*村ちゃんの古城跡散策!

村ちゃんの城跡写真の紹介!

*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *萱津神社(漬物祖神)!

2021-03-04 | Weblog

*萱津神社!(香物祖神)    

*住所=あま市上萱津車屋19

*萱津神社鳥居前!

 

  

萱津神社前     萱津本殿

 

  

香の物境内・碑   香の物境内

 

*香の物殿!

 

*萱津会館!

*古墳時代、大和政権成立期のころ、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、

東征の帰途、萱津に立ち寄り、里人の供した食膳の「塩つけもの」を喜んで食べたと言う伝承がある。

この「塩つけもの」は、海水から手作りの塩と野菜を神前の瓶に入れたものが、

相和し風味豊かになったもので、漬物の起源と言われている。

そのため「萱津神社」は「漬物祖神」として全国の人々から尊崇されている。

*毎年8月21日に催される「香の物祭」は、全国唯一の漬物の神様の祭と言うことで、

あま市無形文化財に指定されている祭礼である。

萱津は古墳時代のころまでは海岸端であり、鎌倉・室町時代のころまでは尾張の代表的な、

宿場町であったと考えられる。その名残りとして、神社の前を通る「旧鎌倉街道」沿いには、

今でも多くの寺院が残っている。

 

 

 

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *織田信長・萱津の合戦!

2021-03-02 | Weblog

 *萱津の合戦!   *織田信長X坂井大膳!  

*住所=あま市上萱津八剱50(付近)上萱津区自主防災倉庫・西側碑!

*萱津古戦場跡・碑!

 

*萱津古戦場跡・碑!

 

*萱津古戦場跡・碑!

清洲城からは、坂井大膳に次ぐ実力者の「坂井甚介」が出陣。

両軍は午前8時頃、萱津ヶ原(現、あま市)で激突した。

数刻に及ぶ激闘の末,清洲勢は主だった者50人が討ち取られ、

さらに主将の「坂井甚介」が柴田勝家と中条家忠に討たれると、

一気に崩れた。萱津の敗報は直ぐに深田城、松葉城にも伝わり、

両城の清洲勢が戦場に駆けつけてくるが、信長軍はこれも撃退。

結局、敵勢はすべて清洲城に逃げ帰り、深田、松葉の二城は、

信長の手に戻った。信長はさらに清洲城に迫り、城下を焼いて裸城にする。

この萱津の戦いの勝利は、信長が侮れない武将であることを、

守護代だけではなく、国中に印象づけたことになった。

*追記!(*萱津ヶ原は現在碑より南西700米周辺と言われている。)

 

萱津古戦場・碑文面!

 いましえの

  萱津ヶ原に

 名をとどむ

  もののふどもの

 夢のまた夢

*(萱津古戦場碑より)

 

 

 

 

 

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *長谷院(ちょうこくいん)!多宝塔(二重塔)!

2021-02-18 | Weblog

*長谷院(ちょうこくいん)!*多宝塔(二重塔)!

*住所=清須市桃栄3-80

*長谷院山門!

 

*山門仁王像!(阿像)

 

*山門仁王像!(吽像)

 

*多宝塔(二重塔)!

 

*多宝塔(二重塔)&  神明社!

 

*名古屋商人「杉屋佐助」碑!

 

*堀江山 長谷院(ちょうこくいん)! *説明板!

「堀江の観音さん」と親しまれるこの寺は、14世紀頃、

奈良・長谷寺の本尊十一面観音への熱烈な信仰から、

この地に生まれた真言宗「新長谷寺」が始まり。

奈良・長谷寺本尊と同木同作という十一面観音を本尊とする。

 

