以前に当ブログで紹介した、防衛研究所所蔵の昭和15年8月パラオで撮影した「常磐」の写真ですが、このたび、防衛研究所から掲載許可をいただきましたのでアップします。
アルバムの題名は「第23特別根拠地隊関係写真 軍艦常盤南洋巡航時の記念写真」(請求番号「8写真70」)です。昭和15年8月パラオのコツソル水道で撮影したものです。
このような貴重な写真を当ブログで紹介できますことを、本当にうれしく思います。ご許可いただきました防衛研究所には、深く感謝申し上げたいと思います。
後艦橋ウイング両端に、私が40ミリ単装機銃と推察する白いカバーがあるのがわかると思います。
皆様のご考察もたまわりたいものです。
なお、画像中に「防衛研究所所蔵」の文字を入れております。ご了承ください。

アルバムの題名は「第23特別根拠地隊関係写真 軍艦常盤南洋巡航時の記念写真」(請求番号「8写真70」)です。昭和15年8月パラオのコツソル水道で撮影したものです。
このような貴重な写真を当ブログで紹介できますことを、本当にうれしく思います。ご許可いただきました防衛研究所には、深く感謝申し上げたいと思います。
後艦橋ウイング両端に、私が40ミリ単装機銃と推察する白いカバーがあるのがわかると思います。
皆様のご考察もたまわりたいものです。
なお、画像中に「防衛研究所所蔵」の文字を入れております。ご了承ください。

昭和11年海軍公文備考「佐鎮機密第292 廃艦第7号に関する件」
(アジア歴史資料センターHP参照、レファレンスコードC05035392600)という文書があります。
廃艦第7号(旧沖島?見島?)を、海没処分する際の報告書で、その際「常磐」は曳航役を務めています。
その書類の47ページに、「常磐」後甲板の一部が写っている写真があります。写りはあまりよくありませんが、それまで私は、敷設艦時代の同艦の後甲板を艦上から撮した写真を見たことがありませんので、貴重な写真だと思います。
機雷敷設指揮塔脇に、機雷揚卸用のダビッドがあるのも良くわかります。
興味のある方はぜひ一度ごらんください。
(アジア歴史資料センターHP参照、レファレンスコードC05035392600)という文書があります。
廃艦第7号(旧沖島?見島?)を、海没処分する際の報告書で、その際「常磐」は曳航役を務めています。
その書類の47ページに、「常磐」後甲板の一部が写っている写真があります。写りはあまりよくありませんが、それまで私は、敷設艦時代の同艦の後甲板を艦上から撮した写真を見たことがありませんので、貴重な写真だと思います。
機雷敷設指揮塔脇に、機雷揚卸用のダビッドがあるのも良くわかります。
興味のある方はぜひ一度ごらんください。
大仰なタイトルをつけましたが、確固たる結論は得られませんでした。
ただ、昭和3年海軍省公文備考「佐廠第6号 軍艦常磐後部機雷揚卸用ダビット改装の件」(アジア歴史資料センターHP参照、レファレンスコードC04016198700)という文書で、後甲板の敷設レールがハの字になった部分(同HPの昭和2年海軍省公文備考「軍艦常磐機雷爆発事件(23)」報告書を参照のこと レファレンスコードC04015679200)の既設ダビットを、「全然使用するを得ざるのみならず、6号機雷に対しては力量不足するをもって、後部機雷指揮塔の左右舷に移し、その力量強度を増し、上中甲板レール何れにも利用し得る如くすなすを要す」と書かれています。たしかに、後部機雷敷設指揮塔脇に、ダビットが見える写真もあることから、後部のこの部分から積み卸ししていたのは確かだと思います。
また、昭和10年海軍省公文備考「佐廠第291号 軍艦常磐前後部ダビット改装の件」(レファレンスコードC05034260800)を見ると、前部にもダビットがあったことが伺えます。では、どこにあったのかというところは、私は写真や資料等では確認できませんでした。ただ、「軍艦常磐機雷爆発事件(23)」の平面図を見ると、上甲板の20センチ砲塔脇あたりにあるレール付近がちょうどいいのではと考えています。
2011年5月発行の「艦船模型スペシャル40」の「紀元二千六百年特別観艦式を作ろう」のコーナーで紹介されている「常磐」の作例では、後ろマスト前の部分の機関室天窓脇に機雷取り込み用の昇降ハッチと、敷設艦「沖島」と同様の「ホイストクレーン」を設置すると書かれていますが、これも写真や資料等では確認できませんでした。たしかに、ここにホイストクレーンがあったら、いかにも敷設艦らしい「出で立ち」になりますし、私もそうであってほしいと思うのですが、執筆した衣島尚一氏の推定なのでしょうか。
たしかに、氏は文中に「相当部分が推定となりますことをご了承いただきますようお願いいたします」と書かれています。1980年代の「艦船模型冬の時代」と呼ばれたころ、艦船模型のことを書き続けていた唯一のライターともいえる氏の存在がなければ、現在の私はなかったと言っても過言ではありません。高校生のころ、氏の書かれたMA誌別冊の数々を、本の端が手あかで真っ黒になるまで愛読したものです。リサーチとかディテールアップというものを、私は、氏によって教わったと言ってもいいかもしれません。そこまで信頼する氏だからこそ、読者(特に初心者)に誤解を与えないよう、推定個所はきちんと「ここは推定」と特記していただきたかったと思います。
