昭和は遠くなりにけり

プログはいくつも作ってるのです。だけど本音愚痴を書くプログが欲しかった。

アイヒマン追跡

2020-01-09 16:58:58 | ホロコースト

アドルフ・アイヒマン1906年3月19日 - 1962年6月1日
1948年春サイモン・ウイゼンタールはアイヒマンの逃亡経路を確認してます。



1945年4月28日プラハを後にしアルトアウスゼーで目撃されてる。米軍捕虜収容所を隠れ家にした。その後ゾーリンゲンの叔父のもとに身を寄せる。アイヒマン家はこの辺りの出身でアイヒマンはアウスゼーの湖に隠しておいた金を取りに来たのを目撃されている。数名の手を借りてアウスゼーア湖から22個の鉄製を箱をとりだし、それをブラーハルムへ運んだ。

箱の中身は書類とユダヤ人の口から取り出した金冠だった。

フィッシュルンドルフには妻と子供たちが住んでいた。アイヒマンは家族思いで

妻と絶えず連絡を取り合ってた。アントンブルガーがアイヒマンとの伝令役をしていた。

ナチの地下組織が網の目のように張り巡らされオデッサが機能を発揮していた。



アイヒマンはクロアチア人委員会の手で修道院ルートを経由してローマに運ばれローマの修道院にかくまわれた。彼はそこでバチカンの旅券を手に入れた。あの頃オデッサの輸送はブラジルかアルゼンチンだった。

サイモン・ウイゼンタールは常にアイヒマンが家族思いなのに目をつけた。

アルトアウスゼーの家族と連絡をとりいつか呼び寄せるだろう。

殺されたユダヤ人の金冠探しするナチスは沢山いた。



ウイゼンタールは新聞でマリア・アイヒマンの死亡記事を見つけた。これはアイヒマンの継母の名だった。葬式場を望遠レンズで写真をとった。

アイヒマンと同じ顔した男たちがずらりと並んでいた。アイヒマンの兄弟たちだった。この写真をもとにイスラエルの青年がアイヒマン探しをした。



1955年イスラエルから知らせがありアイヒマン夫人がリカルド・クレメントと名乗るドイツ人を同棲してることをつきとめた。アイヒマンだった。


1960年5月23日イスラエル首相デビット・べングリオンが国会でアイヒマンが逮捕されたと言明した。

アイヒマンはアルゼンチン社会に完全に同化していた。職をもち子供たちのよきパパだった。

アイヒマンは裁判中



「私は、私が今ではユダヤ人の絶滅が人類史上最悪の犯罪の1つであると考えてることを認めざるをえません。

しかしそれはすでに起こってしまったことです。私たちはこれから全力を挙げ二度と起こらないようにしないといけません。」





一方トレブリンカ絶滅収容所所長フフランツ・シュタングルは法廷でこんなことを言ってのけた。

「私がユダヤ人をガスで殺すしかなかったのはそうでもしないと収容所が満杯になったからです。」

フランツ・シュタングル



私はサイモンウイゼンタールがトレブリンカ収容所所長を逮捕した時のことを

テレビで語ってたのを記憶してます。

アイヒマンが絞首刑にされるとき。周りのユダヤ人たちを見回し

ニターとして

「皆さんそれではさようなら。またお目にかかりましょう。ニター」



私のクラスではお互いにニターと笑って「それではまたお目にかかりましょう、ニタ^^が大流行になりました。



アルゼンチンにはユダヤ人も戦中戦後沢山逃げててアンネフランクさんのクラスメートも沢山移住してました。

ビクトル・フランクルの「夜と霧」は南米のユダヤ人社会で爆発的に読まれたのです。



ユダヤ人の子とドイツ人の子が同じクラスになっててドイツ人の子がハイルヒトラーとナチス賛美をするのでユダヤ人の子はナチスだなときづいてたそうです。

アイヒマンもこの辺りにいるんじゃないかと感じたそうです。
サイモン・ウイゼンタール



ソビボール、トレブリンカ収容所長フランツ・シュタングルはオデッサの助けを借りて逃亡し南米に新しい故郷を見出したナチ戦犯の超有名人だった。


このトレブリンカ収容所長は大量殺害の遂行にあたって格段の功績をあげたことで勲章を授与された。

1942年から1943年まで一年間にトレブリンカ、ソビボール、ベルゼックの絶滅収容所からベルリンの国家公安本部に送った物品。

女性頭髪 貨車25両分  衣服 貨車248両分 靴 貨車100両分

280万アメリカドル。40万イギリスポンド 1200万ソ連ルーブル 1億4千万ポーランド・ズロテイ 金時計40万個金の結婚指輪14万5千キ

2カラット以上のダイアモンド4000カラット

金貨1億2千万ズロテイ。真珠ネックレス数千個




ナチは殺人犯だっただけでなく強盗殺人犯だった
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シカゴマーカンタイル取引所会頭レオ・メラメド氏の生地

