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ニッポン チャチャチャ!!

納得できない事、頭にきた事、不可解な事、民主主義後進国ニッポンの“?”を感情的に綴っていきます。

Give Peace A Chance

2007年12月09日 20時43分33秒 | 生活
昨日は、真珠湾攻撃の日であるとともに、ジョン・レノンの命日でもありました。27年前のあの日、家の電話が鳴り続け、そのたびに「ショックだ~!」という程度の感想しか交わしきれず、次に言葉が続かなかったことを思い出します。正直、リアルタイムで「ジョン・レノンが死んだ」という意味を理解できなかったのです。

mixiでは、マイミクさんのひとりがYouTubeからジョン・レノンの生前の映像を見つけて日記にアップしていました。その映像は『Give Peace A Chance』を歌っているもの。それを観て、僕も色々な事を考えてしまいました。

All we are saying is give peace a chance

森達也氏は、主語が大きくなると述語が過激になると最近の風潮を表現していましたが、この頃は“All we”という大きな主語、でも世界中の多くの若者が信じ共有していた主語なのに、述語はささやかで平和的です。
しかし、彼の死後27年過ぎても、決して彼の望んだ世界にはなっていません。戦争は無くならず、国境は残り、世界中の人が平和に暮らす日々はきていません。

世界中の若者が共感し、現在はその若者たちが社会の中枢にいるはずなのに、ジョンのささやかであり、基本的な願いを実現できなかった現実を僕たちはどう受け入れればいいのでしょうか?
「願いは叶う」…はずなのに。

ちなみに、今日、僕の大切にしている本『神との対話』を読み直していたら、こんなフレーズを見つけました。

愛は寛容を、寛容は平和を生む。不寛容は戦争を生み出し、耐えがたい状況に無関心になる。
愛は無関心ではいられない。どうして、無関心でいられるのかわからない。
人類すべてに対する愛と関心への一番の近道は、全人類を自分の家族と考えることだ。
全人類を家族と考える一番の近道は、分裂をやめることだ。世界の国民国家は団結すべきだ。

まだまだ、僕たちは“愛すること”が足りないのでしょう。
まずは、近くても分裂する相手を愛することからはじめる必要があるのでしょう。

たしかにジョンも
Love is real
と歌っていますものね。

人生で闘うということ

2007年10月30日 23時36分05秒 | 生活
前回引用した曽根綾子の本を読み終わりました。読んだことのない作家の本として選んだのですが、当初の予想通りにいい本に出会えたし、いい人物のことを知ることができてとても満足しています。

しかし、恥ずかしながら知りませんでした。曽根綾子という人が色々と問題を巻き起こしていたことを。それもこのブログを書く前にネットで調べて知ったのですけれどね。
たしかに、今回読んだ『「いい人」をやめると楽になる』に書かれている通りに生きたら、そりゃあ多少なりとも世の中と火花を散らすでしょうと想像できます。ただ、書いたことをそのまま実践しているのは素晴らしいことではないでしょうか。

この本、一見すると「嫌われ者推奨」のように感じますが、僕にとっては曽野綾子の繊細で思いやりの深い人柄がうかがえる内容でした。
そうは言いながら、前書き以外は小見出しを立てただけ。あとはその小見出しの内容について書いた過去の著作の一部分を引っぱりだしているだけの本なのです。そんな本作りをしてしまうところにはしたたかさを感じてしまいました。

僕がブックマークしたところを書きだしてみると、『「世間の悪評」が、誰もほんとうに知らないままに先行しているという状態は、むしろ人間にとって願ってもないほどいいものなのです。そのようないわれのない非難と闘っている限り、人間は堕落しないで済みますし、勇気に溢れているものなのです。(湯布院の月)』というシニカルな社会観。

