白村江の敗戦に衝撃を受けた中大江皇子=天智天皇は、667年に飛鳥から都を近江の地に移そうとした。
この地で即位した天智天皇は西国沿岸域を中心に国土防衛策を実施し、日本初の戸籍といわれる「庚午年籍」を作成するなどの改革を断行したが、志なかばにして671年に死去。
実子・大友皇子は皇太弟といわれる大海人皇子=天武天皇との間におきた壬申の乱に敗れ、天武天皇は旧京・飛鳥にもどったため新都建設も中途にてとん挫した。
このとき敗勢をさとった大友皇子が自害した地がすなわち、セカンドステージの行われた皇子山の地というわけである。
試合観戦後、その幻の都・大津宮跡をたずねてみた。
冒頭の画像は近江大津宮錦織遺跡第2地点。急ごしらえながらもうけられた内裏殿南門、すなわち天智政権中枢への入り口跡といわれる。
公園整備された遺跡にならぶ列柱が南門の礎石あととみられる。
1974年にはじめて発掘調査が行われ、その後の調査をへて79年に国指定史跡とされた。
5年たらずの短期間存在した敗者の都。その後飛鳥から奈良、京都へと遷都されるうちに忘れられ、今では住宅街の下にねむっている(画像2=第1地点)。
そのため飛び飛びの部分的な発掘調査にかぎられ、遺跡も画像3に見るように錦織地区の南北に旧街道筋をはさんで点在しているかたちとなっている。
史跡指定後、もよりにあたるJR湖西線・西大津駅は大津京駅に改称されたが、はっきり条里制もしかれず都にふさわしい体裁もととのえられなかったため「京=正式な都」としては認められないとの批判がよせられたという。
日本書紀に見られる「近江京」との記述も「おうみのみや」と読むのが史学的には正しいそうである。
近江大津宮錦織遺跡 おうみおおつきゅうにしごりいせき(文化庁 文化遺産オンライン)