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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

ますます豊かに

2008-11-24 18:07:06 | メッセージ

「神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」(Ⅱペトロ1:2)。

キリスト者が神様によって豊かにされてゆく過程をペトロは同書簡の1:5~7に次のように書いています。
「だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」(Ⅱペトロ1:5~7)。
 この聖句を私なりに考えてみました。

「信仰には徳を」
ここで用いられている「徳」とは、卓越した業、優秀な業、成熟した業、もしくは卓越した人物、優秀な人物、成熟した人物を意味します。
キリスト者はイエス様の十字架によって贖われ、罪が赦され、神様の家族の一員とされました。しかしそれだけでは子どものキリスト者です。子どものキリスト者は、自分の救いに夢中です。救いを求め、それを喜ぶことはできますが、自分のことで精一杯です。自分に死んで、相手を生かすためには未熟です。
 そこでペトロは、大人のキリスト者へと成長しなさい、と勧めます。社会人として家庭人として、教会員として、自分のことばかりではなく、相手の立場を思いやることのできる、成熟さを身につけなさい、と説くのです。

「徳には知識を」
 確かに私たちは成熟した「徳」を身につけなければなりません。しかしそれだけでは、世の中の善良さに終始してしまいます。キリスト者は「ただの良い人」ではありません。
キリスト者は神様から与えられた「徳」について、根拠となる「知識」を持つ必要があります。「徳」を実現してくださるイエス様をご紹介できなければなりません。神様の「徳」が完全に現れる、ご再臨の「知識」に精通している必要があります。

「知識には自制を」
「知識」はその目的にそって用いられ、蓄えられてゆく必要があります。「知識」は神様のご栄光を正しくあらわすため、人を生かすために用いられるべきです。
ところが、「知識」が自分を高めるために用いられることがあります。人を批判するために用いられ、争いの原因になることがあります。「知識」を正しい目的のために蓄え、用いるためには、「自制」が必要です。

「自制には忍耐を」
 この「自制」を継続するためには「忍耐」が必要です。人間は誰でも「あきっぽい」性格を持っています。うまくいかなかったり、苦労があっても怪しんではなりません。習慣化するための努力と工夫が必要です。

「忍耐に信心を」
 これらのお勧めを自分の頑張りで実現しようとしてはなりません。イエス様に実現させていただく必要があります。神様の願いと実現のために心を開きましょう。
「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ2:13)とある通りです。

「信心には兄弟愛を」
 「豊かさ」の目的は、奉仕です。他者の幸福に貢献するために「豊かさ」が与えられます。奉仕の対象は、家庭や教会の「兄弟姉妹」から始まります。

「兄弟愛には愛を」
 「兄弟姉妹」へ向けられた愛情は、そこで養われ、外の社会に向けられてゆきます。普遍的な愛情はその質が高められ、深められてゆきます。

「らせん階段」
さらにペトロは上記のお勧めを、「何度も思い出しなさい」と言っています。(Ⅱペトロ1:12参照)。 おそらく、上記の「信心」から「愛」に至る工程を「らせん階段」のように何度も思い返しながら、「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられる」のだと思います。


大阪  藤田昌孝
(No.630,08,11,22.大阪センター教会牧師室便りより)

 


祈る教会(2)

2008-11-22 07:35:47 | メッセージ

「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくてもその響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。」(詩編 19:2−5)

 今週、“秋の祈祷週”が行われました。この期間中、教会では毎日祈りの会が持たれました。兄弟姉妹が集まって、心一つに主に祈る。神様と交わることの素晴らしさを改めて経験することができた祈祷週でした。
 さて、その祈りの会の中で、ある方が、「祈祷週だけでなく、これからも、みんなで祈り続けていきましょう」と提案といいますか、確認といいますか、招きのメッセージを語ってくださいました。本当にアーメンです。

 私たちは、いつも祈ってまいりたいと思います(Ⅰテサロニケ5:16)。
 安息日に教会に来て、目を閉じて、ひざまずいて祈ることだけが、祈ることではありません。イエス様は、「空の鳥をよく見なさい。野の花をよく見なさい。」と言われます(マタイ6:25-34)。

 祈りの声は、目を閉じている時だけしか、わからないのではありません。わたしたちは、野に咲く、さりげない、名も知れないような小さな花を見たときにも、神様の無限の愛とその確かさを、知ることもできるのです。
 人が見落とすような出来事や、ささやかなものの中にも、神様は、わたしたちに語りかけておられます。その声をいつも聞き取ってまいりたいと思います(詩編19:2−5)。

