2011年5月発売の「艦船模型スペシャル」40号の「紀元二千六百年特別観艦式を作ろう」コーナーでは、敷設艦「常磐」の作例が載っています。いろいろ言いたいこともありますが、普段、あまり陽があたらない、このような艦種が雑誌で取り上げられることは単純にうれしく思います。
その作例のように、「常磐」の機雷敷設軌条は、後部上甲板と中甲板に各2条ずつと表現されるのが、一般的のようです。
しかし、昭和2年の海軍省公文備考「軍艦常磐機雷爆発事件(23)」報告書(アジア歴史資料センターHP参照、レファレンスコードC0401567910)には、「常磐」の軌条配置の平面図が載っています。それをみると、機雷敷設軌条は、上甲板も中甲板も、ほぼ艦全体にわたって設けられているのがわかります。
この図の存在を知る前、艦内に機雷を500個も搭載することができるのだろうかと疑問に思っていましたが、ここまで艦の各所に積むところがあるのなら、500個も可能だと納得したものです。おそらく、太平洋戦争時も、93式機雷500個積載可とされていますので、そんなに変わらなかったのではないかと推測します。
この図には後部上甲板に軌条がハの字型になった部分がありますが、ここは機雷積み卸し用のレールらしいです。しかし、昭和3年の海軍省公文備考「佐廠第6号 軍艦常磐後部機雷揚卸用ダビット改装の件」(アジア歴史資料センター、レファレンスコードC04016198700)によると、このころに、ハの字の部分は「普段全く使用しないため」撤去されたようです。学研歴史群像の太平洋戦史シリーズ51「真実の艦艇史2」には、終戦時、大湊の海岸に掴座した「常磐」を後部上空から撮した写真が載っていますが、たしかにハの字部分は見あたりません。
アジア歴史資料センターのHPによって、防衛研究所に所蔵されていた旧海軍の資料の一部が、私のような遠方でも手軽に閲覧できるようになったことは本当にうれしいことです。3年ほど前、この図をはじめて見つけた時には、本当に感激しました。長年の疑問が氷解する資料に出会った時の喜びは、リサーチ作業の醍醐味ともいえるものかもしれません。
その作例のように、「常磐」の機雷敷設軌条は、後部上甲板と中甲板に各2条ずつと表現されるのが、一般的のようです。
しかし、昭和2年の海軍省公文備考「軍艦常磐機雷爆発事件(23)」報告書(アジア歴史資料センターHP参照、レファレンスコードC0401567910)には、「常磐」の軌条配置の平面図が載っています。それをみると、機雷敷設軌条は、上甲板も中甲板も、ほぼ艦全体にわたって設けられているのがわかります。
この図の存在を知る前、艦内に機雷を500個も搭載することができるのだろうかと疑問に思っていましたが、ここまで艦の各所に積むところがあるのなら、500個も可能だと納得したものです。おそらく、太平洋戦争時も、93式機雷500個積載可とされていますので、そんなに変わらなかったのではないかと推測します。
この図には後部上甲板に軌条がハの字型になった部分がありますが、ここは機雷積み卸し用のレールらしいです。しかし、昭和3年の海軍省公文備考「佐廠第6号 軍艦常磐後部機雷揚卸用ダビット改装の件」(アジア歴史資料センター、レファレンスコードC04016198700)によると、このころに、ハの字の部分は「普段全く使用しないため」撤去されたようです。学研歴史群像の太平洋戦史シリーズ51「真実の艦艇史2」には、終戦時、大湊の海岸に掴座した「常磐」を後部上空から撮した写真が載っていますが、たしかにハの字部分は見あたりません。
アジア歴史資料センターのHPによって、防衛研究所に所蔵されていた旧海軍の資料の一部が、私のような遠方でも手軽に閲覧できるようになったことは本当にうれしいことです。3年ほど前、この図をはじめて見つけた時には、本当に感激しました。長年の疑問が氷解する資料に出会った時の喜びは、リサーチ作業の醍醐味ともいえるものかもしれません。