昭和は遠くなりにけり

プログはいくつも作ってるのです。だけど本音愚痴を書くプログが欲しかった。

日露戦争の時のユダヤ人

2017-01-02 06:45:09 | ユダヤ民族

ジェイコブ・シフ  ジョン・シフ

日露戦争の時欧米人の目には日本がゴリラに立ち向かう日本猿に見えWaspのJPモルガンなど日本に資金援助しようとしなかった。


一方ユダヤ財閥ジェイコブ・シフは戦費不足に苦しむ日本政府に資金調達した。戦場で日本軍が使用した最新兵器は英国のユダヤ系軍需メーカーがつくった駆逐艦隊だった。
シフはロシアでユダヤ人がポグロムで迫害されてきたので日本に期待したのです。


日清戦争の時の殊勲艦もユダヤメーカーだった。


シフの孫のジョン・シフは第二次大戦後日本財閥のリクエストに応え首都圏の高速道路建設費用を調達してくれた。



戦後復興の道路建設資金にも事欠き日本の道路は穴ぼこだった。


ジョン・シフが日本が世界市場をめざし闘おうとする意欲を評価したのです。

一方日露戦争に駆り出されたロシア兵の中にユダヤ人が3万3千人混ざっていた。そのうち3千人は戦死。旅順陥落後捕虜となったロシア兵は

日本に連行された。大阪府高石市のロシア兵捕虜収容所に送られ1年間の抑留生活を送る。ここの生活はユダヤ兵にとって天国だった。電灯もあるしパン工場で自由にパンも焼けた。何より感激的であったのは宗教礼拝の自由があったことだった。ロシアではひたすら出自を隠し

人目を避けて礼拝しないといけなかった。しかしここでは堂々と礼拝が行えた。ここでユダヤ人兵は他のロシア人兵に読み書きを教え教師役を買って出た。無学文盲ゆえに反ユダヤ扇動に取り込まれてしまったロシア農奴を啓蒙すれば反ユダヤの呪縛から解き放たれるのではあるまいか。
ユダヤ兵たちの熱心な教育活動は大層評判を呼び明治天皇のお耳にも届いた。明治天皇は感心されてリーダー役の傷痍軍人ヨゼフ・トルンペルドールを皇居に招かれた。天皇は捕虜の身でありながら善き行いをしたヤコブを称えて

署名入りの特注の義手を下賜されたのだった。

ポーツマス条約締結後、すべてのロシア兵捕虜は本国に送還されることになった。ロシア兵が歓喜に沸く中、ユダヤ兵たちは喜ぶ気になれなかった。帰国すればまた迫害の日々が待ってることがわかってたからである。


自分たちが血を流して戦った武勇に対して薄情なロシアは何も報いてくれないだろう。

トロンペルドールは小国日本がなぜ大国ロシアに勝ったのか考え抜き、虐げられてきたユダヤ民族も日本のようになれるという結論に達した。トロンペルドールは捕虜収容所でユダヤ系兵士を組織しシオニズム運動を組織した。1920年レバノン国境に近い開拓地でアラブの反徒に襲撃され死亡するが東欧のユダヤ青年を鼓舞する運動に発展してゆく。


私はふとシベリア鉄道オトポール駅でユダヤ難民をたすけた陸軍中将樋口 季一郎のことを思い出した。革命後10年しかたってないソビエトで。

樋口はグルジアの首都チフリス郊外のユダヤで貧しいユダヤ人の玩具商と出会った。

その老人は樋口が日本人と知ると最敬礼し家に招き入れた。老人は涙を流しながらこう訴えてきた。


「私たちユダヤ人は、世界中で一番不幸な民族です。何処にいっても虐められてきました。暴虐の前に刃向かうことは許されない。ただ、神に祈るしかない。だれをも怨んだり、憎んだりしてはならないのだ。ただ、一生懸命神に祈るのだ。そうすれば、かならず、地上の君メシアが助けてくれる。
神はメシアを送って助けて下さる。メシアは東方から来る。日本は東方の国だ。日本の天皇こそ、そのメシアなのだと思う。そしてあなたがた日本人もメシアだ。われわれユダヤ人が困窮している時に、いつか、どこかできっと助けてくれるにちがいありません。」


深い皺の刻まれた老人の目じりから、涙がしたたり落ちていました。
ヨゼフ・トロンペルドール 「イスラエル建国の父」、と言われる人物。ものすごく感動的なのでこちらのプログより抜粋させていただきます。
http://sekisr400.blog.fc2.com/blog-entry-1137.html
 亡国の民としてロシアに生まれ、歯科医となったけれども、日露戦争時、国のためにと志願して兵士になった。
 戦傷で左腕を失うも、「まだ生きている」、と再び戦地に赴き、拳銃で戦った。
 そして、旅順陥落時、捕虜として日本に連行され、ロシア兵として捕虜収容所での生活を送る。