2018-09-20 15:23:01 | ホロコースト


シカゴマーカンタイル取引所会頭レオ・メラメド氏が伝記に書いてますが。
歴史上最初に先物取引したのが旧約聖書のヤコブの息子たちヨゼフと12人の兄弟たちで
エジプトで兄弟が再会して以来、パロを救うことにしたそうです。ヨゼフはエジプト王に対し穀物の買いヘッジを行うように説得した。
ヨゼフの忠告によってエジプトは7年間の飢饉を救われた。
その後古代フェニキアやギリシャ、ローマ人がヨゼフの忠告を
さらに発展させた。ヨゼフは近代先物取引の祖である。

シカゴマーカンタイル取引所会頭レオ・メラメド氏生年月日:1932年3月20日 (86歳) はポーランド北東部の​​​ビアリストクのゲットーで生まれた。

レオが米国にたどり着いたのは9歳の時だった。レオが小学校に入学する1939年9月1日に世界は激変し元に戻ることはなかった。150万人の子供を含む600万人のユダヤ人がナチに囚われ帰らぬ身となった。

レオは父の聡明さと決意、先見性のお蔭で真夜中に戦火から脱出し徒歩と汽車、おんぼろ船を乗り継いでいくつも国教を越えた。リトワニアの日本領事館で杉原千畝氏のお世話になり杉原ビザをゲット。2年をかけ
シベリア横断、日本海をわたって神戸市にたどりつく。
米国への渡航を許可されたのは幸運にも真珠湾攻撃の数か月前だった。

しかしメラメド氏の親戚は。ビザンチン様式の大シナゴーグがビアリストックにあって1941年7月3日ナチはシナゴーグ近くに住んでるユダヤ人800人をかき集めシナゴーグに押し込んだ。
そこにはレオの祖母、父の妹従兄妹全員が含まれてた。ナチはユダヤ人を押し込むと扉を封印し外からガソリンで火をつけた。
残ったユダヤ人は絶滅収容所に送られガス室で殺戮された。
レオの親戚は全員殺された。


レオが米国にたどり着いたのは9歳の時だった。両親がかくれんぼのようにゲシュタポやKGBから逃走するのを見てきた。その間にイデッシュ語、ポーランド語、リトワニア語、ロシア語、日本語、英語6カ国を学んだ。彼の父は数学の教師だったがユダヤ人なのに​​​ビアリストクの市会議員に選ばれた。これは大変名誉なことだった。

レオは数学やイデッシュ語の教師である父から経済学を叩き込まれた。
父が大阪で商取引するのを見て商売を学んだ。

父はポーランドのズロチをリトワニアのリタスに変えリタスをロシアのルーブルに変えルーブルを日本の円に、円を米国のドルに替えた。この各々の価値は常に変動してるものであることを息子に説明した。

レオの父は万能人間で家の大工工事、配管工事をやり水洗トイレも作った。父の大工仕事のおかげでレオの家は周囲の家に圧倒的差をつけていた。

レオはルーズベルト高校に入学するまではあがいてばかりいる不幸な青二才だった。


ユダヤ人はここで異教徒からあいさつ代わりに「汚いユダの馬鹿野郎!!」という言葉を浴びせられて育った。

それでもニューヨークのイーストサイドに移り住んだユダヤ難民が味わった苦労と比べたら天地の差だった。シカゴのほうがましだった。
レオの父母はシカゴのショーレムアレイハム学校のイデッシュ語の教師になった。両親は3時になると学校に教えに行くのでレオはいつも一人だった。

カーク・ダグラスもスピルバーグも毎日「イエス殺したのはお前だろ!!」と叩かれモグラして育った。
​イエスなんて知らないおじさんをなんで自分が殺すんだよ?​

だけどロシアでコザックに兄の一人が脳天を射抜かれ命からがらロシアから逃げてきたカークダグラスの母から見ればニューヨークは天国だった。それくらいロシアじゃ地獄をさまよったのだという。



