静風徒然ブログ

心の赴くままに、鳥のように、虚無の世界!

重症病棟を見舞うとき

2012-07-28 08:48:03 | Weblog

平成24年7月26日、川棚・長崎医療センター8号病棟での慰問演奏
実は今回の慰問演奏の条件として「入所者を撮影しない」ということが
事前に約束されていたのでした。これは慰問演奏の常識です。
私も100箇所以上の施設をこれまで慰問し、入所者のプライバシーには十分注意し、入所者は後ろ向きの写真をアップするように配慮してきてきたつもりでした。

皆さんに早く報告してあげたい一心で、持参のカメラで撮影した少ない写真の中から
レポートをその日のうちにと夜遅くまで頑張り、まとめあげたのでした。
多くはいつも通り目隠しを施して、アップしたのですが、1枚だけ小さくですが
入所者の顔が見えるものが含まれていたのです。

翌日指摘を受け、慌てて自分のサイトは目隠しを施し、修正したのですが、
未修正の写真が既にほかのサイトで転載されていることがわかり、大騒ぎになりました。
多くの読者に既に見られてしまっていたのでした。

この種の重傷者が入所している施設の慰問で注意することは写真だけではありません。重症患者に音楽を聴かせるために、ベッドの移動、聞いている間の呼吸器の補助、
また終われば病室への移動、と看護婦さんのご苦労は大変なのです。
集まっているのにじっと待たせる、ということは許されません。
もちろん音楽が全員好きなわけではありません。
部屋で静かにしていたい方もいるのです。
音量をもう少し下げてください、としきりに言われる看護婦さんの気持ち、
分かってあげなければなりません。
ついつい演奏に夢中になり、マイクに近づく自分に「いけない」と叱咤したのでした。

帰り際に看護婦さんから「部屋にいてビデオでコンサートが聞けるんですよ。
、その方が泣いておられました。嬉しかった、と」と知らされて、救われました。

松尾栄次さんが書かれているブログ、実は手は使えません、口に機械をくわえて、
1字1字、われわれの10倍もの時間と労力を使って懸命に思いを綴っているのです。

下の写真は集まったみなさんに月琴を聞いていただく私、
お龍さんが龍馬伝の最終回で弾いた「算命曲」、算命とは占いのこと、
この直後に龍馬は暗殺されました。


全国のガンと闘う皆さんへ希望の光を

2012-07-26 06:57:13 | Weblog
骨肉腫と診断され、生きたいために片足を切断したが、すでに肺に転移し、
余命半年と宣告された1人の格闘家、
家族は涙にくれ、人生に絶望し、
せめて自分の人生の最後はリングの上でと最後の試合に望んだ。片足で!

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ところが試合のあと、何とガン細胞は消えていたのだ。
賢明に汗水を流した数ヶ月のあいだに、体中の血が湧き踊り
ガン細胞を消し去ったのだ。これが奇跡でなくて何だろう。

その串間政次さんが川棚まで駆けつけてくれることになるかも、と
泉兵衛さんから昨夜連絡が入った。
すごいことだ。これが絆だ!!


素晴らしい日本を創ろう

2012-07-14 19:09:56 | Weblog
今こそ国家再興のチャンス

長崎市は原爆で市の人口24万人(推定)のうち約14万9千人を失い、
建物は約36%が全焼または全半壊した歴史がある。
しかしその悲しみを乗り越え、市民が手を取り合って現在の美しい町並みを創生した。
私自身も被爆者の一人であり、白血球が健常者の半分しかない。

長崎に限らず広島も東京も、戦争によって都市は壊滅状態に陥ったが
日本人は奇跡の復活を遂げた。
阪神大震災にしても同じである。災害の後に国民がこぞって支援し、
住民は悲しみをこらえて懸命に復興に努力した。
そして略奪や事件はほとんどおこらず励ましあって苦難を乗り越えた。
世界の見本になった「美し国・日本」だった。

だが今回の東日本地震災害は尋常ではない。想定外の大津波だった。
でも冷静に考えれば、明日にも次の試練が襲うこともある。

ホルムス海峡が戦時下におかれ、石油が輸入できなくなるかもしれない。
それも想定外ですか? そうなったら日本中真っ暗ですよ!
石炭はもう既に枯渇している。
レアアースと同じように恐らく出炭国の独占市場になる。
風力発電の多くは落雷で停止している。
太陽熱はさらに災害に弱い。発電量も小さく課題は大きい。

さて、日本の電力はどうするのか?
今本当に日本という国を自分で守れるのは日本人の「英知」だけだ。
戦争でなくても日本を滅ぼすことは簡単なこと、
まして国民が自分で自殺するようなことは、してはならない。
どうしたら子孫へ「世界に誇れる日本」を継承できるか?