*天正12年(1584)小牧・長久手の兵火で堂を失ったが、

消失を免れた本尊は、清須越により名古屋南寺町に、

移転していた浄土・宗阿弥陀寺の一角に、慶長18年(1613)に移された。

そのため浄土宗に改宗し圓宗院と称した。

承応3年(1738)寺名は堀江山長谷院に戻ったが、

元文3年(1738)の大火で、本寺の阿弥陀寺もろとも消失。

この時も本尊は無事であった。

2度の大火をくぐり抜けた十一面観音への人々の信仰は、

尾張三十三観音霊所二番霊所として高まってゆく。

一方、ここ西堀江の人々の熱い願いから、

天保3年(1832)にこの地に戻る事になった。

尾張藩主の名古屋御下屋敷にあった、仁王門、多宝塔、明王堂などが寄付され、

名古屋の商人「杉屋佐助」らの協力で寺観が整えられていった。

*美濃路から分かれた津島街道が境内を通り、名古屋からの観音巡り、

甚目寺・津島への参詣で人を迎え、「尾張名所図会」はその賑わいを描いている。

*その後、震災、空襲、火災等を経ながら、本尊と多宝塔は当初のまま残り、

他の建物もほぼ復旧し、深々とした森の中に、静かな佇まいを残している。

境内には多くの石造物がみられる。  

*美濃路まちづくり推進協議会!   

*説明板より!

 

 

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!      *清須城土居之址碑!(松陰神社跡碑!)   

2021-02-17 | Weblog

*清須城土居之址碑!(村社・松陰神社址碑)!

住所=清須市鍋片2-40(鍋片公民館)

 

*松陰神社跡碑 & 清須城土居之址・碑!

 

*清須城土居之址・碑

 

*松陰神社跡・碑

 

*松陰神社由来・跡!

*松陰神社碑文!

「松陰神社跡」

「今の地の歴史は古く清須城外堀土井

 の跡と伝われ約五百年の樹齢と伝わ

 れし景勝の穴松のふもとに松陰神社

 が鎮座せられしが今回松陰神社と山

 神社と合祀し松山神社を設立致しま

 した故に松陰神社跡としてこの碑

 を立てるもので有ります。

    *碑文より!

 

*清洲城土居之跡図!

清須城外土井(居)之跡と伝わる!

「御土居松」とは、

清須城外郭の南側、馬出(山王口)近くに生えていた松である。

当時松陰神社境内にあり、樹齢500年であったという。

「清須城土居之址」の石碑は昭和3年2月11日に建設されている。

「御土居松」はすでに存在しない。かわりに「松陰神社跡」の碑が

建っている。碑の銘は昭和41年10月と記され、

その頃合祀・鎮座したと見られる。

「御土居松」もその頃には枯れていたであろう。

 

*清洲城内外土居跡(現在上は城内・下は城外)

 

*清須城外堀土井(居)之跡・碑! 現在の全景!


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *今川義元塚供養塔! 正覚寺(清須市)

2021-02-16 | Weblog

*今川義元塚供養塔・碑!   

*住所=清須市須ケ口332(正覚寺境内・碑)!

*正覚寺・碑!

 

  

正覚寺参道!    今川塚供養塔(境内)!

 

*今川塚供養碑!

 

*今川塚説明板!

*今川塚供養碑!

永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで織田信長は、

今川義元を討ち取りました。「信長公記」によると、

清須城外の須ケ口に義元塚(今川塚)を築いて丁寧に弔ったとされています。

その後,寛文元年(1661)に正覚寺六代三誉上人と、

念仏講同行14名の名前が刻まれた生前供養のための、石碑を建立しました。

これが、今川塚供養碑と言い伝えられています。

美濃路沿いの須ケ口2334-3の山内伊之彦氏所有地内に、

建てられていたものを、平成19年(2007)現在の(正覚寺境内)に、移設しました。

「南無阿弥陀仏為 念仏講同行14人 正覚寺六代

 三誉上人 逆修(十四名記名) 設敬」

「当寛文元暦 辛丑八月十五日 春日井郡 清須外町」

*清須市教育委員会! 説明版より!

 

*大雄山正覚寺(浄土宗)!

