静風徒然ブログ

心の赴くままに、鳥のように、虚無の世界!

野鳥写真家のマナー

2016-03-25 21:46:48 | Weblog
この事実を真摯に反省すべきだと思います。  松林静風



「綺麗な景観はマナーから」 (木村 智美さん 3月23日のフェイスブック投稿より )

路上駐車場禁止、遊歩道に乗り上げて駐車しない、道路の真ん中に三脚を立てて撮影しない
私有地に入らない、ゴミは持ち帰る…  当たり前の事が当たり前ではなくなってます!!
 これからウニ、ヒジキ、フノリなどのシーズンを迎えますが…
黒浜~田の子間にある高浜地区は、軍艦島を一望出来る為、海側に無断駐車が増え
毎年本格的な磯のシーズンはマナー違反の観光客に頭をかかえています。
海藻の集荷場所になる駐車スペースも、地元の人間が使用出来ない状態です。
特に黒浜トンネル付近で毎年多発している事故は無断駐車、路上駐車が多い為に
安全運転してる方が反対車線にはみ出して運転するしかなく、起こるものです。
海に限らず、山や田畑に無断で入る事も同じくです。

野母崎は野鳥のメッカで、最近はバズーカレンズ持った方が増えて来ました。
昨年、私の祖父母家の畑に三脚立てて写真撮ってる3人組がいたので…
何を撮ってるんですか?と話しかけたら… 静に!! 話しかけるな!!! と怒られました。

数年に1度しか見れない鳥が飛来してたらしいのですが、ここは私有地ですよ、と言ったら
舌打ちして帰って行き… とても悲しくなったのを思い出しました。

観光と地元の人達の暮らし…対策も必要です。
まずは一言、きちんと挨拶が交わせるようになるとトラブルも減るのではないかなぁと思います。
どうか1人でも多くの方々に理解して頂けますように…。

エコキュート

2015-10-09 07:49:07 | Weblog
最近電気温水器に変わってエコキュートと称する温水システムが
普及しているが、訴訟が続出しており、1件和解が成立した。

「エコキュート」訴訟で和解 健康被害訴え、隣人らと、
  2013/11/18 21:21

群馬県高崎市の男性(52)が、隣家に設置された給湯器「エコキュート」で
不眠症などの健康被害を受けたとして、隣人に運転差し止めと
機器メーカー、住宅メーカーに計約270万円の損害賠償を求めた。

訴訟は18日、前橋地裁高崎支部(川口代志子裁判長)で和解が成立した。

原告側代理人によると、和解内容は
1、年内に撤去し、
2、別メーカーの給湯器を設置するほか、
3、費用は各メーカーが負担するという。


訴状によると、男性は2009年2月に隣家の給湯器の運転が始まると
音や振動で夜中に何度も目が覚め、頭痛や耳鳴りの症状が出た。
男性の妻は不眠症、自律神経失調症と診断された。
消費者安全調査委員会は男性の申し出を受け、
12年11月からこの給湯器の低周波音や振動と症状との因果関係などを調査している。
機器メーカーは「コメントは差し控えたい」としている。〔共同〕

実は我が家の隣でもエコキュートの設置が計画されており、
しかも睡眠障害の家族を有する我が家の寝室に隣接して計画していたので
設置箇所の変更など善処方をお願いしている。


皆さんが知らない秀吉の素晴らしさ、

2015-08-25 18:16:10 | Weblog
豊臣秀吉については、朝鮮出兵やキリシタン迫害などのマイナスな
歴史的事実を教えられてきたが、このような素晴らしい記録も残されている。


 多くの日本人が奴隷として売りとばされ、哀しい想いをしていた。
これに関して、豊臣秀吉は激怒し、キリスト教の宣教師に対して詰問する。

「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、
多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、
奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。
それらは許すべからざる行為である。
よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に 売られて行った
すべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。
もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在
ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。
予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」