 今日、わたしたちは、祈ることができたでしょうか。目を開いて、世界の果てに向かう主の愛の響きを、聞き取ることができたでしょうか。


山口  平賀和弘
(No.73.08,11,22.防府教会牧師室便りより)



まちがい

2008-11-19 19:54:34 | メッセージ
以前、私は金属部品の製造、販売する会社で働いていました。
企業であるからこそ、どこの会社でも一緒だと思いますが、目標それは「利益をあげろ」でした。
私の仕事内容は流通部門でした。その日19時、夜7時までに届いた注文はすべてその日のうちに発送するという内容です。
一日、2000枚ほどの伝票が発行されます。

受けた注文通りの品物と数量を送る、これが流通のすべてです。
しかし、これほどまた難しいものもありません。

みんな一生懸命しても、どこかで間違いが起きてしまいます。
だから、間違いが起きないよういろんな人の目がかかわるようになっていました。

1. 送られてきたファックスを見てパソコンに入力する人、
2. 入力された伝票とファックスが本当に合っているかチェックする人
3. 伝票を各方面に仕分けする人、
4. たくさんの伝票の中から、優先順位を計算し、指揮する人、
5. 伝票を見て品物を取りに行く人、
6. そして最終的に梱包する人、
最低六人の目を通らないと品物が運送会社に渡せないようシステム化されていました。

しかし、間違いは必ず起こる。
間違いが起こると最悪、赤帽、もしくは営業マンが品物をもっていく。一個1000円ほどの品物を数万円の、運賃、交通費をかけて届ける。

一ヶ月たつと間違いリストが皆に回覧されます。
いつ、どのような間違いが起きたのか、原因はなんだったのか、どのようにしたら防げるのか、
データーっておもしろいですね。夕方6時代が一番間違い件数多かったんです。

どれだけ一生懸命に仕事をし、必死に間違いが起きないよう考え、行動したとしても、間違いは起きてしまう。
このことを私は流通という分野で嫌というほど学びました。



クリスチャンはイエス・キリストという方と出会い、神様の素晴らしさを、聖書、教会、などで学んでいます。

生きるってどういうことなのか、信仰、伝道ってなんなのか、

しかし、どれだけ神様が素晴らしくっても、聖書が真理の光をはなっていても、また毎週教会に行ったとしても、まちがいを起こしてしまう。

個人も組織も一緒です。バプテスマ受けたから、SDAの機関だから、
神様の前で私は一度もまちがいをしたことがない、と言い切れるものは
ありません。

「サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである』」(使徒言行録9章4.5節)

神様ってすごい方だと思います。間違いを先頭に立って犯しているサウロに声をかけ、愛を注ぎ、主の器として用いようとなさっておられる。

そして、もう一つすごいなーと思ったのは、ほかのクリスチャンたちです。
今まで敵であったサウロを同胞として受け入れた。

同胞の中にはサウロに友人、親戚、家族を殺されたクリスチャンたちが大勢いたと思います。あの大伝道者ステパノを殺すのに賛成したのもサウロでした。
しかし、間違いをゆるし、立ち直らせようとされる神様の大きな愛をみたクリスチャンたちは、神様を信じる信仰によってサウロをゆるし、信仰の仲間として手をつないだのです。

わたしの人生も、願わくばこのような愛をもてればと思います。
人のまちがいを上から指摘するのでなく、教会の中でコソコソ本人に言えないウワサ話をするのでもなく、
共に福音を伝える同労者として、間違いが起きないよう手を取り、励ましあっていければSDA教会はもっと福音を高く掲げられるのではないかと本当に思います。

与えられた人生、主にある喜びを感じつつ日々過ごしていきましょう。


千葉  柴田照司



ニューエイジの危険

2008-11-17 20:19:17 | メッセージ

ニューエイジ
先週のお礼拝で、「心霊術の大欺瞞」についてお話をしました。時間の関係上、そのときにはお話できませんでした「ニューエイジ」について、少しご説明させていただきます。

「ニューエイジ」は、霊媒や口寄せのように明らかに心霊術である、と分かるようなものではありません。しかしその分、私たちはよけいに注意を払うべきかと思われます。
この「ニューエイジ」は、教育、ビジネス、スポーツ、医療、健康プログラム、科学、宗教など多方面に浸透している霊的な潮流です。世俗的なプラス思考、ヨガ、瞑想、心霊療法、リラクゼーション、統合医療、気、気功などに、この流れを見ることができます。

