歴史だより

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片倉先生の著作を読んで その1

2009-03-19 22:58:39 | 日記
《片倉先生の著作を読んで》その1

片倉先生のご高著『朝鮮とベトナム 日本とアジア ひと・もの・情報の接触・交流と対外観』(福村出版、2008年6月、4500円)が出版された。今回は、この著作を紹介して、その感想を述べてみたい。

まず最初に先生の略歴を紹介しておきたい。先生は、1934年、大阪府に生まれ、1956年、神戸大学文学部史学科を卒業され、その後、大阪大学大学院に進まれた。そして、武庫川女子大学、金沢大学、大阪府立大学、桃山学院大学の各教員を経て、2004年、桃山学院大学文学部を定年退職された。この桃山学院大学文学部での「比較文明論」という授業科目の講義ノートを基とした所論が、本書に数篇ほど収められている。

いうまでもなく、先生には、『ベトナム前近代法の基礎的研究―『国朝刑律』とその周辺―』(風間書房、1987年、601頁)という大著があり、日本における『国朝刑律』研究の第一人者である。日本で本著を超えうる研究はその後現れておらず、他の追随を許さないほど、この分野では権威ある歴史学者である。その学者が朝鮮とベトナムとの関係をテーマとした著書を出版されたことは一見意外に思われるかもしれないが、本著の「まえがき」を読めばわかるように、アジア観を探求するという著者の一貫した研究と教育のテーマの現われであることを思えば、読者は納得がいく。

日本とアジアの史的考察は、片倉先生の教育・研究の主要課題であり、その一部は前著『日本人のアジア観―前近代を中心に―』(明石書店、1998年)に結実したのだが、その後もこのテーマを追究し続けておられ、日本と日本人を、アジアという鏡に映して捉える姿勢を一貫してもち続けて学究生活を営んでこられた。
以下、その概要を本文にできるだけ忠実に紹介した上で、いささかの所感と解説を記しておきたい。

 第1部朝鮮とベトナム―前近代―
第1章 崔致遠著「補安南録異図記」
朝鮮とベトナムは、中国や日本とともに、漢字、儒教、律令などの同一文化圏を形成し、東アジア文化圏の普遍性と独自性を考察する絶好の場である。しかし両者の直接的な関係を示す史料は少ないが、本章では、その数少ない史料のうち、崔致遠により著された「補安南録異図記」を取り上げて、その記述内容を検討し、あわせて前近代朝鮮の人びとのベトナム観、史料に描かれたベトナムの社会と文化の一端を窺知する。

まず、崔致遠(慶州の人、858年―?)は、朝鮮人としてベトナムに関する現存最古の一文を草した人物である。彼は新羅末期の名儒であり、新羅十賢の一として知られる一大文人である。12歳で渡唐し、874年唐の科挙に及第し、官界に進んだ。黄巣の乱(875-884)が広がると、政府軍(指揮者は高駢)の従事として4年間従軍し、上奏文や檄文を草して名声を博した。中でも「檄黄巣書」(881年作)は高く評価された。885年に帰国し、新羅の官職(侍読兼翰林学士、守兵部侍郎、知瑞書監)に就いたりしたが、その後、乱世に絶望して政界から離れ、伽倻山海印寺で隠棲した。彼の書名が『新唐書』巻60、芸文志に著禄されるほど、唐でもよく知られた国際人で、彼は「新羅が生んだ東方第一の人物」であった。その崔致遠がベトナムについて記述したものに「補安南録異図記」(『桂苑筆耕集』)という一文がある。この「補安南録異図記」は朝鮮人がベトナムのことを記した現存最古の史料であり、両国の歴史的関係、文化交流を考察する際に、第一級の価値ある著作である。しかし研究者の間でも議論の対象になってこなかった作品である。そこで、①執筆の理由、②その史料的価値、③崔致遠のベトナム認識の解明という3つの課題から、この一文に関心を寄せて、検討を加えている。

「補安南録異図記」は全文877字の比較的短文であり、その内容としては、安南都護府が管轄する地域の構成、地理的位置、居住する諸蛮とその習俗、生業を記し、南詔の唐への武力抵抗、高駢(?―887)の功績、そして戦後処理と善政を叙述している。この一文で唐の柔遠軍従事の呉降がかつて「図」を集めて「録異」と名づけた作品の補記だから、「補安南録異図記」という名称があり、執筆年代は「翠華(天子の旗)幸蜀之三載」、つまり883年である。呉降の場合、「華」とは異なる「異」なるものを識別、差別して特記する立場をとっていたのに対して、崔致遠の場合、南詔を帰順させた高駢の偉大なる功績を「異」とみなし、呉降の「録異」に欠けているこの部分を補った理由が記されている。

