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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

25. 死と復活---「二度目の死だけは、絶対に迎えたくはない!」

2007-02-01 05:48:21 | JC 信仰の大要シリーズ

 エデンの園でエバはヘビ(サタン)の誘惑にあった。「死」について彼女はヘビから疑問を投げかれられた。エバは「その実を食べると死んでしまう!?」と答えた。しかし、ヘビは「この木の実を食べると決して死ぬことはない!そして、・・・神のようになれる・・・」と巧みにだました。その結果、エバは誘惑に負けて、その実を食べてしまい。すべての人間は死ななくてはならない存在となった。(ローマ6:23)
 
死についての問題というのは、人間が創造された初めの時から、サタンが神様から人を離れさせようするときに誘惑するために使う手段だったのです。(各時代の大争闘 下巻 P277)

わたしたちSDAクリスチャンは、死と死後の中間状態と復活の時にどのような事が起こるかについては、他のクリスチャン達とは理解が異なるところがいくつかあります。(信仰の大要 第25、 死と復活)
たとえば、「死んだら、すぐに天国に行くか地獄に行くかのどちらかに分けられる」、これらの考え方も惑わされています。
聖書のどこにも、まったくそのようには書かれてありません。(でも例外で天国にすでにいる人達がいます。エノクとエリヤとモーセ、この3人だけのようですが・・・)
 そして、死んだ人の体は「土に返り、霊は神のもとへ帰る」、(コヘレト12:7)と書かれていますが、「霊は神のもと」に帰るからといって霊だけが死んだあと自由に活動できるということではありません。
真のクリスチャンは霊魂不滅説を信じません。霊も体も全く活動停止の状態になるのです。(コヘレト9:5~6)だから、死んだ人の霊と会話することは、全くありえません。しかし、それらはサタンが人々をだましてやっているだけのことです。

最近、スピリチュアルカウンセリング等が普通にテレビや雑誌などで取り上げられていますが、死んだ人を通して、或いは前世が・・・などということで、病などが奇跡的に癒されたり、将来に希望がもてたりして、すごく魅力的な解決方法のように見えるようです。しかし、聖書はそのような死んだものとの交信を硬く厳しく禁じています。(レビ記19:31)

ぼくらの救い主であるイエス様は、人の死を「眠っている」状態であると、はっきりと言われました。(ヨハネ11:11~14)そして、神様だけが、死んで眠っている状態の人間を生き返らせる、復活させることのできる力あるお方なのです。この復活はイエス様がもう一度この地上においでになるときに起こるのです。救われて死んだ多くの人々が、もう一度、新しい体を与えられて蘇るのです。そして、それから、永遠にイエス様と共に生きることができるのです。(テサⅠ4:13~16節)

この世での虚しいスピリチュアリズムの霊魂不滅説に頼って、一時の満足感を得ることよりも、イエス様が私たち一人一人に、いつの日か、すばらしい永遠の命を与えてくださる。そのような復活信仰をしっかり持つことができれば、つらい現実の世界においても、ひるむことなく、星のように輝くことができるのです。(ピリピ2:15)

 また聖書は、二度目の死についてのことが書かれています。これは永遠の死を意味します。もう一度眠っている状態に戻るのではなく、永遠に滅ぼされるということです。(黙示録20章)イエスの救いを受け入れない人々は二度目の死の直前に復活して、天から火で滅ぼされて、第二の死を迎えるというのです。一度目の死はだれも避けられないのですが、二度目の死は絶対に避けなくてはいけないのです。そして、ぼくらがイエス様を信じて、生きることを選ぶことによって、それは避けることができるのです。

 最後に、この世界の終わりがだんだん近づいています。みんなもそのように感じませんか?サタンはこの世が終わることを気づかせないように霊魂不滅というような巧みな説などで多くの人々をだまして、この世には終わりはないと安心させようとします。しかし、それが、まったくの間違いとして気づいたときには、もうすでに遅く、大変惨めな生活を強いられるということにもなりかねません。

 ですから、SDAクリスチャンは自分自身が2度目の死から免れ、救われることを喜ぶと同時に、世の中の多くの人が「死」について、だまされていることを気づかせて、死から復活なさったイエス様のすばらしさを聖書的に正しく伝えること、そして、イエス様を迎えるための準備をするようにと注意を促し、人々を整えさせることを神様から託されている集まりなのです。その託されたタラントをぜひ、多くの人のために使って、天国で神様から「忠実なしもべよ、よくやった」と言われたいですね!


フィリッピン  森田栄作牧師





13.  キリストの体である教会

2006-12-01 21:51:47 | JC 信仰の大要シリーズ
6年前のことです。私は初めてカナダのトロントに行きました。そこで、私達のSDA教会の世界総会が開かれたのです。それに合わせて、インパクト・トロントという世界中の青年達が実際に伝道や奉仕活動を行うプログラムが計画されました。その世界の青年達の集いに私は参加したのです。

トロントの空港に飛行機が到着したのは日が暮れてからでした。トロントの美しい夜景を見ながらの着陸でした。しかし、「やっと着いた」と思ったその時、管制塔のトラブルが発生して、何と滑走路上で二時間以上も飛行機の中で待たされる事になってしまったのです。ご一緒だった先生が二人いたので退屈はしませんでしたが、これからのトロントでの日々がどうなるのかと不安を感じさせるには十分でした。しかし、実際の一日一日は、とても楽しく有意義な学びと実践の時となりました。