このことがもし放免されていたら
今の日本はアフリカやアジア後進諸国と同じように
奴隷化されていたであろう。

心から感謝したい。

ブータン国王の言葉

2015-08-25 11:03:18 | Weblog
日本という国をこれほどまでに評価してくれているアジアの隣国が
いることに、私達は答え、さらに世界の国々から尊敬される国民に
ならなければならない。相手を正すのでなく、自らをさらに磨く必要がある。
こちら

南京大虐殺の真相

2015-08-25 07:55:41 | Weblog
<「南京大虐殺は自分たちがやった」と告白した国民党少尉>

1月27日に歴史評論がネット(http://www.kdne.net)で流れた。開国少将というベンネームの作者は、外祖父が自分の日で見た南京大虐殺という文章を発表している。「私は小さい頃に、外祖父が抗日戦場から何故逃げ出したのか分からなかった。逃げたことは秘密で、外祖父が死去する前年に、よく雑談の中で何時間も話すようになっていた。外祖父は、妻が早く死去したということだったが、それが逃げた理由ではないだろう。私はある日、やつと外祖父から真相を聞き出した。

彼は四川省の貧農の出身で、小さい頃から武術で鍛えていた。1928年に四川で国民党に捕らえられて兵士にさせられ、 1937年の南京大虐殺前夜に少尉にさせられて、日本軍の猛烈な攻撃を、首都を守れ・国父を守れというスローガンで防衛するよう命じられた。しかし日本軍の進政を食い止めることなど出来ないので、南京城から撤退した。

部隊は列車を何両か手配して、軍用の荷物と食料を積み込んだ。その時に周囲から、一般の民衆が老人や子供の手を引きながら列車に乗り込んできた。大勢が列車の屋根にも乗っていた。日本軍は、すぐ近くまで迫っている。このままでは、国民党の兵士たちは逃げることが出来ない。誰かが、日本軍が来たぞと叫び、国民党指揮官は列車に乗り込んだ民衆に列車から降りろと怒鳴った。

誰も従わないので、指揮官は民衆を銃殺しろと命令を出した。兵士たちは民衆を銃殺することなど出来ないので、互いに顔を見合わせていた。指揮官は兵士たちに、もうすぐ日本軍が来るのだから、民衆は日本軍に銃殺されたことにしたら良いのだと言って、一斉射撃を命じた。あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が溜まったと言う。ここで約1千人の南京市民は、国民党の兵士たちから銃弾を浴びて死んで行った。

国民党の部隊が必死で逃げた後には死体の山が血の海の中に残され、それは日本軍の残虐行為として転嫁された。外祖父は、こんな部隊に残りたくないので、撤退途中に九江で夜陰に紛れて脱走し、長江を渡り武漢で列車を乗り換え、南の小さな山村に逃げ込んだ。

外祖父の記憶では、他の部隊も同様のことをしてきたという。全ての国民党による民衆大虐殺は、日本軍の残虐行為として転嫁されたのである。外祖父は貧農の出身だが、国民党が貧乏人を虫けらのように扱うことに抵抗があつたという。

外祖父は、国民党の軍隊に残っていれば、出世したかもしれない。また抗日戦争で戦死していれば、抗日戦闘英雄烈士との美名で呼ばれたかもしれない。しかし、逃亡する道を選んだ。そして裏切り者という悪名で呼ばれて、経歴を隠し通して逃げ回った。その過去の真実を、外祖父は死ぬ前になって初めて語ったのである。南京大虐殺は自分自身が犯した罪である。外祖父は恥ずかしくてたまらなかっただろう。

私は反日・反米の青年であり、ネットによく論評を発表していた。だが、そんな単純な反日・反米の青年たちは利用されているだけなのだ。天国にいる外祖父よ、私を許して下さい」。

ハルノートとはいかなるものだったのか?