関ケ原の戦いの功で清洲城主となった松平忠吉(徳川家康四男)が、

亡母西郷局(後に宝台院という)の菩提寺として、

前任地の忍(埼玉県行田市)にあった大雄山正覚寺を慶長8年(1603)に、

ここ清須外町に移したのが当寺の始まり。満誉上人を開山とした。

忠吉は寺野村で百石の寺領を寄進するなど、保護に努めたが、

慶長12年(1607)27才の若さで跡継ぎもなく江戸にて逝去した。

家康の命により葬儀は増上寺で営まれた、位牌は当寺に安置された。

翌年の一周忌法要は、家康制礼のもと、21日間という長行が当寺行われた。

慶長15年(1610)に始まる清洲越で、当寺は忠吉の法名から、

大雄山性高院と改名して名古屋に移され、忠吉の菩提寺となった。

一方、その後すぐ清須の旧地にも、旧名のままで再建されたのが、

当寺で、宝台院の菩提、性高院の霊牌、忠吉に殉じた4名の家臣の、

位牌を護る由緒ある寺院としてこの地に続いてきた。

美濃路に面したこの寺では、忠吉ゆかりの宝物のほか、

忠吉母子の供養塔である宝篋印塔、佛足石桶狭間の戦いで、

倒れた今川義元に関わる「今川塚供養碑」平成19年(2007)移設、

須ケ口一里塚にあった道標など、多くの歴史に出会うことができる。

*美濃路まちづくり推進協議会!  

*説明板より!

 

 

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *源平墨俣川合戦場跡!

2021-02-14 | Weblog

*源平墨俣川合戦場跡!    

*小熊山一乗寺!(臨済宗妙心寺派)

住所=羽島市小熊町西小熊4292

 

*小熊山 一乗寺碑!

 

*一乗寺参道!

 

*一乗寺境内!

 

*一乗寺・本堂!

*弘仁10年(819)空海の開基で真言宗の寺院として、境内18町余歩の、

広い区域に七堂伽藍を建立し、大師自ら橋杭で延命地蔵菩薩を彫られ、

七間四方の堂に安置し *「朽残る真砂の下の橋はしら又道かえて人わたすなり」と、

歌を読まれた。当時は寺中に12坊があり、尊信の中心となっていた。

時を経て源頼朝は、この菩提の寄瑞を厚く信仰し、文治3年(1187)、

武運の祈願をしたところ勝利を得たため、本堂を再建したが後に兵火にあい、

寺院建物が全部消失した。このことを霊夢で知った頼朝は、再び伽藍を建築し、

後の世の手当てとして千両目の団金に, *「朝日さす夕日かがやく木のもとに

こがね千両後の世のたから」と、一首の和歌を添えて付与したという。

 

*一乗寺由来・説明板!(羽島市観光協会説明板より)

又、治承・寿永の乱(源平の合戦)における養和元年(1181)の、

墨俣川(現長良川)の戦いでは、墨俣から西小熊(一乗寺付近)が主戦場となり、

多くの戦死者がでた。この時の戦死者を供養するため、誓浄寺と本養寺の二つの

寺が建立され、多くの五輪墓石が作られたが、天正14年(1586)の、

大洪水でこの二つの寺が流され五輪墓石も散逸してしまった。

*境川河川改修工事の際に、川底から多くの五輪暮石が出土したため、

その一部が当寺に無縁暮石として安置され、墨俣川の戦いの激しさを今に伝えている。

 

*織田信長が岐阜在住の時、この菩薩の霊威のあるを知り、

永禄11年(1568)菩薩を岐阜に移したが、天正2年(1574)3月の、

初めのある夜、この菩薩が枕頭に立たれ、元の地に帰りたいと告げられた。

帰す事を惜しんだ信長は、尊像を留めてその地名を小熊と改め今にその地名を残している。

その後一乗寺は一時衰退したが、万治元年(1658)に臨済宗妙心寺派の寺として、

江西長老により開山された。当寺に現在安置してある地蔵菩薩は慈覚大師の彫刻で、

開山した江西長老が尾張国田嶋村から請い受けて空堂に安置したものである。

さらに、貞享2年(1685)冬の頃、当山第3世月空紹長老に、

「汝我を信ずる事久し其心何ぞ空しからんや、先の尊像は彼地に在りといえども

神此処に在す弥供養を怠る事なかれ」という霊夢があった。

よって不二冥合の尊像と崇め、諸堂ことごとく再建した。

時に元禄10年(1697)でこの寺の中興の開山と称している。

*羽島市観光協会! *説明板より!