新しい発見や出会いが与えられました。その中でも忘れられないのが、最終日の安息日礼拝です。世界中から集まった7万人の兄弟姉妹方と礼拝を捧げたのです。会場は、トロント市内にあるスカイドームです。メジャーリーグのトロントブルージェーブのホームグランドです。かつて伊良部選手がこのチームに所属していたことがありました。その広い会場が人で溢れたのです。世界中の200を越える国々から集まった人達。国籍、人種、肌の色、教育、言語、文化、全てが異なっているのにもかかわらず、同じ一つ所に集まり、同じ讃美を歌い、心を合わせて祈り、礼拝を捧げている。理屈ではなく、体験的に、「一人一人はちがうけれど私達はイエス様にあって一つなんだ」と思いました。その時の感動の思いを言語化して表現することは今となっては簡単ではありません。しかし、その時の感激は今でも心の中にはっきりと残っています。

閉会式の時に、トロントの市長が招かれて挨拶されました。「あなたがたは、パーフェクトなゲストだ」と。「トロントは人種のるつぼで様々な人が住んでいる。そして、問題が絶えない。しかし、あなたがたは違う。これだけの人達が集まっているのに問題が起こらなかった。それどころか、愛と祝福を私たちに与えてくれた。あなたがたは私達の模範である。あなたがたのようなゲストなら毎年でも来てもらいたい。」リップサービスもあると思いますが、そんな言葉を述べて下さったのです。

教会とは何でしょうか。教会に行くとか行かないとか私達は言います。しかし、聖書を見ると、教会というのは単なる建物ではないことが分かります。パウロは、教会とは何かを教えて、「あなたがたはキリストの体であり、ひとりびとりはその肢体である」(コリント第一12:27)と言いました。

教会と言うのは、キリストを頭にした体なのです。体は様々な肢体から成っています。目があり、耳があり、口があり、手があり、足がある。一つ一つは違うものですし、役割も異なっています。しかし、全てが必要ですし、全てが一つになって、一つの命と体を支えているのです。教会とはまさにそのようなものなのです。一人一人は違っていても、キリストにあって一つなのです。同じキリストの命を共有しているのです。イエス様は、弟子達への遺言とも言えるメッセージを語られた後の祈りの中で、「聖なる父よ、私に賜った御名によって彼らを守って下さい。それは私達が一つであるように、彼らも一つになるためであります」(ヨハネ17:11)と祈られました。

私たちが一つになる。一致する。これがイエス様の願いであり、祈りなのです。それは、「それによって、あなたがわたしをおつかわしなったことを、世が信じるようになるため」(ヨハネ17:21)であります。教会には、教会以外では決して出会わないだろうと思う方々が集まっています。色々な人がいます。世代も職業も育った環境も違う人達の集まりです。でも、その集まりの中で、お互いに対する愛と助け合いがあり、同じ一つの目的のために力を合わせて働いていたらどうでしょう。こんなに魅力的な集まりはないのではないでしょうか。

しかし、現実の教会の中では、残念ながら不和や争いを見ることがあります。青年の皆様の中には、そんな教会の現実を見て教会から遠ざかっている方もいるかもしれない。確かにそれはあってはならないことです。しかし、だからと言って教会から離れることもあってはならないと思うのです。教会の頭はイエス様です。教会にはたとえ弱さと傷があっても、その中心にはイエス様がいるのです。

エレン・ホワイトはこうコメントしています。「教会はどんなに弱く欠陥だらけのように見えても、神が特別な意味で最高の関心を払われる対象である。教会は神の恵みの舞台であり、そこで神は人々の心を変える力をあらわすことを、お喜びになるのである。」(患難から栄光へ 上巻 P4)

教会は神様が働かれる舞台なのです。たとえどんなに弱く欠陥だらけであってもです。だから、青年の皆様に訴えたいのです。教会を離れないでほしい!あなたはキリストの命に預かり、キリストの体の一部とされ、キリストの大切な働きを担う尊い器とされたのです。教会にとどまり、そこに集う人達と心を合わせて、キリストのために仕えてほしい。地方の教会は若者が少なく寂しいかもしれない。しかし、私達の教会は世界的なものです。主にあって大きな夢と幻を持ってほしい。キリストはこの終わりの時代に、ご自身の働きの完結のためにあなたを必要としているのです。

これが今年40歳になったおっさん牧師が主から賜ったメッセージです。


天沼教会  稲田 勤 



11章  「教会」

2006-11-01 00:39:37 | JC 信仰の大要シリーズ

1.教会は「人」である―教会は「わたし」である
「教会は、イエス・キリストを主とし、また救い主として告白する信仰者の共同体である」。

 教会は建物や場所を表すのではなく、信仰者の共同体を示します。よく「私の教会は○○だ」とひとごとのように批判されることがありますが、教会を形成しているのは、私たちです。


2.教会は召しだされている―「わたし」には目的がある
「われわれは、礼拝と交わり、神の言葉の教えと聖餐式の執行、全人類への奉仕と福音の世界的な宣教とに参加している」。

教会には、確かな目的・使命が与えられています。①創造主を礼拝すること ②信仰の分かち合うこと ③聖書の教え ④聖餐式・バプテスマ式・結婚式などの執行 ⑤奉仕と伝道、宣教などがあげられます。
 人が教会員となるとき、この目的を「わたし」のこととして明確にされる必要があります。このことなく、教会員になってしまいますと、「教会は、わたしに○○してくれない」と不満を述べてやまない、いわば「くれない族」になってしまうことがあります。「くれない族」の常套句は「この教会には愛がない」です。言い分は当たってはいても、それが教会を造り上げることはありません。人々の意志をくじき、分裂や混乱を招くだけです。
もしも、早い時期に教会の目的が「わたし」のこととして伝えられていたら、このような方も「わたしの賜物にあった奉仕はないだろうか?」と、自分の賜物をもって教会を造り上げる一員となっていたにちがいありません。