その特徴として、少なくとも次の二つを挙げることができます。

1.汎神論的影響
1つの特徴は、汎神論的影響です。「ニューエイジ」は、すべてが神であるとする汎神論的影響を受けて、宇宙全体に浸透する霊力を説いています。そのため、神の概念が宇宙エネルギー・宇宙意思といった、人格を持たない力として考えられる傾向にあります。これは聖書の神様、ご人格を持たれる神様とは大きく違っています。
また「ニューエイジ」では人間も神性(宇宙の意識または霊力)をおびているとします。たしかに聖書にも、人間は神様の像に似せて創造された(創世記1:26)とありますが、本質的には、人間は被造物、神様は創造主として決定的な違いがそこにはあります。人間を神格化することはゆるされておりません。

2.全一の法則(ONE)
もう1つの特徴は、すべては1つであるという全一の法則(ONE)です。「ニューエイジ」の思想では、すべてが本来1つであり、一体であるとします。数ある宗教、理念は互いに矛盾するものではなく、1つであり、極端な場合、善も悪も、生も死も1つにまとめようとします。
 ニューエイジの立場で書かれた『ニューエイジの到来』(浅野信.たま出版)には、次のようにこの全一の法則(ONE)が説明されています。
「ONEは、1つの真理、1つの宇宙、1つの神、1つの地球、1つの家族、1つの愛、1つの心、1つの理想・・・皆が1つ、皆が一緒、皆が同胞、宇宙人もわれらが兄弟姉妹自然も友だち―という概念です。ここでは、対立、争い、拮抗、競合、矛盾、独立、孤立、分離、背反、批判、否定、離反などはおろか、反キリスト、悪魔、別々、差別、闇、敵などの概念すら存在し得ません。反キリストとか敵という概念が、そもそもONEの精神のもとでは考えられないのです。すべてわれらの同胞、敵も友だち、皆兄弟、皆仲良し、皆1つ、内も外もなく皆同胞・・・としか表現しようのないものがONEの徹底した精神です。したがってたとえば、1つの神という場合、神でない部分、神以外の悪的要素を自己のうちから排除して、それらと区別し、一線を画して1つの神と言っているのではありません。そうではなく、すべてが神、宇宙全体が神、それしかない、ということです」(『ニューエイジの到来』26)。

 しかし聖書は語ります。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ロマ12:2)。

 ホワイト夫人は終わりの時代に行われるサタンの心霊術的欺瞞について、くしくも次のように警告を与えています。
「わたしは、主が、わなを発見する機会を世にお与えになったのを見た。クリスチャンにとって、ほかになんの証拠がなくても、この一つの証拠だけで、十分である。それはすなわち、そこには尊いものと汚れたものとの区別が全くないということである」(『初代文書』428、429)。  


大阪  藤田昌孝
(No.629,08,11,15.大阪センター教会牧師室便りより)

 


祈る教会

2008-11-15 04:47:51 | メッセージ

「この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(マタイ 21:21−22)

あなたの歩む人生において行く手をふさぐ山とは、何でしょうか?

生きている人間ならおそらく誰もが、動かし難い山を前にすることがあると思います。それは、やめられない悪い習慣であるかもしれません。あるいは、性格に関することであったり、結婚生活や職場、経済的問題、また、身体的障害であったりするかもしれません。

 イエス様は、言われます。「あなたの行く手をいかなる山が塞ぎ、いかなる障害が邪魔し、いかなる困難があなたの身動きを取れなくさせようとも、信じて祈るならば、それらを取り除くことができる」(マタイ21:21—22)と。
 イエス様は、ここで、立ちはだかる山を見なさいとは言われません。神様を信じて祈りなさい。神様を見なさいと言われるのです。

 自分では手に負えないと思うことも、山をも動かせることがおできになる神様にゆだねることができることは幸いです。「ごりやく」を求めて祈るのではありません。ただ、山をも動かせる神様がわたしたちと共におられ、今も、働かれておられることを確認するのです。
 祈り求めても、時に、わたしたちが願ったようにならないことがあります。それでも、神様がわたしたちと共におられ、今も、働かれておられることを覚える時、山が海のなかに投げ込まれ消えてしまったような不思議な慰めや癒しがあることに気づかされます。


