goo blog サービス終了のお知らせ 

ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

与えて受けること

2010-10-17 20:47:14 | メッセージ


「神に従う人はなつめやしのように茂り/レバノンの杉のようにそびえます。
主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります。
白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし
述べ伝えるでしょう/わたしの岩と頼む主は正しい方/御もとには不正がない、と。」(詩編92:13~16)

御言葉に従って、主の御心を第一にして生きると、この世では損をするような気がすることがあります。この世では「正直ものはばかをみる」といったことが起こることがあるからです。しかし聖書には「そうではない、この世でも祝福は多い」と書かれています。

こんなお話があります。
砂漠の中のひとつのオアシス。数本のナツメヤシの脇で、老人エリアウがひざまずいていました。裕福な商人である隣人のハキムは、ラクダに水を飲ませようとそのオアシスに足を止め、汗だくのエリアウを見つけます。地面を掘り起こしているようです。
「調子はどうだいエリアウ、この暑い中、シャベル片手に何をしてるんだい?」。
「ナツメヤシの種をまいておるんじゃ」老人はそう答えました。
「ナツメヤシだって!ナツメヤシってのは成長するまで50年以上かかる。あんたがその実を収穫できるなんて、あり得ない話さ」。
「なあ、ハキム、わしは他人が種をまいたナツメヤシの実を食べてきた。その人だって、自分がまいたナツメヤシの実をたべようなどと、夢にも思わなかったはずじゃ。今日わしが種をまくのは、明日誰かにこのナツメヤシの実を食べてもらうためじゃ。だれぞ見知らぬその人のためだけでも、この仕事を終える甲斐はあるというものよ」
「これはいい話を聞かせてもらったな、エリアウ。ためになる話を聞かせてくれたお礼だ、銀貨を一袋進呈しよう」ハキムは老人の手に皮袋をひとつ渡しました。
「感謝するぞ、ハキム。ほれ見なされ、こういうこともあるのじゃ。お前さんは、今わしが種をまいても収穫できるものはないと言っておった。しかしほれ、まだまき終わっておらんのに、わしは友人の感謝と銀貨一袋を手に入れたわい」。
「じいさんは本当にものをよく知ってるな。今日二つ目のいい話を聞かせてもらった。お礼にもう一袋差し上げよう」。
「はたまたこういうこともある。収穫するつもりもなく種をまく。だが種まきが終わる前に、一度ならず二度までも何かを手に入れたわい」
「わかったよ、じいさん。もうその辺にしてくれ。そうやっていろいろと教えられ続けると、俺すっからかんになっちゃうよ・・・」。
(ホルヘ・ブカイ『寓話セラピー』より)


西日本教区 藤田昌孝
(No.81.10,10,16.教区長室便りより)


 

SDA名称150周年

2010-10-02 23:02:55 | メッセージ
 2010年10月1日は「セブンスデー・アドベンチスト」の名称採用150周年記念の日です。この記念日を祝うべき理由について、ジェームズ・ニックス(エレン・G・ホワイト財団所長、SDA150周年委員会議長)は次のように述べています。
「名前は、人や組織を表します。2つの主要な教理を教団名に盛り込むことによって、『セブンスデー・アドベンチスト』という名称は、世界教会の家族として私たちが何者であるのかを表しています。・・・各々の教会員、会衆や機関が、今日の世界においてセブンスデー・アドベンチストであるとはどういう意味を持つかを真剣に考えることが期待されています。・・・問われているのは、私や私の教会、あるいは地元のセブンスデー・アドベンチストの機関がどうすればより効果的に、神が私たちの教会に与えられた預言的使命を遂行できるだろうかということです」。

1860年9月末にミシガン州バトルクリークで開かれた世界総会において、この名称について様々な提案がなされました。ある人は「『神の教会』という名前にしよう」と言いました。最終的に、キリストを中心として自分たちの信仰の基本を言い表している、という理由から「セブンスデー・アドベンチスト」という名称が提案されました。
1860年10月1日にセブンスデー・アドベンチストという名称が公式に採決され、各地の教会や設立間もない教会の出版社によって用いられました。

