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昭和は遠くなりにけり

プログはいくつも作ってるのです。だけど本音愚痴を書くプログが欲しかった。

貧しき食生活、されど気高き精神生活。

2017-10-25 16:23:18 | ユダヤ民族



旧約聖書で。ノアの箱舟はアララト山頂に漂着した。ということはアルメニアのエレバンあたりから出発したらしい。
ノアの洪水以前の人間は900歳まで生きたと書いてある。アルメニアに居た頃長寿だったんです。
アダムは930才で死んだ。ノアは950才で死去。セムのあとの子供は寿命が100才単位で短くなっていく。
アブラハムは175才で死去。イサクは180才で亡くなリ、
ヤコブが147才で亡くなる。ヨセフは110才で亡くなリ、モーぜは120才で亡くなった。
なぜ寿命がちじんだのか?それは肉食しだしたから。ということを強調してるのだそうです。
肉食は寿命をちじめる。
出エジプトした時モーゼはヤコブの民から殺されかけた。「エジプトでは奴隷身分であっても毎日肉鍋つつき、たらふくパンも食べビールだって飲んでた。それなのにどうしてこんなひもじい思いに耐えないといけないのか?」エジプトの美食になれっこになってたのですね。


国際弁護士の石角完爾 さんは60歳の時脂肪肝になり大病して死にかけた。ニューヨークの病院に入院してた時、ユダヤ人の医者から言われた。「完爾。君は塵から生まれ塵に帰るのだよ。だけど塵に帰る前に今一度アダムとイブの食事に戻ってみないか?」

それ以後アダムとイブの食事に戻ったら健康が戻ったそうです。

ユダヤ人には古代から健康に対する戒律がある。

穀菜、フルーツ、ナッツ食主義を徹底せよ。
動物の血と脂は食べるな。血液が健康の鍵。
断食こそ健康の源、体を内部から浄化せよ。

手を徹底的に洗え。ウイルス、細菌の回避法。
週一回は何もするな。心の平穏が健康を守る。
祈りと瞑想で最高の精神状態をつくれ。
怒り憎しみの感情を抱いてはならない。
笑いで免疫力アップ、ユダヤジョークの効用。苦難を乗り越えるためには笑いが必要。
100歳まで生きた人はリスクを避け続けた人である。

貧者のごとく食べて豊かな考えをめぐらせよ。食事がまずしくないと考えは豊かにならない。

人は塵から生まれ塵に帰る。頑張るのは大事だがどうにもならないことはやりすごすべきだ。

「俺は俺」の自己主張でストレスなく生きる。
家族を大切に。

人は食べることによって死に食べないことによって生きる。
手洗いを徹底しよう。食事の前とトイレのあと朝昼晩手を洗うこと。
洗濯掃除を徹底。大掃除して除菌せよ。

ヘブライ聖書の創世記に神はアダムとイブに木の実と草の実を与えたと書いてある。
穀物、野菜、フルーツ、ナッツこそ神が認める人間の食べ物。
ユダヤ教は食欲と戦うことを中心命題とする宗教だった。


ユダヤ人はチグリスユーフラテス河沿いに住んでた神代の昔から健康長寿追及民族だったんです。古代から水浴手洗いの戒律があった。中世でもユダヤ人は衛生状態がよくコレラなどの感染症が少なかった。
誤って動物の死体や血にに触れたら即手を洗い衣服は焼却しなさい。
ソドムとゴモラみたいに享楽的に暮らしてたら美食で滅びる。ローマ帝国もオスマン帝国も美食にふけって滅亡した。

ユダヤ人は質実剛健、質素倹約、簡素な食事、清潔、十分な休養をモットーにして生きてた。水のあるとこに住む。トイレは離す。食事の前は手洗いする。入浴する、をモットーにしてたからペスト大流行の時でもユダヤ人の感染者は少なかった。
ユダヤ人は迫害の中で満足な医療を受けられなかった。そのため病気にならない生き方を学んだ。
貧しき食生活、されど気高き精神生活。


今もシナゴーグではナッツ、フルーツ、野菜だけの食事してえんえんと議論します。おそらくふすだしう、あまんどう、干しいちじくが並んでるに違いない。

朝は冷水を両眼に。夜は温水を両足に。
40歳までは食事を。40以後は飲み水を十分にとれ。
食事と一緒に水を十分のめ。
座りすぎると痔を痛め立ちすぎると心臓の負担になり、歩きすぎると視力をそこなう。貴方の時間を3つに分けよ。
紫外線の強い中東で戸外を長時間歩くと視力が低下する。


創世記のヤコブの言葉「この国の名産を器に入れ、携え下ってその人に贈り物にしなさい。すなわち少しの乳香、少しの蜜、香料、もつやく、ふすだしう、あめんどう。 そしてその上に、倍額の銀を手に持って行きなさい。」

