goo blog サービス終了のお知らせ 

艦船、つれづれ雑記帖

艦船模型好きの筆者が、つれづれなるままにつづる考証とか批評とか

敷設艦「常磐」の機雷敷設軌条について

2011年05月26日 | 敷設艦「常磐」
2011年5月発売の「艦船模型スペシャル」40号の「紀元二千六百年特別観艦式を作ろう」コーナーでは、敷設艦「常磐」の作例が載っています。いろいろ言いたいこともありますが、普段、あまり陽があたらない、このような艦種が雑誌で取り上げられることは単純にうれしく思います。
その作例のように、「常磐」の機雷敷設軌条は、後部上甲板と中甲板に各2条ずつと表現されるのが、一般的のようです。

しかし、昭和2年の海軍省公文備考「軍艦常磐機雷爆発事件(23)」報告書(アジア歴史資料センターHP参照、レファレンスコードC0401567910)には、「常磐」の軌条配置の平面図が載っています。それをみると、機雷敷設軌条は、上甲板も中甲板も、ほぼ艦全体にわたって設けられているのがわかります。
この図の存在を知る前、艦内に機雷を500個も搭載することができるのだろうかと疑問に思っていましたが、ここまで艦の各所に積むところがあるのなら、500個も可能だと納得したものです。おそらく、太平洋戦争時も、93式機雷500個積載可とされていますので、そんなに変わらなかったのではないかと推測します。

この図には後部上甲板に軌条がハの字型になった部分がありますが、ここは機雷積み卸し用のレールらしいです。しかし、昭和3年の海軍省公文備考「佐廠第6号 軍艦常磐後部機雷揚卸用ダビット改装の件」(アジア歴史資料センター、レファレンスコードC04016198700)によると、このころに、ハの字の部分は「普段全く使用しないため」撤去されたようです。学研歴史群像の太平洋戦史シリーズ51「真実の艦艇史2」には、終戦時、大湊の海岸に掴座した「常磐」を後部上空から撮した写真が載っていますが、たしかにハの字部分は見あたりません。

アジア歴史資料センターのHPによって、防衛研究所に所蔵されていた旧海軍の資料の一部が、私のような遠方でも手軽に閲覧できるようになったことは本当にうれしいことです。3年ほど前、この図をはじめて見つけた時には、本当に感激しました。長年の疑問が氷解する資料に出会った時の喜びは、リサーチ作業の醍醐味ともいえるものかもしれません。

敷設艦「常磐」の武装について(その3)

2011年05月25日 | 敷設艦「常磐」
雑然としてますので、私が推定する太平洋戦争中の「常磐」の兵装変遷をまとめたいと思います。

1、開戦時~昭和19年3月
 20センチ連装砲塔1基、15センチ単装砲8門、8センチ高角砲1門(後艦橋中央)、8センチ単装砲2門(前艦橋ウイング両舷中より)、40ミリ単装機銃2基(後艦橋ウイング両端)
2、昭和19年4月~昭和20年1月
 15センチ単装砲8門 40ミリ単装機銃2基(主砲撤去跡の機銃台)、8センチ高角砲1門、25ミリ連装機銃4基(前艦橋ウイング両端と、後艦橋ウイング両端)
3、昭和20年2月~終戦時
 15センチ単装砲4門、40ミリ単装機銃2基、8センチ高角砲1門、25ミリ連装機銃10基(上記に加え、艦橋前の新設機銃台に2基、後艦橋前の副砲郭上両舷に2基、後ろ甲板両舷に2基)

と推定しました。

学研歴史群像「真実の艦艇史2」で田村俊夫氏が「常磐」の太平洋戦争中の修理記録を書かれています。
一部抜粋すると。
17・3・24~17・5・10 佐世保にて修理(入渠あり)
18・6・13~18・7・6  佐世保にて修理(入渠あり)
18・12・28~19・1・24佐世保にて修理(入渠あり)
19・3・26~19・4・16 佐世保にて修理(入渠あり、機銃増備工事)注、このときに主砲撤去
19・6・20~19・7・19 佐世保にて修理(入渠あり、22号、13号電探装備)
20・1・12~20・2・4  佐世保にて修理(入渠あり、機銃増備工事)
20・4・17~20・4・28 佐世保にて修理(入渠あり、4・14触雷損傷)
20・6・3~20・6・30  舞鶴にて修理(6・3舞鶴港口にて触雷損傷)

それを参照して、私は、開戦時から昭和19年3月まで大きな機銃増設などはなかったと判断。
15センチ副砲の4門の撤去は、佐世保鎮守府の戦時日誌等が存在しないため不明ですが、2回目の機銃増設時の代替重量と推測。
3の状態について、福井静夫著作集7巻「日本空母物語」掲載の「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」に、昭和20年1月20日現在の「常磐」の図があり、それを反映。ただし、田村俊夫氏は、「真実の艦艇史2」で、後甲板の2基の25ミリ連装機銃については、「3連装機銃だったとの元乗務員の証言がある」と紹介しています。田村氏は、全体として25ミリ連装8基、同3連装2基と推定されています。
25ミリ単装機銃については、私は資料等で判断できず、記入していません。田村氏は10~15基ぐらい装備したと表現されています。

また、「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」では、後甲板の2基の機銃については、高められた機銃台になっていますが、「真実の艦艇史2」では、甲板に直接設置したという証言があったとのことです。たしかに、同誌にのっている写真をみると、高められた機銃台はないようにみえます。