だけど、『人がするからいい、のではないのである。人がしてもしないし、人がしなくてもする、というのが勇気であり、品位である、と私は教えられた。(悲しくて明るい場所)』と生きてきたのでしょう。
そのために『個性を認められる、ということには孤独と差別に満ちた闘いを覚悟するという反対給付がつく。(二十一世紀への手紙)』という定めも甘んじて受け入れていたのでしょう。

その根底にあるのは『だけど、なんだか、どこかで人間の心を全部見ていらっしゃる方があるような気がしてるのね。本当に怖いのは、その方だけだ、という気がするの。後はどうでもいいよ。(極北の光)』という宗教感。
それでいながら「贅沢な一生かどうかは愛のあるなしで決まる」という小見出しを立てる人生観。

読み進んでいくうちに、あえて“嫌われ者”を選択した理由がおぼろげに理解できました。それは彼女が人生の機微を敏感に感じ取り、それらをとことん客観的に分析することで辿り着いたものだと感じたのです。
僕にとっては「とても潔い闘士の本」という印象でした。そこには“歳”を感じさせることもなく、ただただ、「人生の達人」を感じさせてくれました。
そして「いい人狙い」の自分の人生を見つめ直させる内容だったことも間違いありません。

ほんと、すっ凄い婆さんがいたものです。

カニの言葉に…

2007年10月23日 13時08分57秒 | 生活
何となく、「いい本に出合えるのではないか」と感じがしたので、昨日BOOK OFFで一冊105円の本を何冊か買い込みました。
知らない作家の本を中心に、一冊105円でなければ買わないような本ばかり選んだのですが、早速読んだその中の一冊に軽くショックを受けてしまいました。

その本のタイトルは『リトル ターン』というもので、大人向けの絵本。編集者としては『かもめのジョナサン』の続編というつもりで編集したようです。
『かもめのジョナサン』は何年前に読んだのか、その記憶も定かでないし、内容も覚えていません。なので訳者は同じ五木寛之といわれても特別の感慨はわいてきませんし、『かもめのジョナサン』と対比している箇所があったとしても僕には読み解けませんでした。

ストーリーはアジサシという鳥が突然飛べなくなったという物語なのです。生涯のほとんどを空中で過ごすアジサシは地上で活動するには向いていない体型なのだそうです。
そこで、飛べなくなって困った主人公のアジサシは、まず自分の身体のどこかが壊れていないか確認します。しかし、どこも不都合なところは見つからず、原因は自分の内面の問題だと認識するのです。

飛ぶという自身のアイデンティティを失い、アジサシは喪失感と孤独を味わいます。そんな中、海岸で出会ったのがゆうれいガニと呼ばれるカニ。そのカニの発した言葉に僕も目が覚めた気になりました。
それは、「きっときみは、自分が知っていることに慣れすぎているんだよ。きみはこれから、自分が知らないことを知る必要がある。ただそれだけのことさ」という言葉で、続けて「きみは飛ぶ能力を失ったんじゃない。ただどこかに置き忘れただけだ」と言うのです。

物語自体はその言葉を受けてアジサシも自らを見つめ直して流れていくのですか゛、僕は“自分が知っていることに慣れすぎている”という言葉に敏感に反応してしまいました。
僕自身も、当たり前と思っていたものを知らないうちに失っているのではないと考えたのです。それが不要になったものならいいのですけど…。

つまり僕は、今まで身につけていて当然と思っていた事柄のひとつひとつを見つけ出して再確認し、再定義する必要があるのではないかと感じたのです。また、それこそが意識的に生きるということだと理解したわけです。

しかし、わずか105円でこんな“気づき”を得られるのですから、やはり読書は止められない! と思ったのでした。

やっぱりおかしい院外処方

2007年10月21日 15時54分42秒 | 生活
先週末に70日ぶりの定期検診に行ってきました。定期検診といっても簡単な問診と血圧を測るだけ。そして処方箋を出してもらい、次回の予約をして終了。5分もかからないものです。
そして今回は、病院の向かい側にある小奇麗な薬局に行って薬を出してもらうことにしましまた。僕は前回の薬局でもらった「おくすり手帳」を添えて、処方箋を受付に提出して薬を待っていたのです。

