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艦船、つれづれ雑記帖

艦船模型好きの筆者が、つれづれなるままにつづる考証とか批評とか

「最前線の医師魂」についての補足

2011年11月15日 | 空母「隼鷹」
以前に述べた「空母隼鷹はマリアナで噴進砲を装備したのかな」で紹介した本「最前線の医師魂」(加畑豊著、光人社NF文庫)について、ちょっと訂正と補足したいことを発見しましたので、報告したいと思います。

同本の49ページ、昭和19年6月22日の記述で、あ号作戦から帰投中の隼鷹を守って被雷沈没する駆逐艦のエピソードがありました。これについて、私は、「記録ではこの日や前後に沈没した駆逐艦はない」とした上で、「昭和19年12月9日、輸送作戦を終え帰港途中の隼鷹が潜水艦から魚雷2本を受けた際、護衛の駆逐艦槇が、3本目の魚雷を身を挺して防いだというエピソードがあります(佐藤和正著「軍艦物語」光人社NF文庫)」と紹介しました。
それをうけて、「筆者が隼鷹から退艦した後の話を登場させた可能性がある」としました。

ところが、昭和19年の11月3日に、輸送作戦中の「隼鷹」を護衛していた駆逐艦「秋風」が、潜水艦の魚雷を受けて沈没している記録があるのに気がつきました。「秋風が身を挺して隼鷹を守った」と書かれている慰霊碑も、実際に呉市に建てられているそうです。本の作者が隼鷹に乗組んでいた時です。なので、本のエピソードは、筆者のその時の体験を登場させた可能性が大きく、その点については、お詫びして訂正したいと思います。

しかし、時期は全く違うことには変わりなく、同本の“記録”としての信憑性は高いと言い難いことには変わりはないと思います。

空母「隼鷹」はマリアナで噴進砲を装備したのかな(その4)

2011年05月19日 | 空母「隼鷹」

一度出した結論が破綻しかけていますが、ここで思い出すのが、「最前線の医師魂」の中の噴進砲の記述です。
「使い方は簡単だ。油性松明で弾尾部に点火すればよい」という部分。

著者は、執筆時に終戦時の隼鷹の資料を見て「一二センチ二八連装噴進砲が両舷に三基ずつ設けられた」と書いたのかもしれませんが、実際は、松明で火をつけるタイプの試作的な噴進砲だったのかもしれません(今まで信憑性をさんざん否定してきてこう言うのもいかがなものですが)。

なので、私としては、「マリアナ沖海戦の時の『隼鷹』は、28連装噴進砲を両舷3基ずつ装備はしていなかったが、試作的な噴進砲を装備していた可能性がある」と、主張したいと思います。試作兵器なので、仮設という形で海戦後は撤去された、そのため、「あ号作戦後の兵器増備状況調査」の図に載っていないと。

乏しい知識で、好き勝手なことを言いましたが、詳しい人のご教授をいただければ幸いです。
今後の新資料の発見を期待して、このテーマを終わりたいと思います。

本当、沈没時の「武蔵」といい噴進砲には苦労させられます。海軍の噴進砲に関するいい資料はないものですかね。

空母「隼鷹」はマリアナで噴進砲を装備したのかな(その3)

2011年05月17日 | 空母「隼鷹」
結論として、私は、「隼鷹」はマリアナ沖開戦時、「最前線の医師魂」で書かれているように12センチ28連装噴進砲を両舷各3基ずつ搭載してはいなかったと思います。

理由としては、同書の記述の信憑性のほかに、他の戦記に出てくる「隼鷹」艦長や「飛鷹」副長の証言に当時の最新兵器である噴進砲が全くふれられていないこと、19年5月3日の傾斜訓練中の「隼鷹」の写真に、のちに噴進砲が装備された位置に噴進砲が見あたらず、出航したとされる5月10日まで間がないことも挙げられます。

それに、福井静夫著作集7巻「日本空母物語」の中の「あ号作戦後の兵器増備の状況調査」の「隼鷹」の図に、噴進砲の記述がないことも挙げられます。「隼鷹」の調査は19年7月10日となっています。

私も、艦艇研究の権威者福井静夫氏の著作といえども盲信はさけるべきと思っているのですが、この調査は当時の呉や横須賀の海軍工廠が実施した公的な調査であると思われ、機銃そのものだけでなく、「単装機銃取り付け座」のような細かいところまで書かれていることから、ある程度信用していいのではと考えます(同本の図面は石橋孝夫氏が描いたものなので、できれば原図を見てみたいものですが。。。)。

と、ここまで28連装噴進砲を搭載していなかったと主張を繰り広げてきましたが、ひとつ気になることがあります。

それは、学研の「歴史群像シリーズ 決定版日本の航空母艦」に書かれている「日本空母雑学コラム」(文章・大塚好古氏)です。この中に、「米側は昭和19年7月に出された日本艦艇の関連情報の『隼鷹』の兵装解説で、『おそらく、低空より攻撃してくる航空機に対する防御兵装として、ドイツが使用している150ミリ型ネーベルヴェルファー型ロケットの9連装型発射機を装備している』ことを特記している」との一文があります。

大塚氏は、「当時試作中の対潜用噴進弾とその発射機が『対空用装備』として誤って伝わったものと思われる」と推察しておりますが、7月に出たレポートなら6月のマリアナを受けてのものでしょうし、攻撃したパイロットの目撃証言でもあったのでしょうか。