「補安南録異図記」の問題点として、全文がベトナムに限定された記録ではなく、唐代の嶺南地域という広範囲にわたっており、崔致遠のベトナムに関する知見は限定的に把握されていない点がある。ベトナムの人と文化が特記されているという点では『太平寰宇記』の方が優れている。また生業に関しても、「俗無桑蚕之業」とあるのは、越の地でも桑蚕の業が存在したことを記す『漢書』『後漢書』『三国志』といった中国の文献とも矛盾し、これらを渉猟・参照して記述されていない点にも問題がある。

さて、「補安南録異図記」の冒頭部分には、唐代の安南都護府所属の正州および覊縻州の州名と州数(唐代はある時期を除いて郡を改めて州とした)を記すが、その根拠が判明していない。すなわち、安南都護府下に12郡と58覊縻州が設置されたと記しているが、まず郡の数について、それらの郡(じつは州)名を『新唐書』地理志、『元和郡県図志』と比較すると、府城のある交州が省略されている上に、蘇茂州という州が安南都護府に所属したことは確認しえない。また『古代中越関係史資料選編』(1982年、中国)に収録された「補安南録異図記」では、虞林郡を虞郡と林郡と誤読しているので注意を要する。

次に安南都護府下の「覊縻州」の数を58州とする点も、従来の研究では一般に41州であり、44州、32州とする文献もあるが、58州とする出典も研究も見当たらないので、不可解とする。崔致遠が58州と書く根拠が判明せず、今後の課題とする。唐の昭宗時代(888-904)に広州司馬の任にあった劉恂が撰した書に『嶺表録異』(全3巻)があるが、この書に魯迅が校勘を施した。その校勘本の中に「交趾之人重“不乃”羹」の条の末尾に、「《安南録異》図鑿歯、穿心、飛頭、鼻飲者、皆遺風也。」という注がある。この注にみえる『安南録異』は崔致遠の「補安南録異図記」の略称ではないかとし、この注も魯迅が挿入したものと推測している。

さてこの「補安南録異図記」の内容については、2つの問題点がある。第1にこの書はベトナムに関する文献史料のみを参照したのではなく、自らが従事した高駢やその軍団から得た独自の情報知識に基づいて記述したと推考している。この高駢とは864年に都護総管経略招討使に任じられ、チベット・ビルマ系の南詔を北部ベトナムから追放し、ベトナム在任中(864-868)、大規模な羅城(ハノイ)を築いたことで知られる人物である。崔致遠は中国の東南部広州にまで転戦しながら、自らがベトナムの地を踏むという実体験はなかったものの、高駢のようなベトナム通から、その情報を得たことは考えうるという。

第2に、崔致遠のベトナム観の問題がある。崔自身が弾圧した南詔に対して、夷狄用語で表現し、またベトナムにも南蛮と捉える見方が基本となっている点から判断して、唐という華の中心の軍事集団に属する文人として、南詔およびベトナムを夷蛮として捉えているという認識の限界があったと指摘している。黄巣軍が人民の間から発生したことを見極め、弾圧だけでなく、徳で治める仕方を主張するなどの識見を崔は持っていたが、対ベトナム認識については、一般的・伝統的な南蛮観を超えてはおらず、一定の限界があったというのである。

第2章 「趙完璧伝」の一研究
趙完璧は晋州出身の士人で、生没年月は不詳である。「趙完璧伝」によれば、「弱冠」(20歳か)、「年少」にして、「丁酉倭変」(「慶長の役」1597年)に遭い、日本軍に捕らえられ、日本の京都に連行された。一方、『国朝榜目』(科挙合格者名簿)には、朝鮮王朝明宗(1545-1567)の1549年の進士及第者の中に、趙完璧という名があり、晋州の白川出身と明記されている。ただ1549年には、「弱冠」「年少」という年齢ではなく、先の2つの史料のうち、どちらが正しいのかという疑問があるが、この点は著者は保留し、一応「趙完璧伝」に従い、筆を進めている。またある「趙完璧伝」によれば、彼は故掌令・河晋宝の姪孫女(まためい)の婿だったとあり、彼の妻も士人層の出身と推測される。この河晋宝も晋州出身で、1555年の進士合格者であった。