 ところがこの収容所での日本の応対に甚く感心し、初めて
 「ロシア人としてではなく、ユダヤ人として生きること」
 を考えるようになり、ロシアに帰国後、危険地帯のイスラエルに入植。
 軍隊経験を活かして、イスラエル軍を組織、自衛に当たっていたが、アラブの攻撃を受けて戦死。
 その時、「国のために死ぬのは良いことだ」と言い残した。


 国を失い千数百年も流離うのが当たり前であった民族が、或る国の心に触れ
 「国があるっていいなあ。国をもう一度建てることができたなら、死んだって構わない」
ユダヤ人の銀行家でヤコブ・シフという人物は、日本がロシアに勝利することを願って多額の資金援助を日本にしました。
 その一方で、ロシアが勝つために日本と戦ったユダヤ人もいます。
 それがトルンペルドールだった。
 同じ戦いですが、ユダヤ人はどちらの側にも存在した。 ヨセフ・トルンペルドールはイスラエル建国のために闘った志士であり、20世紀におけるユダヤ社会における最大の英雄の一人です。
 ユダヤ人にとってモーセやダビデ王以来の英雄ともいうべき人物なんです。 当時のロシアでは、ユダヤ人が医者になることはできませんでした。
 でも歯医者にはなれたんです。それでトルンペルドールは歯医者になりました。
 ですから彼には教養がありました。それで彼は収容所でユダヤ人のみならず、そこにいたすべての兵士にロシア語の読み書きを教えました。
 兵士の多くは無学文盲だった。

 彼はユダヤ人でしたが、彼が片腕を失いながらも、戦いをやめず、拳銃だけを持って最後まで戦い抜いた、という武勇伝は広く知られていました。
 ですから他の兵士たちも彼には一目置いていて、彼は指導者として尊敬されていたので、皆彼に従いました。

 人間は捕虜生活のような特殊な状況に置かれると、その人の原点に立ち返ろうとします。そしてトルンペルドールも「真のユダヤ人とは何か」という問いを持ち始めます。
 そのことを追求するために、当時捕虜のなかには900人ほどのユダヤ人がいましたが、その同胞たちとともにユダヤ教の伝統的な儀式やお祭りを行ない始めます。でも、その彼が中心になって、ユダヤの民の出エジプトを記念する「過ぎ越しの祭り」を捕虜たちと行ないました。その祭りに欠かすことのできない「マッツァ」と呼ばれる「種入れぬパン」を、当時神戸にあったユダヤ人コミュニティーからわざわざ取り寄せるんです。

 そのために彼は覚えたての日本語を駆使して収容所の担当者と交渉した、といわれます。
 また、それを当時の日本の政府は許可するんですね。そのようにして他民族の習慣にも理解を示して協力した日本政府もすごいと思います。

 そのような日本という国の対応からも、トルンペルドールは国というものの良さを感じたんだと思うんです。
 そして、自分たちユダヤ人が自由に暮らせる日本のような国をもちたいと思ったのではないでしょうか。
 そして、そのトルンペルドールの活動にはユダヤ人捕虜が一致協力します。

 ところが、トルンペルドールがシオニズム、つまりユダヤ民族の祖国を建国するためにイスラエルに帰ろうという声を上げたときには、多くのユダヤ人が、 「自分たちの国だって? 2000年前になくなったものを再建するなんて狂気の沙汰だ」といって反対するんです。
 当時の多くのユダヤ人には自分たちの国をもてるなどという考えはまったくなかったんですね。

 とくに捕虜にとっては、「自分たちはいま、極東の日本の捕虜になっているような状況だ。それに自分たちはロシア兵である。そのわれわれが2000年前に失った土地に還って、国を再建するなんてありえない」という気持ちだったんです。
 ですから、イスラエルの建国という点に関しては、ユダヤ人のなかにもトルンペルドールに反発する者が多くいました。

 でも、トルンペルドールは戦士です、武道家です。自分の信じた道をまっしぐらに突き進んだんです。
 そしてユダヤ人捕虜たちに祖国の必要性を訴え続けました。
 その結果、祖国の再建という志を共にする同志250人とともに、日本の収容所におけるシオニズム(イスラエル建国運動)組織を立ち上げることに成功しました。

