TBA

(仮)

わいど

2016-05-12 | 日記

一日おきに涼しかったり暑かったり。

で、夜になると急に寒くなったり。

おとといの晩はちょっとむし暑い感じで寝にくかったのに、

ゆうべは寒くて逆に寝られなかった。

やっとじめじめが通り過ぎたのはいいんだけど。




ワイドFMっていうのが始まってて、

AM局がFM放送の音質で聞けるようになってるんだけど、

いまラジオの録音に使ってるラジオ付きICレコーダーは対応してない。

で、前まで使ってたラジオはどうなのかなと思って調べてみたら、

3つとも対応してた。

なんか納得いかない。

生産中止の商品なので、ファームウェアのアップデートもないみたいだし。

すごく使いやすくて気に入ってはいるんだけど。




途中からしか見られなかったんだけど、

立川談春さんのSWITCHインタビューがおもしろかった。

「絶対的」なものっていうのは根拠がないもので、

否定されがちだけど、個人的なものならそれで構わないと思う。

他人に強制さえしなければ。

で、そういうものに対する感性を開く、と。

凝り固まらずになにが起きてもいいように常に心をオープンにしておくってことかな。

「修行」ってそういうことなのかも。

100分de名著の「歎異抄」で、

出会ってしまうと出会う前には戻れない、って話があったけど、

師匠と仰ぐ人との出会いってそういうもんなのかもしれない。


30年前に一度聞いたっきり、ってことで、

落語についての話はあまりかみ合ってない感じだった。

落語家が指揮者っていうのもあんまり。


伝えたいものとお客さんとのギャップっていうところはおもしろかった。

噺の世界に入る=チューニングをする。

それをお客さんが見て楽しいと思ってくれれば、それでいいのかな、と。

噺一つ一つに合わせるチューニングと、

お客さんの側に合わせるっていうチューニング。

人前で演じるっていうことは、

その二つの間でうまくバランスを取らないといけないんだろう。


チューニングっていう言葉を談春さんが何度も使われてて、

ラジオのダイヤルを回すような手つきをされてたけど

縁とかタイミングっていう意味でも使われてたのかな。


師匠と弟子の話をもっと聞きたかった。

教え育てる「教育者」とは違って、

師匠というのは、無条件に自分の道を行く人。

それくらい圧倒的な人でないと弟子につく意味もないのかな。

でも、それでいうと、

自分が伝えたいものとお客さんが思い浮かぶものとのギャップは、

あまり気にする必要はなくて、

自分がこれと思ったものでお客さんを、

圧倒的にねじ伏せるのもひとつのありかたかも。




自分の上司だった人は、

ビールのつまみのチーズを買ってこさせるのに、

領収書をもらってこさせる人で、

あんまり尊敬できなかったなあ。


税金ならじゃぶじゃぶ使うくせに、

自腹のときはマクドナルドのクーポンを使うような人よりは、

ましだったとは思うけど。




100分de名著の「五輪書」もわりとつながる話でおもしろかった。

観の目 見の目 というのは、

全体を見ることと細部を見ること、マクロな視点とミクロな視点。

有構無構 マニュアルは尊重しつつ、それには縛られない。

自分のものとして工夫する。

無感無想の打。

水のように相手に合わせて戦い方を変える。

融通無碍とかこういうの老子家荘子かなんかにも出てきたような。


で、それができるように、

千日、万日の鍛錬。生活のすべてが修行。

どんな世界でも突きつめていくと、

同じような考えに行きつくのかもしれない。

そして、師匠と呼ばれるような人は一生が修行なんだろうし、

弟子を育てることも修行なんだろうな。
コメント
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