エレン・G・ホワイトはこの名称の採用について、次のように述べています。
「これ以上に良い名前はありません。わたしたちの表明する信仰をはっきりと言い表していますし、わたしたちの特徴をよく表わしています。『セブンスデー・アドベンチスト』という名称は、プロテスタント界への絶えざる抗議です。ここに神を拝するものと獣を拝しそのしるしを受けるものとの違いがあります」。
「『セブンスデー・アドベンチスト』は私たちの信仰の特徴をはっきりあらわし、求める魂に確信を与えるでしょう。主の弓から放たれる矢のように、神の律法を無視するものの心に突き刺さり、神への悔い改めと主イエスへの信仰へと導くのです。
 私は、狂信的な人々が、彼らの真の動機を隠して、私たちは『神の教会』に属しているのであって、この名前(『神の教会』)がいいと叫ぶの見ました。このような名前は疑いを引き起こします。というのはこの名前は多くの誤った教えをもった群れが使ってきたからです。この名前は神の残りの民をあらわすにはあまりにも曖昧です。これでは私たちは自分たちの持つ信仰を隠したいのかと疑われてしまいます」。
『教会への証し』1巻 223-224。

 エレン・G・ホワイトは、彼らの真の動機は自分たちの特徴を恥じて隠したいことだと受け止めたようです。
 私たちは今、大胆にこの名称に恥じることなく、その光を世に照らしてゆくことが求められているのだと思います。


西日本教区 藤田昌孝
(No.79.10,10,02.教区長室便りより)

 

私の擁護者

2010-09-27 22:01:03 | メッセージ
 
ひとつの詩をご紹介させていただきます。作者はマルタ・スネル・ニコルソンといいます。彼女は病気の苦痛のため29年間ほとんど寝たきりでありながら、900編以上の詩を書き続け、作品の多くは今も全米各地で愛読されています。
関節炎、結核、脊椎硬直、狭心症、パーキンソン病、さらに、癌まで患い、その長く激しい痛みの年月にもかかわらず、彼女を知る人々は、彼女の変わらぬ快活さに驚嘆したそうです。何よりも際だっているのは、彼女の主に対する確信と愛でした。肉体的健康が一層悪くなっても、彼女はなおも主に留まり続けます。彼女のキリストに対する穏やかで曇ることのない愛は、周りの人々を驚かせたのです。
 
私の擁護者

マルタ・スネル・ニコルソン

私は罪を犯した。するとただちに全速力でサタンは
最も聖なる神のみ座の前に飛んで行った。
そしてそこであざけり訴えた。彼は言った。
「この魂、この土と泥からつくられた者は罪を犯しました。
まさしく彼はお前の名を名のっている。しかし、私はその死を要求する。
おまえは『罪を犯した者は死ぬべし』と言ったではないか。
その定めは成就されるべきだ。正義は死んだのか。
すぐにこの悪しき罪人をおのが死に送れ。
お前は正しい神だからそれをどうすることもできない」。

このように昼夜私を訴えた。
神よ、サタンが言ったことはみなほんとうです。

そのとき、すばやく神の右の手より一人の者が立ち上がった。
その栄光の前には天使すら目をおおった。

彼は言った。
「律法の一点一画もまっとうされるべし。とがある罪人は死ななければならない。
しかし、待て!そのとがはすべて私に移され その価を私が払ったとしたら!
見よ!私の手、私の脇、私の足を!かつて私はこの人のために罪人となり、
彼が神のみ座の前に傷なく立ち得るようにと死んだのである」。

するとサタンは逃げ去った。よくよく彼は知っていた。
このような愛に打ち勝つ力のないことを。
私の愛する主の言われた言葉はみなほんとうです。


西日本教区 藤田昌孝
(No.78.10,09,25.教区長室便りより)

 

占いの危険

2010-08-14 21:55:26 | メッセージ
 
「人々は必ずあなたたちに言う。『ささやきつぶやく口寄せや、霊媒に伺いを立てよ。民は、命ある者のために、死者によって、自分の神に伺いを立てるべきではないか』と。 そして、教えと証しの書についてはなおのこと、『このような言葉にまじないの力はない』と言うであろう」(イザヤ8:19、20)。

 この聖句は、現代の風潮をよく表わしています。多くの若者たちが、恋の相談、人間関係、仕事の成功を求めて、良く当たると言われる占い師を訪れているようです。
今週も『初代文集』より一箇所、引用させていただきます。
「神は聖徒たちの最後の救出の直前に、神の民のために力強く働かれる。そして、これらの現代の魔術師たちは、神の働きをまねることが許される。その時が、間もなくやってくる。・・・われわれは神に頼り、悪人たちが恐れるものを恐れてはならない。すなわち、彼らが恐れるものを恐れず、彼らが尊ぶものを尊ばず、真理のために大胆で勇敢でなければならない。・・・彼らが神に信頼するならば、神は、神の民を保護し救われるのである」(『初代文集』132-133)。