国としてのエネルギー政策を一刻も早く纏め上げなければならない。
そしてその先導を電力業界の皆さんに担って貰わなければならない。

私達一人一人が冷静になって、今賢明に、本当はどうすべきか、を
考えなければならない。
値上げも反対、節電も反対、電力会社はけしからん、ではなくて
みんな仲間じゃないか、他人が悪いのではない。

今回のような災害はいつでもやってくる。
こんなとき結束するのが日本人のいいところだったはずだ。

これからの日本のあり方をもう一度、見つめなおそう。
ここ数年日本人は「幸福ぼけ」して、福祉、生活補償ばかりを声高に叫び、
「生活保護者」の増大、「子供手当て」や「高速道路の無料化」
「農業補償」などに莫大な予算が費やされ、

一方ダムは作らせない、港湾予算は削減し、防波堤は作らせない、
防災予算を削減し河川堤防、治山工事をしない、トンネルの補強工事をしないなど、
命を守る手当てがあまりにもおろそかにされてきた。
今回の豪雨災害にしてもまさにそのつけが回ってきた。

国民もそのような福祉を叫ぶ候補者に拍手を送り、一票を投じてきた。
本当にこれでよかったのだろうか?

ちょっとした災害で堤防が壊れ、道路が寸断され、公共の施設が倒壊し、
通信手段が失われ、多くの生命が失われている現状を黙認できる状況ではない。

今回の東北大地震が日本人に教えることは多い。
そしてこの急場に国民が団結し、国民一人一人が脆弱な思想を捨て、
これからの日本国のあるべき姿に気付けば、
世界に誇れる国家に生まれ変わるチャンスになるかもしれない。
国を守る、命を守る、こつこつと働くということに目覚めなければならない。

今、日本人が気づかなければ日本国は壊滅するだろう。
国家に過度な要望のみを突きつけ、脆弱にすることは、最終的には国民が不幸になる。


日中友好はなるのか?

2012-07-12 10:47:48 | Weblog
いまや尖閣列島で日本と中国は睨み合っている。
もともと領土問題は曖昧にすればするほど、こじれるものだ。
日本人はさりとて、誰も命を落としてまで国を守ろうという人は
今はいない。口先ばかりで理屈をいうだけだ。
どうせアメリカに口を挟んで欲しい、と期待する程度であろう。
戦後周恩来が「日本に戦後補償を一切求めない」という大変大きな温情を
示してくれたことを日本人は忘れてはならない。
日中友好のため、尖閣問題を永久に領土紛争にしない協定が一日も早く
結ばれることを切望する。
竹島もそうだ。日本は譲れるところはもっと堂々と譲ってやればいい。
それで終わりにして真の友好国になることを、私は選びたい。
それが戦争を2度としないと決意した日本の唯一つの国策である。
弱虫と言われていい、世界に誇れる弱虫であれば、
本当に弱虫と言われたくなければ、自分の国土は国民が命をかけて死守すべきだ。

そんな中、長崎では十八銀行を中心に「上海クラブ」を作って、
ずっと昔から日中の友好に務めてきた。
十八銀行の地域奉仕の姿勢には本当に頭がさがる。
現役時代から私は三菱重工業にももっと長崎のために骨を折って欲しいと
願っていたのだが、それは多くの長崎人が願っていたことだった。
私はその思いに関連会社の一員として報いようと、
それなりに励んだつもりである。
写真は上海クラブが主催した「ナイトクルージング」で
来日したばかりの留学生琵琶奏者の劉丹さんを皆さんに紹介する私、
このときは留学生二胡奏者の季文馨さんもお母さんと一緒に参加、
それに留学生ヤンゴ踊り指導者の張超さんもいた。
留学生と仲良くしながら「長崎らしい観光演出」をしようと
私がもっとも励んでいた頃である。
左に座っておられるのが、もう傘寿になられるという村木さん、
いつも地域奉仕の先頭に立っておられる、
私がもっとも尊敬する長崎人です。