山口  平賀和弘
(No.72.08,11,15.防府教会牧師室便りより)



キリストの奴隷

2008-11-11 20:13:04 | メッセージ
旧約聖書の創世記47章、ヤコブの息子のヨセフがエジプトの指導者となっていたときのことです。カナン地方も含めたエジプト一帯に激しい飢饉が襲います。エジプトの地もカナンの地も飢饉のために衰え果てていました。そこで、ヨセフは銀を引き換えにして、人々に穀物を提供しました。貯蔵していた穀物をもって国家の秩序を保ちます。

 ところが、やがて銀も尽き果て、人々はヨセフに訴えます。「私たちに食物を下さい。銀が尽きたからといって、どうして死んでよいでしょう」。そこでヨセフは彼らの家畜を引き替えにして食物を与え、その年を切り抜けさせました。

次の年、人々はまたヨセフに言います。
「私たちは、私たちのからだと農地のほかに何も残っていません。食物と引き替えに私たちと農地とを買い取ってください。どうか種を下さい。そうすれば私たちは生き続け、土地も荒れないでしょう」。
ヨセフは農地を買い取り、言います。
「さあ、この種を地に蒔きなさい。収穫の時、その5分の1はパロに納め、5分の4は畑の種のため、あなたがたの食糧のため、家族のため、また幼い子どもたちの食糧としなさい。」

 税率は20%でした。現在の所得税と住民税よりも低いかもしれません。ヨセフという良い指導者の下、公共福利が実現したのです。
民は言います。
「あなたさまは命の恩人です。御主君の御好意によって、私たちを奴隷にしてください」。
人々は自らを喜んでヨセフに捧げます。

私たちも、どうすることもできない困難に出会うことがあります。そのときに神様に助けを求め、神様のお力によって切り抜けさせていただくことがあります。その中で、今まで明け渡すことができなかった、自分自身を、神様に明け渡すことができるようになります。

 パウロは言います。
「主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです」(Ⅰコリント7:22 )。

 ここで、パウロが言おうとしていることは、キリスト者はキリストに買い取られたものだから、この世の身分は何であれ、すべての人間から自由になることを意味します。それは、自分勝手に振舞うことではありません。それは、どんな仕事も、もはや人のためにするのではなく、キリストのためにする、という意味です。

 ジョージ・ハーバートという方が次のような詩を残しています。

なんじにあずかれば 世にいやしきものなし、
「汝がために」なせば すべてはきよく輝かん。
なんじを思うしもべには 骨折り仕事も神のもの、汝が律法(のり)のため箒(ほうき)をもてば 
家もわざもきよめられん。
こはすべてを金(きん)に変うる 
世にも名高き石になるぞ、
神の指もて触るるものは かくも尊きものなるぞ。

私も喜びのうちに、良き指導者イエス様の奴隷とさせていただき、以下の『毎朝の祈り』(ホワイト夫人著)を毎朝ささげたいと思います。

「毎朝、神におのれをささげ、これを最初の務として、次のように祈りましょう。
『主よ、しもべを全くあなたのものとしてお受け入れください。私のすべての計画をあなたのみ前におきます。どうか、しもべをきょうもご用のためにお用いください。どうか、私と共にいましたもうて、すべてのことをあなたにあってなさせてください』と。これは毎日のことです。毎朝、その日一日、神に献身して、すべての計画をかれにお任せし、摂理のままに実行するなり、中止するなりするのです。こうして、日ごとに生涯を神のみ手にゆだねるとき、次第にあなたの生涯がキリストの生涯に似てくるのであります」(『キリストへの道』88)。 


大阪  藤田昌孝
(No.628,08,11,08.大阪センター教会牧師室便りより)



大きく広げよう、交わりの輪!

2008-11-09 17:31:04 | メッセージ

「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」(Ⅰコリント 1:9)

 教会に来て、親しい人と出会い、話をするのは楽しいことです。それ自体教会に属していることの大きな特権です。しかし、神様の祝福は、分ち合われるときに更に大きくなります。
 これからクリスマスの季節を迎えます。福音は、ただプログラムを行ったことでは伝わりません。人から人へと関わりを通して伝わっていきます。
 教会に初めて来られる方や、あまり見かけたことのない方、また、普段あまり話をした事のない方とも交わりの輪、分かち合いの輪を広げてまいりましょう。