 私たちは占いに頼ってはなりません。その理由として少なくとも4つ挙げられます。
1.人を神格化する・・・人々は良く当たる占い師をその不思議な業と力に魅了され占い師の言いなりになります。そのため、自分で調べ、自分で考え、自分で決断するという、自由意志を損なってしまいます。
2.不思議に、早くて、お手軽に・・・「意識を少しだけ、色や方角、物を変えてみてください」という方法の特徴は、手軽で、早くて、不思議に大きな変化を求めようとします。果たすべき責任や、果たすべき地道な努力を見失う危険があります。
3.現世主義・・・そこで求められているものは、私の恋愛、私の健康、私の仕事、私のお金です。霊的なものを頼みとするわりには、霊的なものは求めません。お金や恋愛、仕事や健康を求めることは、それ自体悪いことではありませんが、問題は、神様にそれらを求めていながら、誰も神様を求めていないということです。
4.サタンの業・・・占いはサタンの欺瞞です。

『なぜいけない?占い・オカルト・新新宗教』(いのちのことば社)に書かれている田村昭二氏の記事には驚かされます。
 「遠藤徳氏の体験(『百万人の福音』1991年8月号)は衝撃的だ。彼は高校生の頃から占いに熱中し、ついには四柱推命、六壬(りくじん)、奇門遁甲(きもんとんこう)などの高等占術をマスターした。そして絶頂を極めたかに見えた時、破滅がやってきた。悪霊のお告げによって翻弄され、精神的にまいってしまったのだ。そのような恐れの中から救いを求めて彼はキリスト教会に行き、ついにイエス・キリストを信じて完全な解放を知ったという。ある時遠藤氏はエゼキエル書8章を読み、その中で『東の太陽』を拝むことが最悪の偶像礼拝と知り震撼したと言う。というのは占いを保障するのが、『東の太陽』に象徴される龍神だからだと言う。この龍こそ聖書では、サタンそのものである」。


西日本教区 藤田昌孝
(No.72.10,08,14.教区長室便りより)

心霊術の惑わし

2010-08-09 22:19:17 | メッセージ
 
暑い日が続きますが、この季節、テレビや映画でよく取り上げられるのが、心霊現象です。この偽りの現象について、聖書の見解ははっきりしています。
「死者はもう何ひとつ知らない。彼らはもう報いを受けることもなく/彼らの名は忘れられる。 その愛も憎しみも、情熱も、既に消えうせ/太陽の下に起こることのどれひとつにも/もう何のかかわりもない」(コヘレトの言葉9:5、6)。

神様は、人は罪を犯したなら、「必ず死んでしまう」(創世記2:17)とおっしゃいました。ところがサタンは「決して死ぬことはない」(同上3:4)と偽るのです。サタンの欺瞞は現在にも続いています。「人は死ぬことはない、霊体となって生き続ける」と。人々を聖書の真理からそらそうとするのです。このことについてエレン・ホワイトは『初代文集』の中で次のようにおっしゃいます。
「心霊術の惑わしが、わたしに示された。そして、サタンは、イエスにあって眠っているわれわれの身内や友人たちをよそおって、われわれの前に姿を現す力を持っているのを、わたしは見た。これらの友人は、あたかも実際にそこにいるかのように現れ、彼らがこの世にいた時に、われわれが聞きなれていた言葉を話し、彼らが生きていたときと同じ語調が耳に聞こえるのである。これらの事は、みな、世界を欺いて、わなに陥れ、この欺瞞を信じさせようとするものである」(『初代文集』425)。

「わたしは、この欺瞞が、急速に広がるのを見た。電光のような速度で走る列車が、わたしに示された。天使は、わたしに、注意深く見るようにと命じた。わたしは、列車をみつめた。全世界がそれに乗っているように見えた。それから、天使は、乗客の全員が仰ぎ尊んでいる立派で堂々とした車掌をわたしに示した。わたしは、よくわからなくて、それが一体だれなのかを、一緒にいた天使にたずねた。天使は答えて言った。『それは、サタンである。彼は、光の天使を装っている車掌である。彼は全世界を捕虜にしてしまった。彼らは、強力な欺瞞に惑わされ、偽りを信じて滅びに陥る。彼の次に高い地位にある彼の手下は、機関士であって、その他にも、彼の手下たちが、必要に応じていろいろの役についている。そして、彼らはみな電光の速度で、滅びに向かっている。』(『同上』426-427)。