今や火力発電の時代ではない

2012-07-08 18:43:06 | Weblog

今回の福島火力発電所の事故以来、ノーモア原子力の声が全国的に高まっています。
たしかに我々は原子力の恐ろしさを少し甘く見ていたようです。
原爆被爆者でもある私たちが最初に声を荒らげてもいい話ではあります。
しかし一方世界中の火力発電による二酸化炭素の垂れ流しによる地球の汚染、
温暖化をこれ以上広げてはならない、という深刻な地球人の命題もまだ解決は
されていません。
原子力がだめだから、火力発電で凌ぐというのが一番悪い形ではないでしょうか。

太陽光や地熱、風力などの研究はまだまだ緒についたばかり、
とうてい代替えのエネルギーにはなり得ません。
日本人は今賢明に自分の周りを観察し、答えを出さなければいけません。

長い将来の話は別として、今国際競争力をなくしては日本人は生きてはいけません。
電力不足で工場は止まります。国民は働く場を失うことになるのです。
他人ごとのように思っているかもしれませんが、すぐ近いうちに貴方自身の問題になるのです。

原子力に代わる発電のシステムが見つかるまで、慌てず賢明に電力確保の方策を
模索するしかありません。
すくなくとも、原子力がダメだから火力というのは時代に逆行した選択だと思うのです。

原子力に関わる皆さん、どうか日本を世界一の原子力先進国に育て上げてください。
安全確保の技術さえ確立できれば、素晴らしいシステムなのです。
日本なら出来ます。自信を失わず、技術立国日本を目指してください。

電気が発明された時も、自動車が出来たときも、飛行機が空をとんだ時も、
宇宙に最初に足を運んだ時も、最初は危険だったのです。

負けずに挑んだ者しか生き残れない時代がくるのです。
決して負けてはいけません。自信をなくしてはいけません。
日本人の智恵とたゆまぬ努力で、地球を素晴らしい星にできる時がくるまで、


托鉢のご褒美

2012-07-03 16:31:22 | Weblog
少し生臭い記事が続いたので、本来の静風さんに戻ります。「平常心是道」



托鉢慰問演奏を続けていると、それが相手のためでなく、
自分を癒してくれることに気づきます。
そんないつくかのエピソードの中から、3件

その1、心障施設での出来事
精神障害者を収容する施設では、誰でも、いつでも、
ボランティアができるわけではありません。
施設長が私を面接をして、その人格、趣旨を確認してから、
患者のためになるかどうかを確認して、受諾があるわけです。
させてください、とこちらは頼むわけですが、はい、とはならないのです。

平成12年の7月、はじめて島原の山手の方の島原療育センターを訪れました。
会社からコーラスの男性をひとり連れて、妻と3人で伺ったのですが、
はじめに私の尺八、妻の胡弓にあわせて讃美歌を2曲演奏しました。
3曲目に「ウェルナーの野ばら」を唱いだしたとき、
突然1人の男性が奇声をあげ始めました。
演奏しながら困ったなあ、あまり気が乗らないのかなあ、
と心配しながら、次の曲に進みましたが、その声は大きくなったり、
小さくなったり最後まで演奏家にとっては雑音として、あまりよい印象を持たずに、
障害者へのボランティアの難しさを感じながら、1時間にわたる演奏会を終えました。

そして1人の看護婦さんに
「あの人はあまり音楽が好きではなかったようですね」と尋ねました。
そうしたら看護婦さん達が寄ってきて、
「とんでもないですよ、この人は私たちがどんなに声をかけても
もう半年以上も何も答えない、話したがらない人だったんですよ。
私たち毎日看護をしているものはみな驚きました。
あの人が嬉しそうに子供の頃を思い出して大きな声で唱っているのを見て、
信じられないほど驚いたんですよ」といわれました。

みんな子供の頃の自分が好きなんだ。
やさしかった頃の「父さんの顔」が浮かぶ。
あのころは楽しかった。
思い出せば、懐かしく、とても嬉しいんだ!!