こう米軍が言っているのだから、やはり装備していたのかなとも考えてしまいます。
いつか大塚氏が根拠とされた資料の出所や内容を詳しく知りたいものです。


空母「隼鷹」はマリアナで噴進砲を搭載したのかな(その2)

2011年05月16日 | 空母「隼鷹」
再び、「最前線の医師魂」(加畑豊著、光人社NF文庫)について。
この本の著者は、執筆時、よく資料を調査して書いている部分もあると思います。が、やはり、あやしい部分が散見されます。

ざっと気づいた限りでは、31ページの昭和19年6月18日の記述。
「この日、祖国日本では、浜松をはじめ北九州、小倉、枝光などの各都市がB29の空襲により壊滅的損害を受けていたのである」とありますが、この日に浜松が空襲を受けた記録はありません。しいていえば、昭和20年の6月18日に「浜松大空襲」と呼ばれる空襲の記録があります。

また、49ページ、海戦後、日本に帰港する場面の昭和19年6月22日の記述。
「午前二時頃、突然『ズズーン』という鈍い爆発音で、眼を覚まされた。(中略)左舷を警戒中の駆逐艦が、敵潜水艦の魚雷をうけ沈没した瞬間である」「凝然と立ち竦む私の傍らに、いつのまにか暗号班長の佐藤少尉が立っていた。『今電文を艦橋に届けて来たところだ。見るか?』。(中略)〈我れ、右前方に魚雷を発見、急行す〉。電文はそこで途絶えていた」とあります。

記録では、この日や前後に、沈没した駆逐艦はありません。
「隼鷹」の部隊を護衛していたと思われる「野分」「山雲」「満潮」「時雨」「浜風」「早霜」「秋霜」いずれも、沈没はもっと後のことです。

これについて、昭和19年12月9日、輸送作戦を終え帰港途中の「隼鷹」が潜水艦から魚雷2本を受けた際、護衛の駆逐艦「槇」が、3本目の魚雷を身を挺して防いだというエピソードがあります(佐藤和正著「軍艦物語」光人社NF文庫)。著者が「隼鷹」から退艦した後の話ですが、これを登場させた可能性があります。
というように、資料の取り違えや、物語をおもしろくするためのフィクションがあり、記録としての信憑性が高いとは私には思えないのです。

とくに「佐藤少尉」。文中では、「暗号班長兼射撃指揮官」で、噴進砲の担当としても登場します。この佐藤少尉は、文中でもマリアナ沖の戦闘で、ロケット砲で「少なくとも6機を打ち落としたと、自慢している」とあります。私にはそういう知識がないので強くはいえませんが、2航戦旗艦の暗号班長が噴進砲の射撃指揮官を務めることがあるのだろうかと素朴に疑問を感じてしまうのです。

これまた知識がないのでなんとも言えませんが、そもそも「一二センチ二八連装噴進砲」は、後ろから松明で火を付け発射させるような兵器でしたっけ?

空母「隼鷹」はマリアナで噴進砲を搭載したのかな

2011年05月16日 | 空母「隼鷹」
マリアナ沖海戦の時、空母「隼鷹」乗り組みだった軍医の書いた「最前線の医師魂」(加畑豊著、光人社NF文庫)という本があります。
その中に、マリアナ沖の時に、「隼鷹」に噴進砲が搭載されていたとの証言が出てきます。

一部引用しますと、
「私はしばしば艦橋や舷側に特設されたロケット砲に足を運んだ」「このロケット砲は『あ号』作戦時、はじめて『隼鷹』『飛鷹』に新設され、正式には『一二センチ二八連装噴進砲』と呼ばれ、両舷に三基ずつ設けられた」「使い方は簡単だ。油性松明で弾尾部に点火すればよい」。
などと書かれており、タウイタウイで試射を見学したこと、海戦で「隼鷹」被弾時、最初に駆け込んできた患者がロケット砲の松明係で、「その噴射する火炎で顔面を焼かれたらしい」とのエピソードも書かれてあります。

この著者は、昭和19年5月に「隼鷹」乗り込み。6月のマリアナ沖海戦に参加。同年11月18日退艦とのことです。
一般的に噴進砲はマリアナ沖海戦のあとの対空兵装強化のために各艦に設置されたとなっていますので、大げさに言えば戦史を変える証言です。

しかし、私はこの手記はあまり盲信するのもいかがなものかと思います。もちろん可能性そのものは否定するつもりはありませんが。

第一に、前書きでこの著者が「なにぶん半世紀近くも前のことだ。掘り起こすにはあまりに混迷の彼方にある。若干の間違いはご容赦いただきたい」と言っていること。
この本が最初に出たのは平成5年です。「紅の航跡」(東京経済刊)という名前でした。戦後、だいぶ経ってからの執筆です。
著者が、マリアナ後に、噴進砲が取り付けられたあとの別の航海の時と勘違いしている可能性はないでしょうか。タウイタウイの試射や松明係のやけどのエピソードについても同様です。

もう一つは、同じく前書きで「多少フィクションをまじえた部分もあるが、勝手ながら、これもついでにご了承いただくことにした」とも書いていること。
あえて、「噴進砲」のことをマリアナ沖に絡めたくて、「あ号作戦時、はじめて新設された」と書いたのではないか。

この著者は平成8年に鬼籍に入られておりますので、手紙等を差し上げて確認できないのが、返す返す残念です。
「若干の間違いはご容赦いただきたい」とおっしゃっているのにあえて追及するのは無粋なこととは思いますが、次回でも、この本について。