ビアリストク生まれの有名人エスペラントの創案者眼科医のルドヴィコ・ザメンホフ。
彼の息子と2人の娘は全員アウシュビッツの煙と消えた。

オールドボリシェビキのマクシム・リトビノフ

ポリオワクチンの開発で知られる アルバート・サビン、、

イスラエル首相イツハク・シャミルの出身地でもある。
レオと妻子孫たちがビアリストクを訪れた時、ビアリストクの市長は彼にこうあいさつした。
ビアリストクの最後の生き残りユダヤ人が3週間前に亡くなられました。

あんなに沢山ユダヤ人が住んでたのに最後の一人が死んじゃったなんて!!


1939年ビアリストクには人口の6割10万人を超えるユダヤ人が住んでていた。シナゴーグの数が人口に比し多かった。戦前のビアリストクはポーランドを代表する織物と衣料の生産地であった。

戦後1100人のユダヤ人がビアリストクに戻ってきてナチスに壊された墓地を修復した。この墓地に3500人のゲットーの犠牲者が葬られ記念碑がたてられた。

しかし1971年共産党に先導された反ユダヤ人活動で次々にゲットーの墓地が破壊され記念碑は粉々にされた。少年時代ビアリストクに住んだイスラエル首相イツハクシャミルは「ポーランドの若者がナチスでさえやらなかったことをした。彼らはユダヤ人墓地を完全に破壊した。」と抗議した。

レオの両親はビアリストクでユダヤ文化の先頭に立って活動していた。

レオ氏がナチスの追跡をかいくぐって杉原ビザで大陸横断しアメリカに到着したあと。シカゴでマーカンタイル取引所のトップになってもレオ氏の心の中にはいつも生まれ故郷ビアリストクへの思いがあった。

彼の両親もビアリストクで生まれ育ち教育を受け教師となり結婚した。そこへ一緒に行かないかと誘っても両親はかたくなに拒んだ。
「そこには私のために残ってるものは1つもないからね。」​
シカゴに来ても両親の心の中はいつも旧世界の思い出が占領しててイデッシュ語の世界から離れられなかった。

ビアリストクでは両親はいつも自宅に知識人グループを呼んで議論していた。そこで話題になるのは常に

ユダヤ文化の中心地ワルシャワのことだった。ワルシャワは文学、劇場、政治、詩歌で抜きんでていた。

ワルシャワとリトワニアのエルサレム、ビルナが抜きんでていてユダヤ文化の中心地だった。

ビルナは世界的バイオリニストヤッシャ・ハイフェッツを生んでいる。

レオ・メラメドはシカゴ、イデッシュ劇場でイデッシュ劇の俳優をしニューヨークでもイデッシュ俳優として認められてた。

完璧なイデッシュ語で詩を朗読しラジオでユダヤ人向けのメロドラマに出演していた。

レオの父はアメリカ人のスポーツ観戦好きについていけなかった。あんなんに熱狂してたらアホになると論じていた。アメリカ人のトランプ好き。ポーカーやブリッジも悪魔のゲームに感じレオがブリッジ選手権大会の選手なのが気に入らなかった。


その後メラメドが妻と娘4人の孫とともにワルシャワに降り立ったとき、父が言っていた言葉が真実だったと悟った。彼の古きワルシャワへの夢は無残に打ち砕かれた。彼が見たものは特徴のない都市であり、大戦後共産主義者が復興した安っぽい都市であり過去の歴史的建造物の跡形もなく消え失せた都市だった。

