「後生の一大事」をどうしても解決したい!
そんな方におススメのお話です。
あ、そうそう。まずは「蓮如上人」の「御文章」を毎日読んでくださいね。
そのうえで、下の「阿部信幾先生のお話」の文字起こしを読んでみてください。
この文字起こしは、「れおん」を阿弥陀様のお救いまで導いてくれた「RCさん」が、
メールで送ってきてくれたもの・・・
・・・を、「れおん」が編集したものです。(* ̄∇ ̄*)エヘヘ
例の、2020年8月末に、間違えて「RCさん」に連絡を取って、そのお返事で返された
「アホみたい長~いメール6通」のウチの1つです。(笑)
でも「れおん」はこのお話が大好きです。ヾ(❀╹◡╹)ノ゙
今でも、たまに読み返して、「ジ~~~~~~ン。(´;ω;`)ウッ…」としています。
遇いがたいみ教えに出遇えた喜びは格別です。。。
なので・・・。
送ってくださった「RCさん」に、心から感謝の意を申し上げます。(*´∀`*)ゞ
「RCさん」、ありがとう~♬(⋈◍>◡<◍)。✧♡
以下、「阿部信幾先生のお話」の文字起こしです。。。
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◆◆◆仏教とは仏さまの教えであり、私たちが仏さまになる教えです。◆◆◆
今から2,600年前にインドにお釈迦様がお生まれになりました。
インドの人達は、物質的な豊かさよりも精神的なことに価値を置きます。
日本人も前はそうだったのですが、急激な科学技術の発達によってその価値観は変わりました。
「人の知恵」によって生み出された物質文明が今世界中に蔓延し、
「便利で快適な生活が人間の幸せに結びつく」というような錯覚を私たちは抱いています。
ですが、物質的なモノが私の人生に揃えば幸せなれるか、というとそうではありません。
私たちの欲は次から次へと続いて際限がありません。それでも求め続けます。
では「仏さまの知恵」とは、どのようなものでしょう。
「仏さまの知恵」は、本当の知恵であり、善悪、正邪を超えています。
それを「無分別知」と呼びます。
「分別」というのは「相対分別」ともいいますが、相対するものがある世界です。
例えば、善と悪が相対してある世界であり、それは私たち人間の価値観です。
「善とは何か」というと「悪を否定するものを善」と言い、
「悪とは何か」というと「善を否定するものを悪」と言い、
善悪の関係はお互いがお互いを否定することで成立する、
相手を否定することによって成立する見かたです。
「正邪」も同じ関係です。「生死」もそうです。
ですから、この世界を「善悪相対の世界」といいます。これが「分別の世界」です。
しかし仏教ではそれを「迷いの世界」といいます。
人の「善悪正邪、分別の知恵」は迷知といい、それは正しい知恵とは言いません。
反対に「仏さまの知恵」とは、善悪を超え対立を超えた絶対の知恵であり、
それこそが「真実の知恵」なのです。
では、その「真実の知恵」を、私たちはどのように手に入れるのでしょうか。
これが仏法では一番大切な問題です。
お釈迦様は、お悟りを開いたとき、座禅を組んで悟りを開いていますから、
一般的には座禅を組むことで、その知恵を手に入れられると思っています。
座禅を組む、とは知恵を手に入れるある種の行法です。
最終的には分別を超えた知恵を手に入れること、それが禅でいう悟りです。
「悟り」は「とらわれを離れた境地」をいい「無心」ともいいます。
「無心」とは、はからいを離れた世界です。
計らいを離れた世界に到達する、ということが禅の極意です。
計らいを離れると、「行雲流水」という、囚われない無心という境地になります。
とは言っても、座禅を組んでこういう境地に至ることはなかなか難しいです。
でも、浄土真宗では、「阿弥陀如来の本願力」によって、私たちはその境地にいたることができるのです。
親鸞聖人は「自然法爾抄」の中で、
「私が浄土に生まれて仏になるのは、元から仏さまの働きによってなるのである」とおっしゃいます。
「自ら然らしめる」というのは、私のはからいによって成り立つ世界ではなく、
仏さまのはからいによって、みずからそのようになるようになっている世界であり、
「真実の性質」とは、真実そのものが私の上にはたらいて、私に真実を悟らしめるおはたらきです。