ところで、『国立晋州博物館 壬辰倭乱』という冊子には、イタリアの商人カルレッティが長崎で趙完璧をはじめ、朝鮮の子供5人を購入し、インドのゴアに連行し、当地で4人を解放し、再び日本に戻ってきたことをカルレッティの旅行記(『世界周遊記』と訳出)に明記されているかのように説明されている。しかし、この旅行記には、5人の中に趙完璧と名乗る人物が含まれていたとは明記されておらず、また「趙完璧伝」にも、長崎からゴアへ連行されたことなどに触れられていないので、先の冊子は何かの誤解であろうとする。日本への連行後、彼は文筆の才を認められ、「主倭」(商人の角倉了以)に傭われ、渡航の暁には解放するという約束で、日本の朱印船に乗り込み、1603年から連年3度、当時の安南(ベトナム)を往還し、呂宋(フィリピン)にも1度渡航し、両国を見聞する異国体験をした。解放するとの誓約書は度々反故にされた。それでも海外滞在期間10年(1597-1607)を経て、1607年にようやく趙完璧に帰国できる機会が訪れた。この年、修好(国交回復)・回答兼刷還(国書の回答と被虜人の刷還)使の帰国に際し、被虜人とともに祖国の土を踏むことになったのである。10年ぶりの帰国ではあったが、老母と妻はつつがなく暮らしており、生きて再会する感激を共有することができた。そして帰国後、趙完璧を語り手、情報提供者として、見聞と体験を盛り込んで、伝記として作成されたのが「趙完璧伝」である。そこには、ベトナムという未知の国の人と風物、文化に触れ、南の世界に漢字文化圏が存在することを実体験した記録がある。中には、渡航中に龍(鯨などか)に襲われたとき、鶏や硫黄を焼いて、その臭気で龍を退散させていたという興味深い話や、ベトナムの高官・鄭勦(文理侯・宦官)や知識人との交流なども記されている。

ところで残念なことに、趙完璧自筆の自伝は現存せず、後世の文人らの文集に収録されて伝わるのが「趙完璧伝」である。すでに岩生成一氏[安鼎福(1712~1791年)の自筆稿による伝を紹介]、崔常寿氏の研究があるが、著者は8種の「趙完璧伝」(最多字数が全1529字のものから、537字のものまである)を比較参照することによって、次のような疑問点を指摘している。同一内容の「伝」(本文1529字)が、李睟光(1563-1628年)と鄭士信(1558-1619年)といった異なる著者の文集に収録されている点、またこの2人の人物が同一内容、同一字数で字数の少ない「伝」(本文1125字)も存在する点である。また全体として簡略された「伝」でも、趙完璧の妻の出自のことや、3度にわたるベトナム渡航となった経緯とかベトナムの習俗について、独自の記事を載せており、字数の多寡で一概に史料的価値の大小は計れない点も挙げている。このように「趙完璧伝」の定本がない現状に顧みて、李睟光の「趙完璧伝」を底本として、誤字・脱字や諸伝間の出入りを逐一比較して、校合した結果の定文を載せて、今後の研究に資している。

第3章 済州島吏民のベトナム漂流記録
近年、東アジアの漂流民をめぐる諸問題の研究が目立つようになってきたが、漂流記は国家や民族を超えた、いわば、境界の問題を考察するための新しい歴史研究の分野において貴重な史料である。漂流民の行動は一種の文化交流であり、漂流記はいわゆる正史類にはみられない記述も含んでおり、相互の社会状況とか外国観を知るための重要な史料である。

