古事記 下つ巻 現代語訳 四十
古事記 下つ巻
引田部赤猪子
書き下し文
また一時天皇遊行でまし、美和河に到ります時に、河の邊に衣を洗ふ童女有り。其の容姿いたく麗し。天皇其の童女を問ひたまはく、「汝は誰が子ぞ」ととひたまふ。答へて白さく、「己が名は引田部赤猪子と謂ふ」とまをす。尓して詔らしめたまひしくは、「汝、夫に嫁はずあれ。今、喚してむ」とのりたまひて、宮に還り坐しつ。故其の赤猪子、天皇の命を仰ぎ待ち、既に八十歳を經ぬ。是に赤猪子以爲へらく、「命を望ぎつる間に、已に多の年を經ぬ。姿体痩せ萎え、更に恃む所無し。然あれども待ちつる情を顯しまつらずは、悒きに忍びじ」とおもひて、百取の机代の物を持たしめ、參出で貢獻る。然れども天皇、既に先の命おほせる事を忘らし、其の赤猪子を問ひて曰りたまはく、「汝は誰が老女ぞ。何の由にか參來つる」とのりたまふ。尓して赤猪子答へて白さく、「其の年其の月に、天皇の命を被り、大命を仰ぎ待ち、今日に至るまで八十歳を經ぬ。今は容姿既に耆い、更に恃む所無し。然れども、己が志を顯し白さむとて、參出でつらくのみ」とまをす。是に天皇、いたく驚き、「吾は既に先の事を忘れぬ。然れども汝が志を守り命を待ち、徒らに盛りの年を過ぐししこと、是れいたく愛し悲し」と、心の裏に婚かむと欲ほせども、其のはやく老い、婚くをえ成さぬことを悼みたまひて、御歌を賜ふ。
現代語訳
また一時(あるとき)天皇は、遊行(い)でまして、美和河(みわがわ)に到りました時に、河の邊(へ)で衣を洗う童女(おとめ)が有りました。その容姿(かたち)いたく麗しく、天皇は、その童女に問いになられて、「汝は誰の子だ」と問いになられました。答えて、申し上げることには、「己が名は、引田部赤猪子(ひけたべのあかいこ)と謂います」と申しました。尓して、仰せつけられて、「汝は、夫に嫁がぬよう。今、喚(め)し入れよう」と仰られ、宮に還り坐(ま)した。故、その赤猪子は、天皇の命を仰ぎ待ち、既に八十歳が経ちました。ここに、赤猪子が以爲(おも)って、「命を望んでいる間に、すでに多(あまた)の年が経った。姿体(かたち)は痩(や)せ萎(しな)び、更に、恃(たの)む所は無い。然あれども、待ち続ける情(こころ)を顯(あらわ)にしないとは、悒(いぶせ)きに忍びず」と思って、百取 (ももとり) の机代(つくえしろ)の物を持たせ、參出(まいい)でて、貢獻(たてまつ)りました。然れども、天皇は、既に先の命を仰せた事を忘れ、その赤猪子に問いて、仰せになられて、「汝は、誰が老女だ。何の由にか參い來たのか」と仰られました。尓して、赤猪子が答えて、申し上げることには、「その年その月に、天皇の命(みこと)を被(かぶ)り、大命(おほみこと)を仰ぎ待ち、今日に至るまで八十歳が経ちました。今は容姿(かたち)既に耆(お)いてしまい、更に恃る所無し。然れども、己が志(こころざし)を顯し申し上げるため、參出しました」と申しました。ここに天皇、いたく驚き、「吾は既に先の事を忘れた。然れども、汝が志を守り命を待ち、徒(いたづ)らに盛りの年を過ごしたこと、これ、いたく愛(めぐ)し悲(かな)し」と、心の裏(うち)に婚(ま)かむと欲(おも)いましたが、そのはやく老い、婚くし得ぬことを悼(いた)みになられて、御歌を授けました。
・美和河(みわがわ)
三輪山の初瀬川下流付近
・机代(つくえしろ)
食卓の上にのせる物。飲食物。つくえもの
現代語訳(ゆる~っと訳)
またある時、雄略天皇は、お出かけになって、美和河に到着した時に、川辺で衣を洗う乙女がいました。その容姿はとても麗しいものでした。
天皇は、その乙女に問いかけて、
「お前は、誰が子だ?」といいました。
その乙女が答えて、
「私の名前は、引田部赤猪子と申します」といいました。
そこで、天皇は使者に
「お前は、結婚しないように。今、宮廷に召し入れよう」と言いつけ、宮に帰りました。
そこで、その赤猪子は、天皇の命令のまま待ち、すでに80年が経ってしまいました。
ここで、赤猪子は、「天皇の命令を待ち望んでいる間に、すでに数多の時が過ぎてしまった。姿、形は痩せ萎み、更に、頼るところもない。しかし、待ち続ける私の心を、天皇に打ち明けずにいるのは、気がふさぎ、耐えられない」と思いました。
そこで、たくさんの献上品を従者に持たせて、宮廷に参上し、献上しました。
しかし、天皇は、先の命令を忘れ、その赤猪子に問いました。
「お前は、どこの老婆だ。どういうわけで参上したのだ?」といいました。
そこで、赤猪子が答えて、
「某年某月に、天皇の命令を受けて、宮廷への呼び寄せの言葉をいまかいまかと待ち続け、今日に至るまで80年が経ちました。
今はもう容姿はすっかり老いて、さらに、頼るところもございません。
しかし、私の志を打ち明けて置きたく、参上したのです」といいました。
これを聞いた天皇は、ひどく驚き、
「私はまったく先の日の事を忘れていた。
しかし、お前が志を守り、命令を待って、無駄に娘盛りの年を過ごしてしまったことは、これ、いたく気の毒で、悲しい」と、
内心では、結婚しようと思いましたが、赤猪子がはやく老いてしまい、結婚なし得ないことを、悲しみ、御歌を授けました。
続きます。
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ありがとうございました。
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