《新刊紹介 山本英史編『アジアの文人が見た民衆とその文化』その5》
最後に文化・文明について、全体的な感想を記しておきたい。
文明は最も範囲の広い文化的まとまりであり、人を文化的に分類する最上位の範疇であるとハンチントン氏はいう。文明の輪郭を定めているのは、言語、歴史、宗教、生活習慣、社会制度のような共通した客観的な要素と、人びとの主観的な自己認識の両方であるとする(ハンチントン、1998年、55頁~56頁)。そして「最も危険な文化の衝突は、文明と文明の断層線にそって起こる」といみじくも指摘している(同上、31頁)。そして文明の衝突を抑えるためには、「あらゆる文明の住民は他の文明の住民と共通してもっている価値観や制度、生活習慣を模索し、それらを拡大しようとつとめる」努力が不可欠である(同上、492頁)。文明の衝突こそが、世界平和にとって最大の脅威であり、文明にもとづいた国際秩序こそが、世界戦争を防ぐ最も確実な安全装置であるという(同上、494頁)。
ハンチントン氏は民族紛争を異文明間の衝突としてとらえた。冷戦後の世界ではイデオロギーではなく、文明のアイデンティティによって、統合や分裂のパターンがつくられていると主張したと訳者鈴木主税氏はあとがきで解説している(同上、495頁)。
今回紹介した本書では儒教文明の影響を受けた中国、日本、ベトナム、そしてイスラーム文明の影響を受けたマグリブ、北アフリカが考察対象となっている。但し、ハンチントン氏は、儒教文明より中華文明と称する方が、より正確であるとする。中華文明には中国はもちろん、ベトナムや朝鮮、そして東南アジアの華僑の文化を含めている。また日本は別に日本文明を設定している(ハンチントン、1998年、59頁)。今回紹介した本書は、それぞれの文明の中で残された文献テクストに表現された民衆文化を丹念に抽出し、浮彫りにした点で、有意義な著作である。
最後になるが、今年2010年7月3日、フィールドワークで培われた文明の生態史観でその名が知られた梅棹忠夫氏が90歳で亡くなられた。梅棹氏は、京大理学部の動物学科を卒業し、今西錦司先生の弟子にあたる人類学者である。もともと歴史家ではなかったが、ユーラシア諸地方を探検し、実地調査を重ねるうちに、歴史を生態学的な観点から見ることを考えた。つまりユーラシア大陸を生態系をもとに文明圏の型を図示した。時系列に関係なく、ユーラシア諸文明を共時的・類型的に配列する文明史観を提唱した。日本の歴史家が通時性一点張りで、共時性に目を閉じていたのとは、対照的な文明論を梅棹氏は提示した。ユーラシア大陸を4つの文明圏(中国文明圏、インド文明圏、ロシア文明圏、イスラーム・地中海文明圏)に分類し、それらの文明圏の外側の西と東に、西欧と日本は位置するが、この二地域は同じような生態系の条件のもとに、文化と歴史を形成してきたという説である(神山、1995年、208頁~216頁)。ユーラシアの文明形成について、文明はそれが頻繁に通過しすぎる砂漠地帯では決して成熟しなかったが、その端に位置する日本とイギリスでは活着し、成熟していったと梅棹氏は、『文明の生態史観』において論じた(高谷、1993年、75頁~76頁)。
またトインビーが文明の発展の契機について「挑戦と応戦」(Challenge and Response)という理論を提起したことは良く知られている(トインビー1、1975年、114頁~144頁の第2篇第5章を主として、トインビー1、1975年、401頁、トインビー3、1975年、257頁~259頁など)。
文明間の攻撃と抵抗の対応は、一度限りの通時的なものではなく、各地に同時に起こる共時的なものである。例えば、7世紀の日本が、隋と唐の文明の挑戦を受けたとき、大和朝廷はこれを受けながらも日本の国情に合わせた律令制をつくり、仏教を入れて、東大寺・国分寺を中心にした政教一致のシステムで、中央集権の官僚制国家をつくった。一方、西洋では、5世紀末に滅亡した西ローマ帝国から文明の挑戦を受けたゲルマン民族は、ローマの法制を学び、キリスト教会と結び付いて国内を統一し、政教一致のフランク王国をつくった。この東西の歴史的事例は、通時的歴史観の盲点であり、大枠の形態の共時性を認めることができるという(神山、1995年、187頁~188頁)。このように、類型論を使って史実の解釈をシステム化できるという強みが文明史にはある。ベトナム史の場合も、土着の社会の上に中国式の律令制度がかぶさった点において、日本と共通性をもつ(石井、1991年、10頁)。