ただ、やはり、艦中央部からも積み込みした方が能率はいいと思うので、全く否定するのもいかがなものかとも思います。
今後も資料集めを続けたいと思います。
ただ、昭和3年海軍省公文備考「佐廠第6号 軍艦常磐後部機雷揚卸用ダビット改装の件」(アジア歴史資料センターHP参照、レファレンスコードC04016198700)という文書で、後甲板の敷設レールがハの字になった部分(同HPの昭和2年海軍省公文備考「軍艦常磐機雷爆発事件(23)」報告書を参照のこと レファレンスコードC04015679200)の既設ダビットを、「全然使用するを得ざるのみならず、6号機雷に対しては力量不足するをもって、後部機雷指揮塔の左右舷に移し、その力量強度を増し、上中甲板レール何れにも利用し得る如くすなすを要す」と書かれています。たしかに、後部機雷敷設指揮塔脇に、ダビットが見える写真もあることから、後部のこの部分から積み卸ししていたのは確かだと思います。
また、昭和10年海軍省公文備考「佐廠第291号 軍艦常磐前後部ダビット改装の件」(レファレンスコードC05034260800)を見ると、前部にもダビットがあったことが伺えます。では、どこにあったのかというところは、私は写真や資料等では確認できませんでした。ただ、「軍艦常磐機雷爆発事件(23)」の平面図を見ると、上甲板の20センチ砲塔脇あたりにあるレール付近がちょうどいいのではと考えています。
2011年5月発行の「艦船模型スペシャル40」の「紀元二千六百年特別観艦式を作ろう」のコーナーで紹介されている「常磐」の作例では、後ろマスト前の部分の機関室天窓脇に機雷取り込み用の昇降ハッチと、敷設艦「沖島」と同様の「ホイストクレーン」を設置すると書かれていますが、これも写真や資料等では確認できませんでした。たしかに、ここにホイストクレーンがあったら、いかにも敷設艦らしい「出で立ち」になりますし、私もそうであってほしいと思うのですが、執筆した衣島尚一氏の推定なのでしょうか。
たしかに、氏は文中に「相当部分が推定となりますことをご了承いただきますようお願いいたします」と書かれています。1980年代の「艦船模型冬の時代」と呼ばれたころ、艦船模型のことを書き続けていた唯一のライターともいえる氏の存在がなければ、現在の私はなかったと言っても過言ではありません。高校生のころ、氏の書かれたMA誌別冊の数々を、本の端が手あかで真っ黒になるまで愛読したものです。リサーチとかディテールアップというものを、私は、氏によって教わったと言ってもいいかもしれません。そこまで信頼する氏だからこそ、読者(特に初心者)に誤解を与えないよう、推定個所はきちんと「ここは推定」と特記していただきたかったと思います。
ただ、やはり、艦中央部からも積み込みした方が能率はいいと思うので、全く否定するのもいかがなものかとも思います。
今後も資料集めを続けたいと思います。
またまた訂正。先日述べた「敷設艦『常磐』の武装について」で、参照した資料「機雷部隊(第18戦隊)戦闘詳報」を(19年1月25日~同3月25日)と記載しましたが、昭和19年3月26日~同4月24日までの方でした。訂正します。
加えて言うと、前々回の「『常磐』の武装について(その3)」で、19年3月まで大きな機銃増設はなかったと判断した根拠に、昭和18年夏に大湊で撮られた「常磐」の写真(光人社「写真日本の軍艦 第14巻小艦艇2」など掲載)も一つになっていることを加えたいと思います。逆光ぎみで、やや不鮮明な写真ではありますが、20センチ主砲搭載の最後のころの姿です。前艦橋ウイングには8センチ単装砲らしきものも見えます。ただ、後部艦橋ウイングの私が40ミリ単装機銃があると推測する部分は、画像が不鮮明なのが本当に残念です。
その後の18年12月のドック入り前後の時期に、佐世保鎮守府戦時日誌に「常磐」に関して機銃増設の訓令等が載っていません(私が見落としているだけかもしれませんが)ので、その点もふまえて、たぶん増設工事はなかったと判断しました。
加えて言うと、前々回の「『常磐』の武装について(その3)」で、19年3月まで大きな機銃増設はなかったと判断した根拠に、昭和18年夏に大湊で撮られた「常磐」の写真(光人社「写真日本の軍艦 第14巻小艦艇2」など掲載)も一つになっていることを加えたいと思います。逆光ぎみで、やや不鮮明な写真ではありますが、20センチ主砲搭載の最後のころの姿です。前艦橋ウイングには8センチ単装砲らしきものも見えます。ただ、後部艦橋ウイングの私が40ミリ単装機銃があると推測する部分は、画像が不鮮明なのが本当に残念です。
その後の18年12月のドック入り前後の時期に、佐世保鎮守府戦時日誌に「常磐」に関して機銃増設の訓令等が載っていません(私が見落としているだけかもしれませんが)ので、その点もふまえて、たぶん増設工事はなかったと判断しました。