千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」でおこなわれた講演会、
『発掘された出雲の神々の世界』
を、いつもの相方と聴きに行ってきました。
当日の講演会資料。
「出雲大社で発掘された柱の遺跡」と、一緒に巫女さんの写っている写真は、
かなり有名ですよね~
講演は、島根県古代文化センターの松本岩雄氏を講師に、
出雲における数多くの発掘の成果から、
古代の出雲の特徴と、出雲大社の昔の姿を探っていこうというもので、
大きく以下の2つのテーマに沿って話が進められていきました。
・弥生の青銅祭器
・出雲大社で発掘されたもの(出雲大社の昔の姿)
「弥生の青銅祭器」については、おもに、
荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡で大量に発掘された銅剣・銅鐸を調査し、
形状等を九州や近畿のものと比較し、共通点や相違点を考察することで
それぞれの文化圏のつながりなどを考察する、といったような内容でした。
また、「出雲大社で発掘されたもの」については、おもに、
大社境内で発掘された巨大な柱について、
炭素年代測定法や年輪年代測定、同時に発掘されたモノによる
考古学的年代測定などで年代調査をおこない、
古い文献(「金輪御造営差図」の図面や遷宮の歴史など)との比較を通し、
「高さ16丈(48メートル)もあった」と言い伝えられる古代の出雲大社について、
いつ頃に、どこに、どのような大きさのものがあったかのか?などについて
考察する、といった内容でした。
・ ・
『出雲大社は古代(中古)には高さ16丈(48m)もの巨大な神殿だった』
という言い伝えや、それを裏付けるかのような『柱の直径が3mある図面』など、
「ホントにそんなのあるの?」と言われてしまうような、
古代史のいわゆる『ロマン』の世界を、
考古学的な手法で解き明かしていくという話題は、
非常に興味深いものでした。
また、実際に発掘をされている方の話だったので、
裏話的なものも聞けたりして、これまた面白かった。
(例えば、大社の柱の発掘は、そもそも大社側が
「祭礼準備室」なるものを地下に作ろうとして
掘り始めたらなんか出てきたので、工事を待機させて発掘調査を始めたら
思いのほか重大なものが出てきたということで、
発掘調査期間は一月、二月と延び、結局工事は中止になって、
現場事務所まで作って待機していた鴻池組?さんは
追い返されてしまった、など。)
ということで、非常に有意義な話を聞いて帰ってきました。
なお、この講演は、同博物館での企画展示
「日本の神々と祭り ~神社とは何か?~」
に関連して行われたもので、
その企画展示は、2006年3月21日(火)~5月7日(日)開催。
これまたきょうみぶか~い!ヽ( ´ー`)ノ
是非行かねば!
・ ・ ・
それにしても驚いたのは、会場の盛況ぶり!
数百人は入るだろうって感じのホールが、30分前にもう満席・・・!
入れなかった人は、別途準備されたガイダンスルーム(講義室みたいなところ)に
案内されて、自分たちもそっちに行ったのですが、
こちらも、多分100席くらい在ったと思うけど、満員になりました。
いつもこんななのか・・・?
あと、講演を聴きに来てる人々は、ほぼ100%、ご高齢の方でした。
50代がスタートライン、みたいな感じ(;´Д`)
自分たちは、確実に最年少でした。。。
(ちなみに、30台前半ですが。。。)
せっかくこういう有意義な話は、もっと若い人が
聴かないといけないんじゃないかなあと思った。
・ ・ ・
・ ・ ・
あと、せっかくなので、講演の内容メモ。
・荒神谷遺跡で発掘された銅剣は、358本。
それまで日本全体でも、発掘された銅剣の数は約300本だったので、
非常に大きな発見。
・銅剣の近くで別途銅鐸と銅矛が発掘されているが、
銅鐸と銅矛が一緒に出土することはこれまで無かった。
・銅鐸については、近畿地方のものとの類似性があるものがあり、
近畿地方とのつながりが考えられる。
(“外縁付紐式(がいえんつきちゅうしき)”のものが、近畿製?