3.教会の権威―キリストと聖書
「教会は、その権威の源泉を、肉となった神の言葉であるキリストと、書かれた神の言葉である聖書とに置いている」。

 教会はいつも「イエス様はどうしただろうか」「聖書にどう書いてあるか」との問の中で、「イエス様と聖書」にその権威と基準を置くべきです。
しかし現実は、別のものに権威を置いてしまうことがあります。
教会理事会で、「いつもこの方法でやってきた」「そんなやり方でやったことはない」という意見が頻繁に出る教会は、「伝統」に権威を置いています。また、「牧師や長老は何を望むか」と、いつも問われている教会は、「個人」に権威が置かれています。「どれほど費用がかかるか」ということが常に問われている教会は、「財政」に権威が置かれています。「どうやってプログラムを継続し、働きのポストを埋めるか」が問題とされている教会は、「行事」に権威が置かれています。建物の維持が最優先される教会は、「建物維持」が教会の権威となっています。「世の人は何を求めているか」が優先されている教会は、「求道者」に権威が置かれています。
私たちは、「神様は私たちに何を望んでおられるのか」、その権威を、「イエス様と聖書」に求めなければなりません。


4.教会は家族である
「教会は神の家族である。すなわち、教会員は、神によって神の子供とされ、新しい契約を基として生きる」。

「そこでは、人々は愛され、尊敬され、さらにおたがいを認め合うのです。人々がたがいに必要とし合っていることを認めている場であり、賜物が開花させられ、人々が成長し、誰もが満たされる場」(チャールズ・ブラッドフォード)です。
「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」(エペソ2:19)。


5.教会はキリストの身体である
「教会はキリストのからだ、すなわち、キリストご自身が頭である信仰の共同体である」。

私たちがキリストのお身体につながることを主は願われています。教会に加わらずに、ひとりで信仰者であることは願われていません。自分の賜物に応じて、イエス様の働きを分担することを願われています。
その際、自分の賜物を他者に押し付けてはいけません。「自分ができるのだから、あなたもできる」と言ってはなりません。賜物は人それぞれです。また、賜物や奉仕には優劣はありません。「わたしの奉仕はあんたの奉仕より重要」と言ってはなりません。また、「わたしにはなんの賜物もありません」と言ってはなりません。主は賜物をお与えくださいます。


6.教会は花嫁である
「教会は、キリストがそれをきよめるために、その身代わりとして死なれた花嫁である」。

私たちは、イエス様のご再臨の時に、しみもしわもない聖なる者として迎えられる花嫁です。私たちは、イエス様から花嫁として愛されています。決して忘れてはならないことは、神様が「わたし」を愛しておられるということです。私たちが神様を愛したからではありません。私たちがイエス様の敵であったときに、イエス様が私たちのために命をかけてお愛しくださいました。教会は、「わたし」の真実の上に立つのではなく、「キリスト」の真実の上に立つのです。


大阪  藤田昌孝


20章  管理者としての務め

2006-10-04 23:10:09 | JC 信仰の大要シリーズ

 ある日、牧師のところへひとりの信徒がやって来ました。
「先生、わたしのために祈ってください。什一をお返しすることができないのです。月収が20万円だった時には喜んでお返しできました。でも、今は月に100万のサラリーで、什一の額の大きさを考えると惜しくなってしまうのです。」
 すると牧師は言いました。
「わかりました。では、共に祈りましょう。『神様、どうかこの兄弟の信仰を増し加えてください。そして収入を減らしてください。』」

 「管理者の務め」を考えるとき、いくつかの聖句を心に留めることは助けになります。
「はじめに神は天と地を創造された。」(創世記1:1)
「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。」(詩篇24:1)
「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」(Ⅰコリント6:19,20)

 「管理者の務め」に相当するスチュワードシップを辞書で調べますと、「スチュワード[幹事、給仕、執事、世話人]の職、財産管理の職務、世話役を努めること」という説明と共に「監督と報告の責務」と記されていました。つまり、上位からの主導権によって下位を監督し、結果を上位に報告する“責任”のことです。

 わたしたちには神様から色々なものが与えられています。生命、健康、時間、特技や能力、財産、奉仕の機会、知恵や知識・・・などなど。アダムとエバが創られた時、神様は言われました。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(創世記1:28)。彼らにとって必要なものをすべて備え、万端整ってから人間をご自分のかたちに似せて創られた神様は、すべてを治めるという責任を人間に与えられたのです。そして「はなはだ良かった」(創世記1:31)と満足されたのでした。この「はなはだ良かった」という言葉にはおそらくこのような意味が含まれているのではないでしょうか。

 「わたしは自分にかたどった人間が、彼らを祝福し満たすために与えたすべてのものを正しく管理し、それらを喜びとしてくれるのを見ることができて、なんと良かっただろうか!」

人はすぐに堕落してしまいました。もしかするとこの喜びも束の間のことだったかもしれません。それでもなお、神様の人間に対する深い愛と約束がここに込められているように、わたしには思えます。つまり、与えられているものをわたしたちが正しく用いることにより、神様の素晴らしさが表され(他者への祝福)、その結果、神様の愛をもっと深く知ることができる(自分へ戻ってくる祝福)ということだと。

 罪を犯した男女のために、天地創造の前に立てられた計画(エペソ1:4)を告げられた彼らは、自らの足りなさと同時に神様の懐の深さをも知ったに違いありません。その結果、彼らは神様の愛を子孫に語り伝え、与えられたものすべてを正しく管理するよう指導したでしょう。「管理者の務め」とは、神様がどんなに大きな愛のお方であり、どこまでもこのわたしを受け容れてくださるのかを知った結果に表現されるわたしたちの“責任”(responsibility=応答する能力)です。お金であろうと[什一]、時間であろうと[安息日]、健康であろうと[ライフスタイル]、正しく用い、それらをお与えくださった神様にお応えするのが管理者としての務めなのです。そのようにしていくとき、神様はさらに祝福を増し加えてくださいます。

「演説、記憶、影響力、財産などのタラントは、神の栄光と御国の前進のために積み重ねていくものである。神はご自分の賜物を正しく用いる人を祝福されるであろう。」(エレン・ホワイト『管理者への勧告』116p.)

