歴史だより

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川口先生の著作を読んで

2009-03-18 21:52:06 | 日記

《川口先生の著作を読んで》

今回取上げるのは、荒このみ編著『7つの都市の物語 文化は都市をむすぶ』(NTT出版、2003年である。

本のタイトルにもあるが、7つの都市(東京、ハノイ、プラハ、ローマ、ロンドン、ブエノスアイレス、ニューヨーク)において、二つの世界大戦の間の時期、とりわけ1920年代という「黄金・光の時代」に、その背後に見え隠れしていた不安な精神状況を見据えながら、文化現象を論じたものである。もともとは公開講演で、一般的な聴衆・読者にわかりやすくするための配慮を随所に感じた。
7つの都市全部にわたる感想は、今回は控え、川口先生の講演内容を要約し、その感想を書いてみたい。

ハノイは1883年から仏領インドシナ連邦の首都となり、フランスは市街地の整備に取りかかり、還剣湖南側の新市街地は1897年までに形成され、メーンストリートのポール・ベール通り(今日のチャン・ティエン通り)などフランス名をもつ新しい通りが建設される。また、1898にはハノイの東側の紅河に長さ2キロのポール・ドゥメール橋(今日のロン・ビエン橋)が架けられた。ハノイは19世紀末には近代都市への転換を始め、20世紀前半により充実した景観を見せる。ハノイの象徴的建物の一つとなるオペラ座(市民劇場)は20世紀初頭に出現する。

19世紀末から20世紀の第一次世界大戦頃までの公共の建物は新古典主義様式であり、トンキン理事長官官邸、郵便局、裁判所などがあり、フランス人オーギュスト・アンリ・ヴィルデュの設計による。一方、第一次世界大戦後の1920~30年代の建物は、寺院風に反り上がった煉瓦屋根や木造の庇などベトナムの伝統建築と西欧の近代建築の統合を目指すインドシナ様式で、建築家エルネスト・エブラールによってインドシナ大学とフランス極東学院ルイ・フィノー博物館(今日の歴史博物館)が建設された。またインドシナ考古学研究のメッカとなるフランス極東学院は、1898年にこのエブラールによって建てられた。

1930年代になると、西欧モダニズムの思潮が押し寄せ、ジョルジュ・トロープの設計で、インドシナ銀行(今日の国立銀行)が1930年に建てられた。直線を基調とした飾り気のない、いわゆるアール・デコ風の建物である。還剣湖の東側を走るフランシス・ガルニエ通り(今日のディン・ティエン・ホアン通り)に建った商業農業会議所(今日の国際郵便局)もモダニズムの建物である。また、1925年にヴィクトル・タルデュによって創立されたインドシナ美術学校(今日のハノイ美術大学)には、2年後建築科が設置され、その卒業生が1930年代後半から1940年代前半にハノイの住居を多く設計するようになる。

ハノイのメーンストリートであるポール・ベール通りも20世紀に入ると、近代都市の形を整える。オペラ座は10年の工期を経て1911年に竣工した。このオペラ座から始まるこの通りには、ハノイホテル(今日の民主ホテル)、極東印刷所(Imprimerie d'Extreme
Orient I.D.E.O「イデオ」)、パラス映画館、百貨店、不動産銀行などの大型建物が建ち並び、一大景観を呈する。ハノイは、エブラールによる計画的な都市化により、1930年代末には近代都市としての景観を示し、東洋の小パリ・ハノイが誕生する。フランス人官吏のE.ビアボーは『美しき印度支那』(1939年)に、「聞きしにまさる美しい景色」とその印象を記す。

また、日本人の目にも、例えば、東京美術学校(現東京芸術大学)教授・伊原宇三郎は1941年の朝日新聞に「一つの方針と計画とを持った町ですから、非常に大都会の風貌を具えている」と語っている。都市化によって、ハノイ市民の生活様式にも新しい変化がもたらされ、「近代市民」が誕生する。1920~30年代には、知識人・上級官吏は「文明」的生活様式で、2、3階建ての家に住み、自動車に乗り、電灯・電気扇風機を使用し、ミュージック・ホールに西洋のコンサートや映画館に出かけたと記述されている。

ところで、1910年代~1930年代は、中国文化からフランスを中心とする近代西欧文化摂取への交替期で、民族文化の模索と創出の時期である。科挙試験でも選択科目にフランス語の科目が採用されるといった点、科挙の廃止も中国(1904年)より長引き、1910年代(北部1915年、中部1918年)までベトナムでは行われた点の指摘など、興味をひきました。民族文化の創出の例とし、ファム・クイン(1892-1945)と『翹伝(チュエン・キエウ) 』礼賛およびホアン・ゴック・ファイックの心理小説という2つのトピックを取り上げ、この時期の文化状況を考察されている。

ファム・クインはハノイの通訳学校の出身で、フランス語に堪能で、ハノイのフランス極東学院の退職後、フランスとベトナムの学問思想の融合を目的として月刊雑誌「南風」(1917-34年)を創刊した。1920年代の民族意識の高揚にともなって、1924年に 8月10日 に、グエン・ズー(阮攸)の命日とされる日に記念式典を挙行し、その演説をする。そこでグエン・ズーの『翹伝』をベトナム民族の国民文学の傑作書として礼賛した。僊田先生と称される理由を注釈において、グエン・ズーの出身地が、ハ・ティン省ギ・スアン県ティエン・ディエン(僊田)村であることによるとされる点は注目したい。