そこにはユダヤ人はいなくて、レオにとってユダヤ人の居ないワルシャワはアゼルバイジャンの首都とイコールだった。イデッシュ語が街から消えていた。



ユダヤ人の記念碑を見て彼らを襲った恐怖が再度襲いかかってきた。

記念碑に刻まれた犠牲者の氏名。レオが愛し口ずさんでたイデッシュ語の詩。偉大な詩人イサック・カテネルソンはアウシュビッツの煙となる。

ポーランドの物理学者ヤヌシュ・コルチャック先生。彼は死をまぬがれるはずだったのに子供たちと一緒にトレブリンカのガス室に消えた。

中東系のミズラヒムのラビでワルシャワ地下活動のメンバー。イツハク・ナイセンバウム。彼もトレブリンカで死去。

ワルシャワゲットー蜂起のリーダーとなり恋人ミラとともに死んでいったモルデハイ・アニエレビッツ



アニエレビッチ享年24歳。ミラ享年23歳。一緒に闘って一緒に散ってったんだね。ミラが居たから孤独じゃなかったんだね。



ゾラフ・バルハフティク氏と杉原千畝
ナチス占領下のポーランドやウクライナで。勝ち馬に賭ける多くのポーランド人ウクライナ人がユダヤ人狩りに手を貸した。ユダヤ人でユダヤ難民の救出活動を続けてきたゾラフ・バルハフティク氏が書いていた。

戦前ポーランドのユダヤ人社会は世界一を誇り豊かな文化と伝統を持っていた。ポーランドのユダヤ人社会はポーランドの歴史と同じくらい古かった。


しかしポーランドユダヤ人の生き残りはアメリカとイスラエルに逃げてゆき事実上消滅してしまった。ルーマニアもハンガリーもユダヤ社会が再建されたけどポーランドでは再建できなかった。生き残りのユダヤ人はポーランド人から敵意を持って迎えられた。財産ぶんどった者が財産の返還を恐れた。帰ってきたユダヤ人はナチ協力者たちに殺され路上を歩くのも危険になった。


ヒトラーはポーランドをユダヤ人絶滅の地に選んだ。ポーランド人はヒトラーのユダヤ人絶滅計画の完結に熱心だった。


戦後のポーランドでまたしてもポグロムが起こった。ユダヤ人がキリスト教徒の子供をさらって血の生贄に使うという中世からの誹謗中傷がまたしてもよみがえった。


戦前は350万人もいたポーランドユダヤ人なのに戦後残ったのは1万人である。


戦後のアウシュビッッツで。ポーランド新政権はアウシュビッツ犠牲者の中にユダヤ人がいたことをなせか一言も書かなかった。このことでユダヤ人から批判を受けユダヤ人のことを少し書きくわえた。

ポーランド人ガイドはアウシュビッツで言語を絶する虐殺が起きたことは語るがユダヤ人虐殺に関しては一言も触れなかったという。



ルーマニアユダヤ人エリヴィーゼルが書いていた。

東ヨーロッパのとある町にイエスキリストが戻る話を。



生まれ故郷のシュテットルで、イエスは自分の民をさがしていた。



私の兄弟たちはどこにいますか。

ユダヤ人たちはどこですか。  殺されました。

子供たちはどうしました?どこです?殺されました。



シナゴーグはどこ? 焼かれました。

ユダヤ人たちの家はどこ?  略奪されてしまいました。

イエスは声をあげて泣き始めた。



すると住民は彼もまたユダヤ人に似ていることに突然気づく。

そして彼らは叫びだす。見ろ!こいつもユダヤ人だ!

そして彼らはイエスも殺してしまった。この運命が直撃したのだった。



ゾラフ氏は1946年2月14日ワルシャワを訪れた。ワルシャワを離れて7年4か月たっていた。ゲットー地区ユダヤワルシャワに走っていくと地上から完全に抹殺されていた。繁栄せる街、ヨーロッパに誇るユダヤワルシャワ。多くの優れた学者、作家を輩出したユダヤワルシャワ。活気あふれる商工業都市がアザミの廃墟に、、


自分の家もなく神学校、大シナゴーグ、図書館、商店街建物もなく土台もなく棘のある雑草とアザミが生い茂る見渡す限りの廃墟だった。キリスト教徒ワルシャワだけ残っていた。唯一残るユダヤ人墓地に行き墓石に身を寄せて泣いた。



ニューヨークに戻るとポーランド人連盟に呼ばれて視察報告をした。ホールはポーランドユダヤ難民でいっぱいだった。


氏は演壇にあがり「ユダヤワルシャワにはユダヤ人墓地以外何も残っていませんでした。」すると最前列に座っていたポーランドのロスチャイルドと言われた銀行家

ラファエル.シェルシェブスキーがいきなり立ちあがり「嘘だ嘘だ嘘だ!!!」と叫びながらホールを出て行った。広い会場は凍りついたように静まり返り誰も口がきけなくなった。