それより古いもの、また近畿製で無いものも有り。)
・銅剣・銅矛については、北九州との類似性があるものがあり、
北九州地方とのつながりが考えられる。
(銅剣は、“えぐれ”の位置に特徴がある。
出雲製と考えられるものには、絵のところに“×”(しめ)の
模様がほられていて(荒神谷では343本)銅鐸にも彫られている)
・荒神谷から12年後、加茂岩倉遺跡で、銅鐸39個が発見される。
それまで日本全体でも300本台しか発見されていなかったので、
これも、大発見だった。
1箇所で発掘された最大数も、それまでは24個。
・銅鐸は、“ひれ”を垂直に立てた状態で発掘された。荒神谷と同じ。
・丁寧に「埋められている」
・大きいの20個の中に、小さいのが入る形で(こちらは19個しか見つからなかったが、
何かで欠けた可能性がある)、合計39個。
・流水紋と袈裟襷紋が、畿内(河内、大和)との類似
・銅鐸は、「弥生時代の農耕祭祀」に使われていたと言う説があるが、
そうであれば、その後伝承されたりしていてもいいものだがそういう形跡が無い。
どうもそうではないのではないか。
・出雲大社は、明治以降の呼び方で、それ以前は杵築大社(きづきのおおやしろ)。
・出雲大社の本殿の造りは、「心の御柱」の周りを正方形に8本の柱が取り囲む「大社造り」で
出雲地方独特の造り。現在の社殿は、延享元年(1744)から。
それ以前は、今よりも大きい社殿が建っていたといわれているが、
実態は定かではない(なかった)
例)・『口遊(くちずさみ)』(10世紀)の記述
『雲太・和二・京三』から
(出雲大社が一番大きい。次が奈良の大仏殿(15丈)、その次が京の太極殿)
・『金輪御造営差図』(千家尊祐氏造。『玉勝間(本居宣長)』にも記載)
柱の直径1丈(3メートル)、引橋1町(約109メートル)の巨大神殿の記述
・1999年、本殿地下を故事で掘り下げたとき、遺構が出てきたため
発掘開始。
・発掘により、3本の太い木を束ねた巨大な柱の遺構が3つ発掘された。
昔の社殿の“心御柱”“宇豆(うず)柱”“南東側の柱”の3つに推定される。
・発掘されたものと「金輪御造営差図」とを比べると、
柱の角度や柱間の距離が微妙に違うため、
「御造営図」は、発掘された柱より振りか、もしくは記憶に頼って描かれたための違いか。
どちらにしても、「ばかげた図面」と言われていたものが、「ばかげた」ものでは
無くなったことは確かである。
・年輪年代測定法が、木の特性により使用できなかったため、
炭素年代測定法により、心御柱・宇豆柱は1200年代のものと考えられる。
・同時に発掘された土器の考古学的年代は、12世紀後半~13世紀
・文献を調べると、“宝治2年(1248)の遷宮”というものがあり、これが該当すると考えられる。
・柱の遺構などを元に、何人かの建築家に復元図を書いてもらったが、
人それぞれの大きさ。
つまり、「16丈」の社殿があったと(すぐ言いたくなるが)単純にはいえない。
なお、H18年度に新しくできる島根県の「出雲古代歴史博物館」には、
そのいくつかの案の模型を(一つに絞らず、全部)展示するので、
皆さんの目で見て考えて欲しい。
・出雲地方に独特の建築様式である「大社造」(“9本柱”)と同様の遺構は
ほかに無いのか
↓
「青木遺跡」(8世紀後半~9世紀のもの)、三田谷遺跡、田和山遺跡、など。
・田和山遺跡では、山頂の「9本柱」の遺構を取り囲んで守るかのように(時代が違うが)、
弥生の遺跡(集落)がまわりにあるような空間構成になっている。
9本柱の遺構(の場所)は、山頂とうこともあり、何か特別な意味があった?
(※注:すみません、この辺私の記憶かなりあやふやです・・・)
講演後、司会の方のコメント(お名前失念・・・関係者の偉い方のはずだが・・・)
・今回の話でも、考古学者の方は本当に慎重に調査・考察を進めているんだと感じました。
・銅鐸は、整然と埋められている状態で発掘されるなど、
「わざと埋められている」ように思う。つまり
“のこしておいてはいけない理由があった”、と・・・
講演後、質疑応答
Q出雲の社殿は、中央やその他との違いをかたくなに守っているように思う。
やはり、中央との差別化を図る意図が働いていたのだろうか?
Aそうではないかという気がします。
Q荒神谷の銅剣・銅鐸類は、山の斜面に埋められていたが、
農耕祭祀ではないということで、出雲ではあばれ川として恐れられていた
「斐伊川」を鎮める為のものだったのでしょうか?