仏教では、私に真実を悟らしめるはたらきがないものは真実とは呼びません。
「おさとりを開いて仏さまになる」世界は、煩悩が消滅して一切の苦悩が消滅する世界です。
それを涅槃といい、インドの言葉でニルバーナーといいます。
ニルは消える、バーナーは炎ですから、炎が消える。
意味は滅度で、炎に例えているのは煩悩のこと。煩悩が消滅してしまう世界のことです。
「煩悩」の「煩」は身体があるから出て来る問題で、「悩」は心があるから出て来る問題。
私たちには、身体と心がありますから、私たちは一生涯、悩み煩いが尽きることがありません。
ですが、悩み煩いがあるがまま、生きて行けるし死んで行ける、
そういう境地が、親鸞聖人や蓮如上人が歩んで来た世界なのです。
親鸞聖人の歩んで来た世界は、「仏さまのはからい」にうちまかせて行く世界なのです。
それまでは「私のはからい」で生きて来た世界。
「私のはからい」で生きて来た世界が「仏さまのはからい」でガラッとチェンジするのです。
「阿弥陀如来の本願力」によって私たちがその境地にいたることを、御文章では、
「もろもろの雑行、雑修、自力の心を振り捨てて、後生助けたまえと、一心に弥陀をたのむ」といわれます。
蓮如上人以前のご門主の方々は、
「弥陀をたのめ、弥陀におまかせせよ」とは、おっしゃっても、
「何を、どのように、おまかせするか」ということは、おっしゃっていませんでした。
それを蓮如上人が、
「後生助けたまえと一心に弥陀をたのめ」と教えてくださったのです。
「阿弥陀さま」という仏さまは、「後生を助ける仏さま」。
「後生、助ける仏さま」に、「私」が「後生、助けたまえ」と、おまかせする。
こういうことなのです。
「後生、助かる」とはどういうことでしょうか。
「後生」とは、私たちが生きている次の世界です。私が生きているのは、「現生」。
「後生助けたまえ」というのは、まず、
「後生助ける」という阿弥陀さまが先です。
「後生助ける」という阿弥陀さまの呼び声が、私に届いて、
私が「後生、助けたまえ」と、阿弥陀さまにおまかせをする。
これを「信心を頂く」とも表現します。
「信心を頂く」とは、
「阿弥陀さまのはからい」と出遇って「私のはからい」に用事がなくなる。
「私のはからい」によって生きて来た人生が「仏さまのはからい」にガラッと様変わりすることです。
私たちは、「私のはからい」では「本当の幸せ」にはなれません。
なぜなら、私たちは「本当の幸せ」が何であるか知らないから、
私たちは、みずからの欲が満たされたら、それが幸せだ、と錯覚しているだけなのです。
今まで、だいぶ欲が叶えられたと思いますが幸せになれましたか?
欲は次から次へ・・・。まだまだあるでしょう?
いつ幸せになるのですか?
本当の幸せとは何か?を私たちは知らない。本当の幸せを知っているのは仏さまだけです。
それが、「私を仏にする」という「仏さまのはからい」に出遇えば、
「私が私のはからい」で生きて行くという人生が、
「仏さまのはからい」におまかせをして、
「仏さまのはからい」によってはからわれて、生かされて生きる、という人生に変えてもらうのです。
それが、浄土真宗の「信心を頂いた」というお話なのです。
主体が変わるのです。
私が、私の人生の主人公で、私のはからいによって、私の工夫によって、私の行いによって、
なんとか幸せになろう、と色々とやってみるわけですが、それではダメなのです。
私たちは、真実の知恵を持ち合わせていないから。
やること成すこと、全ては迷いの分別の知恵からやっている行いだから、
どこまで行っても迷いの世界しか生み出しません。
おさとりの世界は、仏さまの真実の知恵から開かれていく世界なので、
真実の知恵のないところに本当の幸せの世界は展開しないのです。
私たちは、それを知らず、私たちの分別の知恵が唯一で、
何が良いとか悪とか、そう言いながら生きています。
良いとか悪とか、そう思いながら生きることは、私を本当に幸せにするのではありません。
善悪を超えた仏さまのはたらきが、私に本当の幸せを与えようとはたらいくださっている、
それが真実の幸せなのであり、「おさとり」とも「極楽浄土」ともいうのです。
「極楽」とは、無上のこの上ない幸せのことで「仏さまのさとりの境地」のことです。