 ふたりのクリスチャンが献金について主張していました。
「地面に円が書かれている。今からお金を天に投げ、円の中に散らばったものをわたしは献金する。」
「そうか。僕は投げて円の外に落ちたものをささげることにする。」

ふたりの話しを聞いていた別のクリスチャンは静かに言いました。
「わたしの献金は、投げ上げて空中にあるもの全部だ。」


 御子を通してご自分を丸ごとわたしたちにお与えくださった神様にお応えする忠実な管理者として務め(責任)を果たしたいと思います。


天沼教会牧師  藤森大輔


18. 神の律法

2006-09-01 21:29:36 | JC 信仰の大要シリーズ
パウロが手紙をとおして新約聖書の中で律法主義に対して厳しい批判を加えていることで、残念ながらキリスト教会ではどちらかと言うと律法は否定的に捉えられている。SDA教会とて例外ではなく、福音と対立するものとしての律法が理解されることがよくある。教会ではもっと福音的にという言葉があっても、もっと律法的にとは言わない。しかしヘブライ語聖書では「律法」(狭い意味で、モーセ五書)をトーラーと呼ぶ。これは単に律法を意味せず、教えや指示などの意味がある。メシアニックジューと言われる人たちは福音書にあるイエスキリストの教えと言うときに「イエスキリストのトーラー」と表現する。ユダヤ教徒によってであれ、メシアニックジューによってであれトーラーはとても大切にされ、愛されている。キリスト教会のようにネガティブには決してとらえられてはいない。

何年も前になるが、東京のユダヤ教会の仮庵の祭りの最後の日のスィムハットーラー(律法の歓喜の祭り)に出席したことがある。1年を通し安息日に54の区分に分けたトーラーを朗読し、最後の区分を読むのがこの日になる。彼らはシナゴーグの中心にある聖櫃を開き、トーラーの巻物を取り出し抱きかかえ踊りまわる。あるユダヤ人の青年があまりの嬉さに私のような部外者さえ踊りの輪に入れた。(あとで本当は異邦人がトーラーの巻物を抱いて踊るのは駄目だったとラビに言われたが…。)
つまりユダヤ人にとって律法は単なる法規以上の意味がある。しかしこう書くと、ユダヤ人は律法を行うことにより救いを得る、あるいは神の国に行けると考えているので当たり前ではないかと言われそうだ。しかしご存知だろうか?ユダヤ人が、人は神の哀れみと恵みによって生かされていることを信じていることを。

ユダヤ教の祈祷書、特に平日の朝唱えられる祝祷に次のようなものがある。
「全世界の主人よ。私たちの義によらず、ただあなたの大いなる哀れみにより御前に願いをささげます。我々は何者でしょう?我々の命とは何でしょう?我々の親切とは何でしょう?我々の義とは何でしょう?我々の救いとは何でしょう?我々の力とは何でしょう?我々の勇気とは何でしょう?あなたの御前に我らは何を述べればよいのでしょう?主なる我らの神、我らの父祖たちの神よ。全ての勇者たちはあなたの御前には無き者も同然です。そして名の有る者たちもあたかも存在しなかったかのようです。賢者たちでさえ知恵なき者のようであり、聡明な者らも知性の無き者のようです。なぜなら彼らの多くの業は虚しく、彼らの命の日々はあなたの御前に空だからです。人は獣に勝りません。何故なら全ては空だからです」。
このような祈りをささげながらユダヤ人が憐れみと恵みに気づかないはずはない。

それでは恵みと行いはどのような関係にあるのだろうか?イスラエル・トゥデイ2004年11月号15ページにこう記されている。
「良い行いは恵みと同時に働くのである。それは、すべて人間ではなく神からの善意にかかっている。神は私たちに恵みと哀れみを与えられるから、私たちはそれを人々に与えるべきなのだ。クリスチャンたちは、恵みにより良い行いが不要になったと、しばしば誤解している」。

新約聖書もこの恵みと行いが相補的だという、ユダヤ的な観点を強調している。「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」。Iヨハネ3:18
「しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。 ― ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか」。ヤコブ2:18-20

 ある日主イエスが空腹になられ、イチジクの実を求められたことを思い出して欲しい。(マルコ11:13-20参照)実のない葉ばかりのイチジクの木を主イエスは呪われたのである。そしてその木は枯れてしまった。実とは何であろうか?主イエスがその実によって偽預言者を見分けるようにいわれた。すなわち実とはその行いではないだろうか?つまり信仰を告白しても実を結ばないクリスチャンは葉ばかりで実の無いイチジクの木と同じだと考えらないだろうか。

使徒パウロはこう言う。「 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない」。ガラテヤ5:22-23

千葉  里内勝己



15. 「聖餐式」

2006-08-08 01:14:47 | JC 信仰の大要シリーズ

 聖餐式は、主であり救い主であるイエス・キリストを信じる信仰の表明として、イエスのからだと血の象徴にあずかることである。この交わりの中にキリストは臨在されてその民と会い、彼らを力づけられる。この礼典においてわれわれは、主が再び来られるときに至るまで主の死を喜びをもって告げ知らせる。聖餐式にあずかるため、自己を吟味し、罪の悔い改めと告白をしなければならない。主はまた洗足式を定められた。それは、新たなきよめを象徴し、キリストが示された謙虚さをもって喜んで互いに仕えあう気持ちを表し、愛にあってわれわれの心をひとつにするものである。聖餐式は信仰を表明するすべてのクリスチャンに開かれている。
(コリント第1・10:16、17、11:23-30、マタイ26:17-30、黙示録3:20、ヨハネ6:48-63、13:1-17)


(1)洗足式
 「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」
 「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
ヨハネによる福音書13章1節〜4節、14節(新共同訳聖書)


