昭和は遠くなりにけり

プログはいくつも作ってるのです。だけど本音愚痴を書くプログが欲しかった。

アイヒマン追跡

2020-01-09 16:58:58 | ホロコースト

アドルフ・アイヒマン1906年3月19日 - 1962年6月1日
1948年春サイモン・ウイゼンタールはアイヒマンの逃亡経路を確認してます。



1945年4月28日プラハを後にしアルトアウスゼーで目撃されてる。米軍捕虜収容所を隠れ家にした。その後ゾーリンゲンの叔父のもとに身を寄せる。アイヒマン家はこの辺りの出身でアイヒマンはアウスゼーの湖に隠しておいた金を取りに来たのを目撃されている。数名の手を借りてアウスゼーア湖から22個の鉄製を箱をとりだし、それをブラーハルムへ運んだ。

箱の中身は書類とユダヤ人の口から取り出した金冠だった。

フィッシュルンドルフには妻と子供たちが住んでいた。アイヒマンは家族思いで

妻と絶えず連絡を取り合ってた。アントンブルガーがアイヒマンとの伝令役をしていた。

ナチの地下組織が網の目のように張り巡らされオデッサが機能を発揮していた。



アイヒマンはクロアチア人委員会の手で修道院ルートを経由してローマに運ばれローマの修道院にかくまわれた。彼はそこでバチカンの旅券を手に入れた。あの頃オデッサの輸送はブラジルかアルゼンチンだった。