 

 

 

 

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *源平墨俣川の合戦!

2021-02-13 | Weblog

*源平墨俣川の合戦!    

*住所=大垣市墨俣町下宿1

 

*義円公園!

 

*源義円供養塔!

 

*源平墨俣川古戦場跡碑

 

*源平墨俣川の合戦! 説明板!

*養和元年(1181)3月10日長良川を挟んで源平の大激戦がここで展開された。

世に言う源平墨俣川の合戦である。 同年2月4日「平清盛」が病死する。

*東国源氏は勢を得て京へ攻め上る。これを迎え討つため、平重衡(しげひら)を、

総大将として維盛・通盛・忠度・知度・盛綱・盛久等の武将7千余り騎、杭瀬川を渡り、

右岸の墨俣側(上下宿)に陣す。

*一方源氏の将、行家(新宮十郎蔵人)は千余騎を率いて左岸の羽島側(小熊)に着陣す。

源頼朝は行家の応援のため弟の「源義円」をつけ西上させたが、義円は行家に合流せず、

二町を隔てて軍を整えた。義円は行家に先陣されては兄頼朝に合す顔がないと考え唯一人馬に乗り、

敵陣側の西岸にひそみ夜明けとともに「義円は今日の大将軍なり」と名乗って先陣のさきがけをしょと、

白む夜明けを待っていたところ、見廻り夜警兵の見とがめられ、

「兵衛佐頼朝の弟で伯爵卿の公義円という者だ」というが早いか勇敢に戦ったが武運つたなく、

力つき「平盛綱」に討たれた。

*源氏戦利あらず、尾張源氏の泉太郎重光兄弟は討死し、行家の子太郎光家兄弟は、

平忠度に捕えられた。討死・溺死する者690余人に及んだ。

敗れた源氏は尾張に退き又、矢作川(三河国)の東岸まで退き、東国源氏の大兵来ると、

宣伝し勢いを盛り返して、再び平家と戦い義経公・弁慶などの活躍となる。

その後、壇ノ浦の戦いで遂に源氏に平家は亡ぼされる事となった。

*源義円は頼朝の異腹の弟で義朝の妾・常盤御前の子・義経と同腹の兄にあたる。

兄の挙兵を聞き、比叡山の僧兵のごとく坊主頭を頭巾に包み、墨染の衣を着て鎌倉へ、

駆けつけたと思われる。 墨俣川の合戦で悲運の生涯を閉じた、「25才」であった。 

里人義円地蔵を刻み堂を建て、毎年3月10日に供養を続けている。

*ここより150メートル西に義円の墓がある。

昭和56年3月10日に、800年祭が行われた。

*(源平盛衰記・平家物語・吾妻鑑より)  

*説明板より!

 

*源義円墓所

 

*義円墓所!

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *国宝犬山城・天守内部!

2021-01-30 | Weblog

*犬山城!  *天守内部! 

*住所=犬山市大字犬山字北古券65

   

天守梁          天守階段

 

   

付け櫓より大手門       付け櫓説明板

 

   

天守内部        上段の間

 

  

初代城主成瀬正成  12代成瀬正俊

*江戸時代元和3年(1617)尾張藩付家老「成瀬正成」が城主となってから、

 成瀬氏が代々受け継いで幕末を迎えました。

 明治維新に犬山城は廃城となり、天守を除いて櫓や門の大部分は、

 取り壊され公園となりました。

*明治24年(1891)の濃尾震災で天守は大きな被害に見舞われました。

 同28年(1895)、愛知県から修復を条件に旧城主である、

 「成瀬氏」に譲渡されました。

 お城(天守)が平成の時代まで一個人(成瀬氏)の所有でした。

 現在犬山城天守は「犬山城白帝文庫・成瀬氏」の所有となり、

 犬山市が管理を行われています。   犬山市パンフより!