 SDA教会は、洗足式を聖餐式の一部ととらえています。聖餐式ごとにお互いに足を洗い合う洗足式を行います。一教派として、このことを定めているのは、SDA教会のユニークな典礼と言ってよいでしょう。
 洗足式は、洗礼や聖餐と同じように主の命令によっています。つまり「互いに足を洗い合いなさい」(ヨハネによる福音書13章14節)という主イエスの言葉に従って行われます。しかし、全ての教会が洗足式を行ってきたわけではありません。教派によっては、行ったり止めたりしてきました。その理由は、洗足が大儀であるからたというのがおよそのところであるようです。最近は行う教派も増えてきました。二つの仕方があるようです。一つは聖餐式の度に会衆でお互いに足を洗い合うというもの。もう一つは、ペディラヴィウムといわれるものです。これはカトリックや正教会などで復活祭前の受難週の木曜日に高位聖職者や国王が下位の者たちの足を洗うというものです。それによってキリストの謙遜に倣うことを示すとされているようです。

 私たちのSDA教会が洗足を始めたのは、初期再臨信徒の頃のようです。1844年「夜中の叫び(The Midnight Cry)」8月1日号には、ある礼拝の聖餐式で参加者の一人が洗足の命令に従うことを提案して行ったという報告があります。おそらくこれが再臨信徒の洗足の最も古い記録であろうと考えられています。初期再臨信徒の方向性の一つとして、聖書至上主義(Biblical Primitivism)があげられます。彼らが聖書の教えに忠実に従っていこうとしたとき洗足式も取り入れられたのでした。しかし、洗足を主の命じられたこととして行うのではなく、洗足の中に込められた恵を受けることが出来るようによく理解する必要があります。

 弟子たちの足を洗われたイエスのお姿には、神の子の謙遜が現れています。主イエスは、神の子でありながら、玉座から降りて僕となられました。しかも仕えるために、罪人の身代わりの犠牲となるために十字架の死までご自身を低くされました。(ピリピ2:6-11)洗足のイエスに受肉の神の子、十字架の死に至る神の子の姿が示されています。ヨハネは、福音書の中でイエスの洗足されるお姿に弟子たちを「この上なく愛しぬかれた」(13:1)と記しています。イエスは洗足に十字架で示そうとした究極の神の愛を弟子たちに伝えたのでした。洗足は何よりも神の子の神の愛と謙遜を想い起こすときです。

 またイエスは、弟子たちの足を洗われたとき、彼らにご自身との「係わり」とご自身が与える「きよめ」を示されました。イエスは弟子たちをこの上なく愛され、彼らをご自身の弟子とし続けるために足を洗われます。つまり、きよめてご自身の側におらせようとなさいました。しかし、ペテロは後にイエスを知らないと三度言います。イスカリオテのユダはイエスを裏切ります。洗足は、私たちのイエスとの係わりを確かめるとき、弟子であることを省みるときでもあるのです。

 私たちは、洗足によってイエスによる清めと係わりを想い起こします。また係わりを省みて、献身を新たにするときでもあると言えます。イエスに示された神の愛をおぼえつつ互いに足を洗い合います。それはキリスト者として互いに赦し愛し合うことを目指します。このことはキリストの恵をいただいたときにのみ、なしえることなのです。。私たちは、洗足式によってイエスの弟子であることを互いに告白するのです。洗足式は、単にキリストの謙遜を模範として追従することではありません。キリストの恵を感謝し受け分かち合うときです。イエスキリストが高く掲げられるために。


(2)聖餐式
 「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」コリントの信徒への手紙 一 11章24節〜26節(新共同訳聖書)

 初代教会から今日に至るまで、すべての教派そしてすべての教会がとぎれることなく聖餐を続けてきました。聖餐に対する理解や考え方、執行の仕方に違いがあっても続けられています。上記のパウロの言葉によれば、聖餐は、再臨の時まで続けられるのです。これは洗礼も同じです。
 教会、つまりキリストに召し出された者たちが聖餐を大切に執行し続けるのは、まず、主イエスが「私を記念するために行え」と命じておられるからです。主の権威ある言葉によっています。しかし聖餐は、ただ単に命じられているから行われるのではありません。聖餐の中にキリスト者にとって最も大切なことが示されているからです。従って聖餐は、み言葉の光によって説き明かしがなされ、恵に向かう方向が正しく示されねばなりません。

 「私を記念してこのように行いなさい」とは、十字架の死を「想起するために」という意味です。キリストの贖いの犠牲を想い起こさせるのです。キリスト者やその共同体は、主の十字架の出来事が何にもまして貴い救いのよりどころであることを信仰と感謝をもって受けとめるからこそ聖餐を行うのです。そのために聖餐の行われる所では、聖霊の神の働きが充ち満ちています。主イエスご自身が聖霊の神によって聖餐の場に臨在されると言われています。(参照:各時代の希望第三巻第72章『私を記念するために』p.137〜p.142)「このパンを食べ」「この杯を飲む」ことは、信仰によってキリストの命に結びつくことです。パンと葡萄汁は、十字架における主の犠牲の象徴ですが、聖霊の神の導きの下に信仰を持つ者に対してキリストの罪の赦しと命を分かち取らせるのです。そのとき信仰をもって聖餐にあずかった者は、救われた幸いが与えられキリストを喜び歌うのです。聖霊の臨在の下、十字架を想起するとはこのようなことなのです。ですから聖餐は、喜びに溢れた最高の礼拝の形なのです。また感謝と喜びの祝典と言われるところでもあります。

 キリスト者の共同体は、聖餐を行い十字架を想起し続けます。教会は、再臨を目指しつつこの世を旅する共同体と言ってよいでしょう。キリスト者は、「すでに」あった十字架の恵を受けつつ「新しい契約」を生きるのです。その旅は、安息日を節目に神を礼拝しつつ、「まだ」到来していない決定的な救いの成就の時である「再臨」を目指します。聖餐を救いの恵の想起として、十字架を感謝し、喜びつつ再臨を目指すというとらえ方は、再臨信徒である私たちの最も大切なところではないでしょうか。