敷設艦「常磐」の武装について(その2)

2011年05月24日 | 敷設艦「常磐」
最初に訂正。前回、最後の部分で40センチ単装機銃と書きましたが、40ミリ単装機銃の誤りです。そんなに大きな機銃はないですよね。

さて、私が、40ミリ単装機銃の設置場所を後艦橋ウイング両端とした根拠ですが、防衛研究所図書館所蔵のアルバムから見つけた昭和15年8月パラオのコツソル水道で撮影された「常磐」の写真から推定しました。

アルバムの題名は「第23特別根拠地隊関係写真 軍艦常盤南洋巡航時の記念写真」(請求番号は「8写真70」)で、残念ながら、そのアルバムの中でも「常磐」が写っている写真は、それ一枚しかありません。

その写真は「常磐」を真後ろから取った写真で、やや逆光ぎみでもあり、あまり情報は得られませんが、判別できるところから言えるのは、

1、その当時は、マストは、世界の艦船増刊「日本海軍特務艦史」に載っている昭和10年ごろの写真と同じぐらい高さ。
2、後艦橋ウイングの両端部分に、白いカバーに覆われた構造物がある(探照灯とは別に)。
3、そこの部分は、最終時に見られるようなブルワークではなく、他の部分と同じ普通の手すりにキャンパス張り。
4、その部分の下の支柱もやや太くなっている感じがする

というところでしょうか。
私にははっきり判別できるわけではありませんが、この白いカバーに覆われた構造物が40ミリ単装機銃ではないかと推測しました。
ちょうど、世界の艦船増刊「日本海軍特務艦史」に載っている最終時の「常磐」の写真の40ミリ単装機銃につけられたカバーと似ている感じがするからです。

防衛研究所から許可を得ていませんので、その写真そのものはアップしませんが、興味のある方は、一度、東京・恵比寿の防衛研で閲覧してみてもいいかもしれません。

あと、昭和12年の海軍省年報極秘版に記載のあった12ミリ機銃2基についてですが、装備場所も含めて、昭和15年時点であったのかなかったのかについて、私には全然わかりません。私は12ミリを撤去して40ミリ単装を装備したと勝手に推定しましたが、根拠は何もありません。

ひょっとしたら、前艦橋のウイングのあたりに設置されていたのかもしれませんが、そこには8センチ単装砲があるし、「日本特務艦史」の中の写真には、機銃っぽいのも写っている写真もありますが、それは機銃じゃないかもしれないし、大抵の模型誌では省略している3年式機銃かもしれないし、なんとも判断がつきません。

詳しい方のご教授いただければ幸いです。

敷設艦「常磐」の武装について

2011年05月23日 | 敷設艦「常磐」
昭和12年海軍省年報極秘版(防衛研究所図書室所蔵)をみると、敷設艦「常磐」の武装は(昭和13年3月31日調べ)で、20センチ砲2門、15センチ砲8門、8センチ砲2門、8センチ高角砲1門、毘式12ミリ機銃2門、3年式機銃3門となっています。

学研歴史群像の太平洋戦史シリーズ51「真実の艦艇史2」誌でも、田村俊夫氏は「常磐」の開戦時の武装について、上記とほぼ同様に記載されています。(3年式機銃については省略したものと思われる)。たぶん、根拠は上記の年報と思われます。

ところが、佐世保鎮守府戦時日誌(昭和19年2月1日~同2月29日、アジア歴史資料センターHP参照)を見ると、官房機密第558号として「軍艦常磐に機銃装備等の件訓令」という記述が出てきます。抜粋すると。

1、工事要領
イ、45口径20センチ連装砲塔1基を撤去還納しその跡を適宜の鋼板をもって覆う
ロ、後艦橋装備の40ミリ単装機銃2基を20センチ砲塔撤去跡に移設す
ハ、前艦橋前方の8センチ砲2基を撤去還納す
ニ、8センチ撤去跡付近および40ミリ機銃撤去跡付近に、25ミリ2連装機銃1基づつ計4基を装備す
ホ、6センチ高角双眼鏡望遠鏡を前艦橋に2組、後艦橋に1組適宜の位置に装備す

つまり、「常磐」最終時に艦橋前にある40ミリ単装機銃2基は、もともと後艦橋に設置されていたものということになります。
前艦橋の8センチ単装砲は、世界の艦船増刊「日本海軍特務艦史」に載っている写真で、前艦橋ウイングの中央よりに装備されているのが確認できますが、この頃まで残っていたことになります。

実際、機雷部隊(第18戦隊)戦闘詳報(昭和19年1月25日~同3月25日)を見ると、船体・兵器・機関の修理整備の欄の「常磐」について、3月26日から4月10日に佐世保工廠で訓令による機銃増備工事を行ったと書いてあります。
内容は、主砲の撤去と、40ミリ機銃を主砲撤去跡に装備換えしたこと、25ミリ連装機銃を4基増備したこと、敷設軌道を増設し93式機雷500個の搭載が可能になったとの内容です。

以上のことから、私は開戦時の「常磐」の武装は、20センチ連装砲塔1基、15センチ砲8門、8センチ高角砲1門、前艦橋ウイング中央よりに8センチ単装砲各1門(計2門)、後艦橋ウイングの両端に40ミリ単装機銃各1基(計2基)と推測しています。

40センチ単装機銃を後艦橋ウイング両端とした根拠は次回に。