すると薬局のオバちゃんが寄ってきて、「お茶を飲まれますか?」とたずねるので、熱いお茶をお願いして出してもらいました。すると次に「これにご記入をお願いします」とアンケート用紙を持ってくるのです。
すかさず僕は「まず、僕の情報はさっき出した手帳に書いてないのか?」とたずねると、「それには書いてない」と言う。後で確認したら、何の薬を出したのかが書いてあるだけで、その他の情報は何も書かれていないのです。前回、薬局でその手帳をもらったときには「必要な情報が書かれているから、他の薬局に行っても大丈夫」と言っていたのに…。

まあそれ以前に、あちこちで個人情報を求められるのが気になっていたので、「毎回薬局を代えるたびに個人情報を書かないといけないのか? そもそも院外処方自体がおかしいと思っているが、これも法で決まっているのか?」とたずねたのです。
するとそのオバちゃん、「書けるところだけで結構です」とコロっと態度を変えるのです。つまり法で定められたアンケートではないということ?

僕はこの院外処方の根拠も法律もよく分りません。ただ、間違いなく製薬メーカーが儲かることは明確です。飛躍的に販売先が増えたのですからね。
さらに、病人の個人情報というのは嘘偽りが書けないので、精度が高くその上非常に利用価値の高い情報だと思うのです。例えば健康食品メーカーのDMリストには最高でしょうし、お墓のDMリストとしても有効かも。

あとで気がついたのですが、オバちゃんが僕に差し出したアンケート用紙には最後に個人情報のポリシーが書かれていませんでした。つまり、どう個人情報を使われても文句が言えないのでしょう。とても恐く不快なことです。

しかし、病院に払った料金はわずか420円。いくら5分の診断で国保があるとはいえ、医師のモチベーションは上がらないでしょう。これで、本当に医療サービスは向上するのでしょうか?
いずれにしても、僕の場合は院外処方になって診察代+薬代が10%以上増加しています。やはりこれって、しょせんはあの厚生労働省の悪だくみなんでしょうね?

公的な場所の勘違いな表示

2007年08月20日 20時43分24秒 | 生活
最近、頭にくる事のひとつに公的な場所の案内の不親切さに対してというのがあります。公的な場所ですから誰が見ても理解できる表現でなければならないのに、どうも勘違いとしか思えない表示が多いと思いませんか?

先日、東武東上線に乗ったのですが、ホームの案内が不親切なので頭にきました。その駅のホームには写真のような表示板があるのですが、表示しているのは次とその次、さらにその次の電車の発車時刻と「テロ警戒中」とか「電車がきます」という案内。これがすべて各駅停車の路線なら問題ないのですが、東武東上線は各駅停車の他に準急、急行などが走っているのです。そこで、目的の駅に行くのにどの電車に乗るといいのかが判らないのです。

だいたい、「テロ警戒中」というのはこんなところに表示する必要はないんじゃないかと思うのですよ。テロの抑止効果を狙っているのなら、あまりに情けないし、乗客ではなく“社会”に対しての「わが社はちゃんとテロ警戒してますよ」というエクスキューズに思えてなりません。だって、本当に抑止効果が目的なら、もっと別な表示方法があると思うのですよ。
これだと、ちょうど適当な表示場所があるからテロップを流しているとしか思えません。それによって、日頃東上線に乗りなれていない利用者が困っているとは理解していないのでしょう。

その点、西武線は表示とアナウンスが丁寧ですね。どこまで行くのなら、どの電車に乗って、どこで乗り換える方が早いという案内がわかりやすいといつも思っています。
この案内の内容と方法に利用者側からの視点が有るか無いかの違いに僕は敏感に反応し、その会社の器を判断します。結局、東武鉄道って公的交通機関としての使命を忘れた会社と映ってしまうのです。

それとは別に、最近よく見る電車内の液晶モニター。便利なようで必要な時に必要な情報が流れないと思いませんか? 自分の乗っている電車が故障で止まっているのにその表示がされず、動くのか動かないのか判らないという経験が何度かありました。
これも、本当は利用者のためのものではなく、広告収入が目的なだけなのでしょうね。まあ、手持ち無沙汰の時間つぶしにはいいのですが、本来の目的をおざなりにしていると思えてならないのです。なにせ鉄道は公的機関なのですからねぇ~。どうにかならないのでしょうかね?