ふすだしう、あめんどうってピスタチオナッツとアーモンドのことだった。

預言者イザヤが、 ヒゼキヤ王のはれものに、干しいちじくのひとかたまりを持ってこさせ、患部に当てて治すように言っている。


質素倹約質実剛健、貧者のごとく食べて豊かな考えをめぐらせよ。食事がまずしくないと考えは豊かにならない。

これ近江商人もそうだった。近江商人の町にグルメレストランは皆無である。近江商人はランチ時でも蕎麦店にも入らなかった。大根かじりながらひたすら旅を続けたという。↓近江商人





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カザールユダヤ人

2017-10-15 22:41:27 | ユダヤ民族

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サイモンウイゼンタール自身が書いてるけど彼はアシュケナジユダヤ人なんだそうです。ドイツユダヤ人なんだそうです。アシュケナジはこういう顔だよ。

カザール族に関してはいろいろ言われててブルガリア人、アヴァール人、ハンガリー人に近いという説があり一方トルコ系だという説もあってはっきりしない。隣人に対して絶えず戦争するのでペルシア人ビザンチン市民はひどく恐れてた。ビザンチンはカザールをコンスタンチノープルから遠ざけたいために租税を払ってた。キエフの王侯もカザールを遠ざけたいために租税を払ってた。

アラビア人とは常に戦争してた。ブルガリア人とロシア人はカザールの家臣だった。

ビザンチンのレオ皇帝が723年自分の王国のすべてのユダヤ人をキリスト教に改宗させようとしたのでユダヤ人の医者商人職人がカザールに逃げ込んだ。パシリウス皇帝の時もキリスト教に改宗か?死か?と迫ったのでユダヤ人はカザールに逃げた。とくにグルジアのチフリス、ケルチュ、クリミア半島のセバストポリにはユダヤ人の入植地が増えた。


なぜカザールにユダヤ人が増えたかというと?
なぜカザール国にユダヤ人が増えたかというと?
カザールは戦争大好き国なのでやたらと戦闘員が欲しかった。

宗教はどうでもいい。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教が宗教対立なく平和に並暮らせた。

支配者の狙いは領土拡張だった。征服した民族から戦闘用の傭兵を徴募したいために宗教はどうでもよかった。

8世紀半ば740年790年の間にカガン、ブランのカザール王族がユダヤ教を受け入れた。なぜユダヤ教を選んだかというと。
3つの宗教を知ったためにキリスト教イスラム教の根源がユダヤ教だったと気づいたからです。一番親分のユダヤ教にしよう。

改宗したのはあくまで王侯貴族であって一般庶民はムスリムやキリスト教のままだった。

しかしカザールは好戦的な民族で領土拡大狙うので隣人は恐れた。
12世紀になって以前カザールの臣下だったロシア大公キエフのスワヤトスラウと戦争状態になる。
いくつかの戦争でカザールは弱体化しついに完全に消滅してしまった。カザール族はカスピ海を越えコーカサスを越えて逃げたが囚えられ自分たちを討ち負かした国の住民に同化してしまったということです。

ほとんどが正教に改宗してる。


ただカザール支配階級の数人がスペインに逃げスペインのユダヤ人共同体に加わった。12世紀のトレドにカザールユダヤ人の共同体があったという。
サイモン・ウイゼンタール著「希望の帆」より




ネットでユダヤ人にはアシュケナジとセファラデイと2種類あってアシュケナジはカザール王国の子孫で偽ユダヤである。
だからキッシンジャーもフロイドもアインシュタインもユダヤ人じゃないのだ、偽ユダヤだ、
と書いてる人がいる。

今から何十年も昔宇野正美がさかんに東欧ユダヤ人は偽ユダヤだ、、と書いてた時、私は

「この人、現実に
ロシアやポーランドのユダヤ人と会ったことないな。会ってたらこんなこと感じるわけない」と思った。

ロシア東欧のユダヤ人見ても偽に見えないんだけどね。聖書から抜け出てきたみたいな顔の人だらけじゃないですか。

エリヴィーゼルもソ連で山岳ユダヤ人以外のあらゆる種類のユダヤ人と出会ったが、
ロシアのユダヤ人は純然たるユダヤ人だと書いていた。

プリモ・レビが書いてたけど。カザール人は今日のウクライナ人だそうです。
もしウクライナ人がユダヤ人になってるのなら、ユダヤ人にはノーベル賞受賞者が多いけど、、ウクライナ人にだってノーベル賞が続出したっていいはずだ。ウクライナ人てフルシチョフもウクライナ人だった。

