歴史だより

東洋の歴史に関連したエッセイなどをまとめる

シャンソン歌手としてのピアフとセリーヌ

2011-07-31 18:55:21 | 日記
《シャンソン歌手としてのピアフとセリーヌ》

前回のブログでは、セリーヌ・ディオンの半生について紹介してみた。今回は、セリーヌの楽曲の中から、私の好きな曲を選び、その歌詞に対する理解を深めてみたい。

「POUR QUE TU M'AIMES ENCORE(愛をふたたび)」は、パリで1995年に大ヒットした。直訳すれば、「君が再び私を愛するように」であるが、このタイトルも意味深い。
切ない女心を綴った歌詞で、それをセリーヌがしっとりとした歌声でうたいあげる。男性は移り気で飽きっぽい性格だったのであろう。別の女性に傾きかけている状態である。その男性との愛を再び取り戻したい女心を、フランスが誇る名ソングライター、ジャン・ジャック・ゴールドマンが切なく綴っている。

J'irai chercher ton cœur si tu l'emportes ailleurs
Même si dans tes danses d'autres dansent tes heures
J'irai chercher ton âme dans les froids dans les flammes
Je te jetterai des sorts pour que tu m'aimes encore
貴方が心をどこかに遣ってしまったなら、私はそれを探しにいく
踊りの間、貴方の心が別の女の処に飛んでしまっているのなら
私は貴方の魂を探しにいく、氷の中だって、火の中だって
私は貴方に呪文をかける、貴方が再び私を愛するように

ここにタイトルの「POUR QUE TU M'AIMES ENCORE」(貴方が再び私を愛するように)が出てくる。女主人公の私は、男性の魂を探しにゆくというのである。たとえ氷(寒さ)中であろうと、火の中であろうと、日本語では、たとえ「火の中、水の中」である。

このフレーズは繰り返される。そして二人の旅立ち。
この「POUR QUE TU M'AIMES ENCORE」というタイトル・フレーズが現れる。
Je trouverai des langages pour chanter tes louanges
Je ferai nos bagages pour d'infinies vendanges
Les formules magiques des marabouts d'Afrique
J'les dirai sans remords pour que tu m'aimes encore
私は貴方を賛える言葉を見つけるわ
果てしない実りを求め、二人の旅立ちの支度をするの
アフリカの隠者の魔法の呪文を
私は堂々と唱える、貴方が再び私を愛するように

彼女の意志は固く、その理想は愛する男性のために高く大きく掲げる。
つまり次のようにある。
Je m'inventerai reine pour que tu me retiennes
Je me ferai nouvelle pour que le feu reprenne
Je deviendrai ces autres qui te donnent du plaisir
Vos jeux seront les nôtres si tel est ton désir
Plus brillante plus belle pour une autre étincelle
Je me changerai en or pour que tu m'aimes encore.
私は女王のようにひときわ輝く女になる
貴方が引き留めてくれるように
私は生まれ変わる、炎が今一度燃え盛るように
私は貴方を悦ばせる女たちのようになる
貴方たちの流儀に習ってもいい、それが貴方の望みなら
もう一度光り輝くために、もっと眩しく、もっと綺麗に
私は黄金に変身する、貴方に再び愛されるために

愛する男性のためなら、女王のようにだって、喜びを与える別の女にだってなれるし、そして黄金にだって変身するという。この女性の理想は高い!

この「愛をふたたび」を歌う時に、セリーヌは、いつもルネ・アンジェリルのことを思っていたという。このことは、前回紹介した本であるジョルジュ=エベール・ジェルマン著(山崎敏・中神由紀子訳)『セリーヌ・ディオン』(東京学参、2000年、77頁)に記してある。
ところで、この歌詞を読んでいると、あのエディット・ピアフが書いた「愛の讃歌 .HYMNE A L'AMOUR」が想起される。その歌の内容と似ている。セリーヌの半生を綴ったこの伝記にも、「愛をふたたび」という曲はエディット・ピアフが歌った「愛の讃歌」にとてもよく似ている点を指摘している。2曲とも、愛に身を捧げる女の姿を歌っている。セリーヌにピアフの世界を教えたのも、ルネであった。ピアフといえば、パリの街角から生れたエモーションの巨匠である(同上、77頁)。

ある日、パリで滞在中に、テレビでピアフに関するドキュメンタリー番組を放映していた。セリーヌはそれを見て、ピアフの魅惑的な歌声の虜となった。この142センチしかない小柄な女性の発散する力強いエネルギーを感じた。ピアフは心を揺さぶる抑揚で歌い、悲痛ですらある。この番組の中で、ピアフとマルセル・セルダンとの愛の物語も紹介されており、セリーヌの心の中に深く残った。セルダンといえば、ジェームズ・ディーンのように、人生の最盛期に亡くなったボクシング・チャンピオンである。セリーヌはピアフの苦しみを想像してみた。切なすぎる二人の愛、はかなすぎる彼の人生を想うと、胸が締め付けられたことであろう。
翌日、ルネは、クロード・ルルーシュ監督の映画『エディット・エ・マルセル(エディットとピアフ)』のビデオ、そしてピアフに関する本とレコードを可能なかぎり買ってきたという。セリーヌはレコードを聴き、「愛の讃歌」の「私は世界の果てまで行くわ 髪をブロンドに染めるわ あなたがそう望むなら」といった歌詞に、情熱的な愛を感じたことであろう。身を焦がす激しい愛、愛の虜となると同時に、強い独占欲を、ジャン=ジャック・ゴルドマンがセリーヌのために書いた「愛をふたたび」という曲の中に見出したといわれる。この曲の中のフレーズには、先に引用したように、「あなたの魂を 寒さの中、火の中に探しにゆくわ あなたに魔術をかけるわ あなたがもっと私を愛するために」(「愛をふたたび」ジャン=ジャック・ゴルドマン)というフレーズがあるが、確かに「愛の讃歌」と歌詞が似ている(同上、78頁~79頁)。