天守より(南)城下・小牧山城・名古屋城方面(尾張国)

 

天守より(北西)岐阜城方面(美濃国)

     

天守より(西)木曽川・伊木山城(美濃国)

*織田信長が「とろろ汁」(山芋)を自ら家来に振る舞った伊木山城跡!

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *国宝犬山城!

2021-01-29 | Weblog

*国宝犬山城!     

*住所=愛知県犬山市大字犬山字北古券65

*国宝犬山城!南西より

 

   

犬山城碑     大手道

 

   

大手道石垣    大手門前石垣

        

   

大手門     犬山城天守

 

*国宝犬山城天守!

*犬山城は織田信長の叔父である「織田信康」が、天文6年(1537)に、

 木之下城を移して築城したと伝えられています。

 そののち江戸時代初期にかけて城主はめまぐるしく入れ替わりました。

*天正12年(1584)小牧・長久手合戦の際には、羽柴(豊臣)秀吉は大軍を率いて、

 この城に入り、小牧山に陣をしいた徳川家康と戦いました。

 

 

*国宝犬山城!*木曽川!

*(北側より・岐阜美濃側より)

 

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!    *織田信長の居城!小牧山城!

2021-01-22 | Weblog

*織田信長居城!  *小牧山城!     

*住所=小牧市堀ノ内1丁目1

*小牧山城天守!(歴史資料館)!

*永禄六年(1563)織田信長が美濃(岐阜)に進出する大志とともに、

 地の利を得たこの山に目を付け、清州城から移ると共に、山全体を、

 要害にするため、山頂から麓まで五段の塁濠をつくり、山頂に屋敷、

 南側に大手道、北側の搦め手道を作りました。

 

      

主郭登り口 徳川家   天守入口

 

   

天守より濃尾平野  天守裏側石垣!

 

*天守裏側石垣!(信長時代石垣)!

*小牧山の中腹には馬場を作ったり、井戸を掘ったり、また要所に重臣の、

 邸宅を置きました。当時は、北側は池沼で自然の要害であったため、

 工事は省かれましたが、南側は原野であったため大工事であって、

 あちこちに堀を作りましたが、それらは今なお山中に見られます。

 その後信長は美濃に攻め入って、岐阜稲葉城に移り住んだので、

 この山は自然廃城となりました。

 そして小牧・長久手の戦いで再び歴史の舞台に登場してきます。

                   小牧市・説明板より!

*天守東側・発掘調査中!

 

*天守西側転落石&説明板!

 

*天守東側より!  御嶽山遠望!

 

*小牧山城大手道(信長時代)!

 

*徳川源明公墓碑!

*尾張藩中興の祖と言われた「尾張徳川家九代藩主・徳川宗睦源明公」の、

 墓碑である。 元々は、尾張徳川家の菩提寺である、名古屋市東区の、

 建中寺にあったが、昭和二十八年に行われた区画整理のため、

 移転を余儀なくされ、徳川家に縁が深い小牧山のこの場所に、

 移設されたものである。 昭和二十二年十二月  

             小牧市教育委員会! 説明板より! 

*徳川家九代藩主・徳川宗睦(むねちか)源明公墓碑!

 

*旧小牧市役所跡地! 説明板!

 

*旧市役所跡地! 

*現在土塁再現!

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!    *長宗我部盛親陣跡・山頂編(関ケ原合戦)

2021-01-14 | Weblog

*長宗我部盛親陣跡・山頂部(関ケ原合戦)! 

*住所=岐阜県不破郡垂井町栗原

*竹中半兵衛・閑居の地!(頂上)

*栗原連理の木!(頂上)

*九十九坊!(途中)

*清水寺公園!(麓陣跡)入口!

*清水寺公園入口!(長宗我部陣跡・麓陣跡)*説明板あり!

*長宗我部陣跡入口!(頂上陣跡)

*竹中半兵衛閑居地入口!(頂上)

*栗原連理のサカキ入口!(頂上)

*九十九坊入口!(頂上途中)

 

*長宗我部陣跡!(左・頂上部)・ (右・清水寺公園・麓陣跡)

 

*長宗我部陣跡!案内板!(頂上部)

*栗原九十九坊!(途中)

*栗原連理の榊!(頂上)

 

*栗原九十九坊!