 そのために、今回の牧師室便りでは、いくつかの提案をさせていただきました。参考になさってください。
① 玄関や、通路であったとき挨拶か会釈をしましょう。
 挨拶をするとき相手の方を見ることは、大切なことだと思います。朝、何か作業をしていて忙しいときに、来訪者にお合いするかもしれません。そんな時も、相手の方、特に目を見て挨拶しましょう。
② 知らない方の隣に座ったときは、礼拝前、あるいはその後に「…です。よろしく。」と親しく自己紹介しましょう。こちらが名前を言えば、相手も言うかもしれません。もし、そうでなければ、あえて尋ねない方が良いかも知れません。もし尋ねるとしたら自分の名前を言ってから、「お名前をお伺いしてもよろしいですか?」というのが良いと思います。 また、「お名前は、どういう漢字で書くのですか?」という質問は、名前を覚え、次の話のきっかけにもなりします。
③ 次に「どちらからいらっしゃいましたか?」とか「この教会にはよくいらっしゃいますか?」などと尋ね、話のきっかけをつくります。「初めてですか?」とは尋ねない方が良いでしょう。わたしたちが気づいていないときに来られているかもしれないからです。
④ 何気なく様子を見ながら、必要なら聖書や讃美歌を開けるお手伝いをしましょう。
⑤ 自然に、礼拝などの印象を聞くことができれば良いと思います。難しいとか、わからないとか言われても、決して不快な表情をしてはなりません。続いて参加されるように励ましましょう。
⑥ 来てくださってうれしかったこと、また来ていただきたいことを伝えましょう。
⑦ 一対一では緊張されるかも知れません。こちらが二人か、あるいは相手が異性であれば、その方と同性の人と接する方が良いかもしれません。
⑧ 昼食に招いて一緒に食事をしましょう。訪問者は昼食献金の必要はありません。
⑨ 聞かれない限り教理について話す必要はありません。神様の愛と約束、平安、喜びについて語りましょう。
⑩ 教理について尋ねられた時は、適当な方法で答えられるように準備しておきましょう。
⑪ 牧師、長老、あなたの友人にその方をご紹介ください。また、事前に来訪することがわかっていれば、先に知らせることもできます。
⑫ 礼拝後、親しい人と話すのは後にし、最初に訪問者らしき人と少しでも話すように心がけましょう。
⑬ こういう相手が与えられるように祈り、積極的に関心を持っていると必ず機会が与えられます。

できることから、こつこつと、交わりの輪を広げてまいりましょう。


山口  平賀和弘
(No.71.08,11,08.防府教会牧師室便りより)




終末を準備する知恵

2008-10-31 21:31:28 | メッセージ

不正義だが知恵ある管理人
ルカによる福音書16:1-13には、不正義だが知恵ある管理人のたとえ話が書かれています。

ある管理人が主人の財産を無駄に使ってしまいました。主人は「会計報告を出しなさい(2)」と命令し、「もう管理を任せておくわけにはいかない(2)」とリストラを命じました。その時、管理人は考えます。「どうしよう、主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。 こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」。

そこで、 管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、「わたしの主人にいくら借りがあるのか」と尋ねました。「油100バトス」という返事に管理人は言いました。「これがあなたの証文だ。急いで、50バトスと書き直しなさい」。また別の人には、「あなたは、 いくら借りがあるのか」と尋ねました。「小麦100コロス」という返事に管理人は言いました。 「これがあなたの証文だ。80コロスと書き直しなさい」 (ルカ16:3-7) 。

確かに彼がやったことは正しくありません。しかし8節には意外にもこのように書かれています。
「主人は、この不正な管理人の拔け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」。

イエス様がこのたとえ話を通して教えたい主なポイントは、不正な管理人の不正直
さではなく、自分の将来を準備することができた彼の賢さと分別です。


不正義の管理人が知り得た三つの事柄
不正義な管理人は危機の瞬間何がわかったのか。イエス様が彼から学べるように望んだのはどんな知恵でしょうか。

1つ目は、不正義な管理人は今まで忘れていた彼の主人の存在に気がつきました。自分にすべての権限を任せてくれた主人、その方は正確に会計監査をされ、賞も罰も与えてくれる方でした。その主人の存在に気がついたのです。

2つ目は、不正義な管理人は自分が誰なのかを知ります。私がどのように生きるべきか。自分の役割と立場に気がつきます。彼はそれまで自分は主人だと思っていました。しかし主人の命令を受けてから自分が管理人だということに遅ればせながら気がついたのです。すべての物は主人のもの、主人から預かったもの、主人がいつでも取り戻すことができるのだということがわかったのです。