そこに至るには、唯一、仏さまのはたらきによってしか、いたることはできません。
そして、その仏さまのはたらきは、
「これからはたらく」のではなく、「もうはたらいている」のです。
「もうはたらいてくださっている」、そのはたらきによって、
「私たちは皆、仏になる」のです。
「あなたは仏に成る人です」と仏さまが私に告げてくださったこと、それが「南無阿弥陀仏」です。
親鸞聖人は、「南無阿弥陀仏」を仏さまの呼び声であると、おっしゃいました。
「阿弥陀仏」という名前は、ただの名前ではありません。
法蔵という菩薩が、
「私が全ての者を仏にできなければ仏と名乗りません。」とお誓いくださった、
その法蔵が「もうさとりを開いて仏になった」ということが、
「阿弥陀仏という名前が、もう私のいる世界に届いている」ということです。
「阿弥陀仏」という名前を聞いたら、
私たちは「私を仏にする仏が、はたらいている」と聞かせ頂くのです。
善導大師は、これを
「阿弥陀仏というは、即ちこれその行なり」とおっしゃっています。
「阿弥陀仏」と聞いたならば、「私を仏にする仏が、もうはたらいている」。
もっと言えば、「はたらきがあるから、阿弥陀仏という名前がここに聞こえているのだ」
と親鸞聖人はおっしゃっています。
どういうはたらきなのかというと、
それは阿弥陀仏の本願「第17願力」です。
本願は48ありますが、第17願は、
「南無阿弥陀仏の名号となって、あなたの世界に届きます」という誓いなのです。
これは大切な誓いなので、48願を誓った後で、もう一度、重ねて誓っています。
それが「重誓偈」です。重ねて3回誓っています。
「重ねて誓こうらくは、私の名号が十方世界に聞こえますように。
もしそうでなければ、私は、さとりは開きません。」
別の言い方をすれば、
法蔵菩薩がさとりを開いて阿弥陀仏となったので、そのおはたらきが、まさに、
「南無阿弥陀仏の名号」として、ここに届いて聞こえている、ということです。
親鸞聖人は、「南無阿弥陀仏」が私の世界に届いているということは、
「17願が成就した」ことなのだとおっしゃいます。
また、その「南無阿弥陀仏」のご名号の謂れですが。
「あなたを仏にできなければ、私は仏と名乗りません」とお誓いくださった、これが「本願」です。
その本願が、今どうなったのか?
成就しました。
成就したから「阿弥陀」となられたのです。
本願が成就したから「私を仏にする仏が、もうはたらいている」ということです。
もう、はたらきの中に私たちは存在しているのです。
ところが、はたらきというものは、目に見えませんから、
私に「はたらいている」ということを告げなければ、
私にとっては、それは救いでもなんでもありません。
「もう、はたらいている」、「あなたは間違いなく仏になる人である」と、こう私に告げてくださる、
それが「南無阿弥陀仏の名号」なのです。
「南無阿弥陀仏の名号」の謂れを聞くとは、
「私が間違いなく仏になれる法と出遇う」ことなのです。
「私が間違いなく仏になれる」と、なぜ、そんなことが言えるかというと、
それは法蔵が阿弥陀となって、現にはたらいておられるからです。
「私がさとりを開いた暁には、南無阿弥陀仏が全ての世界に届いて聞こえますように」と既にはたらいています。
「南無阿弥陀仏」とは、「全ての者が仏になる」という如来の告知です。
「後生、助かる」ということは、「この人生のその次が、仏のさとりの世界になる」ということで、
お釈迦さまと同じおさとりが、私の臨終の時に用意されている、というのが浄土真宗です。
おさとりを開くというのは、そのまま極楽浄土に生まれるということです。
極楽浄土とは、さとりの世界を表現してくださっているのです。
(経典で)極楽浄土は金や銀や瑠璃や宝石で出来ているとありますが、
それらはお互いが相照らしあって、お互いの光と光が、混然一体となっている世界を表しています。
全ての存在が、お互いを照らし合いながら、相対立せずして一体となっている。
これをさとりの世界といい、仏の世界といい、対立するもののない世界です。
逆に、私たちの世界は対立の世界です。
何故対立するのか、それはお互い自我に執着するからです。
俺の物とか、お前の物。俺の家、お前の家、俺だ、お前だ、とかいう中に摩擦が生まれ、