例えばローザ・ルクセンブルグはポーランドのユダヤ人だけど両親はポルトガルから逃れたユダヤ人である。スピノザもポルトガルからオランダへ逃れたマラノの子孫。

ハインリッヒ・ハイネもセファラデイムの血が濃い。

クラカウにもセファラデイムユダヤ人が住んでいた。

ハンザ都市のハンブルグにはマラーノのゲットーがあった。ロンドンもマラーノの拠点だった。

ロシア革命の時のレフ・カーメネフもセファラデイムだった。アンネフランクさん、トーマス・マンも母方はスペイン系ユダヤ人。

ユダヤ人たちはポグロムに遭うたびにあっちに逃げこっちに逃げごちゃ混ぜになって暮らしてるのである。

この偽ユダヤ人説を唱えたのがブタペスト生まれのユダヤ人であるアーサー・ケストラーという人だと最近知った。

アシュケナジユダヤ人はカザールだという説は日本以外の国では噴飯モノとして全く相手にされないのに
なぜか日本人には盲信してる人がいる。


今日DNAテストでアシュケナジユダヤ人はカザール王国の人々とは全く別の血筋であることが証明された。
ヨーロッパに広がったアシュケナジと中近東に広がったセファラデイムは別々の地域に住んだというだけで
DNAはおなじである。
コーヘンユダヤ人とはアーロンの直系であるがアーロンの子孫には他には見られない顕著な特徴がy
染色体の遺伝子に見られるそうである。

その遺伝子がアシュケナジとセファラデイムの両方に見られるそうです。

アシュケナジがカザールの子孫であればカザールの風習や伝統、言語などが多少なりともアシュケナジユダヤ人の間に残ってるはずですが
まるきり存在しないそうです。
「日本とユダヤ・魂の隠された絆」中丸薫、ラビ・マービン・トケイヤー

今日のアシュケナジの系譜をたどると全員がラインラント地方と東欧に居住してる1500家族にたどりつくそうです。

アシュケナージユダヤ人はスラブ諸国でも10世紀のドイツ語をかたくなに守り
セファラデイムユダヤ人は15世紀のスペイン語をかたくなに守り続けた。
カザール語の片りんもない。中世のラビ文学にハザール人に関する記述が全くない。


ドイツ文化スペイン文化を誇りにしてきたからです。
カザール国王貴族支配層がユダヤ教に改宗したのは9世紀で住民はイスラム教徒のままだった。
カザリノフ、シャルデエフという名のハザール貴族が改宗したらしいが。
ロシアには由緒正しいユダヤ人が紀元前から存在するのに
由緒正しくない少数のカザールをトップに持ってくるのが異様である。

アルジェリアユダヤ人ジャックアタリ氏が書いてたけど。スペインの異端弾圧以後
セファラデイムユダヤ人はドイツポーランドに逃げた。ドイツのエプシュタインやギンズブルグに逃げたので以後姓をギンズブルグ、エプシュタインに変える。ギンズブルグ、エプシュタインて姓のユダヤ人すごく多い。
ポルトガルからドイツに逃げたのでドイツ風に姓をドラッカーに変えた。ドラッカーは印刷屋の意味です。ドイツ風の姓だから偽だ偽だハザールだと決めてかかる日本人いる。


アーサーケストラー

アーサーケストラーはセルフヘイテイングジューだった。つまり自分を憎むユダヤ人だった。ユダヤ人でなくなりたいユダヤ人だった。

ユダヤ人はキリスト教徒イスラム教徒の両方から迫害されてきた。
ユダヤ人の中には自分を押し殺して多数派におもねる者が出てきた。
ユダヤ人を嫌うキリスト教徒が喜びそうな珍説を提供して媚びたのだった。

アシュケナジ偽ユダヤ人説を創作した・

ケストラーは1983年ロンドンで自殺しました。

反ユダヤ勢力はケストラーのこの説を利用してパレスチナを領有してイスラエルを建国した現代ユダヤ人の権利否定の根拠として長いこと利用してきた。

宇野正美のはケストラーの説をさらにねじまげハザールの王侯貴族だけがユダヤ教に改宗したのであるのに反しハザール全員がユダヤ教徒に改宗したかのように書いてるとこにある。そんなに沢山改宗するわけないのに。今日のアシュケナージユダヤ人の9割がハザールだなんて言ってる。

それだけ現在のユダヤ人を偽物にして権威を下げユダヤ叩きに利用したいのだった。


ロシア革命の時のラーザリ・カガノビッチはカザール王族の子孫という。スターリンと似てるんじゃない?。
カザール偽ユダヤ人って全然本物ユダヤ人と似てないな。本物はこういう顔じゃないよ。
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ローマ時代のヘブライ人像

W杯ロシア大会ベルギー代表のキャプテンがエデン・アザールだった。あのハザールの末裔かもしれない。
エデン・ミハエル・アザール(Eden Michael Hazard、1991年1月7日 - )は、ベルギー・エノー州ラ・ルヴィエール出身のサッカー選手。プレミアリーグ・チェルシーFC所属。