2015-08-12 06:07:51 | Weblog
一番の戦争回避論者であった東郷当時外相を失望させ、
開戦をやむなくさせたハルノートとは、

こんなブログがあり、よく熟知しておく必要があります。
クリック

本当に日本人は「世界の悪者」であったのか?
本当に誤らなければならないのか? 考えさせられます。
これまで私は「日本人は侵略者で、隣国に多大な苦痛を与えた」と
ばかり教えられて、今日に至りました。


東条英機の遺言

2015-08-11 20:59:59 | Weblog
*家族に宛てたもの

以下は長男英隆に宛てたものである。これは昭和20年9月3日。
すなわち日本側代表団が連合国に対する降伏文書に調印した翌日に書かれたものである。
東條の直筆の遺言はこれの他、妻勝子や次男など親族にあてたものが複数存在する。


昭和二十年九月三日予め認む

一、父は茲に大義のため自決す、

二、既に申聞けあるを以て特に申し残すことなきも、
1、祖先に祭祀を絶やせざること、墓地の管理を怠る可らず
2、母に遠隔しつるを以て間接ながら孝養を尽せ
3、何なりとも働を立派に御奉公を全うすべし
4、子供等を立派に育て御国の為になる様なものにせよ

三、万事伊東に在る三浦氏に相談し援助を求むべし


*処刑を前にした時のもの[編集]

以下は処刑前に花山教誨師に対して口頭で伝えたものである。
書かれた時期は判決を受けた昭和23年(1948年)11月12日から刑が執行された12月24日未明までの間とされる。
花山は、聞いたことを後で書いたので必ずしも正確なものではない、と述べている。


開戦の時のことを思い起こすと実に断腸の思いがある。
今回の処刑は個人的には慰められるところがあるが、国内的の自分の責任は、死を持って償えるものではない。
しかし国際的な犯罪としては、どこまでも無罪を主張する。
力の前に屈した。自分としては、国内的な責任を負うて、満足して刑場に行く。
ただ、同僚に責任を及ぼしたこと、下級者にまで刑の及びたることは、実に残念である。
天皇陛下および国民に対して深くお詫びする。

東亜の諸民族は、今回のことを忘れて将来相協力すべきものである。
東亜民族もまた他の民族と同様の権利をもつべきであって、その有色人種たることをむしろ誇りとすべきである。
インドの判事には尊敬の念を禁じえない。これをもって東亜民族の誇りと感じた。

現在の日本を事実上統治する米国人に一言する。
どうか日本人の米国に対する心持を離れざるように願いたい。
また、日本人が赤化しないように頼む。
米国の指導者は大きな失敗を犯した。日本という赤化の防壁を破壊した。
いまや満州は赤化の根拠地である。朝鮮を二分したことは東亜の禍根である。
米英はこれを救済する責任を負っている。

戦死傷者、抑留者、戦災者の霊は、遺族の申し出があらば、これを靖国神社に合祀せられたし。
出征地にある戦死者の墓には、保護を与えられたし。
遺族の申し出あらば、これを内地に返還せられたし。
我ゆくも またこの土に 帰りこん 国に報ゆる事の足らねば

— 東条英機大将 遺言(部分)昭和23年12月22日夜 東京巣鴨(23日零時刑執行)


*逮捕前に書かれたとされるもの

以下は昭和20年9月11日に連合国に逮捕される前に書かれたとされるもの、《英米諸国人ニ告グ》、《日本同胞国民諸君》、《日本青年諸君ニ告グ》の3通を現代語にしたものである。


