goo blog サービス終了のお知らせ 

艦船、つれづれ雑記帖

艦船模型好きの筆者が、つれづれなるままにつづる考証とか批評とか

紀元2600年記念特別観艦式の「常磐」の写真アゲイン

2012年12月13日 | 敷設艦「常磐」
大仰なタイトルをつけましたが、新しい写真が見つかったわけではありません。ただ、最近発行になった雑誌「艦船模型スペシャル46号」の「紀元二千六百特別観艦式を作ろう」のコーナーに、前に当ブログで紹介した「常磐」がちょっこっと写った昭和15年の観艦式当日の写真が掲載されていますよということだけです。

それは120ページの左下、戦艦「山城」がメインに写った写真です。「山城」の艦尾遠方に巡洋艦「鈴谷」が写ってますが、そのもっと奥に、「常磐」の直立の2本の煙突とマストがうっすら写っております。当日の艦の配置から「常磐」に間違いないでしょう。マストが高いままということがおわかりいただけると思います。

前にも述べましたが、昭和18年夏に大湊で撮影された「常磐」の写真では、マストが短縮されているのが分かります。私にとって、では、マストがいつ短縮されたのかや、開戦時の舷外電路や爆雷投射機の搭載の有無などは、あれから調査を続けていますが、未だ分からないままになっています。

ただ、学研の歴史群像太平洋戦史シリーズ57「艦載兵器の変遷(真実の艦艇史3)」に掲載されている艦艇史研究家・田村俊夫氏の記事に、ちょっと調査先になりそうな資料を発見しました。

それは、81ページで紹介されている「堤資料」です。昭和15年から20年まで佐世保工廠に勤務した堤重範氏がまとめた「佐世保海軍工廠沿革史編」で、田村氏は、これを「堤氏が戦後、公式資料を含む各種資料を調査した結果のほかに、工廠勤務の時に作成したと思われる資料が含まれている」として、公式文書に準じる資料と紹介されています。実際、田村氏の記事の中では、開戦前の出師準備の時に巡洋艦「足柄」が舷外電路の装備したことを、「堤資料」に書いてあった趣旨の文があります。「常磐」は佐世保鎮守府所属なので、「堤資料」に、手がかりがある可能性大と考えます。

で、その資料がどこにあるかネットで調べて行ったところ、長崎県佐世保市の市立図書館に蔵書があることがわかりました。

しかし、私が住んでいる北海道から九州の佐世保にいくのは、経済的にも仕事の関係からも家庭の事情からもなかなかたやすいものではなく、現在、調査は止まっております。いつか、そちら方面に出張でいけた際に、ぜひ立ち寄ろうと思っていますが、いつになるかは分かりません。なので、ご興味のある方は、当たってみられるといいかもしれません。

紀元2600年特別観艦式の「常磐」

2012年02月22日 | 敷設艦「常磐」
昭和15年10月に行われた紀元2600年特別観艦式には、敷設艦「常磐」も参加しています。しかし、戦争直前のこの観艦式の写真はあまり残ってなく、当日の「常磐」の写真もないものとあきらめていました。が、このたび、戦艦「山城」の写真の後方にうっすらと写っているのを発見しました。

この写真は「日本海軍全艦艇史 上」(KKベストセラーズ刊)92ページ「紀元2600年観艦式時の山城」(写真番号0180)です。「山城」の後ろに巡洋艦「鈴谷」とともに「常磐」の煙突などがうっすらと写っています。当日の艦船配置から考えても、「常磐」に間違いないと思います。

ここから分かるのは、「常磐」のマストの高さです。煙突などとの比較から、まだ、短縮されていないようでした。前にこのブログで紹介した同年8月にパラオで撮影された写真と同じ状態です。

ただ、昭和18年夏に大湊で撮られた写真では、マストが短縮されているのがわかります。では、太平洋戦争開戦時の「常磐」のマストの高さはどうだったかというと、全くわかりません。高いままだったのか、すでに短縮されていたのか。また、開戦時の「常磐」はこのほかに、舷外電路が設置されていたのか(おそらく設置されていたと推測しますが。。。)や、爆雷投射機が装備されていたのかなど、謎がまだまだたくさんあります。

昭和17年2月1日に、アメリカ空母「エンタープライズ」の部隊がクェゼリンを空襲し、在泊していた「常磐」に被害を与えています。その時の写真でもあれば分かるのかもと思っていますが、私の能力では探し出すのは難しいです。どこからひょっこり出てこないものですかね。

ところで、「日本海軍全艦艇史」。すばらしい写真がたくさん載っている本なのですが、でかいし、重いし、定価が68000円と、ちょっとやそっとで購入できる本ではありません。一部では「68K本」と揶揄されているようです。私は近所の市立図書館に蔵書があり、助かっています。