 再臨の時まで聖餐を繰り返す「ごとに」、「主の死を告げ知らせる」と記されています。聖餐によって繰り返してキリストの恵をいただくのです。と同時に、主の死を福音として、信仰と感謝を持って受けとめることは、また、そのような喜ばしい恵を得た者としては、福音を伝える者として世に派遣されるのです。
 皆さんに覚えてほしいことがあります。聖餐は、キリスト者にとって権利であり義務でもあるということです。神の前に罪深さを覚えるときも、不完全さを覚えるときも、キリスト者は、聖餐に参加することでキリストに赦しをいただき、力もいただく事が赦されているのです。キリストによる救いを信じる者は、全て聖餐に招かれています。ですからキリスト者の権利なのです。また、キリスト者は、聖餐に与ることでキリストの命につながる者として自らの証を求められています。喜ばしい義務でもあるのです。
 聖餐式は、厳粛な内にもキリストの救いを喜び楽しむ祝の礼拝であることを覚えてください。

 私は聖餐式の度に、日本基督教団第一讃美歌205番を会衆と共に讃美します。(希望の讃美歌では、歌詞の訳が違っています。)上記の内容をよく表現していると思います。ぜひ聖餐式の開式の時に讃美してみてください。


SDA岡山教会牧師   脇屋靖治



12. 「残りの民とその使命(Mission)」

2006-07-02 23:56:05 | JC 信仰の大要シリーズ
 
信仰の大要12は、最初に「普遍的な教会(The universal church)は、キリストを真に信じるすべてのものからなる」と宣言しています。この理解はとても大切です。SDAは、「残りの民」に強い関心を持って来ました。自分たちが、この「民」の中心的な存在である、と考えて来たのです。でも、「普遍的な教会」を忘れて、「残りの民」を理解しようとすると、そこに誤解が生まれます。まず、「残りの民」はキリストを真に信じる者たちである、ということをはっきり覚えたいと思います。

それでは、「残りの民」の特徴を見て行きましょう。この言葉は、黙示録12:17「女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たち」という聖句が、元になっています。黙示録14:12に似たような表現が出て来ます。「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある。」両方とも、神の戒めとイエス、のペアを含んでいます。「神の戒め」については様々な解釈が可能でしょうが、出エジプト記20章の十戒であるといっていいでしょう。
さらに「残りの民」は、「さばきのときが来たことを告げ」、その働きは「天におけるさばきのわざと平行してなされ」る、と言われています。さばき、と聞くと、恐ろしい印象を受けてしまうものです。神様は、私たちから恐れを取り除こうとしておられます。繰り返し「恐れるな」と言って下さっています。と同時に、再臨という、地上最大のラストイベントに備えるということは、最も厳粛なことです。黙示録14章に登場する天使が最初に、神をおそれなさい、と叫んでいるのは当然のことです(7節)。残りの民の「使命(Mission)」は、世界中の人々(「あらゆる国民、部族、国語、民族」[黙示録14:6])に、神と会う準備をさせることです。これほど重要なミッションは他にありません。

しかし私たちは、厳粛な思いを持ちつつも、不安になる必要はありません。イエス様を信じる信仰を持っているなら、心配は無用です。残りの民のミッションは、喜びと共に実行されます。この「民」は「永遠の福音をたずさえて」いるからです(14:6)。福音は、アダムの時代から、再臨まで変わりません。だから「永遠の福音」と呼ばれているのです。それは「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」というメッセージです(使徒行伝16:31)。
残りの民のミッションの中心は、イエス様です。三天使に象徴されている「民」が実際に働くのですが、主人公は十字架のキリストです。福音は、イエス様を信じなさい、ということであり、さばきも「天」にいるイエス様が裁き主であり、そして、再臨されるのもイエス様です。イエス様を真に信じているなら、怖がる必要はありません。

残りの民は「神の戒め」を守ります。しかし、何によって守るのでしょうか。それは、イエス様を信じる信仰によって、です。私たちは、信仰によって「律法を確立する」のです(ローマ3:31)。人が「神の戒め」を守るのも、「悔改めと改革の働き」を行うようになるのも、イエス様を信じる信仰によるのです。
最後に、「残りの民」と聖書の関係について述べたいと思います。神の戒め(十戒)は、旧約聖書に記されています。新約聖書は、受肉されたイエス様を証ししています。「残りの民」の特徴は、神の戒めを守ることとイエス様を信じることですが、これは、言い換えるなら、旧約聖書と新約聖書を両方信じる、ということです。「残りの民」は、聖書にこだわる人々です。「残りの民とその使命」とは、旧・新約聖書を信じる人々と、それに生きる働きのことなのです。聖書をすべて神の言葉として受け入れること、それは、人間の力では出来ないことかもしれません。それを可能にする方法が一つだけあります。それは、「イエス様を信じること」です。聖霊が、そのために力強く助けて下さいます。

信仰の大要12は、「すべて信じるものは、この世界的なあかしの働きに個人的に加わるよう召されている」という言葉で結ばれています。最初に出て来た言葉「信じる者すべて」が再び登場しています。「残りの民とその使命」の中心は、キリストを信じる信仰なのです。終わりの時代には、聖書をすべて神の言葉として受け入れる人々の多くが、「残りの民」に加わるのです。


