静風徒然ブログ

心の赴くままに、鳥のように、虚無の世界!

信仰するということ

2014-07-20 05:17:31 | Weblog
昨日はせっかくの夫婦での定例外食ドライブの楽しい時間を
雪の浦で満喫したかったのだが、近くの寺の酩酊僧が途中から来店し、
「お前は何の宗教か?南無阿弥陀仏と唱えているのか?」と食いかかる。
我が家は浄土真宗に席はあるものの、個人的には行脚のときは
真言の喝や明暗の喝を唱えるし、京都明暗寺からは明暗号も頂戴している。
教会では賛美歌も歌うし、創価学会のみなさんにも職務上大変お世話になった。
尊敬する尺八の恩師は「天照皇太神宮教」の敬虔な信者だったし、
もちろん禅宗も、日蓮宗も大好きです。
それぞれに自分の信じる道を信仰している方々を皆、すばらしいと感じている。
他人に貴方の信仰はおかしい、ということはない。
いきなり「南無阿弥陀仏と唱えんか」と酩酊して言われても、いい気持ちはしない。
皆懸命に雪の浦の町を良くしようと励んでいるときに、ひとり酒に酔って
初めて出逢う人につまらない暴言を浴びせかける僧侶、
もっと自分を磨き、尊敬される人間になっていただきたい!
せっかく大好きな雪の浦だったが、急に行くのが嫌になりかけた。
席を同じくされていた方の一人が私達が失礼するとき、わざわざ出てこられ、
近寄り、「今後ともよろしくお願いします」と握手をされた。
そうだ!! 町民一人一人がそうして来訪者に心から接しているんだ。
なにも「南無阿弥陀仏と唱えろ」と酩酊僧に強制される必要はない。
見たところ、あなたに一番、変わっていただきたい!! 
美しい雪の浦のために、、

書道

2014-07-15 19:47:59 | Weblog
小さい頃から書道が好きだった。歌子へのラブレターはすべて筆で和紙に書いた。
今思えば懐かしい。FB友が書道に取り組んでいる姿を見ると、羨ましい!
本来私もそうあるべきなのだが、、、喧騒にまみれて、我を失っていないか?

2014-07-08 11:12:48 | Weblog
もう去年の8月の話になりました。
まりあちゃんから「先生、褌できたよ!私の手縫いだよ!」と,
「おお!いいね」と即座に購入、
自宅に戻って、70歳にして初めて褌をつけての写真、撮ってみました。
(シェア厳禁でお願いします。見るだけ!)


祝福されて巣立つか? 離反するか?

2014-07-06 18:09:46 | Weblog

昔の記事の中から、2,3最近の思いに通じるところがあるものを
拾ってみました。

師に反発する! H20.6.26

習いたての頃は全てが新鮮で、師の言葉の一つ一つに共感を覚え、追従した。
その甲斐あり、めきめきと腕を上げる。器用で熱心な人ほどそのスピードは速い。
だが次第に「私はもう上達した」と錯覚を始める。師に近づいた、と、、
やがて師の言葉に異論を感じ始める。注意されると反発する。

そのときが「巣立ちのとき」、
ひょっとすると、喜ばしい時なのかも知れない。
お互いにそれは解る。以心伝心である。

その時期が、その人の人生のレベルを決める。「一事が万事」である。
学業にしても、企業生活にしても、社会生活にしても、
単に「遊び」では済まされない。
もっと上のレベルの人間を目指したい、と思うか?、
もうこれでいいと思うか?

常に「人生の師」を持ち、自分を磨き続けられれば、ありがたいのだが、


ブログに振り回される! H20.6.11

ある知り合いの女性が遂にブログを閉じるという、
前にも閉じます、といってたように記憶している。
複雑な心境は充分理解できる。

彼女の言葉を借りればこれまでの自分の人生は
「ブログを他人に読んでもらうための毎日だった」と反省、
一度ブログから離れて、自分本来の行き方を見出したい、と

私自身も似たような心境だ。
だから掲示板は辞め、コメントを期待せず、ただ書き綴ることにしている。

ただ一つ言えることがある。「見られているから、頑張れるんだ!」と、
「同行二人」、常に仏陀とともに生きられれば、と願う。  


覆水、盆に帰らず  H20.9.04

今年になって不快な事件が続いた。そしてまた今日も、、
どうも裏切りを犯す人間は、繰り返すもののようだ。
人を平気で裏切り、不誠実を繰り返す。

いずれも信義さえあれば、事前に耳打ちがあってよかった話、

信頼は失われ、悲しみは深まるが、すべては自然の成り行き任せ、
なるようにしかならない。

65歳にもなって、変に媚を売るようなことはしたくない。
まして嘘はつきたくない。
正直に嫌なことは嫌、と素直に相手に伝えればいい。
子供でも大人でも姑息なことをしたら「何してんだ!」と声を荒げていい。
それをまともに糾弾され、逆恨みをするようなら、これも仏の暗示だろう。
すべて仏縁、なすがまま、良寛禅師の「お前はそれでちょうどいい」

曖昧さは罪

2014-07-03 08:19:57 | Weblog
                        静風のホームページ  こちら
テレビで蓮舫の特集があったことがある。
幼少からの両親の教えは「自分の意思を明確に伝えること」だったらしい。

ある日、父親が「今日の夕飯は何がいい?」と尋ねたら、
蓮舫が「何でもいいわ」と応えたという。
そうしたらその日の夕飯はなかったらしい。
父親にすれば「何を食べたい、食べさせて!」と応えて欲しかったのだろう。

私の周りでもその種の事件はよくある。
喜んでくれると思って、イベントに一緒に出ない?と誘っても、
「ええ、ありがとうございます」といって喜びを前面に出す前に、
「まだ予定がわからません」とか、いろいろと口上を並べる方がいる。
「どうでもいい、出られたら出ます」程度の応対には難儀する。

不確定な方を選ぶわけにもいかず、他のメンバーを選んで、
リハーサルを重ねていると、イベントの直前になって、
「出るつもりでいました」と、困らせる。

「誘ったけど、今回は出しません」と明確に伝えなかったことが一番悪い。
反省はするのだが、この曖昧さは日本人全般の特徴なのかも知れない。

「ええ!!いいですか?嬉しい!是非お願いします!」と応えてもらえば、
誘う側も嬉しい。そして終わってから全員で参加の喜びを共有したいものだ。

数年前、妻の会のイベントで、メンバーに演奏後の後片付けと反省会への参加を
打診したところ、全員が口を揃えて「私たちは残れません」と答えたという、
歌子は落胆し、一晩泣きくれたそうだ。朝からそのことを聞いた。
それがみんなの本音だったのだろう、残れないのが、、
それぞれに家庭にはそれぞれの事情はある。
「そんな事情なら、イベントの参加はこれからやめれば?」と答えたのだが、、

病いを押して歌子が残って後片付けをする姿は、想像するだけで、可愛そうだ!
そんなストレスが溜まると、また倒れる!!