そこで私は、2曲の歌詞を比較してみることにした。
繰り返しになるが、この「愛の讃歌」という曲には、有名なエピソードがある(正確には、「あった」と書くべきかもしれないが)。つまり、1949年、ピアフに会うために、パリからニューヨークに向かう飛行機が大西洋上アゾレス諸島で墜落して、ボクシング選手の恋人マルセル・セルダンを失って、彼を偲んで、ピアフが作った歌であるというものである。セルダンを失って、3ヶ月後、1950年1月、ピアフはパリのプレイエル音楽堂でこの「愛の讃歌」を創唱し、大成功を収めた。ただ、心に致命的な深い傷跡を残したままで。(植木浩『シャンソン――街角の讃歌』講談社、1984年、139頁~143頁)。
しかし、近年では、この曲はセルダンの生前に書かれ、妻子を持ったセルダンとの恋愛に終止符を打つために書かれたとされているようだ(Wikipedia、「愛の讃歌」の項目参照)。

ところで、この名曲は、衝撃的なフレーズから始まる。つまり、
Le ciel bleu sur nous peut s'effondrer
Et la terre peut bien s'écrouler
Peu m'importe si tu m'aimes  
Je me fous du monde entier
青空が頭上に落ちてこようと
地面が崩れ去ろうと
貴男が私を愛していてくれれば構わない  
世界中がどうなろうと構わない

青空が落ちたり、地面が崩れ去っても構わないなんて、随分と大袈裟である。そんなことしたら誰も死んでしまうのではと思うのだが、歌が進むにつれて、もう少し、現実的な内容も記してある。つまり、
J'irais jusqu'au bout du monde
Je me ferais teindre en blonde
Si tu me le demandais
世界の涯まで行ってもいい
髪の毛をブロンドに染めてもいい
もし貴方がそうしろというのなら

世界の涯でも行くし、髪の毛の色も変えるというのである。愛する男性が望めば。
このSi tu me le demandais という条件法のフレーズが、セリーヌの歌にでてくるpour que tu m'aimes encoreという接続法のフレーズに相当する。どちらも愛する男性が望み、再び愛を取り戻せるなら、何だってするという女性の強い意志が感じられる。ピアフはこのSi tu me le demandaisを4回使っている。例えば、次のようにある。

J'irais décrocher la lune
J'irais voler la fortune
Si tu me le demandais
月を取りにも行こう
宝物を盗みにも行こう
もし貴男がそうしろというのなら

Je renierais ma patrie
Je renierais mes amis
Si tu me le demandais
私の祖国を捨ててもいい
私の友達を裏切ってもいい
もし貴男がそうしろというのなら

On peut bien rire de moi
Je ferais n'importe quoi
Si tu me le demandais
人々は私を笑うだろう
でも私はどんな事でもやってのけよう
もし貴男がそうしろというのなら

つまり、もし貴男が望むなら、月を取りにも、宝物を盗みに行くという。また祖国も友達も捨てられる(renier:放棄する、否定する)という。人に笑われても、何でもやるという。
月を取りに行くのは不可能だとしても、宝物を盗みに行くことはまだ現実的かも。考えてみれば、青空が落ちても構わないと思うよりも、祖国を捨ても、友達を裏切っても構わないと思う心の方が現実的には恐ろしいことなのかもしれない。
理性の枠を外して、愛のおもむくままに、身も心もまかせるとこのような詞になるのであろう。情の激しい内容の歌詞である。
女性は愛する男性のためなら、強い意志がもてる。(ただ、ピアフが「愛の讃歌」を歌った時には、恋するセルダンは既にこの世の人ではなくなっていた。)
一方、セリーヌの場合は、作詞は自らのものではないにせよ、「愛をふたたび」という曲で歌われている女性は、セリーヌ自身と重ね合わせることもできた。ルネ・アンジェリルへの想いと重なる二人の愛は、当初は“許されない愛”と二人で受けとめていて、公開したら、セリーヌのアーティスト生命を失わせるものと考えていた。悲恋であった。
しかし、二人は年齢差を乗り越えて、見事に愛を成就させたのである。「POUR QUE TU M'AIMES ENCORE」の歌詞にあるように、セリーヌはルネの魂を探しあてたのである。たとえ、「氷の中、火の中」であろうとも。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