2015-01-18
死を民主化せよ:
コロンビア大学建築学科《デスラボ》の挑戦 2015-01-18
少し前の記事ですが、これは非常に面白い、と言うと不謹慎かもしれませんが、興味ぶかい内容でした。
日曜日、じっくり読んでくださることをオススメしたいです。
>人口がより集中し、無宗教の人々が増えているいま、都市においていかに「死」を組み込むかは、
アーバンプランニングにおける重要な課題となりつつある。
都市生活におけるライフ・サイクル、ライフ・デザインのなかに「死」を民主的に取り戻すこと。
それが2013年に創設された「デスラボ」のミッションだ。 (WIRED)(VOL.14より転載)
遺体を火葬して納骨する文化とは異なり、
遺体をそのまま埋葬する文化では、
墓地という「イレモノ」は広大なものにならざるを得ません。
>死後、自分の体がどこへ行くのかという問題について言えば、全世界的な人口過多が指摘されるいま、
これからどんどん増える遺体の数に対し、わたしたちが「墓場」として認識しているスペースが特に都市圏において
いつか足りなくなるということは、しごく現実的な、当たり前の話である。
そんな人類全体が抱える問題に取り組む「デスラボ(死の研究所)」が、コロンビア大学に2013年設立された。
地球環境工学、宗教学、建築学、都市政治学といったさまざまな分野における研究者やリサーチャーが
参加するこのラボを取りまとめるのは、建築学部で教鞭をとるカーラ・マリア・ロススタイン准教授だ。
公共機関をテーマにするスタジオ(大学院生が参加する建築学の実技セミナー)で教えるうちに、
都市部の周辺に興味をもち、そこから都市の周辺にある墓地について関心をもつようになったというロススタイン。
(WIRED)
>「これは重大な問題です。人口が増加するということは、死者の数も増えるということ。
(死者を埋葬する)伝統を都市生活に取り入れることを検討することが必要になっているにもかかわらず、
適切な計画は存在しない」
死者のためのスペース問題がどれだけ深刻かを理解するために、ひとつの例を話してくれた。
ニューヨークから生まれる棺桶を、市内の交差点に並べてみるとしよう。
棺桶を並べ始めて半年もしないうちに、ニューヨークのエリアがひとつまるまる埋まってしまう。
10年も経てば、市内の大半は棺桶で埋まってしまうのだ。
(WIRED)
これは深刻な問題。墓地の値段が高騰していくのも納得できるというもの。
そして、死者のための土地は郊外へ郊外へと移り、生者との距離が広がるのです。
日本のように火葬すればリアルに土地が少なくてすむ、ということですが、
記事で書かれている問題に、火力による火葬での二酸化炭素の発生、とあり、おおお、と正直驚きました。
たしかに二酸化炭素は発生するし、死者を悼む気持ちと切り離したその合理的な視点に敬服するというか。
>また、火葬されたあとに、灰を川や海、山といった自然のなかに灰を撒く「ナチュラル・ベリアル(自然葬)」を
希望するアメリカ人も増えている。
けれど、こちらの方法にもまた、追悼の場所が生きる社会から遠くなるという問題が残る。
>空間の問題だけではない。アメリカでは無宗教を選択する人口も、シングル人口も増えているのだ。
現在の埋葬のやり方の多くは、宗教観に深く結びつき、自分を埋葬してくれる家族がいるという前提で維持されている。
「墓地を恒久的にもつというやり方は、現実的でないうえに、特権的でもある。
だからラボには『死を民主化する』というサブタイトルがついています。
誰であろうと、死後には敬意を払われるべきだと思うから」
(WIRED)
ここの記述でほっとしました。親戚縁者だけではなくて、《にんげんたる存在》への敬意も感じられ。
記事のなかで、私が素敵だなあと思った埋葬の方法があります。
橋という場所をつかった方法。
>例えば、ラボで考案されたプロジェクトのひとつに、マンハッタンとブルックリンをつなぐマンハッタン橋の
下腹部を追悼の場所に使うというアイデアがある。下腹部から舟状になった容器を吊るし、
そこでメタン生成を使って1年かけて遺体を分解させる。分解のプロセスで発生するエネルギーがライトを点灯させる。
ライトは1年の間、徐々に弱くなり、1年経ったときに、容器は次の死者に使われる。マンハッタン橋の下にある公園は、
遺族にとって常に追悼の場所でありつづける。これは、ラボが提案する新しい可能性のほんの一例だ。
(WIRED)
大きな容器がぶらさがっているところを想像してちょっと怖くなりましたけど、
きっと大きな容器ではないだろうと思いたい^^
可能性のほんの一例、ということで、どういうものがあるのか、興味があります。
死者を悼む行為というのは崇高で根源的なもの。
なんとかしてその場所を生者から遠ざけまいとする科学的な取り組み、大いなる意味があると思います。
記事全文をどうぞ下記のリンクからお読みくださいね。
死を民主化せよ:コロンビア大学建築学科《デスラボ》の挑戦
(WIRED)
http://wired.jp/2014/12/28/deathlab-vol14/
考えてみると、「仏壇のお位牌」という形は、死者を身近に感じるためのよい手段なんだなぁ。
個人的な見解では、仏教の影響を受けている文化圏では、死という不浄(本当に不浄なのではなく、生きている人間からすると忌避したい気持ちが、死体を不浄とみなす)を火によって清めるという思想があるので、「火葬」が廃れるのはまだ先だと思います。私自身は、「溶かす」というのも面白い試みですし、肥料や燃料になって役立つというのは、少々魅力があるかも(自分の死が、誰かの負担にならず、あまつさえ役に立てるのなら嬉しい)と感じます。
お墓の問題は、悩んでいる人が多いでしょうね。私が生きている間は、管理しますけれど、その後の問題や、私自身がそのお墓に入るべきかどうかも、悩みどころです。
これね、非常に面白いなあと思って読みました。
土葬、火葬、って
すごく大きな違いじゃないですか。
情緒的な側面も大きいから、
そのままの姿で埋葬するのだろうに、
土葬する文化のところから、
超科学的な提起があったりするわけですからね。
「千の風になって」というのは、
西洋では通用しないと思うのに、
液体化とか分解とか、そのはるか先を行ってるという。
科学者と市井のひとびととの距離たるや、すごい。
橋の欄干に吊るすというのは、
そのまんなかなのか、両方を凌駕してるのか、
もはやわけわかりません。
いつかは無縁仏というか、無縁墓になるんですよね、
それがまだ途上であるから、悩むというか。
お墓をふるさとのようにおまいりしているけど、
幻想なのかな、と思ったり。
とりあえずは生きてるうちが花なのよ、
って落としどころがなくてすみません^^