src="http://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/21/35/f0dd514a0a836885f9fb01cd163b5903_s.jpg" border="0">src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/dd/0f83bc66a975e88283697a384ae381a7.jpg" border="0">バルカンのエルサレム,テッサロニキには古代から繁栄したユダヤ人コミュニテイがかつてあった。だけどホロコーストでことごとく消え失せ今残る面影は1つもないのだという。
アブラハム・マノは1919年テッサロニキで生まれた。両親と5人の兄弟はアウシュビッツでことごとく殺され100人もいた親族も全滅した。たった一人生き残ったのが囚人番号116526の入れ墨をつけたマノなのだという。
戦前テッサロニキの人口が12万人で半分がユダヤ人だった。
ユダヤ人はあらゆる商売についていた
しかし9万人いたギリシャユダヤ人のうちホロコーストを生き延びた者はわずか1万人。
ポーランドユダヤ人、リトワニアユダヤ人、ルーマニアユダヤ人には
まだ自分たちの過去を知る資料が残されている。全滅はしてない。
しかしサロニカの場合すべての資料が消え失せ、自分みたいな生き残り組が死んだら全部消えて終わりなのだという。
戦前サロニカには神学校もシナゴーグもユダヤ系の小中高校もあった。
ギリシャではポグロムもあったけどギリシャ人とユダヤ人は比較的友好的に暮らしていた。しかしヒトラーがドイツで政権握ると反ユダヤ主義がギリシャにも押し寄せてきた。
たとえば。仲良しだったギリシャ人の友達が突然言い出した。
「ヤコブ俺はお前に失望した。」「何だい?突然」
「お前がイエスを殺したんだ。」
「馬鹿言うな。2000年も前の話じゃないか」「そうらしいが。俺はたった今教会でそれ聞いてきたんだぞ。」
反ユダヤ主義なんてそんなものだった。
1942年末になると、ギリシャのユダヤ人たちは毎週テッサロニキ、アテネ、ロードス島から移送列車に詰め込まれ強制収容所へと送られだした。
1943年アブラハム・マノもアウシュビッツに送られた。ブーナで労働させられてたがある日突然ギリシャユダヤ人は外に集合するよう命令された。トラックに乗せられビルケナウについたが、
「奇跡だよ。お前たちはガス室直行の予定だったんだ。だけどハンガリーユダヤ人が貨車で到着したのでそっちを先にガス室送りにすることにした。」
その後ギリシャユダヤ人はワルシャワに送られワルシャワゲットー解体の作業をさせられた。ナチスに対するユダヤ人レジスタンス運動の象徴だったワルシャワゲットー破壊の仕事をなぜギリシャユダヤ人にさせるのか?
ギリシャユダヤ人はギリシャ語、ヘブライ語、フランス語スペイン語が喋れたけどドイツ語ポーランド語はちんぷんかんぷんだからだという。
その後ロシア軍がきたので12日間歩かされた。あまりの喉の渇きで発狂寸前だった。食べ物も水もなく、、尿まで飲んだ。
それからダッハウに送られそこで米軍に解放された。
解放されてから親族を探しに故郷に帰るユダヤ人もいたけどマノはドイツに3年間とどまった。
誰か一緒にあの体験を語り合える友達が欲しかった。生き残った6,70人のサロニカユダヤ人を組織してサロニカユダヤ人のシナゴーグを作った。
心の通い合う人間が必要で、、、ダッハウでようやく妻とめぐりあい1945年7月15日結婚した。
その後イスラエルにわたり今日まで港湾労働者をして暮らす。
「アメリカに行ったギリシャユダヤ人は何もかも忘れドルのことばかり考えて暮らしている。生き残ったギリシャユダヤ人のうち60%はイスラエルに来た。
自分はホロコーストは大ウソだと叫ぶ人たちに囲まれて暮らしたくない。テッサロニキの生き残り組と一緒に暮らしたい。
私は生きた証拠だ。1943年には私の家族は100人を超えていた。その家族は今どこにいる?100人の家族のうちから誰が残ってる?彼らはどこにいる?どこにいる?どこにいる?」
↑この人はシュロモ・ベネチア この人もテッサロニキのユダヤ人。
「私はガス室の「特殊任務」をしていた」より。アウシュビッツでゾンダーコマンドだった。マウトハウゼンより生還。彼も戦後イスラエルに渡った。↑この人はシュロモ・ベネチア この人もテッサロニキのユダヤ人。「私はガス室の「特殊任務」をしていた」より。アウシュビッツでゾンダーコマンド(ガス室死体処理人)させられてた。マウトハウゼンより生還。彼も戦後イスラエルに渡った。
シュロモベネチアはアウシュビッツでゾンダーコマンドさせられてた時。
ギリシャから一緒に送られた母や2人の妹はどうなっただろう?