托鉢のご褒美(その2)

2012-07-03 16:24:43 | Weblog

托鉢を続けていると、自分がいかにつまらないか、気付かされることが多い。
そんなエピソードの中から、1件

その2、妙連の滝の滝守さま

東長崎の中尾というところに「妙連の滝」というところがあります。
わたしは自分の日々の生活を見直すために、托鉢にでることがあります。
車に乗っておおかたここからここまで、と決めたら車をおりて4時間ほど
コースを托鉢して回るのです。
その日は中尾ダムのそばに車をおいて上流をめざしどんどんと歩きました。
中尾の田舎家を一軒一軒回りながら、最後に最上流の「妙連の滝」に
たどりつきました。
滝とは名ばかりの水道パイプからちょろちょろと水が滴り落ちるような滝でした。
地蔵様が何体かおられ、お賽銭が置かれていました。
私もポケットから小銭をつかみ、地蔵様の前に供え、

1曲献曲をして帰ろうとしたときです。
下の家から女の人の声がかかりました。
「お坊さん、折角ですから上がってください」と。
なにせ初めての托鉢先であり、「実は私はお坊さんでも何でもありません、
虚無僧をまねて自分の修行で回っているものですから、
草鞋を脱ぐことは出来ないのです。
せめて一曲吹かせていただきます」といって吹きました。
そして曲が終わったとき「虚無僧さん、私のお布施です」といって
お金を3000円入れて渡そうとされました。

ただお地蔵さんがいるだけのひっそりとした滝の様子から、
そんなに供物料収入があるとも思えません。
3000円といえば1週間分位の供物料収入ではないかと、感じました。

「済みません、私はサラリーマンで本当はお金に困っている訳では
ありません。お見かけするところ、
あなたはそんなに収入があるわけでもないのにこんな大金を
私に出したら明日からどうして食べるんでか?
後生ですから大事に使ってください」といって固辞しました。

そうしたら「この近くの方はあたしをのたれ死にさせるような方は
一人もおりません。どうか私の気持ちを汲んでこのお金を貰ってください」

私は考えました。
自分達はどんなに裕福になつても、まだお金を欲しがるのに、
この方はお金はぜんぜんないのに、人に施そうとする、
完全に人間が違う、いう通りにしよう、と

いまだに御礼の方法もないまま、いつか「この前の男です」といって
キチンとご挨拶のできる男になりたいものだ、と毎日考えています。

その後、退職して、普通の服装で改めてお訪ねいたしました。
そして二人で楽しく昼食を共にいたしました。


托鉢のご褒美(その3)

2012-07-03 16:23:51 | Weblog
 

その3、保育園児と遊ぶ

島原の友人から頼まれて平成12年、島原市内の白山保育園を尋ねました。
妻と「子供はむつかしかやろね」と話しながらいろいろと選曲を練りました。
「とんぼのめがね」「おおきな栗の木の下で」「七夕さま」など
何曲か練習して乗り込みました。 そしてこどもたちにいいました。
「おじさんとおばさんが1番は演奏するから静かに聞いてね、
2番からみんなが大きな声で唱うんだよ」と、

私は尺八や笛や篳篥やケーナを順々に使い、
妻は胡弓と琴を代わるがわる演奏しました。
1曲演奏が終るたびに「みんな集まれ、弾いてごらん、吹いてごらん」
といえば、行儀良く1列に並んで1人1人、
今済んだばかりの楽器に触わりました。

「さっき触った人は順番だからね、ダメですよ」というと
「ぼく、まだ触ってない」と言って泣き出す子がでる始末。

終わった時にはもう子供達は満足感で一杯でした。
帰りの入り口まで子供達が抱きついて離れませんでした。

あとから園長先生から手紙が届きました。
「尺八と琴の演奏を子供達に聴かせて本当に喜ぶんだろうか、
来て貰っても迷惑にならないだろうかと、とても心配しました。
あんなに子供達が喜ぶとは思っても居ませんでした。」とのことでした。