嘘でないといいのだが…

2007年08月02日 13時24分23秒 | 生活
先日、地元の商店街を歩いていたら、みずほ銀行の角に写真の看板が立っていました。平成18年のドリームジャンボと年末ジャンボで1億円の当選が出たというもの。普通なら「へぇ~、そうなの~!」といって通りすぎるのでしょうが、はたと考えてしまい、写真も撮ったのです。
なぜなら、僕は看板が印刷されていた事に不信を感じたのです。ここは有名な有楽町の宝くじ売場でもなく、新宿や渋谷の繁華街でもありません。品川区の武蔵小山商店街の外れにあるみずほ銀行の宝くじ売場なのです。

よく繁華街の宝くじ売場で「この売場から1億円の当選が出ました」という手書きの看板はよく見かけますよね。僕はそれらの売場と武蔵小山商店街にあるみずほ銀行の宝くじ売場の売上げの違いは想像がつきません。いずれにしても、1億円の当選が同じ売場で一年間に連続して出る確率はとんでもない数値だと思うのです。
ネットで調べたら、今回のサマージャンボの1億円は84本、2億円は42本あるということ。売上げ予想が1,260億円となっていたので、1枚が300円だから予想販売枚数は4億2千万枚。そこで1億円以上が当たる確率は3,333,333分の1。つまり3百万枚以上に1枚も出ないという確率。それが年に2回となると超天文学的な確率のはずです。それも人通りの多い都心の繁華街の売場ではなく、一商店街のみずほ銀行の売場ですから、それはもう超々天文学的な数字でしょう。計算間違いがあっても大差ないはずです。

それなのに、印刷してある看板…。印刷とは同じものを複数以上作るときに便利な方法です。ということは、この看板と同じものはどこのかのみずほ銀行の宝くじ売場に置かれているのでしょうか? もしも、超々天文学的な確率でしか存在しない売場が複数以上あるとすると、それこそまさに不可思議(とうてい考えることができないこと)!

たしかに、印刷方法は少数の印刷に適しているシルク印刷でなされていましたが、はたして日本のどこか他のみずほ銀行の宝くじ売場に同じものが置かれているのでしょうか? とても気になります。

唯物論者の権化ともいえる銀行員が、この日、ATMコーナーで「本日は大安でもありますので、是非!」というまがまがしい宝くじの売り込みをしているのを見るにつけ、企業倫理が低下している“銀行”に一層の不信感を抱いて見てしまうのでした。

【リニューアル第1回】 僕は知っている!

2007年07月23日 00時27分09秒 | 生活
 Works of love
 are
 Works of peace

これは、あのマザー・テレサの言葉だそうです。先日、上智大学で行われていた写真展に行ってきました。「マザー・テレサ あふれる愛」というその写真展は、今年が彼女の没後10年にあたるということで企画されたというものでした。
写真は日本のカメラマンが長年にわたって撮影し、撮りためたものだったそうです。恥ずかしながら、僕はそれほどマザー・テレサのことを知りませんでした。ですから、今年が没後10年ということも知りませんでしたし、彼女の活動内容もよく知りませんでした。そんなわけで、写真展とはいっても写真より、彼女の活動内容を説明するキャプションや彼女の言葉にシビレてしまいました。

