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「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

教育編 第17回「すべての人にすべての事を」――17世紀のチェコに登場したコメニウスの教育理念

2012-07-14 | 憲法って、面白っ!

 本日7月14日はフランス革命記念日です。この「憲法って、面白っ! 教育編」のシリーズは、フランス革命期に公教育の理念を打ち出したコンドルセから始まり、次にその思想的源流として16世紀フランスの思想家モンテーニュの教育思想の紹介をおこなってきました。今回はその続きとして、17世紀のチェコに登場した「近代教育学の祖」と呼ばれるコメニウスを取り上げていきたいと思います。

 コメニウスは「すべての人にすべての事を教授する」ことを教育の基本理念として打ち出しました。すべての人に教育を受ける権利があるという考え方は、市民革命を経た今日の社会でこそ当たり前のことと見なされていますが、コメニウスの生きた時代はそうではありませんでした。女性や肉体労働者が学問を学ぶというのはとんでもないことだと考えられていました。
 しかし、そんな時代にあって、コメニウスはこの理念に基づいた教育の方法論『大教授学』などを執筆しました。それと共に、子どもたちが「わずかな労力で、愉快に、着実に」学べるようにと、絵入りの教科書『世界図絵』を作成しました。

 まずは、このコメニウスの生涯を概観していきましょう。
 コメニウスは、1592年にモラヴィア(現在のチェコ東部)で、水車小屋を所有する裕福な職人の家に生まれました。しかし彼は幼くして両親と二人の姉を病気で亡くしてしまいます。そして、親戚に引き取られ、プロテスタントの一派「モラヴィア兄弟教団」で学問を身につけていきます。優秀な学業ぶりを認められた彼はドイツへの留学を許され、そこで『百科事典』を執筆したアルシュテットの影響を受けました。この頃の研究が「すべての事を」という彼の理念へとつながっていきました。
 1614年、ドイツから帰国したコメニウスは、この教団の牧師として布教活動をおこない、またこの教団が営む教育施設の監督を勤めるようになりました。その中で、彼は、一方に「豊かな納屋や食糧倉庫」「毛皮やマント、スカートで一杯になった戸棚」を持つ者がいる一方、飢えて死にかけている人々、半裸同然の人々がいることを告発する文章を書いています。
 1618年にコメニウスは結婚しましたが、彼のささやかな幸福は長くは続きませんでした。この頃のチェコは神聖ローマ帝国の支配下にあり、カトリックの皇帝によってプロテスタントは激しい迫害を受けていました。この同じ年、ボヘミア(現在のチェコ西部)では、プロテスタントの民衆が蜂起し、城の窓からカトリックの役人たちを突き落としました。
 この事件をきっかけに三十年戦争(1618~48)が始まりました。プロテスタントへの迫害はさらに激しくなり、コメニウスらの教団は祖国を追われることになりました。彼はこの亡命生活の中で妻と子どもたちを失いました。
 三十年戦争の終結後、ボヘミアとモラヴィアの人口は300万人から90万に激減したと言われています。しかもカトリックを国教とする神聖ローマ帝国の支配下にもう一度置かれてしまいました。コメニウスは祖国に戻ることなく1657年にオランダのアムステルダムに移住し、そこで1670年に亡くなりました。
 このようにコメニウスの生涯には戦争と宗教的・民族的抑圧が深い影を落としています。その中で彼は教育に希望を託し、「人類の破滅を救うには青少年を正しく教育するより有効な道はない」と考えるようになりました。(鈴)


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