現在、この惑わしはさらに顕著になっています。心霊術が市民権を得ているかのようなこの時代、私たちが、この欺瞞に対抗するために、エレン・ホワイトの次の言葉に耳を傾けたいと思います。
「われわれは、われわれの希望の根拠をよく調べなければならない。なぜなら、われわれは、聖書からその説明をしなければならないからである。・・・われわれが、できる限りをつくして自分たちの分をつくし、われわれの目前に迫った争闘に対して準備をしているならば、神は、神の分をしてくださり、神の全能の腕をもってわれわれを保護してくださるのである」(『同上』426)。

 聖書の真理に固く立ち、心霊術には近づきませんように。来週は占いの危険を。

西日本教区 藤田昌孝 
(教区長室便りより No.71.10,08,07)



高校球児

2010-08-01 20:45:29 | メッセージ
 
「ことばをやさしくし、態度を穏やかにし、自分の欲望を押さえなさい。ことばは善、または悪のために強い力を持っているから、話すことばによく注意しなさい。声は決して鋭くしてはならない。あなたがたの結婚生活にキリストのような香りを持ち込みなさい」(『アドベンチスト・ホーム』108)。

先週の続きで、言葉のお話です。
神様から与えられた言葉には素晴らしい力があるということを知らされます。下記の内容は、私の友人がどこかのメールマガジンの記事を読んで、私に教えてくれた実話です。

2007年夏の甲子園高校野球、優勝校は佐賀北高校でした。
甲子園での試合中、佐賀北高校の選手は、次のようなことを行っていました。
対戦相手がヒットを打つとまず一塁手が、「ナイスバッティング」と言います。
二塁打を打った選手には、二塁手が、「素晴らしいバッティングでしたね」と褒めるのだそうです。
また、自分たちが打席に入って三振すると、相手のピッチャーに 「ナイスピッチング」と声をかけるのだそうです。
そのようにしながらも、佐賀北高校は順調に勝ち進んでゆきました。
ただ、佐賀北高校に負けたチームは、とても悔しいはずなのですが、試合後は必ず佐賀北高のファンになって、次からは一生懸命自分たちを負かしたはずの佐賀北高を応援してくれるのだそうです。
いつしか猛烈な数の応援団が出来上がり、声援が運を呼びよせるかのようにして、 ついに全国優勝を遂げたのです。
甲子園という晴れ舞台で、自分たちが戦っている相手のために、褒め言葉を言える球児たちに感動しました。

「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」(エフェソ4:29)。

18歳の高校球児から大切なことを学んだような気がいたします。
「多くの人は家庭を魅力のある、よろこびの所とするにはどうすればよいか、その方法を学ぶ必要がある。感謝の心とやさしい表情は富やぜいたくよりももっと価値があり、質素なもので満足する心は、愛があれば家庭を幸福にする」(『アドベンチスト・ホーム』109-110)。


西日本教区 藤田昌孝
(教区長室便り No.70.10,07,31より)


福音の大逆転

2010-07-11 20:40:07 | メッセージ

 先週から聖書研究ガイドでは『ローマの信徒への手紙』が研究されていますが、筆者のパウロも、そしてローマの人々も、以前はイエス様を知りませんでした。しかしキリストの福音を受け入れ、イエス様と出会って、生まれ変わった人々です。キリストの福音による大逆転を体験した人々でした。

本間俊平(しゅんぺい 1873-1948)という方をご存知でしょうか。
 彼は山口県の秋吉台で採石所を経営し、刑期を終えても行くあてのない人々を受け入れて、社会復帰の機会を与えていました。
 1921年(大正10)1月23日、彼は小菅監獄へ講演にまねかれます。そこには刑期が十三年から無期懲役までの重罪人ばかりが収容されていました。講堂には千三百人もの囚人たちが集められていました。講壇に立った本間氏は、彼らを前にしばらくうつむいたまま、その肩がゆれ、涙がほおをつたっていました。