冒頭の言葉もその中のひとつですが、次の言葉にも感じるものがありました。

 誰からも必要とされない
 誰からも愛されていない貧しさこそ
 ひと切れのパンの飢えよりもっとひどい飢えだ

今、本当に多くの人たちが「自分が誰からも必要とされていない」と感じ、惨憺たる惨めさと闘い、敗れそうになっているのではないでしょうか。特に中年以降のオジサンたちに…。
自分自身も、仕事上での自分の存在の証明である知識や経験が否定されていると感じると(これが、よくあるのです)すぐに「ひょっとして、自分は必要とされていないのでは?」と鬱状態に突入します。なので、その寂しさは身に染みて理解しているつもりです。

これも、世の中が変わってしまった結果なのでしょう。みんな、ひとりだけで悩んでいます。かつては携帯やメールもなく、常に他者と顔をあわせる機会が多かったので「どうしたの? 元気ないじゃない」という声をかけてくれる人間がいたものです。そもそも、人と人の関係も、今のような淡泊なものではなかったはず。悩み苦しんでいる人間がいれば誰かが気つき、方法はいろいろですが、一線を越えないように近くから見守っているような関係性が一般だったと思っています。

こんなになってしまった世の中、嘆いていても過去に戻すことができないのです。でしたら、もし「自分が誰からも必要とされていない」と感じだしたら、自分からすすんでマザー・テレサの言う「愛のための仕事」をしてみましょう。
僕もかつて、あるボランティアにのめり込んだことがあります。その時の僕は身体を壊した直後で、仕事もボロボロ、社会的評価は最低の状態。まさに「ひどい飢え」の状態でした。しかし、今想いかえせば、その時期がここ数年で一番充実し、平和を感じていた期間と言えます。なぜなら、そのボランティアに参加すると自分が必要とされていることが実感できたのです。自分が必要とされていると認識できることが信じられないほどの幸せをもたらしてくれると親身に感じました。
ボランティア活動でよく耳にするのは「ボランティアで癒されるのは、実はボランティアしを受けている側ではなく、ボランティアしている方」ということ。これは僕自身も実感しました。そして、これこそが「Works of love are Works of peace」でもあるのではないのでしょうか?

と、マザー・テレサの活動に触れ、人と人のつながりについて考えさせられたのでした。
そうそう、今回の新潟の地震に駆けつけた週末ボランティアの人たちも、一様にいい表情していましたよね。


☆お知らせ
個人的な理由で、ずっとこのブログの更新をサボってきましたが、一部リニューアルして再開します。今後はより身近なところに出発点を求め、僕の着眼点や切り口に重点を置いて綴っていきたいと思っています。なので、これからもヨロシク願いいたします。