敷設艦「常磐」昭和14年の図面(その2)

2011年11月05日 | 敷設艦「常磐」
今回も「海軍艦艇公式図面集」(今日の話題社)の昭和14年の「常磐」の図面から、もう一つわかったことを紹介します。
それは、前艦橋ウイング左舷後方の副砲ケースメートの上甲板部分に、サイコロ状の箱形構造物があるということ。

これまでも、終戦時の「常磐」の写真(学研歴史群像の太平洋戦史シリーズ51「真実の艦艇史2」などに掲載)では、この部分に箱形構造物が認められ、「常磐」の最終状態の図面(光人社「写真日本の軍艦 第14巻小艦艇2」など掲載)にも描かれていますが、まさか昭和14年ころからあるとは思いませんでした。昭和18年に大湊で撮影された「常磐」の写真(写真日本の軍艦14巻など。大和ミュージアムにも所蔵あり)では、逆光でよく分からず、私にとって謎の一つになっていました。

ただし、箱形構造物が設置されていたのは、このころは左舷だけのようです。「海軍艦艇公式図面集」の右舷から見た側面図では、中央のキセル通風塔が下まではっきり描かれており、箱形構造物はその向こうにあるように描かれています。

別の資料でいうと、福井静夫著作集「日本空母物語」(光人社)の巻末にある資料「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」の「常磐」の平面図にも、左舷のここの部分だけに、四角い図形が描かれています。同図は当時、従来あった艦形図に対空兵装などを書き入れたとのことなので、当時の艦形を正確に伝えているものではないということですが、少なくとも、こういう構造物が左舷だけにあった時期があったということを教えてくれていると思います(つくづく、福井静夫氏が持っていたであろう原図を見てみたいと思います)。

ただ、最終時の「常磐」の写真を見ると、右舷側にも同じような構造物がみてとれ、では、「いつ右舷にも設置されたのだ」という新たな謎が出てきてしまいます。私は、対空兵装増備時か電探装備時に、兵員室か電探室として設置されたと推察していますが、確証はありません。ただ、参考まで、昭和19年1月22日から同年3月25日の「第18戦隊(機雷部隊)戦闘詳報」(防衛研究所所蔵。アジア歴史資料センターHP参照)の「船体」報告の「常磐」のところで、「船舶防衛隊兵員室新設(3月下旬)」という文言があるのを申し添えます。

敷設艦「常磐」昭和14年の図面

2011年11月01日 | 敷設艦「常磐」
このたび、大阪出張の合間を利用して、念願だった呉市の「大和ミュージアム」に訪問する機会を得ました。報告すべきことはいっぱいあるのですが、一番の成果は、敷設艦「常磐」の昭和14年の図面を発見したことです。

とは言っても、同館のデータベースではなく、本棚にあった「海軍艦艇公式図面集」(福井静夫編、今日の話題社)という本に掲載されていました。

右舷から見た側面図のほかに、断面図が数カ所、あと、上から見た平面図もありますが、こちらは右舷側や後部が消えかかっていてほとんど判読が不明です。このため、後甲板の機雷敷設軌条や機器の配置なども、この図からほとんどわからないのが残念です。

特筆したいのは、後艦橋のウイング両端に40ミリ単装機銃が描かれていることです。今まで、私は推定でしか主張できず、悩んでいたのが馬鹿みたいなほどはっきり描かれていました。ウイングの機銃の下にはちゃんと補強材で補強されている様子もわかります。

もう一つは、前甲板の主砲塔脇に機雷敷設ダビットがあることと、艦橋下から主砲塔脇まで機雷軌条が敷かれていることです。軌条は以前に紹介した防衛研究所所蔵の「軍艦常磐機雷爆発事故」報告書の中でも示されていますが、それと同じでした。ちなみに、機関室天窓あたりに「ホイストクレーン」はありませんでした。

同本は国会図書館や昭和館にも所蔵がありませんが、古本屋や大きな図書館にはあるかもしれませんので、興味のある方はぜひ、一度探してみて下さい。それにしても、なんでこんないい資料が世の中に出ていたのに、今まで、気がつかなかったのでしょうかね。

「常磐」後甲板の写真(その2)

2011年10月15日 | 敷設艦「常磐」
今回も昭和11年海軍公文備考「佐鎮機密第292 廃艦第7号に関する件」(防衛研究所所蔵、アジア歴史資料センターHPでも参照可 レファレンスコードC05035392600)から、「常磐」の写真の続きです。こちらも、防衛研究所から掲載許可を得ています。

敷設軌条が大きく写っています。