フリードリヒ大王以後のドイツユダヤ人

2017-06-01 07:16:59 | ユダヤ民族


フリードリヒ2世大王は1750年にユダヤ人に対する規定を発布してます。
ユダヤ人を6階級に規定する。

第一階級。王より特権が与えられてるユダヤ人、宮廷ユダヤ人、居住の自由、手工業の経営自由。
第二階級、特権で明示された都市ににのみ定住出来た。この特権は長男にのみ相続が許された。彼らが居住地を去って他の地域に転出する際には莫大な転出税を払わないといけなかった。定住圏を持ったユダヤ人が去ることはその都市の税収入激減を意味する。

第三階級は医師、歯科医、画家、芸術家、自由業を職業とするユダヤ人。しかし彼らが所有した権利は子孫には継承できなかった。

第四階級、ユダヤ人ゲマインデのラビとかユダヤ人組織で公務する者。

第五階級、2,3,4階級の子女たち。独自に商工業に従事し働くことはできなかった。また結婚も許されなかった。子供が生まれるたびに税金が高くなった。芸術学問の道で出世するにはユダヤ人であることは許されなかった。
ドイツユダヤ人の1割以上がプロテスタントに改宗した理由はここです。

第六階級、ユダヤ人上層階級の下で使用人として働いてたユダヤ人。結婚は許されず
居住権も働いてる時のみだった。

ヴォルテールなどの啓蒙思想家をポツダムに呼んで哲学議論してたフリードリヒ大王だったが、ドイツのユダヤ人に対する処遇は中世のままだった。
ユダヤ人の地位の改善はフランス革命以後を待たねばならなかった。

フランス革命の1789年までにドイツユダヤ人の1割以上がプロテスタントに改宗してます。メンデルスゾーン家も改宗してましたが相変わらず自分の生まれ故郷にはいる時でさえ人頭税払わされた。

迫害され続けたユダヤ人は、18世紀に入ると、フランス革命をはじめヨーロッパの近代化の歩みの中で、一時
市民権を与えられ、ゲットーも解放された。
1776年・・・・アメリカでユダヤ人が解放される。平等の市民権が与えられた。
1791年・・・・フランス議会が、ユダヤ人に市民権を与える。
この後、オランダ、イタリアでもユダヤ人に市民権が与えられた。 ユダヤ人も、市民社会の中で同化して生き る道が開けたかに思えたが、しかし、現実はユダヤ人への差別はいぜんとして残った。

ドイツユダヤ人が市民権を得たのはフランスに遅れること70年以上。

ヨーロッパで最初のユダヤ人解放を実現したフランスのミラボー伯はベルリン滞在中、モーゼスメンデルスゾーンやユダヤ解放の思想家ドームと接触し
ドームの思想論文をフランス革命前夜のパリに持ち帰った。革命の勃発とともにユダヤ人の解放を実現した。

しかしドイツではドームの論文は無視され続けた。
ドイツユダヤ人を解放したのはフランス革命軍だった。
ナポレオン支配下でユダヤ人の解放が行われた。


19世紀初ナポレオンのユダヤ人解放によりゲットーの壁が崩れ
ドイツ社会の自由な雰囲気に接したユダヤ人がユダヤ教を硬直した時代遅れの宗教とみなし棄教、キリスト教への改宗が広まります。

なんとか彼らをユダヤ教につなぎとめたくて改革派ユダヤ教を作りました。礼拝はヘブライ語でなく土地の言葉で行う、キッパやタリートも着用しない。食物の戒律や安息日も撤廃。
ドイツユダヤ人の8割が改革派になった。
一方東欧ユダヤ人は西欧のユダヤ人が次々に棄教し非ユダヤ人と結婚してしまうのでユダヤ教の危機と感じ超正統派を作ります。ユダヤ教教育を守り抜きがむしゃらにユダヤ人同士結婚します。

アンネフランクさンの家など改革派ユダヤ教でシナゴーグに行ったこともない。ソーセージハム食べ放題、クリスマス祝い新約聖書を読む。
隠れ家のペーターなんかユダヤ人て何かも知らなかった。



1811年フランクフルト市にいる3千人のユダヤ人に待望の市民権を付与したがその代償としてユダヤ人は44グルデン支払わないといけなかった。高い代償払って獲得した市民権もナポレオン支配の崩壊とともにわずか2年半足らずで無効となった。
ウイーン会議中ユダヤ人団体はやっと獲得した市民権を保持できるように大国の代表に多額の金品を贈り説得しようとしたがウイーン会議はナポレオン支配以前の状態に戻すよう申し合わせた。

たちまち反動政策がとられフランスの支配下で公職に就いたユダヤ人が解雇されユダヤ人差別が復活した。投票権の剥奪、居住地区の分離。ドイツ国民市民としてドイツ文化に同化しようとしたユダヤ人を失望のどん底に突き落とした。
ハインリッヒハイネ、ルドヴィッヒベルネは大学教育受けたがドイツで受け入れなかった。二人はキリスト教に改宗したけれどユダヤ人ということで拒否された。二人は後悔と苦悩のうちにパリで客死した。