ポーランドのロスチャイルドは狂乱し2年後亡くなった。


メラメド氏は大学に進学する頃文学青年でロレンス・ダレル、アーネスト・ヘミングウエイ、オルダス・ハックスリー、ジェームス・ジョイス、トーマス・マン、ヘンリーミラー、レマルク、、などの本から終わることのない教育を授けられた。こういう巨匠たちと個人的に友達になった。レオ氏はシカゴの公立図書館から読書の自由賞を授与されたのだった。これは根っからの教師である両親から経済学だけでなく文学、自分を教育することを
教えられたからだった。strong>

モーゼ、ヨシュアの子孫

2018-06-26 18:10:29 | ホロコースト

ユダヤ人の代表と言うとモーゼです。ユダヤ人存亡の危機の時ヤコブの民を率いたリーダーです。

ナチハンター、サイモンウイゼンタールが書いてたのですが。彼は幾度も殺されかけながらもマウトハウゼン収容所から生還しました。彼は燔祭を逃れたイサクだったのです。

ユダヤ人が危機一髪の時どんな時でもモーゼ役するユダヤ人があらわれたと書いています。そのモーゼ役が引っ張っていったのです。

ワルシャワゲットーで。ゲットー蜂起の時ユダヤ人を率いて戦った
モルデハイ・アニエレビッチという青年がいました。 ポーランドのワルシャワゲットーにユダヤ人は押し込められた。そこで何人かが武器を持って立ち上がり絶望的な闘いをした。
ワルシャワ蜂起として今日まで記憶されている。この時の闘士たちは全員殺されてしまった。

今ゲットーの廃墟にワルシャワ蜂起のモニュメントが立っていて蜂起のヒーロー達の雄雄しい姿が刻んである。ワルシャワ蜂起を指揮したのはモルデハイ・アニエレヴィッツという青年だった。

この人の話は繰り返し聞いていた。ラビ・マービン・トケイヤー師が彼のことを語っておられた。ユダヤ人は彼をわすれることができない。



第二次世界大戦中ホロコーストがあって、ポーランドのワルシャワゲットーにユダヤ人は押し込められた。そこで何人かが武器を持って立ち上がり絶望的な闘いをした。
ワルシャワ蜂起として今日まで記憶されている。この時の闘士たちは全員殺されてしまった。



銅像の中心に立つのがこの青年なのである。
戦士の中には女も居てミラという女闘士がアニエレビッチの彼女だった。

一緒に闘って一緒に散ってったんだね。ミラが居たから孤独じゃなかったんだね

アニエレビッチ享年24歳。ミラ享年23歳。

youtubeを見てたら思いがけずアニエレビッチと巡りあえた。
出会えて嬉しかった。

http://jp.youtube.com/watch?v=8bjY6L_MUkY

img_1mnb.jpghttp://www.youtube.com/watch?v=g7d0GTQ2ovE

1970年12月7日、ヴィリー・ブラント西ドイツ首相はワルシャワを訪れ、ポーランドとの国交正常化基本条約に調印。その足でゲットー英雄記念碑に献花し、ひざまずいて黙祷を捧げた。


銅像の中心に立つのがこの青年なのである。



ソビボール絶滅収容所で。ソビエト赤軍兵のユダヤ人、アレキサンダー・ペチェルスキーが赤軍兵士やユダヤ人を率いて大脱走を企てソビボールから脱出した。

アンネフランクさんの姉マルゴットの仲良しにイエトケっています。イエトケのお兄さんレオはオランダのレジスタンス運動のリーダーでした。死後オランダの通りの名のなりました。


アウシュビッツの化学コマンドーで。プリモレビが書いてたがカルパチアのラビとガリチアの男が毎夜毎夜タルムード問答をヘブライ語とイデッシュ語でするのだそうです。カルパチアのラビはかつて見たこともないような賢人だった。彼は民衆率いるモーゼだった。

日露戦争の時捕虜になってもロシア兵を率いていったユダヤ人兵ヨゼフ・トロンペルドール。彼はイスラエル建国のために戦い死んだ。
 亡国の民としてロシアに生まれ、歯科医となったけれども、日露戦争時、国のためにと志願して兵士になった。
 戦傷で左腕を失うも、「まだ生きている」、と再び戦地に赴き、拳銃で戦った。
 そして、旅順陥落時、捕虜として日本に連行され、ロシア兵として捕虜収容所での生活を送る。

