにならばいつまでもいたって良い気がしてきた。どこからかワインの匂いが漂う。清々しい葡萄の匂い。
少し眠ろうか。私は眼をつむるとアタッシュケースに頬を摺り合わせるようにして眠りについた。
--------感想---------
とりあえず三題消費! トゥルーはトゥルーエンドって事で一つ……。
勢いで書ききって合計二万八千文字。
これからエピローグを付ければ3万文字くらいにはなる。
ってことで改稿して江古田文学賞へ出します。
いやーせっかくのブログ企画だし? これで
くぅ~疲れました! で占めるのはなんか勿体無いじゃん?
ってことで、第一章からを賞のために推敲して一本の大きなモノガタリにして出してしまおう
って思ったわけですよ。
ちなみに江古田文学賞は賞金五十万の賞なので、受賞したら書籍化します。
割とポテンシャルの高い物語だと思うから、ここからはいかにしてこのお話をつなげていくかって所ですね。