その1月あと、近くの島原児童館でもやろう、ということで招かれて、
学校帰りの学童たちと、同じように遊びました。

托鉢のご褒美(その4)

2012-07-03 16:22:28 | Weblog
  

その4、吉井中の感動

平成13年12月のことでした。
みぞれの降るこの冬一番の寒さでした。
私たち夫婦は佐世保市を過ぎた頃、
自動車の中からあまりの天候の悪さに、
吉井町の教育委員会の担当者に電話をかけました。
「今日はやっぱりやりますか。天候も悪いし、
お年寄りが体育館では体をこわすのでは、と心配ですが」
すると「いや吉井は大丈夫ですよ、予定通りやりましょう」
とのことで現地へまもなく着きました。

体育館はストーブと暖房を付けてはいましたが、
演奏開始と同時に消します、というのです。
体育館にはお年寄り60名と中学生200名が
ござをひいて待っていました。
さぞかし底冷えもするし足も痛かろう、と夫婦で顔を見合わせました。

「途中で中学生が我慢しきらずにざわめくやろね、短めに終わろうね」
と妻と下打ち合わせをしていよいよ演奏になりました。

何せ中学生を相手にするのは初めてでした。

「みんな、君たちの中には親と仲違いをして口も聞きたくない人が
おるかもしれんけど、みんなはいいなあ!!
私は中学生の時から父さんの会社の都合で下宿生活になって、
高校も大学も親と一緒には過ごせず一人ぽっちだった。
いつも親と一緒に暮らせる人は幸せだなあ、と思っていたよ」

「39才の時、やっぱり人間の幸せは親から ”お前を生んでよかった”
”お前のおかげで幸せな人生を終えることができた”と言って貰うことだと
気づき、都会の会社を辞めて、地元に帰ってきたんだよ。
そして女房と二人で力をあわせて、両親を天国に送ることが出来ました」と
口を切りました。

途中生徒に舞台に上がって貰い、尺八、笛、琴、胡弓の体験教室を
交えながら、1時間半におよぶ厳寒、板張り上での演奏会が終わったとき、
妻が口を切って言いました。

「みんな、有り難う!! きょうは嬉しかった!!
こんなに真剣にみんなに聞いて貰えるなんて、自分は考えてもいなかった。
最後まで真剣に聞いていただいて、本当に、有り難う!!」と。

水上 勉と般若心経

2012-07-03 16:20:04 | Weblog
水上勉著の「般若心経を読む」という本の中に一休禅師と正眼国師の
言葉がたびたび出てくる。
僧は寺にいて事業を営むのでなく、衆生にあって迷いを説き、
行脚をすべきだ、という主張がここそこで出てくる。

一休は尺八を好んで、遊行しており、「空」の象徴的存在の人であった。
また「一切空」「不生不滅」をあらわす言葉として、
正眼国師の言葉が挙げられており、とても気に入っているので紹介する。

善き分別を自慢もせず、喜びもせず、そのまま不生なり、不滅なり
往くも生滅を離れ、還えるも生滅を離れ、食をくい、茶を飲む
鳥の虚空をかけり、雲の風に任せて、さわりなく往来するが如くにして
自由、自在なり

まさに普化禅師の「明暗の偈」
明頭来也 明頭打   暗頭来也 暗頭打
四方八面来也 旋風打 虚空来也 連架打  を思い出す。

この正眼国師も長崎に来て黄檗宗崇福寺の3代、道者超元に師事し、
のちに京都妙心寺の住持となり、当時の日本の宗教界を先導した。
当時の宗教界は後水尾法皇や4代将軍家綱をはじめ、
大名が競って隠元を始めとする黄檗の禅風を学ぼうとし、
五山文化の花を咲かせた。

そんな中で、水上勉が憧れた正眼国師の「平語で説く街頭禅」の教えも
しっかり残されていたのだ。
どこに托鉢しても、誰と会っても、解りやすく「空」を説いたのだ。
まさにそれが、われわれが憧れる「街頭禅」である。
そしてそれは長崎から発信されていた、ということが嬉しい。

写真は静風作の茶杓「千宗旦の夏雲と蒲生氏郷茶杓の写し」