「神に従う人はなつめやしのように茂り/レバノンの杉のようにそびえます。
主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります。
白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし
述べ伝えるでしょう/わたしの岩と頼む主は正しい方/御もとには不正がない、と。」(詩編92:13~16)
御言葉に従って、主の御心を第一にして生きると、この世では損をするような気がすることがあります。この世では「正直ものはばかをみる」といったことが起こることがあるからです。しかし聖書には「そうではない、この世でも祝福は多い」と書かれています。
こんなお話があります。
砂漠の中のひとつのオアシス。数本のナツメヤシの脇で、老人エリアウがひざまずいていました。裕福な商人である隣人のハキムは、ラクダに水を飲ませようとそのオアシスに足を止め、汗だくのエリアウを見つけます。地面を掘り起こしているようです。
「調子はどうだいエリアウ、この暑い中、シャベル片手に何をしてるんだい?」。
「ナツメヤシの種をまいておるんじゃ」老人はそう答えました。
「ナツメヤシだって!ナツメヤシってのは成長するまで50年以上かかる。あんたがその実を収穫できるなんて、あり得ない話さ」。
「なあ、ハキム、わしは他人が種をまいたナツメヤシの実を食べてきた。その人だって、自分がまいたナツメヤシの実をたべようなどと、夢にも思わなかったはずじゃ。今日わしが種をまくのは、明日誰かにこのナツメヤシの実を食べてもらうためじゃ。だれぞ見知らぬその人のためだけでも、この仕事を終える甲斐はあるというものよ」
「これはいい話を聞かせてもらったな、エリアウ。ためになる話を聞かせてくれたお礼だ、銀貨を一袋進呈しよう」ハキムは老人の手に皮袋をひとつ渡しました。
「感謝するぞ、ハキム。ほれ見なされ、こういうこともあるのじゃ。お前さんは、今わしが種をまいても収穫できるものはないと言っておった。しかしほれ、まだまき終わっておらんのに、わしは友人の感謝と銀貨一袋を手に入れたわい」。
「じいさんは本当にものをよく知ってるな。今日二つ目のいい話を聞かせてもらった。お礼にもう一袋差し上げよう」。
「はたまたこういうこともある。収穫するつもりもなく種をまく。だが種まきが終わる前に、一度ならず二度までも何かを手に入れたわい」
「わかったよ、じいさん。もうその辺にしてくれ。そうやっていろいろと教えられ続けると、俺すっからかんになっちゃうよ・・・」。
(ホルヘ・ブカイ『寓話セラピー』より)
西日本教区 藤田昌孝
(No.81.10,10,16.教区長室便りより)