サイモン・ウイゼンタールは常にアイヒマンが家族思いなのに目をつけた。

アルトアウスゼーの家族と連絡をとりいつか呼び寄せるだろう。

殺されたユダヤ人の金冠探しするナチスは沢山いた。



ウイゼンタールは新聞でマリア・アイヒマンの死亡記事を見つけた。これはアイヒマンの継母の名だった。葬式場を望遠レンズで写真をとった。

アイヒマンと同じ顔した男たちがずらりと並んでいた。アイヒマンの兄弟たちだった。この写真をもとにイスラエルの青年がアイヒマン探しをした。



1955年イスラエルから知らせがありアイヒマン夫人がリカルド・クレメントと名乗るドイツ人を同棲してることをつきとめた。アイヒマンだった。


1960年5月23日イスラエル首相デビット・べングリオンが国会でアイヒマンが逮捕されたと言明した。

アイヒマンはアルゼンチン社会に完全に同化していた。職をもち子供たちのよきパパだった。

アイヒマンは裁判中



「私は、私が今ではユダヤ人の絶滅が人類史上最悪の犯罪の1つであると考えてることを認めざるをえません。

しかしそれはすでに起こってしまったことです。私たちはこれから全力を挙げ二度と起こらないようにしないといけません。」





一方トレブリンカ絶滅収容所所長フフランツ・シュタングルは法廷でこんなことを言ってのけた。

「私がユダヤ人をガスで殺すしかなかったのはそうでもしないと収容所が満杯になったからです。」

フランツ・シュタングル



私はサイモンウイゼンタールがトレブリンカ収容所所長を逮捕した時のことを

テレビで語ってたのを記憶してます。

アイヒマンが絞首刑にされるとき。周りのユダヤ人たちを見回し

ニターとして

「皆さんそれではさようなら。またお目にかかりましょう。ニター」



私のクラスではお互いにニターと笑って「それではまたお目にかかりましょう、ニタ^^が大流行になりました。



アルゼンチンにはユダヤ人も戦中戦後沢山逃げててアンネフランクさんのクラスメートも沢山移住してました。

ビクトル・フランクルの「夜と霧」は南米のユダヤ人社会で爆発的に読まれたのです。



ユダヤ人の子とドイツ人の子が同じクラスになっててドイツ人の子がハイルヒトラーとナチス賛美をするのでユダヤ人の子はナチスだなときづいてたそうです。

アイヒマンもこの辺りにいるんじゃないかと感じたそうです。
サイモン・ウイゼンタール



ソビボール、トレブリンカ収容所長フランツ・シュタングルはオデッサの助けを借りて逃亡し南米に新しい故郷を見出したナチ戦犯の超有名人だった。


このトレブリンカ収容所長は大量殺害の遂行にあたって格段の功績をあげたことで勲章を授与された。

1942年から1943年まで一年間にトレブリンカ、ソビボール、ベルゼックの絶滅収容所からベルリンの国家公安本部に送った物品。

女性頭髪 貨車25両分  衣服 貨車248両分 靴 貨車100両分

280万アメリカドル。40万イギリスポンド 1200万ソ連ルーブル 1億4千万ポーランド・ズロテイ 金時計40万個金の結婚指輪14万5千キ

2カラット以上のダイアモンド4000カラット

金貨1億2千万ズロテイ。真珠ネックレス数千個




ナチは殺人犯だっただけでなく強盗殺人犯だった
g>

十字軍以前のユダヤ人

2019-12-21 16:37:17 | ユダヤ民族

ユダヤ人のローマ定住はBC2世紀。BC1世紀にはイタリア全土に5万人のユダヤ人が住み着いてたという。ローマだけで12のシナゴーグがあった。

イベリア半島へのユダヤ人の定住はソロモン王時代にさかのぼる。

8世紀から11世紀後半までの間は西方ユダヤ人共同体は平和と繁栄の時代だった。

カール大帝以後中央ヨーロッパでは寛容の時代だった。ユダヤ人が産業交易の発展に貢献したから。ヨーロッパのユダヤ人はイスラム世界を自由に動き回ることができ近東からの毛皮綿織物貿易、中国からの香辛料貿易はユダヤ人の手に握られていた。マルセイユから北海バルト海イギリスまで大交易路を支配していた。

ルートヴィッヒ一世はユダヤ人を庇護し北フランスとラインラントのタルムード学院でユダヤ人の知的生活は開花した。

フランスのユダヤ人はイギリスにも住み着く。



アイバンホーの話には1066年ころのイギリスのユダヤ村が出てきます。



ドイツにもポーランドにも紀元前頃から住み着いてたが

5世紀ころはケルン、その後モラビア、オーストリアボヘミアに住み定住地の中心はプラハ市だった。





十字軍開始によってユダヤ村の繁栄は終わりユダヤ人への敵意が始まる。

↓紀元前からギリシャに住んでたロマニオットユダヤ人







十字軍がイスラム軍の前線に突破口を開き東方交易路はジェノバとベネチアの富裕な商人に独占されユダヤ人は国際貿易から締め出された。

中央ヨーロッパではユダヤ人の活路は金貸し業だけに限定された。

君主たちにとってユダヤ人を金貸し業に従事させることは格別に利益が大きかった。



ユダヤ人は国庫に納入する普通税と特別税のほかに。金融活動に課せられる高額の税金を支払わされた。戦争や大建築物に融資する裕福なユダヤ人は君主や教会にとって不可欠な動産だった。



南欧では金貸し業が一般的でなくユダヤ人は医者、繊維業、染色、皮なめしなど伝統的な仕事についていた。

第一次十字軍以後ピレネー山脈以北のユダヤ人の暮らしは厳しくなりラビ学院も衰退した。

ポーランドは12世紀にユダヤ人を受け入れ始めその後の数世紀移民の数は増大した。
相次いで流入する移民によってドイツ系ユダヤ人の数は元元居たユダヤ人の数を上回りイデッシュ語がポーランドすべてのユダヤ人の共通語となった。
ポーランドユダヤ人は西ヨーロッパのように金貸し業や非戦極まる商売だけに限定されずにさまざまな 職業に従事した。金銀細工師紡績業鍛冶屋宿屋、収税業務。国王の領地管理岩塩、材木商、農産物輸出商などした。
クラクフ、ルブリンで高等ラビ学院が急激に増加する。
独、伊、モラビア、シレジアから沢山の学生が集まってきた。
16世紀の初めにはポーランドはユダヤ研究の世界最大の中心地となりシュロモ・ルリヤとか偉大なラビを輩出した。



さまよえるユダヤ人

「こいさんのラブ・コール」 フランク永井 cover 清紅

2019-09-27 07:19:28 | 懐メロ
「こいさんのラブ・コール」 フランク永井 cover 清紅



占い教室でコンパがあってそのあとカラオケに行った。
私には京都の血と大阪の血が色濃く流れている。
カラオケがあると懐かしい歌を歌う。
フランクナ永井さんのこいさんのラブコールを歌った。
さいなら大阪の街 こいさんこいさん 女であることああ夢見る
小学校の時この歌が流行っていた。

