名所江戸百景を訪ねて
名所江戸百景を訪ねて
第59景 「逆井のわたし」

中川にある坂井の渡し場が画面の奥に描かれています。
近景の中川の州には三羽の白鷲が描かれ、更に二羽の白鷲が舞い降りてくる瞬間を描いています。
遥か遠景の山々は、房総の山並み。
この地が坂井と呼ばれたのは、江戸湾が満潮になると水がこの辺りまで逆流したことによるといいます。
坂井の渡し跡


坂井の渡し跡亀戸9-12~江戸川区坂井の渡しは、江戸時代から明治時代初期まで中川にあった渡しで、亀戸村と西小松川村(江戸川区)を結んでいました。もとは坂井村(西小松川村の北隣り)と亀戸村を結んでいたため、坂井の渡しと称されました。この場所は、万治2年(1659)に開削された堅川の北岸沿いに通る佐倉道と中川の合流点であり、江戸と下総方面とをつなぐ交通の要所でした。川幅は40間(約73メートル)ほどで、船は二艘が備えられ、一艘は亀戸村、一艘は西小松川村持ちでした。(「新編武蔵国風土記稿」)。開設時期の詳細は不明ですが、延宝8年(1680)の「江戸方角案見図」には、「総州さくら海道」(佐倉道)と中川が結節する地点に、「小松川舟わたし」の記載が見られ、この頃には渡船が運航していたことがわかります。また、明治時代の記録には、堅川の開削に携わった徳島屋兵右衛門らが寛文年間(1661~73)に渡船場を開設したとも記されています。渡船場周辺の様子は、嘉永3年(1850)の「絵本江戸土産」などによると、のどかな田園風景が広がる緑豊かな景観が風流人たちに好まれ、川を渡る人は船上からの眺めを楽しんでいたことがうかがわれます。渡船は明治以降も続き、「東京府統計表」によると明治10年(1877)頃の渡し賃は人が銭一厘五毛、牛馬・人力車が三厘、馬車が一銭五厘などとなっていました。明治12年に亀戸村と西小松川村により木造の坂井橋が架橋されると、渡しは交通機関としての役割を終え、廃止されました。平成25年12月 江東区教育委員会
描かれた場所は
現在どのようになっているのでしょうか?
訪れてみました。


現在は、旧中川には坂井橋が架けられています。その頭上には首都高速7号小松川線が通っています。
河岸に関しては、当時と変わらないところが多々見られますね。
最後に
旧中川の川沿いは綺麗に整えられた道が作られ、散歩するのに適しています。
また、川も綺麗で中には小魚の姿が見られました。
川を管理していらっしゃる方々の努力が要所に見られます。ありがたいことです。

旧中川の河岸をテクテクと散歩しますと、河原に一羽だけでしたが、シロサギの姿を見かけました。江戸時代と変わらぬ風景を見られたことに心が暖かくなりました。

参考
太陽の地図帖 広重「名所江戸百景」の旅
Wikipedia