ここに紹介するベトナム漂流記は、前近代朝鮮人のベトナム観、および両国の歴史的関係を知るための貴重な記録である。1687年に済州島の吏民がベトナム(安南)に漂着し、その後帰国したときの状況を書きしるした漂流記録が鄭東愈(1744―1808)の『晝永編』(『昼永編』)に収録されている。鄭東愈によると、1727年に、訳官だった李斉耼が済州島に出張したとき、安南に漂流したことがある高商英に会い、その漂流の顛末を聴き、漂流記を作成した。この安南漂流記は、1788字(うち漂流記自体は1282字)からなる漢文である。
その漂流の経緯に関しては、1687年に済州島の吏民24人は楸子島(済州島北済州郡楸子島)の近海で大風に遭い、17日間漂ったところで一島の巡邏船に保護され、会安郡明徳府(フェイフォ、現クアン・ナム、ベトナム中部の貿易港)に連れて行かれた。当地の官員は筆談で問答したが、その際に過去にベトナムの太子が朝鮮人に殺されたことがあり、その復讐のために殺されそうになるが、挙止端正な一婦人の執り成しで、漂流記をある島に送るように命じた。ある日、5人が首都昇龍に招待され、国王(熙宗黎維袷か)に謁見したところ、各々に酒食、および米1石、銭300を賜った。そして一行は生還を哀願したところ、国王は憐れに思い、許諾した。国王は、朝鮮国王宛の、正和9(1688)年7月22日付の移文(官文書の一種)を作成させた(この移文は国王の命を奉じた明徳侯呉爲という人物が書いたことになっているが、この人名は当時のベトナム文献には見当らないという)。中国商人の朱漢源、船戸(船舶所有者または回船業者)の陳乾らに頼んで、漂着民を朝鮮に送還することにした。この商船は、1688年8月7日に出帆し、寧波府(浙江省鄞県)、普陀山(浙江省杭州湾東端)を経由して、12月に済州の大静県に到着したというのである。このベトナム漂流記が史実に基づいていることは、『粛宗実録』巻20、1689年2月辛亥条に、送還時の朝鮮王朝の対応についての記事があることから明らかである。鄭東愈『昼永編』に収録されたベトナム漂流記録は、当時のベトナムの状況を示す興味深い史料である。例えば、漂流民を救助しに近づいてきた武装した「巡邏船」が海上防衛のための巡回していた様子が窺える。また救助された漂流民とベトナム人との交流、意思の伝達は、同じ漢字文化圏であるということで、筆談で行われたことがわかる。この言語文化の共通性が、漂流民の救助、帰還という幸運を導き出す一要因になった。つまり前近代東アジアの国際語の中心が漢語・漢文であり、漂流という極限においても、これらを理解できるか否かが、その運命を左右するに近い意味をもっていたとする。

漂流民たちは、ベトナムの自然、社会と文化に関する情報を提供してくれている。例えば、「土地は肥沃で、水田が多く、その民は三男五女(子どもが多く、女の子が多い)、気候は四季を通じて春のように暖かかった」とベトナムの温暖な気候について書き、牛・猿・象・孔雀や檳榔樹・芭蕉・棕櫚・黒檀・白檀・龍茘・薑(はじかみ)など多様で珍奇な動植物について記し、衣食についても、単袗(ひとえ)で幅広い袖の衣服を着、「1年に蚕は5度、稲は3度獲れ、衣食は豊かで、飢え寒さの憂いはなかった」という。そしてベトナム社会については、女性の地位が高いことに注目した。例えば、ベトナム王子が朝鮮人に殺されたので復讐すると脅したとき、「挙止端雅」な一婦人が現われ、「爾等勿哭。我国本無殺害人命之事。欲留則留、欲去則去」と、書をもって示し、軍卒に命じてある島に送らせ、漂流民たちは結局、この一婦人に救われた。そして漂流記にも、ベトナムは一般に「男賎女貴」と明記した。この表現が適切であるか否かは別として、当時のベトナム社会は、朝鮮、中国や日本に比して女性の社会的地位が相対的に高かったことは、社会的生産労働者として、財産相続者、不動産の所有権者として、重要な役割を果たしたことは、従来の研究からも証明できる。この点、この漂流記の信憑性と史料的価値を高めるものであると著者は考えている。

先に触れたように、漂流民たちは会安郡明徳府で、一度殺害されそうになった。そのときの模様は、「又書示曰、我国太子、曽爲朝鮮人所殺。我国亦当尽殺爾等以報讐。渠等見書、放声号哭。」とあり、「かつてわが国(ベトナム)の太子が朝鮮人のために殺されたことがあるから、お前たちをことごとく殺して復讐しなければならない、といわれたので、一行は声を上げて号哭した。」というのである。この点に関しては、ベトナムの太子が朝鮮人に殺されたことは、ベトナムや朝鮮の史書類には見当たらないが、ベトナムの地には太子殺害の伝承、伝聞の類が存在していたようである。漂流物語を描いた文学作品である張漢の『漂海録』(1771年作)には、1770年に張漢らは済州島を出航後、突風により漂流したが、豆の交易で日本に向かう途中のベトナム商舶に救助された。しかしベトナム人たちは、一行が耽羅(済州島)人とわかると、その昔安南世子(太子)が難破して耽羅に漂着したとき耽羅王(事実は済州島の牧使)に殺害されたので復讐しようといきり立ち、再び大海に放り出され、漂流を余儀なくされたことを張漢自らが記している。彼は奇跡的に生還し、単身上京して科挙に臨んだが、不合格であった。このことから、朝鮮人による安南太子殺害云々の伝承は、史実としては認められず、誤伝であったかもしれないが、当時のベトナムに存在していたであろうと著者は解している。ただ、朝鮮における琉球王子殺害の史実と、このベトナム側の伝承との関連性については、未解決で、これからの課題とする。



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