3つ目は、不正義な管理人は残された時間を知ります。彼は自分の時間が終わりになることを知り、今日のチャンスを活用しました。自分の未来のために投資したのです。生きる道を準備したのです。
これらが、イエス様が「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」(ルカ16:8)と語った理由です。


終末を準備する私たちの知恵
先の聖書箇所は、倫理の観点から見るとなかなか理解できません。しかし終末論的な観点で解釈すると理解が可能です。「賢い人になりなさい」。これが本文の主題。終末を準備する知恵を学びなさいということです。
神様に属する人々と世に属する人々の人生観が違う理由は終末論が違うからです。出発点がある人生は必ず、終着点もあります。知恵あるものはいつか終わりになることを知りながら、生きてゆきます。愚かなものは最後があることを忘れて生きてゆきます。

生きていても死ぬ日があり、健康であっても病気にかかる日があり、成功しても失敗する日があり、高い地位に上がっても下がるときがあります。しかも問題は始めもそうであるように、最後の日も自分の意思どおりにはゆかないということです。終末意識はすべての考えと価値観を変える力があります。人生の基準自体を一変させます。昔、貴重に見えたものが、終末の観点から見ると無価値なものに見えることさえあるのです。


冷やされた胸を終末信仰によって熱く
1世紀の教会は力ある教会、情熱があふれる教会でした。彼らの力と情熱の根拠、それはイエス様の再臨に対する期待、終末信仰だったのです。彼らは朝、目が覚めたら「主よ、今日来るでしょうか」と聞いて、夜寝るときは「今晩来るでしょうか」と聞きました。彼らは、会うときも別れるときも「マラナタ!主がすぐ再び来られる」と挨拶をしました。初代教会の信徒たちの生涯は最後に対する緊縛感がありました。終末とは希望の光を通して今日の問題を見るとき、すべてのものが希望に満たされるのです。

しかし、残念なことにたくさんのクリスチャンがこの終末信仰を忘れて生きています。だから、霊的な力と情熱がないのです。永遠なる天国を見つめる目が弱くなり、あたかもこの世が永遠なる場所だと錯覚して生きているのです。

 愛する皆様!!08年もあと2ヶ月です。今日までの一年を振り返り悔い改める、秋の祈祷週がある11月になりました。私たちは、あの不正義な管理人のように、会計の報告を受けとる主人がいることを忘れて、自分を主人かのように考え、終末意識を忘れて生きてきたのではないでしょうか。もう一度、深く悔い改める経験を通して、自分自身に残された終末に準備する知恵を持ちましょう。そして、主の再臨に対する強い期待と終末信仰を通して、冷やされた心を熱くしましょう。(韓国11月サインズ理事長の言葉)

SDAの秋の祈祷週はイスラエルの民が大贖罪日を迎えて罪悪を告白し、悔い改めて神様の赦しを経験する回復の期間を現代的に適応したものであります。罪をきれいにする神様の儀式に参加して神様とひとつになる経験は、信仰生活の一番大切な「回復の歴史」であり、祈祷週の大事な目的です。

祈祷週の時に各クリスチャンたちは救いの恵みに感謝して祈りましょう。いつも私たちの日常の罪の力から勝てる力を求める祈りをしましょう。今まで、崩れたさまざまな関係の回復のために祈りましょう。神様の品性を持つ者として頑張れるように祈りましょう。私たちの周囲にいる求道者や落胆している魂のために祈りましょう。全世界の福音宣教と日本の宣教のために、地域教会の宣教が発展するようにお祈りしましょう。

「衣を裂くのではなくお前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く忍耐強く、慈しみに富みくだした災いを悔いられるからだ」ヨエル2:13。 「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」使徒3:19。


大阪  魏 守民
(No.627,8,11,1.大阪センター教会牧師室便りより)


不眠対策

2008-10-28 17:45:18 | メッセージ

ラジオ番組「世の光」のメッセンジャーで有名な羽鳥明牧師が、以前このようなことをおっしゃっていました。
「人は時として、よく眠れなかったり、寝つきが悪かったりすることがあります。疲れすぎて、何か悩みをかかえて、または生活のリズムをくずして、どうも眠れない、眠りが浅くて夜中に何度も目を覚ます、などということは、誰にでも一度はあるのではないでしょうか。特別な病気である場合を除いて、実は、不眠に対して、とっておきの対策があります」。

