「神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」(Ⅱペトロ1:2)。
キリスト者が神様によって豊かにされてゆく過程をペトロは同書簡の1:5~7に次のように書いています。
「だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」(Ⅱペトロ1:5~7)。
この聖句を私なりに考えてみました。
「信仰には徳を」
ここで用いられている「徳」とは、卓越した業、優秀な業、成熟した業、もしくは卓越した人物、優秀な人物、成熟した人物を意味します。
キリスト者はイエス様の十字架によって贖われ、罪が赦され、神様の家族の一員とされました。しかしそれだけでは子どものキリスト者です。子どものキリスト者は、自分の救いに夢中です。救いを求め、それを喜ぶことはできますが、自分のことで精一杯です。自分に死んで、相手を生かすためには未熟です。
そこでペトロは、大人のキリスト者へと成長しなさい、と勧めます。社会人として家庭人として、教会員として、自分のことばかりではなく、相手の立場を思いやることのできる、成熟さを身につけなさい、と説くのです。
「徳には知識を」
確かに私たちは成熟した「徳」を身につけなければなりません。しかしそれだけでは、世の中の善良さに終始してしまいます。キリスト者は「ただの良い人」ではありません。
キリスト者は神様から与えられた「徳」について、根拠となる「知識」を持つ必要があります。「徳」を実現してくださるイエス様をご紹介できなければなりません。神様の「徳」が完全に現れる、ご再臨の「知識」に精通している必要があります。
「知識には自制を」
「知識」はその目的にそって用いられ、蓄えられてゆく必要があります。「知識」は神様のご栄光を正しくあらわすため、人を生かすために用いられるべきです。
ところが、「知識」が自分を高めるために用いられることがあります。人を批判するために用いられ、争いの原因になることがあります。「知識」を正しい目的のために蓄え、用いるためには、「自制」が必要です。
「自制には忍耐を」
この「自制」を継続するためには「忍耐」が必要です。人間は誰でも「あきっぽい」性格を持っています。うまくいかなかったり、苦労があっても怪しんではなりません。習慣化するための努力と工夫が必要です。
「忍耐に信心を」
これらのお勧めを自分の頑張りで実現しようとしてはなりません。イエス様に実現させていただく必要があります。神様の願いと実現のために心を開きましょう。
「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ2:13)とある通りです。
「信心には兄弟愛を」
「豊かさ」の目的は、奉仕です。他者の幸福に貢献するために「豊かさ」が与えられます。奉仕の対象は、家庭や教会の「兄弟姉妹」から始まります。
「兄弟愛には愛を」
「兄弟姉妹」へ向けられた愛情は、そこで養われ、外の社会に向けられてゆきます。普遍的な愛情はその質が高められ、深められてゆきます。
「らせん階段」
さらにペトロは上記のお勧めを、「何度も思い出しなさい」と言っています。(Ⅱペトロ1:12参照)。 おそらく、上記の「信心」から「愛」に至る工程を「らせん階段」のように何度も思い返しながら、「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられる」のだと思います。
大阪 藤田昌孝
(No.630,08,11,22.大阪センター教会牧師室便りより)