A斐伊川は確かに氾濫により流路を頻繁に変えていましたが、
荒神谷の近くまで来たということはないようです。
ただ、何らかの関係はあるかもしれません。
(※注:この辺もちょっと私の記憶かなりあやふや・・・)
とりあえず以上で・・・
聞き取り間違い等はご容赦を・・・(修正指摘歓迎。随時直すかも・・・)
『発掘された出雲の神々の世界』
を、いつもの相方と聴きに行ってきました。
当日の講演会資料。
「出雲大社で発掘された柱の遺跡」と、一緒に巫女さんの写っている写真は、
かなり有名ですよね~
講演は、島根県古代文化センターの松本岩雄氏を講師に、
出雲における数多くの発掘の成果から、
古代の出雲の特徴と、出雲大社の昔の姿を探っていこうというもので、
大きく以下の2つのテーマに沿って話が進められていきました。
・弥生の青銅祭器
・出雲大社で発掘されたもの(出雲大社の昔の姿)
「弥生の青銅祭器」については、おもに、
荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡で大量に発掘された銅剣・銅鐸を調査し、
形状等を九州や近畿のものと比較し、共通点や相違点を考察することで
それぞれの文化圏のつながりなどを考察する、といったような内容でした。
また、「出雲大社で発掘されたもの」については、おもに、
大社境内で発掘された巨大な柱について、
炭素年代測定法や年輪年代測定、同時に発掘されたモノによる
考古学的年代測定などで年代調査をおこない、
古い文献(「金輪御造営差図」の図面や遷宮の歴史など)との比較を通し、
「高さ16丈(48メートル)もあった」と言い伝えられる古代の出雲大社について、
いつ頃に、どこに、どのような大きさのものがあったかのか?などについて
考察する、といった内容でした。
・ ・
『出雲大社は古代(中古)には高さ16丈(48m)もの巨大な神殿だった』
という言い伝えや、それを裏付けるかのような『柱の直径が3mある図面』など、
「ホントにそんなのあるの?」と言われてしまうような、
古代史のいわゆる『ロマン』の世界を、
考古学的な手法で解き明かしていくという話題は、
非常に興味深いものでした。
また、実際に発掘をされている方の話だったので、
裏話的なものも聞けたりして、これまた面白かった。
(例えば、大社の柱の発掘は、そもそも大社側が
「祭礼準備室」なるものを地下に作ろうとして
掘り始めたらなんか出てきたので、工事を待機させて発掘調査を始めたら
思いのほか重大なものが出てきたということで、
発掘調査期間は一月、二月と延び、結局工事は中止になって、
現場事務所まで作って待機していた鴻池組?さんは
追い返されてしまった、など。)
ということで、非常に有意義な話を聞いて帰ってきました。
なお、この講演は、同博物館での企画展示
「日本の神々と祭り ~神社とは何か?~」
に関連して行われたもので、
その企画展示は、2006年3月21日(火)~5月7日(日)開催。
これまたきょうみぶか~い!ヽ( ´ー`)ノ
是非行かねば!
・ ・ ・
それにしても驚いたのは、会場の盛況ぶり!
数百人は入るだろうって感じのホールが、30分前にもう満席・・・!
入れなかった人は、別途準備されたガイダンスルーム(講義室みたいなところ)に
案内されて、自分たちもそっちに行ったのですが、
こちらも、多分100席くらい在ったと思うけど、満員になりました。
いつもこんななのか・・・?
あと、講演を聴きに来てる人々は、ほぼ100%、ご高齢の方でした。
50代がスタートライン、みたいな感じ(;´Д`)
自分たちは、確実に最年少でした。。。
(ちなみに、30台前半ですが。。。)
せっかくこういう有意義な話は、もっと若い人が
聴かないといけないんじゃないかなあと思った。
・ ・ ・
・ ・ ・
あと、せっかくなので、講演の内容メモ。
・荒神谷遺跡で発掘された銅剣は、358本。
それまで日本全体でも、発掘された銅剣の数は約300本だったので、
非常に大きな発見。
・銅剣の近くで別途銅鐸と銅矛が発掘されているが、
銅鐸と銅矛が一緒に出土することはこれまで無かった。
・銅鐸については、近畿地方のものとの類似性があるものがあり、
近畿地方とのつながりが考えられる。
(“外縁付紐式(がいえんつきちゅうしき)”のものが、近畿製?