ウイーン会議以後もユダヤ人への差別制限だらけ。ドイツにおける経済危機、凶作。ウイーン会議以後19世紀を通じてアメリカに移民するユダヤ人が数百万人におよんだ。最初は行商やカウボーイなどしてたが百貨店経営銀行家などでのし上がる者が生まれてきた。

19世紀後半になって、ドイツの後発産業革命でパイオニア的役割を果たしたのはユダヤ人だった。ドイツ各地やロシア、ルーマニアに鉄道建設、電気機械、武器、百貨店、陶器銅、メッキ化学工業、繊維業、製油、ドイツ人口の1%足らずのユダヤ人がドイツ資産の7%を所有するようになった。これがまたドイツ人の不満をかきたてた。

イスラエルの民よ聞け。われわれの神は単一です。

2017-01-15 21:19:16 | ユダヤ民族
a>ユダヤ人の家のドアの側柱にメズサというものが取り付けられててその中の羊皮紙に
聖書からの数節が書き込まれている。

「イスラエルの民よ聞け。われわれの神は単一です。

神はもしお前たちが私の掟を忠実に守れば穀物と葡萄酒とオリーブ油とが穫れるように雨を適当な時期に与えてやる。もし迷って他の神々を崇拝するようになれば
私は雨が降らないように天を閉めてしまう。」


イスラエルという土地は極めて厳しい自然環境の農耕に向かない荒れ地でマラリア蚊の生息地だった。マラリアでバタバタ死んでいった。

あの辺りに住んでたカナン族やアモル族は不可解で予測不可能な天候と闘わねばならなかった。当然雨乞いのために雨の神様に祈り、太陽神、豊穣の女神に祈る。

モーゼやヨシュアは約束の地に入る前 ヤコブの民たちが安易にバアル神や

雨の神、太陽神、豊穣神に近づくのを恐れた。

神は不可解であろうとも宇宙を統一する一貫した秩序である。

自然を解明して自然を征する者となれ。

ユダヤ人がヘブライ語アラム語を学ぶのは。モーゼやヨシュアが考えてたことを正確に理解するためです。

ヨシュアは山に登り木を伐れとマナセ族とエフライム族に命じた。段々畑を作って農業社会の建設を開始せよ。森林を伐採するのにも厳格なしきたりがある。聖書に出てくる。土地は神が一時的に人間に託するもの。地球の資源には限りがあることをヨシュアはよく知ってた。



聖書の申命記でモーゼがイスラエルの民を迎えることになる約束の地を描写します。小麦、大麦、ざくろ、葡萄、いちじく、なつめやしの実の蜜、オリーブ、この7種類を植えるようにモーゼは言います。

なぜこの7種類なのか。

育てやすいから選んだのじゃないんです。育てにくいから選んだんです。イスラエルで栽培されるもっとも難しい重要な作物として選んだのです。

これらの作物は熟するときに問題があって、過ぎ越しの祭りとペンテコステの間の50日間が重要なのです。



この時期東の砂漠からハムシンという乾燥しきった熱風が吹き、ザクロやブドウの芽を開花させ翌日土砂降りの雨が降って花を散らす。実がならないように花粉を流してしまう、、という農業上危険極まりない季節なのです。

モーゼはこの7種類を育てるには予測不可能な自然と闘わないといけないことがわかってたのです。

イスラエルのあの土地は元々乳と蜜の流れる地などではなく

過酷な自然現象と格闘しないと実を結ばない。あの土地は自然にまかせるとたちまちマラリア蚊の生息地になり作物のとれない不毛の荒れ地と化してしまう。

モーゼはマラリアに負けず不毛の土地を開墾しなさいと叫ぶ。


19世紀にイスラエルに移民したユダヤ人が死海のそばのソドムの地にキブツを作り塩分多い土地で作物など育つわけがないと馬鹿にされてたのに土を洗って塩分をとりその土地にトマトの種をまいた。世界一おいしいトマト、ジャガイモが育った。土を洗った水で魚の養殖池もつくった。ソドムの地で育つトマト。

モーゼやヨシュアが天から見て感心しGood job!Good job!ってヘブライ語で褒めてくれると思うよ。

ユダヤ人は迫害に遭うたびに東欧に逃げ封建領主にとって不要な痩せた農耕に向かない土地を買い取ってそこにシナゴーグを作りユダヤ村を作って生きてきた。

ポルトガルからオランダに逃げ19世紀イスラエルにやってきたユダヤ人の孫デビッド・コレン氏が書いていた。彼は祖父が開拓したエルサレムの開拓村で生まれた。
17でキブツに参加しソドムにやってきた。

海面下400メートルで世界中で最も低い場所
死海の近くに入植したのです。ソドムの南にキブツを建てたのです。「砂漠の家」と名付けた。

土中の塩分が非常に多く17%もあった。土から塩を洗い流しトマトの種をまいた。土中の塩分が多すぎて育たないよと嘲笑されたが。しかし育ったのだ!!
土を洗って大きなトマトとジャガイモを作った。世界中から奇跡を見に来た。土を洗った水で池を作って魚の養殖もした。オレンジやアボガド植えたり七面鳥を飼育しプラスチック工場も建てた。
ユダヤ人が入植したのは無人地帯ばかりで沼地、砂漠、山、何もないところばかりだった。なぜ、ここに戻ってきたのか?私は説明する。