 このようにおっしゃってから羽鳥牧師は、ご自身の不眠対策をお話しされました。
「私は眠れないときは、無理に眠ろうとしません。なにしろ人間は眠れなくて睡眠不足になると、どこかで自然に眠りの補充をするものなのですから。
私は眠れないときを神様との対話タイムにします。起き上がって机の前に座ったり、ひざまずいたりすることもありますが、布団の中に横になったままのときもあります。まず心の中に聖書の言葉をひとつひとつ思い出し、それを唱えます。そして自分のこと、自分の問題、その他の願いや、とりなしごとを神様に次から次へともうしあげます。それからしばらく心の耳を澄ませて、神様のお答えを待ちます。

 すると、2つに1つのことが起こります。
第1はいつの間にか、オイノリがオイネリになって、スヤスヤと寝入ってしまう。
第2はいつの間にか、目が冴えて、神様が与えてくださる平安、喜び、力に満たされて、心気爽快になります。祈り終えて感謝にあふれて、それから横になると安らかに眠りに入れます」(『つばさのかげに』81)。


不安の時代
現代の雰囲気を一言で言うならば、それは「不安」だ、と言った人がいます。
経済破綻の脅威、格差の拡大、テロの脅威、自然破壊、温暖化問題、資源問題、戦争、内乱、病気の脅威、世相の悪化など、不安の材料を数えたら、きりがありません。

一人の社会学者が次のように言いました。
「ある晩ベッドの中で赤ん坊が、火がついたように泣いている。暗闇が怖くて泣いているのか。母親を求めて泣いているのか。
母親は赤ん坊を抱きしめて、寝かし静める。
『大丈夫よ、お母さんがいるからね。
何も怖がることはないわ。
大丈夫だから、安心して寝るのですよ』。
しかし、それは本当だろうか?本当に大丈夫なのだろうか?この幼子が迎えようとしている未来ははたして本当に安心を与えるものなのだろうか?いったい何をもって大丈夫と言えるのだろうか?

 新約聖書にも次のように書かれています。
「人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。」(ルカ21:26口語訳)。
私たちは、安心を得るためには難しい時代に生きているのかもしれません。私たちが本当の安らぎを得るために、経済や健康、治安や社会の安定に望みを置くのにはもはや限界があるのかもしれません。
それよりも、先述の羽鳥牧師のように、神様との関係の中にこそ、真の平安を求めるべきなのでしょう。

前述の聖句の次にはこう書かれています。
「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(同上21:27)。
 波乱万丈の人生を送るダビデは、詩篇の中で、次のように歌います。
「わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです」(詩篇4:8)。


大阪  藤田昌孝
(No.626,08,10,25.大阪センター教会牧師室便りより)

 

神様の招き

2008-10-22 20:29:02 | メッセージ
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)

 イエス様は、わたしたちと一緒に食事をされることを願われ、戸口に立って、戸を叩き続けておられます。そして、イエス様は、中にいる人が戸を開けなければ、その中にお入りになれません。

 イエス様が、中にいる人の承諾を得ずに入ったり、ドアを無理やり壊して侵入されたりすることはありません。すぐ近くまで来られて、戸を叩かれますが、そのドアを開けるかどうかは、わたしたちの決断にかかっているのです。
 ずっと叩き続けておられる神様に対して、どこかで決断し、わたしたちは、戸を開けることが必要です。イエス様は、そのことを望んでおられます。

 もう何年も礼拝に出席し、牧師の言葉をただ聞くということを何年も続けておられる方があると思います。あるいは、英語学校のバイブルクラスに出席し、宣教師の言葉をただ聞くことを続けておられる方もあると思います。
 聞くという行為も、とても大切なことです。

 しかし、自分から踏み込むということをしない限り、信仰の世界に入ることはなかなかできません。どこかで決断することが、求められています。
 神様の懐に、なかなか踏み込めないのが人間の弱さです。傷つくことを恐れて、躊躇してしまうのが人間の本当の姿ではないでしょうか。

 けれども、大丈夫。戸口で待っておられるのは、イエス様なのですから。たとえ、恐れていても、弱くても、そのままの姿で、神様の懐に踏み込んでまいりたいと思います。今、神様は、あなたを招いておられます。


山口  平賀和弘
(No.68.08,10,18.防府教会牧師室便りより)