《英米諸国人に告げる》今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である。
この深刻な事実は私も固より、これを認めるにやぶさかではない。
しかし、諸君の勝利は力による勝利であって、正理公道による勝利ではない。
私は今ここに、諸君に向かって事実を列挙していく時間はない。
しかし諸君がもし、虚心坦懐で公平な眼差しをもって最近の歴史的推移を観察するなら、
その思い半ばに過ぎるものがあるのではないだろうか。
我れ等はただ微力であったために正理公道を蹂躙されたのであると痛嘆するだけである。
いかに戦争は手段を選ばないものであるといっても、
原子爆弾を使用して無辜の老若男女数万人もしくは数十万人を一挙に殺戮するようなことを
敢えて行ったことに対して、あまりにも暴虐非道であると言わなければならない。
もし諸般の行いを最後に終えることがなければ、世界はさらに第三第四第五といった世界戦争を引き起こし、
人類を絶滅に至らしめることなければ止むことがなくなるであろう。
諸君はすべからく一大猛省し、自らを顧みて天地の大道に恥じることないよう努めよ。

《日本同胞国民諸君》
今はただ、承詔必謹する〔伴注:終戦の詔を何があっても大切に受け止める〕だけである。
私も何も言う言葉がない。ただ、大東亜戦争は彼らが挑発したものであり、
私は国家の生存と国民の自衛のため、止むを得ず受けてたっただけのことである。
この経緯は昭和十六年十二月八日の宣戦の大詔に特筆大書されているとおりであり、
太陽の輝きのように明白である。
ゆえにもし、世界の世論が、戦争責任者を追及しようとするならば、
その責任者は我が国にいるのではなく彼の国にいるということは、
彼の国の人間の中にもそのように明言する者がいるとおりである。
不幸にして我が国は力不足のために彼の国に敗けたけれども、
正理公議は厳として我が国にあるということは動かすことのできないことである。
力の強弱を、正邪善悪の基準にしては絶対にいけない。
人が多ければ天に勝ち、天が定まれば人を破るということは、天道の法則である。
諸君にあっては、大国民であるという誇りを持ち、天が定まる日を待ちつづけていただきたい。

日本は神国である。永久不滅の国家である。
皇祖皇宗の神霊は畏れ多くも我々を照らし出して見ておられるのである。
諸君、願わくば、自暴自棄となることなく、喪神落胆することなく、
皇国の命運を確信し、精進努力することによってこの一大困難を克服し、
もって天日復明の時が来ることを待たれんことを。


《日本青年諸君に告げる。》
《日本青年諸君各位》
我が日本は神国である。この国の最後の望みはただ諸君一人一人の頭上にある。
私は諸君が隠忍自重し、どのような努力をも怠らずに気を養い、胆を練り、
現在の状況に対処することを祈ってやまない。
現在、皇国は不幸にして悲嘆の底に陥っている。
しかしこれは力の多少や強弱の問題であって、正義公道は始終一貫して我が国にあるということは
少しも疑いを入れない。
また、幾百万の同胞がこの戦争のために国家に殉じたが、
彼らの英魂毅魄〔伴注:美しく強い魂魄〕は、必ず永遠にこの国家の鎮護となることであろう。
殉国の烈士は、決して犬死したものではない。
諸君、ねがわくば大和民族たる自信と誇りをしっかり持ち、日本三千年来の国史の導きに従い、
また忠勇義烈なる先輩の遺旨を追い、もって皇運をいつまでも扶翼せんことを。
これこそがまことに私の最後の願いである。
思うに、今後は、強者に拝跪し、世間におもねり、おかしな理屈や邪説におもねり、
雷同する者どもが少なからず発生するであろう。
しかし諸君にあっては日本男児の真骨頂を堅持していただきたい。
真骨頂とは何か。忠君愛国の日本精神。これだけである。


マッカーサーの告白

2015-08-11 11:59:23 | Weblog

終戦後、日本を統治したマッカーサーが1951年5月3日に
アメリカ上院軍事特別委員会で証言した内容です。
その後、マッカーサーはアメリカ社会からは消えていきます。
これが真実なのです。

日本人は世界の良識の府として堂々と、胸を張り、隣国同士が戦争のない社会を作るために
今、どうすべきかを、説くべきです。日本が世界の平和をリードすべきなのです。
「もしものとき」が起こらないために、