「自」と「他」というものが相対立しあっている世界。そこにお互い住んでいる。
これを迷いの世界といい、おさとりの世界はこの逆です。
お互いが対立しあう世界でなく一体である。一つであるというのがさとりの世界。
仏と私は対立するものではなく一つなのです。
そして仏と私が一つであるということを言葉にすると、それが「南無阿弥陀仏」ということになります。
「南無」というのは、「阿弥陀さまにおまかせしております私」の姿であり
「阿弥陀仏」というのは、その私の上にはたらいておる如来さまのおはたらき。
南無阿弥陀仏とは、まさに仏と私が一つであるという世界。
はからいのない世界とは、南無阿弥陀仏を生きる。
浄土真宗とは、南無阿弥陀仏を生きる。
南無阿弥陀仏を生きるとは、
私のはからいが取られて、如来さまのはからいによって生かされて生きる人生なのです。
それを「自然法爾抄」では
「行者の善しとも悪しともはからわぬのを、自然とは申すなり」と言われます。
禅で言ったら「無心」で、とらわれを離れるということです。
浄土真宗では、私たちのはからいによってそうなるのではなく、
如来さまのはからいによって、私たちは仏にならせて頂く。
これに出遇わせて頂いたら、私の側は、覚えていようが忘れていようが
常にはたらきとしてはたらいているのです。
だから、私がお念仏をしたらはたらく、とか後生救われる、という話ではないのです。
まったくもって「主体が逆」なのです。
如来さまがはたらいているからこそ、私が今、お念仏を称えさせて頂いている。
これが阿弥陀如来の本願の第18願の乃至十念の念仏なのです。
如来さまにおまかせをした、如来さまのはからいは、もう既に私の上にはたらき続けています。
南無阿弥陀仏のお念仏となってはたらき続けています。
全てのものに南無阿弥陀仏がはたらいています。
それなのに、後生救われるのかわからない、という人は、
南無阿弥陀仏のはからいから、今までずっと逃げてきた人です。
どのように逃げているのか、というと「お念仏を称えません」と逃げている。
そんな私が、如来さまのはからいで「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える身にさせて頂いたときには、
そのお念仏は、何回称えなければいけない、というものでもなければ、
毎日決まった時間に称えなければいけない、というものでもなく、
必ず月に一度、お寺に参って称えなければならない、というものでもありません。
いつでもどこでも、如来さまが私の上にはたらいている、数を問わないそのまま称えるお念仏。
既に届いているものが私の上にそのまま出てくる。
それを称名の「称」といい、これをおっしゃったのが親鸞聖人です。
「称」という字は「秤」と同じこと。
「秤」というのは、100グラムを乗せれば100グラム、200グラムを乗せれば、200グラムの目盛りがそのまま出てきます。
これと同じで、称名の「称」は、(私に)届いているものがそのまま出てくること。
届いているものがそのまま出てくる、それが南無阿弥陀仏のお念仏なのです。
それが「称名」なのです。
だから、「南無阿弥陀仏」の称名は、
既に届いているものが、そのまま私の上に現れ出でてくださる姿で、
私のはからいによって称える念仏ではないのです。
如来のはからいによって称えているお念仏、それが他力のお念仏。
私の上に如来さまがはたらいておられる、そのことを喜ばせて頂くのが浄土真宗なのです。
お念仏というのは、まさに、私のうえにはたらいておる如来さまのお姿が、
「南無阿弥陀仏のお念仏」なのです、と。
このように親鸞聖人はお喜びになりました。
★*:.,.:。.*・゜☆:.,.:*:.,.★*:.,.:。.*・゜☆:.,.:*:.,.★゜☆:.,.:*:.,.★*:.,.:。.*
だから・・・救われちゃうと。。。
「本願成就、嬉しいな~♬o(★≧∇≦)o゛」
もう、この「ひとこと」に尽きるんです。。。
いつでも、どこでも、なにをしていても、
「本願成就」
が、頭をチラついちゃって・・・。
「南無阿弥陀仏」が身体中を循環しているんですよ。。。
((だから、仕事がぜんぜん手につかないんだけどねぇ。(^∀^|||)ヤベヤベ))
なもあみだぶつ♬ ♡(∀`*ゞ)テヘッ