東京衛生病院チャプレン、伊能 忠嗣

新しい命に生きるために

2006-06-01 23:52:44 | JC 信仰の大要シリーズ
9.「キリストの生涯と死と復活」


最善の計画
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(ヨハネ1章1~4節)。


イエス・キリストは、全世界をお造りになった神です。永遠の昔から永遠の未来にわたって存在されるキリストは、善の根源であるお方です。このお方から離れてしまう状態を「罪」と呼びます。ですから、キリストがキリストでいらっしゃる限り、罪を犯すことができないということになります。同様に、イエス・キリストはご自分の内に尽きることのない命の源を持っておられるお方ですから、キリストがキリストでいらっしゃる限り、死ぬことはおできになりません。

ところが、父なる神は、自分の犯した罪の責めを負って死ぬ以外に選択肢のない「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡され」ました(ローマ8章32節)。死ぬことのできないキリストが、死なれたのです。「罪と何のかかわりもない方」すなわち罪を犯すことのできないお方が、「わたしたちのために罪と」されたのです(コリント第二・5章21節)。起きるはずのないことが起きてしまいました。

しかし、何も、この世界の創造者であられるキリストご自身が私たちの身代わりにならなくても良かったのではないかという気もします。罪を犯したことのない天使などを身代わりにすれば、キリストがわざわざ死ぬ必要はなかったのかも知れません。ですが、聖書が明らかにしていることは、全知全能の神がその英知をもってお立てになった計画が、キリストの十字架による救いだったということなのです。

キリストの十字架は、私たちが納得できないくらい人間の罪の問題が重大であるということを示しています。そして同時に、私たちの理解が及ばないほど、主が私たちを大切に思ってくださっているということを表しています。

キリストは「御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救」いたいと思っておられます(ヘブライ7章25節)。誰がどこからどう見ても、心から納得できる方法を、神はおとりになったのです。


理解できない愛
私をこの世に生まれさせてくださったキリストご自身が、私たちと同じ人間になってこの世界においでになりました。永遠の昔から永遠の未来にわたって存在される無限の神であるお方が、限りある命しか持つことのできない存在になられました。しかも、イエス・キリストは一時的に(つまり33年半の間だけ)人間の姿になられたのではありません。「神は、その独り子をお与えに」なりました(ヨハネ3章16節)。「ひとりの男の子がわたしたちに与えられ」ました(イザヤ9章5節)。マリアの胎内に宿られたその瞬間から、永遠にわたって、キリストは人間であり続けることをお選びになったのです。

私たちは皆、聖なる神の臨在によって焼き尽くされるほかない罪人です。しかし「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」に(ヨハネ3章16節下句)、キリストは父なる神と私たちとを結ぶ永遠の架け橋になってくださいました。復活し、天に戻られた後もなお、キリストはご自分の内に人間としての性質をお持ちなのです。(E・G・ホワイト『各時代の希望』上巻 11、12ページ参照。)

 言うなれば、キリストは二度と、この世界においでになる前の状態──純粋な神としての立場──にお戻りになることはないのです。私は、このような愛の大きさを理解することができません。


将来に対する希望
イエス・キリストが、ここまでの犠牲を払われたのは、ひとえに私たちの罪を赦し、そして私たちを罪から救うためでした。キリストが十字架で身代わりの死を遂げるにとどまらず、3日後に復活された事実の中に、それを見ることができます。

キリストの使徒パウロは、こう書いています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6章4節)。

私たちの主イエス・キリストは、死の力を打ち破り、復活されました。これによって私たちは、罪のもたらす結果としての死の力を恐れないだけではありません。罪そのものの力を恐れる必要がないのです。私たちは依然として弱いですが、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」(ローマ8章2節)。私たちは、遠い将来に対してだけでなく、今、この世において生きる上でも、希望を持って歩むことができるのです。

キリストがなしてくださったすべてのことのゆえに、私たちの主なる神を心から賛美いたします。


広島三育学院  浦島靖成



第2章 三位一体の神

2006-05-01 23:19:26 | JC 信仰の大要シリーズ
信仰の大要2 「父と子と聖霊の三つの位格からなるひとりの神がいます。神は、朽ちることなく、全知全能で、すべてのものを超え、つねに変わることなく存在される。神は、人間の理解を越える無限のお方であるにもかかわらず、ご自身を啓示されることによって、人間に知られるお方である。神はつねに、すべての造られた者の礼拝と尊崇と奉仕を受けるにふさわしいお方である。」



1.神についての知識
私たちは神さまをどのくらい知ることができるでしょうか。またどのようにして知ることができるでしょうか。

【人は神を説明できない】
私たちは神さまに造られました。造られた立場の私たちが、造ってくださった方を説明するのは無理なことです。造られた私たちは造ったお方以上ではないからです。それに私たちには罪があるために、さらに神さまが分からなくなっています。

【人は神を見る】
でも神さまは私たちに、ご自身を現してくださいました。聖書にこうあります。「イエスは言われた。『・・・わたしを見た者は、父を見たのだ。』」(ヨハネ14:9)。イエスさまを見るとき、私たちは神さまを見ているのです。

【霊と体験で知る】
神さまを見るといっても、肉眼で見るのではありません。聖書にこうあります。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:24)。私たちは霊で神さまを見、神さまの声を聞き、神さまの手を感じるのです。


2.神の存在
神さまがおられるという証拠を、自然と聖書に求めることができます。

【自然が示す神の存在】
聖書にこうあります。「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。」(詩編19:2)。空、山、海、動物、花などを眺めるとき、私たちは神さまの偉大さ、優しさなどを感じます。

【聖書が示す神の存在】
じつのところ聖書は、神さまの存在を説明していません。聖書では神さまがおられることは当然のことなのです。でも聖書を読むと、理屈ではなく、神さまが本当におられることがわかります。


3.聖書の神
聖書は、神の本質的な性質を神の名、行為、属性をとおして明らかにしています。

【神の名】
「名は体を現す」といいますが、聖書の時代も同じでした。聖書にこうあります。「主の御名を賛美せよ。主の御名はひとり高く 威光は天地に満ちている。」(詩編148:13)。御名=神さまの名には、神さまの性質が現されています。