「マッカーサーの告白」

日本の皆さん、先の大戦はアメリカが悪かったのです。
日本は何も悪くありません。日本は自衛戦争をしたのです。
イギリスのチャーチルに頼まれて、対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込んだのです。
アメリカは日本を戦争に誘い込むためにイジメにイジメぬきました。
そして最後通牒として「ハルノート」を突き付けました。

中国大陸から出て行けだの、石油を輸入させないなど、
アメリカに何の権利があったというのでしょう。
当時、アジアのほとんどの国が白人の植民地でした。
白人はよくて、日本人は許さなかったのです。
「ハルノート」のことは、私もアメリカの国民も知りませんでした。

あんな物を突き付けられたら、どんな小さな国でも戦争に立ち上がるでしょう。

戦争になれば圧倒的な武力でアメリカが勝つことは、戦う前から分かっていました。
我々は戦後、日本が二度と白人支配の脅威とならないよう周到な計画を建てました。
アメリカは知っていたのです。国を弱体化する一番の方法は、
その国から自信と誇りを奪い、歴史を捏造することだと。

戦後アメリカはそれを忠実に実行していきました。
日本がアジアを白人の植民地から解放しようとしたという「本当の理由」を隠すため
大東亜戦争という名称を禁止し、代わりに太平洋戦争という名称を使わせました。

東京裁判はお芝居だったのです。
アメリカが作った憲法を日本に押し付け、戦争ができない国にしました。
公職追放をしてまともな日本人を追い払い、代わりに反日的な左翼分子を大学など要職にばら撒きました。
その教え子たちが今マスコミ・政界などで反日活動をしているのです。

徹底的に検閲を行い、アメリカにとって都合の悪い情報は日本国民に知らせないようにしました。
ラジオ・テレビを使って戦前の日本は悪い国だった、戦争に負けて良かったのだ、と日本国民を騙しました。

これらの政策が功を奏し、今に至るまで独立国として自立できない状態が続いているのです。

(※註:1951年の時点で正気に帰ったマッカーサーが、この今に続く問題を憂いているのです。)

私は反省しています。自虐史観を持つべきは、日本ではなくアメリカなのです。
戦争終結に不必要な原子爆弾を二つも使って何十万人という民間人を虐殺しました。

最後に私が生きていた時の証言を記して謝罪の言葉としたいと思います。

「私は日本について誤解をしていました。日本の戦争の目的は侵略ではなく自衛のためだったのです。
太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の過ちは、共産主義を中国において強大にさせたことでした。
東京裁判は誤りだったのです。

日本は八千万人に近い膨大な人口を抱え、その半分が農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。
潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接した何れにも劣らぬ優秀なものです。
歴史上のどの時点においてか、日本の労働力は人間が怠けているときよりも働き、
生産している時の方が幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでよいようなものを発見していたのです。

これまで巨大な労働力を持っているということは、彼らには何か働くための材料が必要だという事を意味します。
彼らは工場を建設し、労働力を有していました。
しかし彼らには手を加えるべき材料を得ることができませんでした。

日本原産の動植物は、蚕を除いてほとんどないも同然でした。
綿がない、羊毛がない、石油の産出がない。錫がない、ゴムがない、他にもないものばかりでした。
その全てがアジアの海域に存在したのです。

もしこれらの原料の供給を絶ちきられたら、1000万から1200万の失業者が
日本に発生するであろうことを、彼らは恐れたのです。
したがって日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」

アメリカ上院軍事外交合同委員会の公聴会にて
1951年5月3日
ダグラス・マッカーサー

安らぎの人生

2015-08-05 05:47:15 | Weblog
歌子が私の両親の看病、看護でとても疲れていたとき、
二胡を弾きたい、と言い出した。あれから21年、
もしあの時二胡をしていなかったら?と考えると、恐ろしい。