聖書は史上最大のベストセラーである。あれがユダヤ人の文化だった。しかしあの文化を生み出すことができたのはこの土地に住んでいた間だけだった。ヨーロッパやアメリカに住んでいた時は偉大な科学者や哲学者あるいは王の顧問にもなれた。
しかし倫理を創造したり、イデオロギー生活様式、文化詩歌を生み出すことができたのは私たちがこの土地に住んだ時のみだった。
自分たちがこの土地を救済すればこの土地は自分たちを救済してくれるにちがいない。自分たちの使命は土地を耕し国を建設すること。
「イスラエル声と顔」デビッド・グッドマン著
↓デビット・コレン



日露戦争の時のユダヤ人

2017-01-02 06:45:09 | ユダヤ民族

ジェイコブ・シフ  ジョン・シフ

日露戦争の時欧米人の目には日本がゴリラに立ち向かう日本猿に見えWaspのJPモルガンなど日本に資金援助しようとしなかった。


一方ユダヤ財閥ジェイコブ・シフは戦費不足に苦しむ日本政府に資金調達した。戦場で日本軍が使用した最新兵器は英国のユダヤ系軍需メーカーがつくった駆逐艦隊だった。
シフはロシアでユダヤ人がポグロムで迫害されてきたので日本に期待したのです。


日清戦争の時の殊勲艦もユダヤメーカーだった。


シフの孫のジョン・シフは第二次大戦後日本財閥のリクエストに応え首都圏の高速道路建設費用を調達してくれた。



戦後復興の道路建設資金にも事欠き日本の道路は穴ぼこだった。


ジョン・シフが日本が世界市場をめざし闘おうとする意欲を評価したのです。

一方日露戦争に駆り出されたロシア兵の中にユダヤ人が3万3千人混ざっていた。そのうち3千人は戦死。旅順陥落後捕虜となったロシア兵は

日本に連行された。大阪府高石市のロシア兵捕虜収容所に送られ1年間の抑留生活を送る。ここの生活はユダヤ兵にとって天国だった。電灯もあるしパン工場で自由にパンも焼けた。何より感激的であったのは宗教礼拝の自由があったことだった。ロシアではひたすら出自を隠し

人目を避けて礼拝しないといけなかった。しかしここでは堂々と礼拝が行えた。ここでユダヤ人兵は他のロシア人兵に読み書きを教え教師役を買って出た。無学文盲ゆえに反ユダヤ扇動に取り込まれてしまったロシア農奴を啓蒙すれば反ユダヤの呪縛から解き放たれるのではあるまいか。
ユダヤ兵たちの熱心な教育活動は大層評判を呼び明治天皇のお耳にも届いた。明治天皇は感心されてリーダー役の傷痍軍人ヨゼフ・トルンペルドールを皇居に招かれた。天皇は捕虜の身でありながら善き行いをしたヤコブを称えて

署名入りの特注の義手を下賜されたのだった。

ポーツマス条約締結後、すべてのロシア兵捕虜は本国に送還されることになった。ロシア兵が歓喜に沸く中、ユダヤ兵たちは喜ぶ気になれなかった。帰国すればまた迫害の日々が待ってることがわかってたからである。


自分たちが血を流して戦った武勇に対して薄情なロシアは何も報いてくれないだろう。

トロンペルドールは小国日本がなぜ大国ロシアに勝ったのか考え抜き、虐げられてきたユダヤ民族も日本のようになれるという結論に達した。トロンペルドールは捕虜収容所でユダヤ系兵士を組織しシオニズム運動を組織した。1920年レバノン国境に近い開拓地でアラブの反徒に襲撃され死亡するが東欧のユダヤ青年を鼓舞する運動に発展してゆく。


私はふとシベリア鉄道オトポール駅でユダヤ難民をたすけた陸軍中将樋口 季一郎のことを思い出した。革命後10年しかたってないソビエトで。

樋口はグルジアの首都チフリス郊外のユダヤで貧しいユダヤ人の玩具商と出会った。

その老人は樋口が日本人と知ると最敬礼し家に招き入れた。老人は涙を流しながらこう訴えてきた。


「私たちユダヤ人は、世界中で一番不幸な民族です。何処にいっても虐められてきました。暴虐の前に刃向かうことは許されない。ただ、神に祈るしかない。だれをも怨んだり、憎んだりしてはならないのだ。ただ、一生懸命神に祈るのだ。そうすれば、かならず、地上の君メシアが助けてくれる。
神はメシアを送って助けて下さる。メシアは東方から来る。日本は東方の国だ。日本の天皇こそ、そのメシアなのだと思う。そしてあなたがた日本人もメシアだ。われわれユダヤ人が困窮している時に、いつか、どこかできっと助けてくれるにちがいありません。」