東京三菱UFJ銀行よ 恥を知れ

2006年12月28日 03時48分47秒 | 生活
前回の続きのような出来事に昨日遭遇しました。今回は公共企業に対する苛立ちの「銀行編」です。
昨日、クレジットカードの引き落としがあったので、出かけたついでに見つけた東京三菱UFJ銀行に入りました。そこはATMだけの店舗でしたが、自分の口座に入金するだけなので問題ないと思ったので列に並んだのです。
ところが自分の番が来たので、通帳を入れて、現金を入れ、入金しようと思ったらATMが受け付けてくれないのです。通帳と現金がそのまま戻ってきて、さらにご利用明細書も出てきたのです。
それでご利用明細書を見ると「恐れ入りますが、通帳のページをご確認の上、もう一度始めから願いいたします」と書いてあるのです。で、自分の通帳を確認したら記載が一杯になっていて、更新が必要だったのです。それでATMが受け付けてくれなかったみたいでした。
ならば通帳の更新をしなければと思ったら、これまたATMが受け付けてくれないのです。そこで納得しました。
まず、私の口座は旧UFJ銀行の口座で、通帳もやはり旧UFJ銀行のもの。そして、いま自分が向かっているATMは旧東京三菱銀行のものだということ。つまり、お互いに融通が利かないということで納得したのです。そういえば、以前にもこのことを書いた記憶がありました。
最終的には別の場所に東京三菱UFJ銀行の支店を見つけ、そこは旧UFJ銀行の店舗となっていたので無事に入金できました。その時に発見したのがATMの下に貼ってあった写真の案内です。
以前から感じていたのですが、今回のように引き落としのために入金する場合、以前はリアルタイムで記帳されたのに、合併後は再度記帳し直さないと引き落としの確認ができないのです。まず、これに不便を感じていたのです。
そして今日のケース。なぜご利用明細書に「恐れ入りますが、通帳のページをご確認の上、もう一度一から願いいたします」と出力してしまうのでしょうか? 「通帳がいっぱいです。旧UFJ銀行の店舗で更新してください」と出力しなければダメでしょう? おそらく同じ状況で理解できない人は多いと思いますよ。それと、近くの旧UFJ銀行の店舗も知りたくなりますよね。
だいたい、旧東京三菱銀行と旧UFJ銀行が合併したのが今年の1月1日。約1年経っているのに、いまだに利用者に不便をかけて公的企業として恥ずかしくないのでしょうか? 昭和の偉大な経営者たちは、みな自らの会社の社会性を考えていたと思うのです。
確か、合併の際にもシステムは旧UFJ銀行のシステムが新しいのに、あえて古い東京三菱のシステムに統合したという事がありましたよね。当時、客の利便性や合理性を選ばずに、プライドを選んだのだという印象を持ったのを思い出しました。
だから、結局は不親切で(これは当然ですが)、負荷は利用者に降りかかるんですよねぇ。まあ、三菱というグループ自体が最初から社会的責任という認識があるグループとは思っていませんでしたが、もう少し東京三菱UFJ銀行には「恥」を感じてもらいたいと思いますね。
それでなくても、戦争兵器を造り原発を造るという企業グループの旗頭なのですから…。

どうも不安な、品川区のごみ分別変更

2006年07月03日 20時29分09秒 | 生活
私の住んでいる武蔵小山では、先日、東急目黒線(旧・目蒲線)が地下化になるということで、最後の電車に乗るだの、踏切の閉鎖作業を撮影するなど、ちょっとした騒ぎになっていました。
そんな中で私も忘れていたのですが、地元ではもうひとつ新しい動きが始っていました。それは“ごみ分別の変更”です。以前、このブログにも書きましたが、私の住んでいる地区がモデル地区となり、品川区のごみ分別の方法が変更になったのです。
たしかに前回ブログに書いて以降、チラシが一枚投函されているのは覚えていましたし、それはちゃんととっておきました。もちろん、このブログで取り上げるためです。
以前にも書いた通り、品川区はごみ行政に関しても進んでいると認識していました。それなので、分別がより細かくなるというのなら理解できますし、協力するしかないと思います。ところが今回は、今まで“不燃ごみ”だったものを“可燃ごみ”にするというのですから驚いたのです。
投函されたチラシには「プラスチックごみのリサイクルに関する講習会」というもの開かれると書かれています。ところがそれは“ごみ分別の変更”実施以降の今月の20日と24日に開催というのですから、呆れるというか、不信感がつのるというか…。
そのチラシにも“ごみ発生の抑制”を謳ってはいますが、私としてはどうしてもプラスチックやゴム製品などを“燃やす”という行為が不安なのです。チラシには「廃プラスチックは、燃焼させることによりエネルギーを回収します。(略)これからは排ガス対策等環境に配慮した品川清掃工場で焼却し、更に効率の高い発電および熱供給をしていきます。」と書かれています。また、ちょっとネットで調べてもメリットの部分しか明確になっていないのです。
それでも、下の環境庁の外郭団体のようなところのサイトを見てみると、
http://www.erc.pref.fukui.jp/news/d00.html
ちょっと古い内容ですが、日本のダイオキシンのほとんどがごみ焼却などの焼却工程で生まれているとされているのです。この資料を逆に読めば、この頃までごみ焼却工場でのダイオキシン対策は、たいして行われてこなかったという事にもなりますよね。しかし、この頃にはごみ工場は“安全”と謳われていたと記憶しています。
そんな過去のいきさつや、“ダイオキシン”という目に見えない猛毒が問題なだけに、にわかには行政の言葉は信じられませんよね。ただ、今回はあくまで“モデル回収”というというのが救いですが、その結果をどう判断するのか? 言葉を代えれば、何を最大の目的としているのか? それは知りたいと思っています。
先進国で、日本ほど細かくごみを分別しいる国は少ないそうです。これは世界に誇っていい事だと思うのですが、それに優る“価値”を見つけようというのでしょうか? とてもそうは思えません。とりあえず私は、その講習会には出席しようと持っています。
もちろん、我々一人ひとりが出すごみの量を減らすのが一番大事ですが、それでもすべてを燃やされてしまっては意味がなくなってしまいますよね。