 しばらくして顔をあげた本間氏は、静かに語り出します。
「私はいまだかつて、皆様のために祈ったことがありませんでした。今わが国で皆様のために祈る親心のある者がいないために、皆様をこのような境遇にまで追いやってしまいました。私はそのことを思うと、恥ずかしさでお話などする立場ではありません。皆様にふかくお詫びいたします。ここにこうして皆様のおられるのは、本間の真心が至らなかったからです。まことに申し訳ありません。どうかお許しください。これからいっそう注意して親心を養うようにいたします。どうか皆様も心をあわせて日本の社会を住み心地の良いところになるように、ともに精進いたそうではありませんか。私はいつでも門も戸も閉めずに、皆様をまっております。何ごとでも相談にのりましょう。どうか心を入れ替えて、ここをりっぱな天国にしてください。本間は秋吉台の岩陰で祈っております」。

 短い話がおわると、静まりかえった広い講堂のあちこちから、嗚咽がもれてきて、それはやがて男泣きの大合唱となりました。
 二年後、刑務所は、関東大震災に襲われ、大きな被害をうけました。十九名の死傷者を出しましたが、約千三百人もの大勢の囚人たちは、だれひとり逃亡する者はいませんでした。お互いに戒め合っていたからだそうです。

人は愛されて初めて、愛されるにふさわしい者となります。愛されて初めてこの世界に何かを果たすことができるようになります。自分の中に問題があることは、致命的な問題ではありません。問題に目が奪われて、神様の約束を手放すことが問題なのです。神様の親心のうちに信仰を働かせて歩み出すとき、神様は必ず福音の大逆転を完成してくださいます。死にかけている者が生き返るという奇跡、不完全な者が主に用いられていくという大逆転がそこに起こるのです。

西日本教区 藤田昌孝
(No.67.10,07,10.教区長室便りより)


420:1

2010-07-03 13:35:34 | メッセージ

420:1 さて、これは何の比率だと思われますか?単位は人です。
420人に1人という割合です。
この比率は、2010年調査によるところの
地球の人口に対するセブンスデー・アドベンチストの割合です。
現在全世界で420人に1人がセブンスデー・アドベンチストということなのです。
この数字は、今週アトランタで開かれました世界総会において発表されました。

1980年を過ぎたあたりから、世界のアドベンチストの人口は、南アフリカ、中央アメリカ、南アメリカを中心に飛躍的に伸びています。
今や、4.8時間に1つ、セブンスデー・アドベンチストの教会が世界のどこかで誕生しています。また30秒に1人のバプテスマが与えられています。
イエス様の弟子としての信徒・牧師の献身と、何よりも神様の御業が表されているのだと思います。たいへん励まされる報告でした。

ところが、一方で大都市におけるアドベンチストの比率は多くはありません。
東京都心におけるアドベンチストの比率は12,517人に1人でした。
神様の願いは、まだ、完全には実現されていないようです。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす」(ルカ10:2、3)。
伝道が進んでいる伝道の先進国の教会の多くは、たくさんの信徒伝道者が育成されています。牧師の第一の働きは、信徒の継続的、計画的な育成です。教会員はそれぞれの賜物に合わせて主のお働きに参与していることを喜び、感動を覚えています。
「牧師は、まず第一に、未信者を悔い改めさせることではなくて、教会員が十分に協力することができるように彼らを訓練しなければならない。牧師は、教会員1人ひとりのために働き、彼ら自身が深い霊的経験を求めるように覚醒をうながした上で、他のために働くように導かなければならない。こうして教会員が、祈りと働きによって、牧師を支えるときに、彼の働きは大きな成功を収めることができる」(『伝道』上148)。

私たち日本も、日本に合った方法で、信徒伝道者、信徒説教者、信徒教師の育成を継続的、計画的に実行し、主の御心にお応えしてゆきたいと思います。


西日本教区 藤田昌孝
(No.66.10,07,03.教区長室便りより) 




声を聞く

2010-06-05 19:51:56 | メッセージ
「1人の少年は今月10日まで学校を休んでいた。登下校中にウイルスが体につき、自宅で飼育する約70頭の牛を感染させないように、という配慮からだ。日頃からフンの処理などをよく手伝っていた少年だった。彼が学校に姿を見せたのは、牛が感染し、殺処分が決まってから。久しぶりに再会した同級生とふざけあい、笑顔も見せていた。だが、嶋田教諭は少年の母親から聞いて知っていた。殺処分が行われる日の朝、号泣したこと。今も空(から)の牛舎に近づけないでいること」(2010,5,30,読売新聞)。