深い皺の刻まれた老人の目じりから、涙がしたたり落ちていました。
ヨゼフ・トロンペルドール 「イスラエル建国の父」、と言われる人物。ものすごく感動的なのでこちらのプログより抜粋させていただきます。
http://sekisr400.blog.fc2.com/blog-entry-1137.html
 亡国の民としてロシアに生まれ、歯科医となったけれども、日露戦争時、国のためにと志願して兵士になった。
 戦傷で左腕を失うも、「まだ生きている」、と再び戦地に赴き、拳銃で戦った。
 そして、旅順陥落時、捕虜として日本に連行され、ロシア兵として捕虜収容所での生活を送る。

 ところがこの収容所での日本の応対に甚く感心し、初めて
 「ロシア人としてではなく、ユダヤ人として生きること」
 を考えるようになり、ロシアに帰国後、危険地帯のイスラエルに入植。
 軍隊経験を活かして、イスラエル軍を組織、自衛に当たっていたが、アラブの攻撃を受けて戦死。
 その時、「国のために死ぬのは良いことだ」と言い残した。


 国を失い千数百年も流離うのが当たり前であった民族が、或る国の心に触れ
 「国があるっていいなあ。国をもう一度建てることができたなら、死んだって構わない」
ユダヤ人の銀行家でヤコブ・シフという人物は、日本がロシアに勝利することを願って多額の資金援助を日本にしました。
 その一方で、ロシアが勝つために日本と戦ったユダヤ人もいます。
 それがトルンペルドールだった。
 同じ戦いですが、ユダヤ人はどちらの側にも存在した。 ヨセフ・トルンペルドールはイスラエル建国のために闘った志士であり、20世紀におけるユダヤ社会における最大の英雄の一人です。
 ユダヤ人にとってモーセやダビデ王以来の英雄ともいうべき人物なんです。 当時のロシアでは、ユダヤ人が医者になることはできませんでした。
 でも歯医者にはなれたんです。それでトルンペルドールは歯医者になりました。
 ですから彼には教養がありました。それで彼は収容所でユダヤ人のみならず、そこにいたすべての兵士にロシア語の読み書きを教えました。
 兵士の多くは無学文盲だった。

 彼はユダヤ人でしたが、彼が片腕を失いながらも、戦いをやめず、拳銃だけを持って最後まで戦い抜いた、という武勇伝は広く知られていました。
 ですから他の兵士たちも彼には一目置いていて、彼は指導者として尊敬されていたので、皆彼に従いました。

 人間は捕虜生活のような特殊な状況に置かれると、その人の原点に立ち返ろうとします。そしてトルンペルドールも「真のユダヤ人とは何か」という問いを持ち始めます。
 そのことを追求するために、当時捕虜のなかには900人ほどのユダヤ人がいましたが、その同胞たちとともにユダヤ教の伝統的な儀式やお祭りを行ない始めます。でも、その彼が中心になって、ユダヤの民の出エジプトを記念する「過ぎ越しの祭り」を捕虜たちと行ないました。その祭りに欠かすことのできない「マッツァ」と呼ばれる「種入れぬパン」を、当時神戸にあったユダヤ人コミュニティーからわざわざ取り寄せるんです。

 そのために彼は覚えたての日本語を駆使して収容所の担当者と交渉した、といわれます。
 また、それを当時の日本の政府は許可するんですね。そのようにして他民族の習慣にも理解を示して協力した日本政府もすごいと思います。

 そのような日本という国の対応からも、トルンペルドールは国というものの良さを感じたんだと思うんです。
 そして、自分たちユダヤ人が自由に暮らせる日本のような国をもちたいと思ったのではないでしょうか。
 そして、そのトルンペルドールの活動にはユダヤ人捕虜が一致協力します。

 ところが、トルンペルドールがシオニズム、つまりユダヤ民族の祖国を建国するためにイスラエルに帰ろうという声を上げたときには、多くのユダヤ人が、 「自分たちの国だって? 2000年前になくなったものを再建するなんて狂気の沙汰だ」といって反対するんです。
 当時の多くのユダヤ人には自分たちの国をもてるなどという考えはまったくなかったんですね。

 とくに捕虜にとっては、「自分たちはいま、極東の日本の捕虜になっているような状況だ。それに自分たちはロシア兵である。そのわれわれが2000年前に失った土地に還って、国を再建するなんてありえない」という気持ちだったんです。
 ですから、イスラエルの建国という点に関しては、ユダヤ人のなかにもトルンペルドールに反発する者が多くいました。

 でも、トルンペルドールは戦士です、武道家です。自分の信じた道をまっしぐらに突き進んだんです。
 そしてユダヤ人捕虜たちに祖国の必要性を訴え続けました。
 その結果、祖国の再建という志を共にする同志250人とともに、日本の収容所におけるシオニズム(イスラエル建国運動)組織を立ち上げることに成功しました。