最近、いくつかの自主学習グループで会長に不幸や心配事が発生、
しばらく休むことになった。、
会長のいないチームのメンバーがどうこれに対応するか?
おそらく寂しくて自分たちもしばらく休みたいと思うだろう。
それはそれで、仕方のないことであるが、
たった一つまみのリーダーがいないと、会は一遍に元気がなくなる。
会社でも社長が会社にこれなくなったら社員は頑張れないだろう。

せめて私はいつも笑顔で、皆さんの癒しのパートナーでいれればと思う。
そして「二胡を続けてて本当によかった」と思っていただければ嬉しい。

もう年齢的にも観光客のご接待や、華美なステージへの出演は
やめるとして、「夫婦でやすらぎ宅配便」の活動は続けたい。

そして歌子がそうであったように、二胡を弾くことで
辛い、苦しい毎日を切り抜けられた、という女性が増えるように、
好きなときに自宅にきていただき、お話を交えながらのレッスンや、
どうしても家事で自宅を離れられない方には、出向いたり、
私にしか出来ない方法でお役に立ちたいと思う。

来年から隠居するランタン祭りイベント(二胡弓楽会分)も、
幸いに推薦した3チームのうち、2チームが申請を済ませてくれ、
新しく弓楽会イベントに参加することに決まった。
振り返れば、その多くの二胡愛好家が最初の「きらきら星」は
私達夫婦が指導した仲間達であることを思えば、感慨深い。
長崎で二胡を弾くのは歌子だけだったのだから、、
よくここまで愛好家が増えたものである。 それで良し!
私達夫婦の想いは確実に天に届きつつある。

子供たちに伝えたい「山岡鉄舟」の心

2015-05-26 12:13:43 | Weblog

子供たちに教えたい維新の偉人『山岡 鉄舟』 という著があります。

まさに倒幕軍によって江戸の町が火の海になろうとしていた矢先、
幕臣のひとり山岡鉄舟は将軍家慶に逢い、将軍の本心を聞き、
勝海舟と打ち合わせたうえで、付き人1名だけを連れて駿府に行き、
敵将・西郷隆盛と会見する。
そして鉄舟は人間的な誠実さをにじませながら慶喜の本心を西郷に訴える。
その誠実さに西郷は開戦を中止する決意をしたのです。

そして五日後、芝高輪の薩摩藩屋敷で西郷隆盛と勝海舟の会見が行われ、
日本が世界に誇る「江戸城・無血開城」が実現したのでした。

「本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如き人でしょう。」
西郷隆盛が勝海舟に述べた鉄舟への評価です。
明治になって岩倉具視や西郷隆盛の推薦で「元朝敵・家来」の山岡鉄舟が
なんと明治天皇のおそばに仕えることになったのです。

「明治天皇が鉄舟に相撲で倒される」 というエピソードもあったそうです。

明治天皇がお若い頃、鉄舟たち侍従とのお酒の席で、鉄舟に相撲を挑まれ、鉄舟を押し倒そうとされました。天皇と臣下、普通なら天皇に勝ち をゆずるでしょう。
しかし鉄舟は、飛び掛られた際に横にかわし、天皇は鉄舟の後ろに倒れてしまわれました。
周囲は鉄舟に謝罪を勧めましたが、鉄舟はこれに応じず、

たとえ陛下が相撲を取りたいと、とおっしゃられても、とってはならない。
それは不謹慎なことでありできない。それでも強引に取るというのなら、
わざと負けるのは迎合であり、できない。
もし、真剣に戦って怪我をしたら陛下も後悔なされるだろう。
だから私は横にかわしたのです。
それが不満なら「謹んでこの場で自刃してお詫び申し上げます」と

明治天皇は鉄舟の言葉をお聞きになり、
「私が悪かった。」と仰せになったとのことです。
決死の覚悟でお諌めする鉄舟、非を素直に認められるお若き日の明治天皇、

このような、君臣互いに信頼の絆で結ばれているのが、日本の美しき伝統でしょう。
1人でいいから山岡鉄舟のような忠臣をリーダーは持つべきではないでしょうか?