 そこから米国のユダヤ人たちに手紙を送ったりして、「自分たちと志を一つにして、ユダヤ人国家の建国のために協力してほしい」という呼びかけをしたりするんです。

 ロシアではユダヤ人であるがゆえに散々差別されながらも、ロシア軍兵士として必死で戦いますが片腕を失い、挙げ句の果てには戦争に負けて日本の捕虜になってしまった。
 そのようなどん底の状態でしたが、トルンペルドールの胸の中には、「ユダヤ人の国を創ろう。そのことのために自分の身を捧げよう」という理想が燃え上ったんです。

 ・日本に対する尊敬の念

青木 国家に対するトルンペルドールの目覚めが日本で起きたということなんですね。

日本は捕虜に非常に寛大だったんですね。
 収容所内では自由な活動が許されていましたし、ロシアのような宗教による差別もなく、信仰の自由が保障されていました。
 そして何よりも日本人は他では迫害しか味わってこなかった自分たちユダヤ人を、他のロシア人と分け隔てなく尊重してくれたんです。


 それが明治天皇のお耳に入り、そのような人物ならぜひ一度見てみたいと
いうことで、明治天皇への拝謁ということになり、義手を賜ったのではないでしょうか。
 その義手はイスラエル北部のテル・ハイ博物館に展示されています。
 その後、トルンペルドールはロシアに帰国しますが、そこではロシア皇帝からも義手をもらうんです。
 ですから彼は二つの義手をもっていたんです。

 彼にとっての国はロシアでした。ユダヤ人であるというだけで虐げられるロシア。
 それでも彼はユダヤ民族としての名誉に懸けて、ロシア兵として懸命に戦い続けました。片腕を失っても戦い続けました。

 しかし、敗れて日本で捕虜になった。その日本で彼は国、祖国ということに目覚めたんです。それは事実です。
 実際、彼はユダヤ人の建国運動を日本で始めたからです。それが日本の武士道や日本という国の姿の影響であることは明らかです。

 なぜなら、それ以前のトルンペルドールにはそのような発想はありませんでしたから。
 彼はロシア兵ですから、捕虜の期間を終えたらロシアに帰国することはわかっていました。でもそこからイスラエルの地に帰還して、建国運動を始めるんだ、ということがハッキリしたのです。

 ところが、イスラエルが建国されてみてわかったのですが、そのイスラエルの北部には、イスラエルには欠かすことのできない水源があるんです。
 その水があるから、私たちイスラエル人は生活できるんです。

 トルンペルドールたちが命懸けで守ってくれたおかげで、イスラエルは貴重な水源を確保することができ、いま私たちはイスラエルで生活することができるのです。
 あのときトルンペルドールがその地にこだわることもなく諦めていたら、貴重な水源はいまごろシリアやレバノンといった危険な国の支配下に置かれ、イスラエルは存在することができなかったでしょう。

 当時、トルンペルドールがそこまで見通していたかどうかはわかりませんが、彼は異常なまでにその場所にこだわりました。そしてそこでアラブ人との激闘の末、戦死しました。


 彼が最期に、「国のために死ぬことはよいことだ」という言葉を残したことによって、ユダヤ人の中に「生命を懸けて自分たちの国を創り、その国のために戦うんだ」という思いが明確になったのです。

 トルンペルドールがイメージした「国」というのは、明治のあの時代の日本のことだったかもしれません。
 彼は日本で捕虜になって、初めて「ユダヤ人の国を創りたい」と思ったんですから。
 それ以前の彼は、シオニスト(イスラエル再建を理想とする人びと)ではありませんでした。

 もちろん、彼個人にはユダヤ民族の名誉と誇りのために戦うという気概はありました。
 反ユダヤ主義の強いロシア軍に志願して入隊し、片腕を失ってでも「ユダヤ人として笑われない生き方がしたい」と願って前線に戻って戦い続けたんですから。
 しかし、彼の中に「ユダヤの国を創りたい」という願いが湧き起こったのは、日本との戦争や捕虜時代を通じて、日本という国に触れてからです。

 トルンペルドールは愛国者としての模範的な生き方をしました。
 イスラエルではいまでも多くの小学生や中高生が、トルンペルドールが最期の戦いをしたテル・ハイにやって来ます。
 
 トルンペルドールは(武器にも農具にもなる)鉄の塊の例えをもって、祖国のために生きる自分の姿を表したのです。

 実際、彼はもともと歯医者ですから医術の心得もありました。
 しかし、志願して兵隊になり、国のために戦いました。また、イスラエルに帰還してからは、農夫として建国のために農地の開拓にも従事したのです。
人びとは彼を信じ、彼に従っていった。そして彼のその志は引き継がれ、彼の死後30年がたって、ついにイスラエル国が誕生。

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