 ところがこの収容所での日本の応対に甚く感心し、初めて
 「ロシア人としてではなく、ユダヤ人として生きること」
 を考えるようになり、ロシアに帰国後、危険地帯のイスラエルに入植。
 軍隊経験を活かして、イスラエル軍を組織、自衛に当たっていたが、アラブの攻撃を受けて戦死。
 その時、「国のために死ぬのは良いことだ」と言い残した。


私はやっぱりユダヤ人にはモーゼやヨシュアの血が流れてるんだと思いました。民族存亡の危機の時
実力を発揮して闘うんだと思いました。



サイモン・ウイゼンタール伝記より。プチャチのだんまりの男

2018-01-08 06:39:56 | ホロコースト

​​少年時代ユダヤ人ボーイスカウトのサイモンウイゼンタール。写真中央。この少年たちの中でホロコーストを生き残ったのは彼一人。全員死に絶えた。


ナチハンター、サイモン・ウイゼンタールの伝記に奇妙なことが書いてあった。

ガリチアは奇蹟を行うラビを輩出した土地だった。ラビは司祭でなく賢者であり法と正義の最終的なよりどころだった。サイモン・ウイゼンタールはガリチアの小さな町プチャチに生まれた。プチャチはロシアでのユダヤ人迫害から逃れてきたユダヤ人であふれかえった町だった。

あのジークムンド・フロイドの一族もこの町出身だった。ヴィセンタールの義母の旧姓がフロイドである。

ウイゼンタールは子供のころの奇妙な記憶がある。近所のある家に男が一人座ってて何年もの間一言もしゃべらず最低限のものしか口にしない。みんなからだんまりと呼ばれてた。

なぜだんまりなのか?

この男はある日妻と喧嘩してあげくのはて「お前なんか焼け死んでしまえ!!」と怒鳴りつけてしまった。

ところが、あろうことか。その晩家が火事になり妻は焼け死んでしまった。彼が火をつけたわけでもないのに。

彼は良心の重荷に耐えきれずラビのもとを訪ねた。ラビの決裁は以後人と口をきいてはならず自分の罪が許されるよう祈り続けよ、、というものだった。この神秘的観念はウイゼンタールの心の中に生き続けた

人は皆生涯を通してみれば罪と償いとは釣り合ってるというものである。

彼にとって罪とは免じることのできないものであってただ償いによって軽くしていくしかない。少しづつ少しづつ。

一体このだんまりの男は沈黙を続けながら何を悟ったのだろうか?
この男の告白記を読みたいんだけど。


ぷちゃちのだんまり男のこと考えてたら、、、自分もこのだんまり男見習ってだんまりになって過去の自分を反省すべきなんかなああて考えた。朝から晩まで過去の自分を反省しないと、、。

死の収容所行きの夢

2017-12-22 17:45:08 | ホロコースト


死の収容所に送られるプラハの少女の写真参考に私も描いてみた。



私はしばしばナチスの強制収容所に入れられる夢を見る。

20歳頃だった。
夢の中で大阪行き列車を待っていた。列車が到着したけど「アウシュビッツ行」と書いてあった。

OH.NO!私は大阪行きに乗りたいのよ!
次々に列車は来るが「トレブリンカ行」「マイダネク行」「ソビボール行」
死の収容所行きばっかりくる。

ふるえあがってたらようやく大阪行きが来た。

列車に乗り込んだら。乗ってて奇妙な感じがした。

窓から見える景色が変だ。日本じゃない。外国の景色に思える。
隣の人におそるおそる
聞いてみた。「ここはどこですか」
返事が返ってきた。「ポーランドです。」

「えええっ。今西暦何年ですか?」「1943年です。」「ドイツの
首相は誰ですか?」「アドルフ・ヒトラー」

「何とまあアンラッキーな!!最悪の時代に来ちまったよ。」
逃げる方法を考えてたら列車が到着して吐き出されてしまった。
黒煙を吐く五本の煙突がそびえてて、、恐れてた場所に来てしまった。

選抜の列に並ばされたが自分が終戦まであと2年も生き延びることが想像できない。
ガス室行きの列に送られてしまいガス室に入れられてしまった。恐怖で気が狂いかけた。隣の人に抱きついて絶叫した。

「ねえねえ、これから私も貴女も死にますけど私を一人にしないで。あの世でも私の横にいてください。置いてかないでー!!」

わめいてたら目が覚めた。こんな夢を何度見たことか。