【神の行為】
聖書には神さまの行為が多く書かれています。神さまは天地万物を創造し、保っておられます。私たちに対しては、罪を赦し、あがない、導かれます。

【神の属性】
神の性質としては、全能、全知、遍在、愛、恵み、憐れみ、忍耐、聖、義、真実などを聖書から知ることができます。神は私たちのすべてを知り、私たちのために最善をしてくださいます。そして私たちがいつどこにいても、私たちを愛してくださっています。


4.神の主権
神さまは絶対的な主権を持っておられます。誰も神さまの計画を変更することはできません。神さまはこの主権をもって、私たちが一人も滅びないで、救われるように働いておられます。神さまはご自身の主権を行使すると同時に、私たちの意志を尊重してくださいます。つまり神さまは私たちを強制的に救うのではなく、愛することによって救ってくださるのです。


5.神の内部における力動性
【唯一の神】
神は、父、子、聖霊が一体となっている唯一の神です。神さまは三位一体であり、多神教的な神々ではありません。

【神における複数性】
三位一体という言葉は聖書にはありません。でも聖書は神さまの複数性を示しています。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』」(創世記1:26)

【神の内部における関係】
聖書には「神は愛だからです。」(1ヨハネ4:8)とあります。愛するという行為は、一人では不可能です。神さまが愛だというときに、父と子と聖霊が互いに愛の交わりをもっておられることを意味しています。その関係の中で神さまは、調和と一致を保ち、同じ目的をもって行動なさいます。


6.救いの焦点
聖書にはこうあります。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)

三位一体の神さまは、私たちをご自身の愛の交わりに加えてくださるために、一致して働いておられます。約二千年前、父なる神さまは御子を十字架に送り出し、子なるキリストは父に従順となって十字架で命を捨てられました。今、聖霊は私たちの目の前に十字架のキリストを描き出してくださいます。


富山、金沢教会牧師  中野陽司



1 神の言葉

2006-04-01 00:10:42 | JC 信仰の大要シリーズ
「旧新約聖書は書かれた神の言葉である。それは、聖霊に動かされるままに書きまた語った献身した人々をとおし、神の霊感によって与えられた。この言葉をとおして、神は、救いに必要な知識を人間に与えられた。聖書は、神のみこころの誤りのない啓示である。聖書は、品性の標準を示し、人間の経験を吟味し、権威をもって教理を啓示する。聖書は歴史における神のみわざについて信頼できる記録である」(信仰の大要一)



不思議な書物
日本で最古の書物は712年に献上された「古事記」であると言われています。今から約1300年前の書物です。聖書は古事記よりも更に古く、一番古いものは約3500年前、一番新しいものでも約1900年前に書かれたと考えられています。このような遠い昔に書かれた書物を、現代に生きるわたしたちが理解できる言葉で読めるということだけでも驚きですが、更に驚くべきことはその期間大事に守られてきたわけではないということです。もちろん、多くの人は聖書を愛読し、大切にしてきたのですが、キリスト教が迫害されてきた歴史を振り返れば明らかであるように、聖書も時の権力者から迫害され、この世界から抹殺される危険にさらされてきたのです。聖書は人の手の届かないところ、人目につかないところに大切に保管され、手厚い保護を受けて長年守られてきたために生き残っているのではなく、多くの人にさらされ、憎まれたにもかかわらず生き残っている不思議な書物なのです。人間の手によるものであれば、人間の手によって消滅させられていたことでしょう。しかし、聖書は神様によって与えられたものです。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」(2テモ3:16)たのです。だからこそ人間の手によって消滅させることができなかったのです。

わたしたちセブンスデー・アドベンチストは、この聖書を信仰と行為の唯一の基準としています。つまり、わたしたちは聖書を読むことによって、神様がどのような方であるのか、神様はどのような考えをお持ちなのか、神様はわたしに何を期待しておられるのかということを探り、信仰者として歩んでいくのです。聖書なしの信仰生活などあり得ないのです。


何が書かれているのか
わたしたちの信仰と行為の唯一の基準となる聖書には何が書かれているのでしょうか。やや乱暴かもしれませんが、二つのことにまとめることができます。

一つ目は「人間とはどのような存在なのか」ということです。聖書は多くの実例を挙げて、人間がいかに弱く、罪深く、神様を必要とする存在であるのかということを語っています。また、それにもかかわらず神様に背を向け続けている存在であるということも語っています。

二つ目は「神様とはどのような方なのか」ということです。弱く、罪深い人間に対して、神様がどれだけ多くの情熱を注ぎ、そのような状態から救おうとされているのかということを、聖書は語っているのです。

「聖書は、神を啓示するとともに、人間がどのような存在であるかを明らかにします。聖書は、わたしたちの行き詰った苦況を明らかにし、それに対する神の解決を啓示しています。聖書は、わたしたちが失われた神から離れた存在であることを示すとともに、失われているわたしたちを見いだし、わたしたちを神のもとへ連れ戻してくださるイエス・キリストを明らかにしています。」(『信仰の大要』4ページ)


焦点から目をそらさずに
「神の愛、特に宇宙の最も偉大な真理であるカルバリーにおけるキリストの犠牲の死にみられる神の愛の主題が、聖書の焦点です。」(『信仰の大要』5ページ)

 聖書を読むときにこの焦点がぼやけてしまうと、自分を必要以上に誇ってしまうようになったり、神様が厳しいだけで愛のかけらもない方であるかのように感じてしまったりする危険があります。そうならないためにも、聖書の焦点を絶えず確認して聖書を読むことが大切です。そのとき、聖書が国や文化、時代を問わずに多くの人を励まし、勇気づけてきたように、あなたを励まし、勇気づけ、人生をより豊かにしてくれるでしょう。

「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」ローマの信徒への手紙 15章4節


広島三育学院中学校チャプレン 青木泰樹