 

*長宗我部盛親陣跡!(頂上部)

 

長宗我部陣跡!(頂上部)

*四国の覇者として名高い「長宗我部元親」は、関ケ原の戦い前年に没し、

 子・盛親が土佐一国(高知県)を継いでいた。

 当初は東軍に与しようとしたが、近江国水口(滋賀県甲賀市)で、

 東下の進路を阻まれ、やむなく西軍に属する。

 その後は西軍主力にの一翼を担い、伊勢方面の攻略で活躍した。

 決戦当日は毛利秀元ら諸隊とともに南宮山に布陣したが、

 東軍への内通した吉川広家に阻まれ参戦できず、西軍の敗色を見て、

 戦わずして帰国した。戦後、領地は没収され、浪人として京都に潜伏する。

 その後大坂の陣では、豊臣方として活躍したが、敗北後に捕らえられ、

 斬首された。  *説明板より!

 

*栗原連理の榊!

 

*このサカキは、推定樹齢四百年の古木で、幹が根元で二つに分かれおり、

 一方の幹から出た枝が他方の幹にゆ着して、連理の状態なっている部分が、

 数多く見られる。このことから、古来「縁結びの榊」と、

 言い伝えられている。垂井町教育委員会! 説明板より!

 

*竹中半兵衛! 閑居地・祠!

 

*竹中半兵衛!  *説明板!

  栗原山

  竹中半兵衛

  重治公閑居地

*推定記念樹  *説明版より!

*竹中半兵衛が斎藤家を去り、浅井長政の世話になった後に、

 戻って、ここに隠棲した地と言われています。

 連理のサカキは樹齢四百年なので大体合いますが、

 半兵衛を家臣にする為に、信長の命で秀吉が誘いに行きます。

 三度目にして信長ではなく「秀吉」ならと了承します。

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *長宗我部盛親陣跡(関ケ原合戦)!

2021-01-12 | Weblog

*長宗我部盛親陣跡 

*住所=岐阜県不破郡垂井町栗原

   

長宗我部陣跡(麓) 説明板

 

   

おかげ様地蔵祠 淡墨桜記念樹碑

 

*長宗我部盛親陣跡(麓陣跡)!

*長宗我部盛親は土佐二十二万の領主!

  盛親は関ケ原の合戦に西軍に属し、ここ栗原山麓に六千人の兵と、

  ともに陣を敷きましたが、吉川広家の内通により傍観軍となり、

  西軍の敗色を見て戦わずして帰国の途につきました。

  途中、牧田川の金屋にて、松ノ木城主「徳永寿昌」の軍六百人、

  今尾城主「市橋長勝」の軍三百人の東軍勢との間に戦いがありました。

  帰国後は、領地を没収され浪人となり、大坂夏の陣では、

  豊臣方で活躍したが,捕らえられて、斬首されました。

*垂井町教育委員会! 

*説明板より!


村ちゃんの歴史ぶらり旅!      *長束正家(関ケ原合戦)陣跡

2021-01-11 | Weblog

*長束正家(関ケ原合戦)陣跡! 

*住所=岐阜県不破郡垂井町栗原79

 

   

長束正家陣跡全景 正家陣跡祠

 

   

陣跡より濃尾平野 濃尾平野

 

*長束正家陣跡!

 

*陣跡説明板!

*長束正家は、石田三成らとともに五奉の一員として、

 豊臣政権下で活躍した。行政手腕に優れ、特に算術に秀でていたという。

 関ケ原の戦い当時は、近江国水口(滋賀県甲賀市)で12万石を領した。

 関ケ原の戦いでは西軍に属し、三成らと毛利輝元を西軍に引き込む等の

 活躍を見せる。決戦当日は南宮山のふもとに布陣し、

 東軍の池田輝政隊と銃撃戦を展開したが、東軍への内通した吉川広家の、

 妨害により攻撃に出られなかった。

 敗戦後は水口城へ帰城したが、城を攻めた池田輝政の弟・長吉に欺かれ、

 切腹させられた。 

*説明板より!