それより古いもの、また近畿製で無いものも有り。)
・銅剣・銅矛については、北九州との類似性があるものがあり、
北九州地方とのつながりが考えられる。
(銅剣は、“えぐれ”の位置に特徴がある。
出雲製と考えられるものには、絵のところに“×”(しめ)の
模様がほられていて(荒神谷では343本)銅鐸にも彫られている)
・荒神谷から12年後、加茂岩倉遺跡で、銅鐸39個が発見される。
それまで日本全体でも300本台しか発見されていなかったので、
これも、大発見だった。
1箇所で発掘された最大数も、それまでは24個。
・銅鐸は、“ひれ”を垂直に立てた状態で発掘された。荒神谷と同じ。
・丁寧に「埋められている」
・大きいの20個の中に、小さいのが入る形で(こちらは19個しか見つからなかったが、
何かで欠けた可能性がある)、合計39個。
・流水紋と袈裟襷紋が、畿内(河内、大和)との類似
・銅鐸は、「弥生時代の農耕祭祀」に使われていたと言う説があるが、
そうであれば、その後伝承されたりしていてもいいものだがそういう形跡が無い。
どうもそうではないのではないか。
・出雲大社は、明治以降の呼び方で、それ以前は杵築大社(きづきのおおやしろ)。
・出雲大社の本殿の造りは、「心の御柱」の周りを正方形に8本の柱が取り囲む「大社造り」で
出雲地方独特の造り。現在の社殿は、延享元年(1744)から。
それ以前は、今よりも大きい社殿が建っていたといわれているが、
実態は定かではない(なかった)
例)・『口遊(くちずさみ)』(10世紀)の記述
『雲太・和二・京三』から
(出雲大社が一番大きい。次が奈良の大仏殿(15丈)、その次が京の太極殿)
・『金輪御造営差図』(千家尊祐氏造。『玉勝間(本居宣長)』にも記載)
柱の直径1丈(3メートル)、引橋1町(約109メートル)の巨大神殿の記述
・1999年、本殿地下を故事で掘り下げたとき、遺構が出てきたため
発掘開始。
・発掘により、3本の太い木を束ねた巨大な柱の遺構が3つ発掘された。
昔の社殿の“心御柱”“宇豆(うず)柱”“南東側の柱”の3つに推定される。
・発掘されたものと「金輪御造営差図」とを比べると、
柱の角度や柱間の距離が微妙に違うため、
「御造営図」は、発掘された柱より振りか、もしくは記憶に頼って描かれたための違いか。
どちらにしても、「ばかげた図面」と言われていたものが、「ばかげた」ものでは
無くなったことは確かである。
・年輪年代測定法が、木の特性により使用できなかったため、
炭素年代測定法により、心御柱・宇豆柱は1200年代のものと考えられる。
・同時に発掘された土器の考古学的年代は、12世紀後半~13世紀
・文献を調べると、“宝治2年(1248)の遷宮”というものがあり、これが該当すると考えられる。
・柱の遺構などを元に、何人かの建築家に復元図を書いてもらったが、
人それぞれの大きさ。
つまり、「16丈」の社殿があったと(すぐ言いたくなるが)単純にはいえない。
なお、H18年度に新しくできる島根県の「出雲古代歴史博物館」には、
そのいくつかの案の模型を(一つに絞らず、全部)展示するので、
皆さんの目で見て考えて欲しい。
・出雲地方に独特の建築様式である「大社造」(“9本柱”)と同様の遺構は
ほかに無いのか
↓
「青木遺跡」(8世紀後半~9世紀のもの)、三田谷遺跡、田和山遺跡、など。
・田和山遺跡では、山頂の「9本柱」の遺構を取り囲んで守るかのように(時代が違うが)、
弥生の遺跡(集落)がまわりにあるような空間構成になっている。
9本柱の遺構(の場所)は、山頂とうこともあり、何か特別な意味があった?
(※注:すみません、この辺私の記憶かなりあやふやです・・・)
講演後、司会の方のコメント(お名前失念・・・関係者の偉い方のはずだが・・・)
・今回の話でも、考古学者の方は本当に慎重に調査・考察を進めているんだと感じました。
・銅鐸は、整然と埋められている状態で発掘されるなど、
「わざと埋められている」ように思う。つまり
“のこしておいてはいけない理由があった”、と・・・
講演後、質疑応答
Q出雲の社殿は、中央やその他との違いをかたくなに守っているように思う。
やはり、中央との差別化を図る意図が働いていたのだろうか?
Aそうではないかという気がします。
Q荒神谷の銅剣・銅鐸類は、山の斜面に埋められていたが、
農耕祭祀ではないということで、出雲ではあばれ川として恐れられていた
「斐伊川」を鎮める為のものだったのでしょうか?
A斐伊川は確かに氾濫により流路を頻繁に変えていましたが、
荒神谷の近くまで来たということはないようです。
ただ、何らかの関係はあるかもしれません。
(※注:この辺もちょっと私の記憶かなりあやふや・・・)
とりあえず以上で・・・
聞き取り間違い等はご容赦を・・・(修正指摘歓迎。随時直すかも・・・)