閑(ひま)じぃのブログ by 閑斎

趣味の紙紐細工創りとその時々の歌、旅の紹介です。遠方には行かなくなり近くで楽しい仲間との歌を楽しんでいます。

「バラ色の人生」

2018-04-11 14:44:44 | 今日の歌

今日はコーラスがお休みで、今日の歌は7日(土)朝聴いた越路吹雪さんの
「バラ色の人生」です。コメントから聴けます。

作詞:岩谷時子 作曲:E. Piaf/P.Louiguy   

心惑わす眼 いつも熱き口
私の想ってる あなたの面影

あなたの胸で
私は聞くやさしの言葉
いつもかわらぬ言葉なのに
私はうれしい
わたしの胸に幸の影が

ある日さしたの
あなたゆえの私よ
私ゆえのあなたなの
あなたに逢うと
私の胸ときめく
わたしの胸に幸の影が

ある日さしたの
あなたゆえの私よ
私ゆえのあなたなの
あなたに逢うと
私の胸ときめく


コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ホタルニン | トップ | ベーヤちゃん »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
「バラ色の人生」 (閑斎)
2018-05-18 20:10:27
越路吹雪さん歌声 の「バラ色の人生」です。
https://www.youtube.com/watch?v=EsgHtFfa0-M
返信する
Unknown (閑斎)
2018-04-15 07:23:59
ゆきママさん
私は知らない方だったのですが、ピアフをご存知だったのですね。さすがですね。
心配なく、息子さんたちはバラで一杯にしてくれますよ。私もいろいろ言ってありますが、死んでからは彼らの勝手ですから、文句も言えないし、対抗策を考えています。
返信する
Unknown (ゆきママ)
2018-04-14 23:48:37
エディットピアフの人生、初めて深く知ることができました。ご両親はどんな想いで娘を名付けたのでしょうね、、、娘を失い、愛する人を突然失い、でも最後の一年は若い夫に愛され幸せに人生を閉じたのだと思います。ぜひ一本のバラを胸に抱いた姿で埋葬された経緯が知りたいです。私は息子たちに<棺はバラだけでいっぱいにして>と頼んでいるのですが、<バラは高いからとげだらけの葉っぱだけにしてやる>と。なんと憎らしいこと!
返信する
Unknown (閑斎)
2018-04-11 14:55:17
朝のラジオで徳光氏があの時代の2つの巨星に美空ひばりと越路吹雪をあげていました。美空ひばりは大衆路線を走りましたが、越路吹雪はシャンソン一本でテレビにも余り出なかったそうです。
歌手のくみこさんは、越路さんのステージは毎回唄い方が違っていたと述懐しているそうです。
52歳、56歳とどちらも若くして亡くなっていますが、原因はお酒のようです。ひばりさんは家庭的に恵まれず心を慰めるための飲酒でした。越路さんは出演前のステージの袖でいつも震えていて、マネージャがしっかりと手を握っていたそうです。彼女は眠るために睡眠剤とブランデーを飲んでいたそうで、これが短命の原因かも知れません。

以下は、バラ十字会・本庄氏の長文の解説ですが、この歌の背景かも知れません。
彼女の代表作『愛の讃歌』は、越路吹雪さん、美輪明宏さん、加藤登紀子さん、宇多田ヒカルさんなど、多くのアーティストによって日本語でカバーされています。紅白歌合戦でも何度も歌われていますし、実際にはかなり過激な歌詞であるにもかかわらず、結婚披露宴で歌われることもあり、あなたも耳にしたことがあるのではないでしょうか。
ピアフのもうひとつの代表作『ラビアンローズ』(バラ色の人生)は、第二次世界大戦からフランスが復興をとげるときに、ドイツ占領下で傷ついた多くの人たちの心を癒したため、第2の国歌と言われるほど人気があったそうです。
エディット・ピアフの本名はエディット・ガション(Edith Gassion)ですが、このエディットという名は、英国人の看護師イーディス・キャベル(Edith Cavell)から取られたのだそうです。第一次世界大戦でイーディスは、両陣営の兵士の命を差別することなく救い、ドイツ占領下のベルギーから連合国兵士が脱出する手助けをしました。
このような行いが理由で、イーディスは軍法会議で反逆罪の判決を受け、世界中で巻き起こった助命活動にもかかわらず、エディット・ピアフの生まれた1915年にドイツで銃殺刑になっています。
この話を知ったとき、かなり不思議な感じがしました。エディット・ピアフの両親はいったいどのような思いで、生まれたばかりの女の子にこの名前を付けたのでしょうか。自分の娘がイーディス・キャベルと同じように、人が人を愛することの素晴らしさを、命を賭けて世界中に訴えることを望んでいたのでしょうか。それとも、何らかの形でそれを予感していたのでしょうか。
ピアフの母はイタリア系の歌手、父は大道芸人だったそうですが、それ以外には、ほとんど何も知られていないようです。
ピアフは14歳から、パリの貧しい地区でストリート・ミュージシャンをしていました。彼女の人生には、さまざまな悲劇がつきまとっています。16歳のときに近所の運送店の若い配達人に恋をして、未婚のまま彼との間に女の子をもうけマルセルと名付けますが、この子は2歳のときに小児性髄膜炎で亡くなっています。
20歳のときにピアフは、パリの有名なナイトクラブ「ルプレー」の支配人に才能を認められ、その舞台で歌うようになります。身長が142センチしかなかったので、支配人は「ラ・モム・ピアフ」(小さなすずめ)という名を考えだし、最終的には、エディット・ピアフという芸名ができあがります。
飾り気のない黒いドレスを着て舞台に上がり、両手を振り上げて歌詞を強調し、全身を使って歌い上げる彼女のスタイルは、当時の流行とはまったく異なっていたため、最初は人気がなかったようです。しかし、人の心をわしづかみにするようなその歌声に徐々にファンが増え、第二次世界大戦後には、世界的なスターになっています。
戦後間もなくピアフは、フランス領アルジェリア出身のプロボクサーのマルセル・セルダンと出会い、既婚の彼と恋に落ちます。『愛の讃歌』はピアフ自身が作った歌詞ですが、セルダンへの思いを表わしていると言われています。

1949年に、ピアフはコンサートのためにニューヨークに滞在していました。このコンサートでは、新作『愛の讃歌』が発表されることになっていました。同地での試合が決まったセルダンにピアフは、「とても待てないの、早く会いに来て」と手紙を書きます。セルダンは船の予約をキャンセルして飛行機でニューヨークに向かい、あろうことか、事故に遭って亡くなってしまいます。

飛行機の墜落が、親友の女優マレーネ・ディートリッヒからピアフに知らされます。『愛の讃歌』には、あなたが死ねば私も死ぬという内容の歌詞が含まれるため、ディートリッヒは親友のピアフのことを案じて、歌うのを止めるように頼んだそうです。しかし、ピアフは予定通り公演を行ない、この歌が発表されました。

1951年にもピアフを悲劇が襲います。自身が自動車事故に遭ったのです。そのとき鎮痛剤として使ったモルヒネの影響で、ピアフはその後の長期間、モルヒネ中毒で苦しむことになります。

ピアフは二度結婚しています。最初の相手は歌手のジャック・パルで、二番目の夫はテオ・サラポです。サラポは彼女より20歳年下で、ピアフが亡くなる一年前に彼女と結婚し、最後まで添い遂げています。ピアフは48歳のときに亡くなり、これからご説明する経緯から、一本のバラを胸に抱いた姿で埋葬されました。


返信する

コメントを投稿

今日の歌」カテゴリの最新記事