本当に大丈夫? 品川区のごみ分別方法の変更

2006年05月31日 21時06分07秒 | 生活
先日、我が家のポストに気になるチラシが入っていました。それは、ごみ収集の分別変更のお知らせで、品川区内でわが町の1丁目と2丁目だけがモデル地区となって変更になるというのです。
そもそも品川区のごみ収集は、23区のなかで比較的すすんでいると認識していました。分別収集はもちろん、資源ごみの収集もシステム化されているし、小学校の拠点では古着や廃食用油などの回収も実施されていました。その上、最近は個別収集まで実施し、各家庭の前にごみを出すようにして、「分別を徹底させる」、「夜にごみを出さない」などを実現してきました。
かつて、私は渋谷の清掃工場問題を取材をした時に、ダイオキシンの恐さや分別収集の地域間格差があることなどを取材した経験があり、そんな中で「品川区は比較的にしっかりしたごみ行政をしているなぁ」とも思っていたのでした。
ところが、そのチラシを見て驚いたのですが、そこには「廃プラスチック、ゴム、皮革類を“不燃ごみ”ではなく“可燃ごみ”として出してください」と書いてあるのです。私の知識では、“不燃ごみ”というのは、燃やすと有毒物質が出るから“不燃”としていると認識していました。それとは別に焼却炉が傷むという問題もあったと記憶していますが…。
そこでチラシを詳しく読んでみても、「廃プラスチックは、燃焼させることによりエネルギーを回収します」と書いてあるだけで、燃やす事に対するマイナス面には触れていないのです。私は当然、「なぜ?」、「大丈夫なの?」と思いました。
そこで、品川区清掃事務所のサイトで調べてみたのですがよくわかりません。「一人一日あたり100グラムごみを削減しよう」とか「二酸化炭素削減の数値目標」や「資源回収率の数値目標」も謳われているのですが、私の知りたい「本当に大丈夫なの?」という疑問の答は見つかりませんでした。
まずは、「ごみを出さい!」というのがごみ対策の第一歩だと思います。そして確実に品川区のごみの量は平成元年と比べ、可燃,不燃とも大幅に減っているのです。それなのに「なぜ?」という私の疑問は消えません。いくらモデル収集と言っても気になります。
最近知った事柄に、ペットボトルを作るのに必要な石油より、それをリサイクルするのに必要な石油の量は数倍になるという事。製造~実用~廃車の全体のスパンで考えると、電気自動車よりディーゼル車の方がCO2を発生させないという事。そこで、トータルで考えなければ環境問題・ごみ問題は解答が出ないと知りました。そうすると、メーカーなりリサイクル業者がそういった数値を正しく公表しないと、最善の方法は見つけられないでしょう。
そこまで考えた時、まさか「可燃ごみの量が減ったことによって、稼働率の下がってしまった焼却工場を救済するために燃やすごみを増やす」という、本末転倒な理由でない事を祈るばかりです。