そして8世紀の日本が中国の律令制を受容して国家形成を行ったように、古代の東南アジアはインド的国家編成原理を受容して古代国家を建設した点に着目して、「インド化」という視点から統一的に理解しようとしたセデス(G.Cœdès)は、『極東のインド化した諸国の古代史』(のちに『インドシナおよびインドネシアのインド化された諸国』に改題)という著作を公にした(石井、1991年、5頁~6頁、10頁)。この試みも文明史理解に大きな影響を与えた。但しその場合、「インド偏向」や「中国偏向」の大伝統重視の史観になりがちな点は注意を要する。そうした偏向を克服して歴史の実像にせまる「自律的な」東南アジア史を叙述することが求められる(石井、1991年、9頁~13頁。大木、1991年、146頁)。
ところで、文明論の日本での先駆者であり、慶応義塾大学の創始者である福沢諭吉の主著に『文明論之概略』がある。福沢は、その緒言において、「文明論とは、人の精神発達の議論なり」と述べている(岩波文庫、1995年、9頁。なおこの点、神山、1995年、159頁、164頁も参照のこと)。そして「その趣意は、一人の精神発達を論ずるにあらず、天下衆人の精神発達を一体に集めて、その一体の発達を論ずるものなり。故に文明論、あるいはこれを衆心発達論というも可なり。」と続けている。ただ、福沢が『文明論之概略』において文明史をテーマとした理由は、日本における国民国家の形成という課題を考える枠組みとして、それと不可分であったからである(松沢弘陽氏の解説、岩波文庫、1995年、380頁参照)。
一方、21世紀に生きる我々は、国際化・グローバリズム時代の中で、世界の平和と国際的協調を構築していくという目的のために、求められているといえよう。こうした世界史を視野に入れた大局的・総括的研究を模索し、より文明論・文化論の内容を豊かにするためにも、今回紹介した本書のように世界の各地域に根ざした民間文化をテクストに即して探究する姿勢が求められよう。
歴史家トレヴァー・ローパー氏の言葉に、「探求というものは古い水路にたえず新鮮なものを注ぎ込む新しい運河を掘ること」というのがある(神山、1995年、206頁)。共生のうちに人類の生き方を考える上でも、文明論という大きな枠組みで歴史を捉えることが求められよう。地域に根ざした文化論と、世界史的視野に立った文明論との統合をいかに構想し、地域個別史・部分史を世界史・全体史へ融合していくかは、その理論と方法においても今後に残された大きな課題であろう(神山、1995年、4頁。外村、1991年、1頁~6頁。大木、1991年、165頁~166頁も参照のこと)。個々の歴史家による専門化した個々の歴史研究が、より拾い視野から位置づけられ、新たな意味を与えられることを期したい。
福沢は、『文明論之概略』の緒言において、いみじくも後世の学者のために、次のように述べている。
「特に願くば後の学者、大に学ぶことありて、飽くまで西洋の諸書を読み、飽くまで日本の事情を詳にして、益所見を博くし益議論を密にして、真に文明の全大論と称すべきものを著述し、以て日本全国の面を一新せんことを企望するなり。」(岩波文庫、1995年、13頁)と記す。「真に文明の全大論」とは、今風に言えば、人類史・普遍史を見据えた文明史と称せよう。こうした歴史叙述を福沢は後世の学者に託したものといえよう。
《参考文献》
八尾隆生『黎初ヴェトナムの政治と社会』広島大学出版会、2009年
佐々木宏幹『シャーマニズム エクスタシーと憑霊の文化』中公新書、1980年[1993年版]
福井憲彦『「新しい歴史学」とは何か』日本エディタースクール出版部、1987年
井上幸治編『世界各国史2 フランス史』山川出版社、1968年[1995年版]
トインビー(長谷川松治訳)『歴史の研究 1 2 3』社会思想社、1975年[1994年版]
サミュエル・ハンチントン(鈴木主税訳)『文明の衝突』集英社、1998年
梅棹忠夫『文明の生態史観』中公文庫、1957年
高谷好一『新世界秩序を求めて 21世紀への生態史観』中公新書、1993年
高谷好一『多文明世界の構図』中公新書、1997年
石井米雄「総説 東南アジアの史的認識の歩み」(石井米雄編『講座東南アジア学 第4集 東南アジアの歴史』弘文堂、1991年所収)
大木昌「東南アジア 一つの世界」(石井米雄編『講座東南アジア学 第4集 東南アジアの歴史』弘文堂、1991年所収)
神山四郎『比較文明と歴史哲学』刀水書房、1995年
山本新編『トインビーの歴史観』第三文明社、1976年
外村直彦『多元文明史観』勁草書房、1991年
福沢諭吉『文明論之概略』岩波文庫、1995年