この地は現在どうなっているのか興味がある。というのは、1463年の科挙で既にこの地の出身者がいるのみならず、1731年に父子登科の阮儼(尚書という大臣職までついた重要人物)の出身村であるから。科挙官僚を輩出するような風土なのだろうか。

さて『翹伝』礼賛のファム・クインに異議を唱えた人物が、1901年に科挙(進士)に合格したが仕官せず在野で文学活動を続けたゴー・ドゥック・ケーである。彼はファム・クインを「邪説」を唱える「にせ道徳家」として非難し、『翹伝』も「平凡な物語」で「邪淫な書物」としてその価値を全否定した。また、中部フエの愛国の儒者で、新聞「民の声」の発行人であるフイン・トゥック・カーンも『翹伝』を「淫書」とみなし、その主人公翠翹は「売春婦」と決めつける。しかしルー・チョン・ルは『翹伝』の価値を擁護するなどして、論争は1930年代前半まで続いたという。川口先生は、『翹伝』の道徳的な作品評価は不当であり、ファム・クインの『翹伝』礼賛という評価自体は間違いではないとされる。

そして、『翹伝』がフランスと日本においてどのように紹介されたのかについても言及されている点も参考になる。フランス語訳は、早くも19世紀末に、アベル・デ・ミシェル版が出ており、1926年には文学者ルネ・クレイサックによる韻文訳がハノイのレ・ヴァン・タイ書店から出版され、このルネ・クレイサック版は定評のある訳本とし今日に伝えられている。訳者も賛辞を寄せていることから、ゴー・ドゥック・ケーがファム・クインを否定した頃には、『翹伝』はフランス人の間でも高い評価を得ていた。
 
 日本に紹介されたのは、1941年8月の朝日新聞紙上の座談会で、この長編抒情詩はベトナム人の文化・精神がよく出ていて、日本で言えば源氏物語に匹敵する文学であるという。フランス文学者小松清が仏訳版をもとに翻訳し、1942年10月に出版し、日本における最初のベトナム文学作品の紹介となる。

一方、1925年に、ホアン・ゴック・ファイック(1896-1973)の『トー・タム』という ベトナム近代文学の誕生を告げる記念碑的な小説が出版される。この作品は、封建的因習に阻まれながらも愛し合う若い男女の内面心理を描いた悲恋物語である。作者が友人の悲恋を書き留めるという語りは新しい手法で書かれた心理小説で、この作品は近代小説の先鞭をつけるものであるが、この小説は、フランス文学の影響下にある文学作品であるとされる。すなわち、デュマ・フィスの『椿姫』とアベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』の影響がある。ただ、人物設定は、フランス文学のそれのように、自己主張型の人物でなく、家の存在が絶対的で、思想性も乏しく頼りない存在として描かれている点などに相違が見られる。だから、男女の内面心理を通して自由な意志による恋愛が家の存在によって阻まれるという悲劇を描いた点で画期的な作品と評価することができ、この点に、当時の青年男女がこの作品に魅かれた魅力があるという。だから、この小説はベトナム社会が近代化への歩みの中での過渡的な翻案小説として位置づけられる。1930年代に活躍した文学グループ「自力文団」のメンバーであるタック・ラムは、この小説を時間の選択の中で淘汰された小説と評価している。

その1930年代は、ベトナム民族文化の創出期であり、文学・建築・美術などの諸方面でハノイも近代都市としての風格をともない、近代的「個人」が出現し、都市風俗の担い手となった。だが、1940年代のハノイは、第二次世界大戦、日本軍の北部仏印進駐という時局の変化がともなって異なった様相を示す。この時期の文化評価の問題は複雑で、一般には暗黒の時期、文化的な閉塞の時代として否定的な見方が普通であるが、文化面では新たなグループが誕生し、実験的な創作活動などが展開され、1930年代の近代文化創出期との連続的側面もあり、その最後の局面と捉えるのが現実的であると著者は位置づける。

以上が要約である。私が、ハノイ旅行の際にタクシーに乗りながら、街なみや建物について川口先生が説明されたことが思い出される。今回、文章化されたものを読むことにより、知識として確かなものとなった。そして、20世紀前半のハノイの近代的様相・文化的諸相が、文学作品を通して、ヴィヴィッドにイメージできるようになり、大いに勉強になった。。
読んでいて、とりわけ面白かったのは、『翹伝』をめぐるファム・クインやゴー・ドゥック・ケーの論争であった。以前に抄訳したSHAWN氏にも後者の論文に言及していたし、私の手元にある英書、David G.Marr, Vietnamese Tradition on Trial 1920-1945,University of CaliforniaPress, 1981.とりわけ 153頁以降にもファム・クインについて触れている。この時期、文学作品や儒教をめぐって興味深い論争が展開されており、全体像を把握したいと考える。また私は科挙を研究しているので、グエン・ズーの故郷の様子等を調べてみたい。



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