 そこから米国のユダヤ人たちに手紙を送ったりして、「自分たちと志を一つにして、ユダヤ人国家の建国のために協力してほしい」という呼びかけをしたりするんです。

 ロシアではユダヤ人であるがゆえに散々差別されながらも、ロシア軍兵士として必死で戦いますが片腕を失い、挙げ句の果てには戦争に負けて日本の捕虜になってしまった。
 そのようなどん底の状態でしたが、トルンペルドールの胸の中には、「ユダヤ人の国を創ろう。そのことのために自分の身を捧げよう」という理想が燃え上ったんです。

 ・日本に対する尊敬の念

青木 国家に対するトルンペルドールの目覚めが日本で起きたということなんですね。

日本は捕虜に非常に寛大だったんですね。
 収容所内では自由な活動が許されていましたし、ロシアのような宗教による差別もなく、信仰の自由が保障されていました。
 そして何よりも日本人は他では迫害しか味わってこなかった自分たちユダヤ人を、他のロシア人と分け隔てなく尊重してくれたんです。


 それが明治天皇のお耳に入り、そのような人物ならぜひ一度見てみたいと
いうことで、明治天皇への拝謁ということになり、義手を賜ったのではないでしょうか。
 その義手はイスラエル北部のテル・ハイ博物館に展示されています。
 その後、トルンペルドールはロシアに帰国しますが、そこではロシア皇帝からも義手をもらうんです。
 ですから彼は二つの義手をもっていたんです。

 彼にとっての国はロシアでした。ユダヤ人であるというだけで虐げられるロシア。
 それでも彼はユダヤ民族としての名誉に懸けて、ロシア兵として懸命に戦い続けました。片腕を失っても戦い続けました。

 しかし、敗れて日本で捕虜になった。その日本で彼は国、祖国ということに目覚めたんです。それは事実です。
 実際、彼はユダヤ人の建国運動を日本で始めたからです。それが日本の武士道や日本という国の姿の影響であることは明らかです。

 なぜなら、それ以前のトルンペルドールにはそのような発想はありませんでしたから。
 彼はロシア兵ですから、捕虜の期間を終えたらロシアに帰国することはわかっていました。でもそこからイスラエルの地に帰還して、建国運動を始めるんだ、ということがハッキリしたのです。

 ところが、イスラエルが建国されてみてわかったのですが、そのイスラエルの北部には、イスラエルには欠かすことのできない水源があるんです。
 その水があるから、私たちイスラエル人は生活できるんです。

 トルンペルドールたちが命懸けで守ってくれたおかげで、イスラエルは貴重な水源を確保することができ、いま私たちはイスラエルで生活することができるのです。
 あのときトルンペルドールがその地にこだわることもなく諦めていたら、貴重な水源はいまごろシリアやレバノンといった危険な国の支配下に置かれ、イスラエルは存在することができなかったでしょう。

 当時、トルンペルドールがそこまで見通していたかどうかはわかりませんが、彼は異常なまでにその場所にこだわりました。そしてそこでアラブ人との激闘の末、戦死しました。


 彼が最期に、「国のために死ぬことはよいことだ」という言葉を残したことによって、ユダヤ人の中に「生命を懸けて自分たちの国を創り、その国のために戦うんだ」という思いが明確になったのです。

 トルンペルドールがイメージした「国」というのは、明治のあの時代の日本のことだったかもしれません。
 彼は日本で捕虜になって、初めて「ユダヤ人の国を創りたい」と思ったんですから。
 それ以前の彼は、シオニスト(イスラエル再建を理想とする人びと)ではありませんでした。

 もちろん、彼個人にはユダヤ民族の名誉と誇りのために戦うという気概はありました。
 反ユダヤ主義の強いロシア軍に志願して入隊し、片腕を失ってでも「ユダヤ人として笑われない生き方がしたい」と願って前線に戻って戦い続けたんですから。
 しかし、彼の中に「ユダヤの国を創りたい」という願いが湧き起こったのは、日本との戦争や捕虜時代を通じて、日本という国に触れてからです。

 トルンペルドールは愛国者としての模範的な生き方をしました。
 イスラエルではいまでも多くの小学生や中高生が、トルンペルドールが最期の戦いをしたテル・ハイにやって来ます。
 
 トルンペルドールは(武器にも農具にもなる)鉄の塊の例えをもって、祖国のために生きる自分の姿を表したのです。

 実際、彼はもともと歯医者ですから医術の心得もありました。
 しかし、志願して兵隊になり、国のために戦いました。また、イスラエルに帰還してからは、農夫として建国のために農地の開拓にも従事したのです。
人びとは彼を信じ、彼に従っていった。そして彼のその志は引き継がれ、彼の死後30年がたって、ついにイスラエル国が誕生。