最後に文化・文明について、全体的な感想を記しておきたい。
文明は最も範囲の広い文化的まとまりであり、人を文化的に分類する最上位の範疇であるとハンチントン氏はいう。文明の輪郭を定めているのは、言語、歴史、宗教、生活習慣、社会制度のような共通した客観的な要素と、人びとの主観的な自己認識の両方であるとする(ハンチントン、1998年、55頁~56頁)。そして「最も危険な文化の衝突は、文明と文明の断層線にそって起こる」といみじくも指摘している(同上、31頁)。そして文明の衝突を抑えるためには、「あらゆる文明の住民は他の文明の住民と共通してもっている価値観や制度、生活習慣を模索し、それらを拡大しようとつとめる」努力が不可欠である(同上、492頁)。文明の衝突こそが、世界平和にとって最大の脅威であり、文明にもとづいた国際秩序こそが、世界戦争を防ぐ最も確実な安全装置であるという(同上、494頁)。
ハンチントン氏は民族紛争を異文明間の衝突としてとらえた。冷戦後の世界ではイデオロギーではなく、文明のアイデンティティによって、統合や分裂のパターンがつくられていると主張したと訳者鈴木主税氏はあとがきで解説している(同上、495頁)。
今回紹介した本書では儒教文明の影響を受けた中国、日本、ベトナム、そしてイスラーム文明の影響を受けたマグリブ、北アフリカが考察対象となっている。但し、ハンチントン氏は、儒教文明より中華文明と称する方が、より正確であるとする。中華文明には中国はもちろん、ベトナムや朝鮮、そして東南アジアの華僑の文化を含めている。また日本は別に日本文明を設定している(ハンチントン、1998年、59頁)。今回紹介した本書は、それぞれの文明の中で残された文献テクストに表現された民衆文化を丹念に抽出し、浮彫りにした点で、有意義な著作である。
最後になるが、今年2010年7月3日、フィールドワークで培われた文明の生態史観でその名が知られた梅棹忠夫氏が90歳で亡くなられた。梅棹氏は、京大理学部の動物学科を卒業し、今西錦司先生の弟子にあたる人類学者である。もともと歴史家ではなかったが、ユーラシア諸地方を探検し、実地調査を重ねるうちに、歴史を生態学的な観点から見ることを考えた。つまりユーラシア大陸を生態系をもとに文明圏の型を図示した。時系列に関係なく、ユーラシア諸文明を共時的・類型的に配列する文明史観を提唱した。日本の歴史家が通時性一点張りで、共時性に目を閉じていたのとは、対照的な文明論を梅棹氏は提示した。ユーラシア大陸を4つの文明圏(中国文明圏、インド文明圏、ロシア文明圏、イスラーム・地中海文明圏)に分類し、それらの文明圏の外側の西と東に、西欧と日本は位置するが、この二地域は同じような生態系の条件のもとに、文化と歴史を形成してきたという説である(神山、1995年、208頁~216頁)。ユーラシアの文明形成について、文明はそれが頻繁に通過しすぎる砂漠地帯では決して成熟しなかったが、その端に位置する日本とイギリスでは活着し、成熟していったと梅棹氏は、『文明の生態史観』において論じた(高谷、1993年、75頁~76頁)。
またトインビーが文明の発展の契機について「挑戦と応戦」(Challenge and Response)という理論を提起したことは良く知られている(トインビー1、1975年、114頁~144頁の第2篇第5章を主として、トインビー1、1975年、401頁、トインビー3、1975年、257頁~259頁など)。
文明間の攻撃と抵抗の対応は、一度限りの通時的なものではなく、各地に同時に起こる共時的なものである。例えば、7世紀の日本が、隋と唐の文明の挑戦を受けたとき、大和朝廷はこれを受けながらも日本の国情に合わせた律令制をつくり、仏教を入れて、東大寺・国分寺を中心にした政教一致のシステムで、中央集権の官僚制国家をつくった。一方、西洋では、5世紀末に滅亡した西ローマ帝国から文明の挑戦を受けたゲルマン民族は、ローマの法制を学び、キリスト教会と結び付いて国内を統一し、政教一致のフランク王国をつくった。この東西の歴史的事例は、通時的歴史観の盲点であり、大枠の形態の共時性を認めることができるという(神山、1995年、187頁~188頁)。このように、類型論を使って史実の解釈をシステム化できるという強みが文明史にはある。ベトナム史の場合も、土着の社会の上に中国式の律令制度がかぶさった点において、日本と共通性をもつ(石井、1991年、10頁)。そして8世紀の日本が中国の律令制を受容して国家形成を行ったように、古代の東南アジアはインド的国家編成原理を受容して古代国家を建設した点に着目して、「インド化」という視点から統一的に理解しようとしたセデス(G.Cœdès)は、『極東のインド化した諸国の古代史』(のちに『インドシナおよびインドネシアのインド化された諸国』に改題)という著作を公にした(石井、1991年、5頁~6頁、10頁)。この試みも文明史理解に大きな影響を与えた。但しその場合、「インド偏向」や「中国偏向」の大伝統重視の史観になりがちな点は注意を要する。そうした偏向を克服して歴史の実像にせまる「自律的な」東南アジア史を叙述することが求められる(石井、1991年、9頁~13頁。大木、1991年、146頁)。
