今日はコーラスがお休みで、今日の歌は7日(土)朝聴いた越路吹雪さんの
「バラ色の人生」です。コメントから聴けます。
作詞:岩谷時子 作曲:E. Piaf/P.Louiguy
心惑わす眼 いつも熱き口
私の想ってる あなたの面影
あなたの胸で
私は聞くやさしの言葉
いつもかわらぬ言葉なのに
私はうれしい
わたしの胸に幸の影が
ある日さしたの
あなたゆえの私よ
私ゆえのあなたなの
あなたに逢うと
私の胸ときめく
わたしの胸に幸の影が
ある日さしたの
あなたゆえの私よ
私ゆえのあなたなの
あなたに逢うと
私の胸ときめく
歌手のくみこさんは、越路さんのステージは毎回唄い方が違っていたと述懐しているそうです。
52歳、56歳とどちらも若くして亡くなっていますが、原因はお酒のようです。ひばりさんは家庭的に恵まれず心を慰めるための飲酒でした。越路さんは出演前のステージの袖でいつも震えていて、マネージャがしっかりと手を握っていたそうです。彼女は眠るために睡眠剤とブランデーを飲んでいたそうで、これが短命の原因かも知れません。
以下は、バラ十字会・本庄氏の長文の解説ですが、この歌の背景かも知れません。
彼女の代表作『愛の讃歌』は、越路吹雪さん、美輪明宏さん、加藤登紀子さん、宇多田ヒカルさんなど、多くのアーティストによって日本語でカバーされています。紅白歌合戦でも何度も歌われていますし、実際にはかなり過激な歌詞であるにもかかわらず、結婚披露宴で歌われることもあり、あなたも耳にしたことがあるのではないでしょうか。
ピアフのもうひとつの代表作『ラビアンローズ』(バラ色の人生)は、第二次世界大戦からフランスが復興をとげるときに、ドイツ占領下で傷ついた多くの人たちの心を癒したため、第2の国歌と言われるほど人気があったそうです。
エディット・ピアフの本名はエディット・ガション(Edith Gassion)ですが、このエディットという名は、英国人の看護師イーディス・キャベル(Edith Cavell)から取られたのだそうです。第一次世界大戦でイーディスは、両陣営の兵士の命を差別することなく救い、ドイツ占領下のベルギーから連合国兵士が脱出する手助けをしました。
このような行いが理由で、イーディスは軍法会議で反逆罪の判決を受け、世界中で巻き起こった助命活動にもかかわらず、エディット・ピアフの生まれた1915年にドイツで銃殺刑になっています。
この話を知ったとき、かなり不思議な感じがしました。エディット・ピアフの両親はいったいどのような思いで、生まれたばかりの女の子にこの名前を付けたのでしょうか。自分の娘がイーディス・キャベルと同じように、人が人を愛することの素晴らしさを、命を賭けて世界中に訴えることを望んでいたのでしょうか。それとも、何らかの形でそれを予感していたのでしょうか。
ピアフの母はイタリア系の歌手、父は大道芸人だったそうですが、それ以外には、ほとんど何も知られていないようです。
ピアフは14歳から、パリの貧しい地区でストリート・ミュージシャンをしていました。彼女の人生には、さまざまな悲劇がつきまとっています。16歳のときに近所の運送店の若い配達人に恋をして、未婚のまま彼との間に女の子をもうけマルセルと名付けますが、この子は2歳のときに小児性髄膜炎で亡くなっています。
20歳のときにピアフは、パリの有名なナイトクラブ「ルプレー」の支配人に才能を認められ、その舞台で歌うようになります。身長が142センチしかなかったので、支配人は「ラ・モム・ピアフ」(小さなすずめ)という名を考えだし、最終的には、エディット・ピアフという芸名ができあがります。
飾り気のない黒いドレスを着て舞台に上がり、両手を振り上げて歌詞を強調し、全身を使って歌い上げる彼女のスタイルは、当時の流行とはまったく異なっていたため、最初は人気がなかったようです。しかし、人の心をわしづかみにするようなその歌声に徐々にファンが増え、第二次世界大戦後には、世界的なスターになっています。
戦後間もなくピアフは、フランス領アルジェリア出身のプロボクサーのマルセル・セルダンと出会い、既婚の彼と恋に落ちます。『愛の讃歌』はピアフ自身が作った歌詞ですが、セルダンへの思いを表わしていると言われています。
1949年に、ピアフはコンサートのためにニューヨークに滞在していました。このコンサートでは、新作『愛の讃歌』が発表されることになっていました。同地での試合が決まったセルダンにピアフは、「とても待てないの、早く会いに来て」と手紙を書きます。セルダンは船の予約をキャンセルして飛行機でニューヨークに向かい、あろうことか、事故に遭って亡くなってしまいます。
飛行機の墜落が、親友の女優マレーネ・ディートリッヒからピアフに知らされます。『愛の讃歌』には、あなたが死ねば私も死ぬという内容の歌詞が含まれるため、ディートリッヒは親友のピアフのことを案じて、歌うのを止めるように頼んだそうです。しかし、ピアフは予定通り公演を行ない、この歌が発表されました。
1951年にもピアフを悲劇が襲います。自身が自動車事故に遭ったのです。そのとき鎮痛剤として使ったモルヒネの影響で、ピアフはその後の長期間、モルヒネ中毒で苦しむことになります。
ピアフは二度結婚しています。最初の相手は歌手のジャック・パルで、二番目の夫はテオ・サラポです。サラポは彼女より20歳年下で、ピアフが亡くなる一年前に彼女と結婚し、最後まで添い遂げています。ピアフは48歳のときに亡くなり、これからご説明する経緯から、一本のバラを胸に抱いた姿で埋葬されました。
私は知らない方だったのですが、ピアフをご存知だったのですね。さすがですね。
心配なく、息子さんたちはバラで一杯にしてくれますよ。私もいろいろ言ってありますが、死んでからは彼らの勝手ですから、文句も言えないし、対抗策を考えています。
https://www.youtube.com/watch?v=EsgHtFfa0-M