同僚にたずねた。
「母や妹はどうなっただろう?」すると同僚は天に昇る黒煙を指さしました。「ほら、あそこにいるよ」
煙突が黒煙を吐いてました。黒煙になってしまったなんて!!気が狂いかけた。
茫然となって
前方を見つめたら鉄条網の向こうの女性が姉に見えたのです。
思わず「ラケルー!!」と呼んだら「ハーイ」と答えた。
「ラケル、明日のこの時間ここにおいで」「ハーイ」
それから毎日鉄条網の向こうにその女性は立ったのです。彼はラケルに向かって食物を投げ続けた。だけど6日後その女性を見かけなくなった。
12年後シュロモはイスラエルに行き姉のラケルと再会したのです。姉はアーロンという人と一緒になってた。
姉にその話をしたら「私貴方から食物受け取った記憶はないわ」というのです。
別のラケルを助けてたんです。だけど6日間あの女性を助けたんです。
私はこの話を読んで泣けて仕方なかった。目の前にラケルそっくりの女性が立ってた。ラケル!!と呼んだらハーイと答えた。姉はアーロンという人と夫婦になってた。
アブラハム・マノは1919年テッサロニキで生まれた。両親と5人の兄弟はアウシュビッツでことごとく殺され100人もいた親族も全滅した。たった一人生き残ったのが囚人番号116526の入れ墨をつけたマノなのだという。
戦前テッサロニキの人口が12万人で半分がユダヤ人だった。
ユダヤ人はあらゆる商売についていた
しかし9万人いたギリシャユダヤ人のうちホロコーストを生き延びた者はわずか1万人。
ポーランドユダヤ人、リトワニアユダヤ人、ルーマニアユダヤ人には
まだ自分たちの過去を知る資料が残されている。全滅はしてない。
しかしサロニカの場合すべての資料が消え失せ、自分みたいな生き残り組が死んだら全部消えて終わりなのだという。
戦前サロニカには神学校もシナゴーグもユダヤ系の小中高校もあった。
ギリシャではポグロムもあったけどギリシャ人とユダヤ人は比較的友好的に暮らしていた。しかしヒトラーがドイツで政権握ると反ユダヤ主義がギリシャにも押し寄せてきた。
たとえば。仲良しだったギリシャ人の友達が突然言い出した。
「ヤコブ俺はお前に失望した。」「何だい?突然」
「お前がイエスを殺したんだ。」
「馬鹿言うな。2000年も前の話じゃないか」「そうらしいが。俺はたった今教会でそれ聞いてきたんだぞ。」
反ユダヤ主義なんてそんなものだった。
1942年末になると、ギリシャのユダヤ人たちは毎週テッサロニキ、アテネ、ロードス島から移送列車に詰め込まれ強制収容所へと送られだした。
1943年アブラハム・マノもアウシュビッツに送られた。ブーナで労働させられてたがある日突然ギリシャユダヤ人は外に集合するよう命令された。トラックに乗せられビルケナウについたが、
「奇跡だよ。お前たちはガス室直行の予定だったんだ。だけどハンガリーユダヤ人が貨車で到着したのでそっちを先にガス室送りにすることにした。」
その後ギリシャユダヤ人はワルシャワに送られワルシャワゲットー解体の作業をさせられた。ナチスに対するユダヤ人レジスタンス運動の象徴だったワルシャワゲットー破壊の仕事をなぜギリシャユダヤ人にさせるのか?
ギリシャユダヤ人はギリシャ語、ヘブライ語、フランス語スペイン語が喋れたけどドイツ語ポーランド語はちんぷんかんぷんだからだという。
その後ロシア軍がきたので12日間歩かされた。あまりの喉の渇きで発狂寸前だった。食べ物も水もなく、、尿まで飲んだ。
それからダッハウに送られそこで米軍に解放された。
解放されてから親族を探しに故郷に帰るユダヤ人もいたけどマノはドイツに3年間とどまった。
誰か一緒にあの体験を語り合える友達が欲しかった。生き残った6,70人のサロニカユダヤ人を組織してサロニカユダヤ人のシナゴーグを作った。
心の通い合う人間が必要で、、、ダッハウでようやく妻とめぐりあい1945年7月15日結婚した。
その後イスラエルにわたり今日まで港湾労働者をして暮らす。
「アメリカに行ったギリシャユダヤ人は何もかも忘れドルのことばかり考えて暮らしている。生き残ったギリシャユダヤ人のうち60%はイスラエルに来た。
自分はホロコーストは大ウソだと叫ぶ人たちに囲まれて暮らしたくない。テッサロニキの生き残り組と一緒に暮らしたい。
私は生きた証拠だ。1943年には私の家族は100人を超えていた。その家族は今どこにいる?100人の家族のうちから誰が残ってる?彼らはどこにいる?どこにいる?どこにいる?」
↑この人はシュロモ・ベネチア この人もテッサロニキのユダヤ人。
「私はガス室の「特殊任務」をしていた」より。アウシュビッツでゾンダーコマンドだった。マウトハウゼンより生還。彼も戦後イスラエルに渡った。↑この人はシュロモ・ベネチア この人もテッサロニキのユダヤ人。「私はガス室の「特殊任務」をしていた」より。アウシュビッツでゾンダーコマンド(ガス室死体処理人)させられてた。マウトハウゼンより生還。彼も戦後イスラエルに渡った。
シュロモベネチアはアウシュビッツでゾンダーコマンドさせられてた時。
ギリシャから一緒に送られた母や2人の妹はどうなっただろう?
同僚にたずねた。
「母や妹はどうなっただろう?」すると同僚は天に昇る黒煙を指さしました。「ほら、あそこにいるよ」
煙突が黒煙を吐いてました。黒煙になってしまったなんて!!気が狂いかけた。
茫然となって
前方を見つめたら鉄条網の向こうの女性が姉に見えたのです。
思わず「ラケルー!!」と呼んだら「ハーイ」と答えた。
「ラケル、明日のこの時間ここにおいで」「ハーイ」
それから毎日鉄条網の向こうにその女性は立ったのです。彼はラケルに向かって食物を投げ続けた。だけど6日後その女性を見かけなくなった。
12年後シュロモはイスラエルに行き姉のラケルと再会したのです。姉はアーロンという人と一緒になってた。
姉にその話をしたら「私貴方から食物受け取った記憶はないわ」というのです。
別のラケルを助けてたんです。だけど6日間あの女性を助けたんです。
私はこの話を読んで泣けて仕方なかった。目の前にラケルそっくりの女性が立ってた。ラケル!!と呼んだらハーイと答えた。姉はアーロンという人と夫婦になってた。
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