次に黄昏の御堂筋を歌った。大学時代この歌が流行っていた。雨夜花も。


それからサクランボの実るころ。河は呼んでいる。。憧れのシャンソンを歌った。
いつかプロヴァンスに行こう。デユランス河に行こう
歌いながら泣けてきた。




学生時代

身を立て名をあげ父母の名をあらわすはこれから孝の終わりなり

2019-09-02 16:49:16 | 懐メロ
仰げば尊し 立川清人


身体髪膚、之父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり。身を立て道を行い、名を後世に揚げ、以って父母を顕わすは、孝の終わりなり。  ​​身體髮膚、受之父母。不敢毀傷、孝之始也。立身行道、揚名於後世、以顯父母、孝之終也。
孝経

仰げば尊し聴くだけで泣けてくる。卒業式のたびに泣いていた。身を立て 名をあげ歌いながら泣いていた。映画24の瞳の卒業式シーン見てたら泣けた。立川澄人さんの顔見てたら泣けた。
故鳩山邦夫氏も子供のころ24の瞳見てわんわん泣いたと書いておられた。

​1.仰げば 尊し 我が師の恩
教(おしえ)の庭にも はや幾年(いくとせ)
思えば いと疾(と)し この年月(としつき)
今こそ 別れめ いざさらば
2.互(たがい)に睦(むつみ)し 日ごろの恩
別(わか)るる後(のち)にも やよ 忘るな
身を立て 名をあげ やよ 励めよ
今こそ 別れめ いざさらば
3.朝夕 馴(な)れにし 学びの窓
蛍の灯火(ともしび) 積む白雪(しらゆき)
忘るる 間(ま)ぞなき ゆく年月
今こそ 別れめ いざさらば

最近は中原中也、太宰治、芥川龍之介、、名前見るだけで泣けてくる。
蛍のともしび窓の雪明かりで学ぶ少年おもい涙がこみあげる。

石川啄木、宮沢賢治、芥川龍之介が「蛍のともしび積むしらゆき」を卒業式で歌ってるシーン見れないかな 。

「身を立て名をあげ」歌ってるシーン見れないかな。



孔子様この歌聴いて泣いてくれないかな。
孔子様この歌うたってくれないかな。

先日湯島聖堂歩いてきた。なんとも言えず、、孔子様の香りがした。私孔子様に会いたい。また会いに行こう。​






「 百万本のバラ 」 加藤登紀子

2019-07-26 07:38:21 | 懐メロ
「 百万本のバラ 」 加藤登紀子



百万本の薔薇を贈った画家


1.信じてくれますか 一人の若者が
  小さな家を売り バラを買いました
  信じてくれますか 嘘だと思うでしょう
  町じゅうのバラを あなたに贈るなんて
  ※バラを バラを バラをください
   ありったけのバラをください
   あなたの好きなバラの花で
   あなたを あなたを あなたを包みたい

「百万本の薔薇」を初めて聴いた時、世にもけったいな人がいたものだと呆れた。これでもかこれでもかと手紙送る人も困る。アンデルセンは生涯に3回大恋愛して一回も成就しなかった。好きな女性があらわれると大学ノート一冊分の手紙を書いて送ってたらしい。


恋は成就せず失恋ばかり。
この歌で歌われてる画家は。


ニコ・ピロスマニ (1862年 - 1918年4月9日)は19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したグルジアの画家。彼はグルジア東部のミルザーニの村で生まれた。後にトビリシに出て、グルジア鉄道で働いたり自分の商店を持ったりしたが、体が弱いうえ
人づき合いが下手で長続きしなかった。その後、独学で絵を描く。彼はプリミティヴィズム(原始主義)あるいは素朴派(ナイーブ・アート)に分類される。彼の絵の多くは荒野にたたずむ動物たちや食卓を囲むグルジアの人々を描いたものである。彼はグルジアを流浪しながら絵を描いてその日暮らしを続けた。

一旦はロシア美術界から注目され名が知られるようになったが、そのプリミティヴな画風ゆえ幼稚な絵という非難を浴びてしまった。失意の彼は1918年、貧困のうちに死去した。russian3foto1.jpg

死後グルジアでは国民的画家として愛されるようになる。

1894年、彼の町を訪れたフランス人女優マルガリータと出会って。彼女を深く愛したピロスマニは、愛を示すためにホテルの前の広場を薔薇で埋め尽くした。この伝説がアンドレイ・ヴォズネセンスキーの詩になり、歌となってヒットした。

ニコ・ピロスマニの絵のお蔭でグルジアが大好きになった。あの歌のおかげでますます好きになった。グルジアを描いてくれてありがとう!!ピロスマニのおかげでグルジア神秘的!