ところで、文明論の日本での先駆者であり、慶応義塾大学の創始者である福沢諭吉の主著に『文明論之概略』がある。福沢は、その緒言において、「文明論とは、人の精神発達の議論なり」と述べている(岩波文庫、1995年、9頁。なおこの点、神山、1995年、159頁、164頁も参照のこと)。そして「その趣意は、一人の精神発達を論ずるにあらず、天下衆人の精神発達を一体に集めて、その一体の発達を論ずるものなり。故に文明論、あるいはこれを衆心発達論というも可なり。」と続けている。ただ、福沢が『文明論之概略』において文明史をテーマとした理由は、日本における国民国家の形成という課題を考える枠組みとして、それと不可分であったからである(松沢弘陽氏の解説、岩波文庫、1995年、380頁参照)。
一方、21世紀に生きる我々は、国際化・グローバリズム時代の中で、世界の平和と国際的協調を構築していくという目的のために、求められているといえよう。こうした世界史を視野に入れた大局的・総括的研究を模索し、より文明論・文化論の内容を豊かにするためにも、今回紹介した本書のように世界の各地域に根ざした民間文化をテクストに即して探究する姿勢が求められよう。
歴史家トレヴァー・ローパー氏の言葉に、「探求というものは古い水路にたえず新鮮なものを注ぎ込む新しい運河を掘ること」というのがある(神山、1995年、206頁)。共生のうちに人類の生き方を考える上でも、文明論という大きな枠組みで歴史を捉えることが求められよう。地域に根ざした文化論と、世界史的視野に立った文明論との統合をいかに構想し、地域個別史・部分史を世界史・全体史へ融合していくかは、その理論と方法においても今後に残された大きな課題であろう(神山、1995年、4頁。外村、1991年、1頁~6頁。大木、1991年、165頁~166頁も参照のこと)。個々の歴史家による専門化した個々の歴史研究が、より拾い視野から位置づけられ、新たな意味を与えられることを期したい。
福沢は、『文明論之概略』の緒言において、いみじくも後世の学者のために、次のように述べている。
「特に願くば後の学者、大に学ぶことありて、飽くまで西洋の諸書を読み、飽くまで日本の事情を詳にして、益所見を博くし益議論を密にして、真に文明の全大論と称すべきものを著述し、以て日本全国の面を一新せんことを企望するなり。」(岩波文庫、1995年、13頁)と記す。「真に文明の全大論」とは、今風に言えば、人類史・普遍史を見据えた文明史と称せよう。こうした歴史叙述を福沢は後世の学者に託したものといえよう。
《参考文献》
八尾隆生『黎初ヴェトナムの政治と社会』広島大学出版会、2009年
佐々木宏幹『シャーマニズム エクスタシーと憑霊の文化』中公新書、1980年[1993年版]
福井憲彦『「新しい歴史学」とは何か』日本エディタースクール出版部、1987年
井上幸治編『世界各国史2 フランス史』山川出版社、1968年[1995年版]
トインビー(長谷川松治訳)『歴史の研究 1 2 3』社会思想社、1975年[1994年版]
サミュエル・ハンチントン(鈴木主税訳)『文明の衝突』集英社、1998年
梅棹忠夫『文明の生態史観』中公文庫、1957年
高谷好一『新世界秩序を求めて 21世紀への生態史観』中公新書、1993年
高谷好一『多文明世界の構図』中公新書、1997年
石井米雄「総説 東南アジアの史的認識の歩み」(石井米雄編『講座東南アジア学 第4集 東南アジアの歴史』弘文堂、1991年所収)
大木昌「東南アジア 一つの世界」(石井米雄編『講座東南アジア学 第4集 東南アジアの歴史』弘文堂、1991年所収)
神山四郎『比較文明と歴史哲学』刀水書房、1995年
山本新編『トインビーの歴史観』第三文明社、1976年
外村直彦『多元文明史観』勁草書房、1991年
福沢諭吉『文明論之概略』岩波文庫、1995年
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