 これは、口蹄疫が多発する川南町の小学校で、この問題を子どもたちと一緒に考えようとして始まった授業の新聞記事です。
 先月、九州地区の教会を訪問させていただいた折、ある教会員の方がおっしゃいました。「私たちは今まで経験したことのない大きな被害を経験しています」。
 口蹄疫問題で殺処分されるのは、肉牛だけではなく約3300頭の乳牛も姿を消すことになります。移動制限区域の外側、搬出制限区域(10~20キロ圏)では、すべての牛や豚が早期出荷の対象となるそうです。乳牛も食肉処理されます。対象とされた牧場のご主人の言葉が新聞に載っていました。「発症していないのに処理される。ほかの地域を感染から守るためとはいえ、とても耐えられない」(2010,5,31,同上)。

 被害の渦中にいらっしゃる方々のお声を聞くと、胸に矢が突き刺さるように感じます。恥ずかしいことですが、その声から逃れたいという思いにかられることがあります。おそらく、その声を聞き続けることによって、自分がどんなに未熟な人間であるかが明らかにされるからでしょう。何もできない自分、愛のない自分に気づかされてしまうからなのだと思います。
イエス様は、傷ついた人々の声を聴き続けておられました。そこから目をそらすことなく、その現実に立ち向かわれてゆきました。その方々と共におられました。

ジャン・バニエという人はこう語ります。
「恐れてはならない。もっと近づきなさい。人は、自分の貧しさが明らかにされたとき、自分も救い主が必要であることを発見します。そしてその貧しさゆえに、主イエス・キリストに目を向け、助けを呼び求めるほかなくなります。
 そして私たちは、逃げることなく、こう語りかけることができるようになるでしょう。『私は貧しいので何をしたらよいかわからず、何もしてあげられません。しかし、このことは知っていてください。私は心であなたとともにいて、あなたのことを思い続けます。私は心であなたを支え、あなたとともに祈ります。私自身はとても弱く、何もしてあげられませんが、あなたを心にかけていることだけは知っていてください」(ジャン・バニエ『小さき者からの光』)。

 文頭の記事で、授業を始められた嶋田教諭はその経緯をこのように話されました。「クラスの中に問題を理解しない子と、悲しみを抱えた子がいる。その現実に、正面から向かい合わなくてはと思った」(2010,5,30,読売新聞)。 


西日本教区 藤田昌孝 
(No.62.10,06,5.教区長室便りより)

 

2マイルの精神

2010-05-23 20:02:04 | メッセージ


名誉牧師の川越勝先生のメールマガジンに次のような記事が載っていました。

義務から愛へ    
 あなたに何かする事を命令できる人はいるでしょうか。会社の上司、これはやむを得ないでしょうね。雇用関係なのですから。部活の先輩、学校の教師、家では両親等色々あるでしょう。キリスト時代のユダヤ人はローマ帝国に支配されており、パレスチナに駐留しているローマの軍人はユダヤ人に「わしのこの荷物を持って1マイル運べ」と命令できました。この命令に対してユダヤ人は反抗できず、従うだけでした。しかし1マイルまでです。それ以上の命令は出来ませんでした。このような背景の時代に、ある日、キリストはユダヤ人群衆に次のように教えました。
「もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい」(マタイによる福音書5章41節)。

これは凄い教えですね。1マイル行けば責任は果たされたのです。それ以上の必要はありません。義務は終わったのです。強制される分は終わったのです。しかし2マイル行きますと、それは義務でも強制でもなく、自由意思によるサービス。愛です。
あなたは命令された事だけしていますか。それは義務です。しかしそれ以上になりますとサービスであり愛です。
住宅地で自分の家の前だけ掃除する人はいないでしょうか。商店街で自分の店の前だけきれいにしていますか。もし我々がキリストが教える2マイルの精神で働けば素晴らしい事が起きますね。あなたが2マイルの精神で働きをする時、見る人は見ているでしょうね。もちろん見られるためにしたり、自分の評判を上げるためにするわけではありませんが、2マイルの精神が職場で、学校で、家庭で実行されるときに、そこは何とすばらしい所になることでしょうか。
義務を越えてサービスへ、強制を越えて自由意思で、仕方ないからを越えて愛を持って、これが2マイルの精神です。

なるほど!義務から愛へ、2マイルの精神はまさに私たちクリスチャンの生き方なのでしょう。
困難なこと、思い通りに行かないことに直面したときでも、しぶしぶ、いやいやながら、過ごすのではなく、このように愛をもって、主体的に取り組んでゆくことができたら、そこに神様の御業が豊かに開かれてゆくのだと思います。


西日本教区 藤田昌孝
(No.60.10,05,22.牧師室便りより)