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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

チプコ!

2008-10-19 10:14:34 | メッセージ

今週の『聖書研究ガイド』(教課)の学びは、「堕落」でした。罪を犯した人間がこうむる罪の結果についての学びでした。

罪を犯して永遠の命に死んだ私たちは、本来なら当たり前のように出来ていたことが出来なくなりました。
神の国の原則が当たり前ではなくなったのです。罪を犯す前、アダムとエバは当たり前のように神の国の原則を行っていました。「神様を愛し、互いに愛し合う」という神の国の原則を行うことは、彼らにとって、何よりの喜びでした。それは彼らにとってごく自然なこと、当たり前のことでした。わざわざ文字の律法に表す必要もありませんでした。

ところが、彼らが罪を犯した瞬間、彼らの永遠の命は死にます。体はまだ生きていましたが、神様の心に死んでしまいました。その日より彼らは神の国の原則を自然に行う力を失ってゆきます。彼らは、神の国の原則をあらためて教えられなければならなくなりました。放っておけば、神様から離れてゆくのです。
罪の結果、私たちが招いた第一の損失は、神様に関する無知でした。神様のご性質を正しく理解することができなくなります。神様の愛が分からなくなります。神様が近づくと、彼らは神様を恐れて身を隠すのです。
やがて人類は神様ご自身さえ見失ってゆきます。
それまで神様のご性質を雄弁に語っていた自然界の美しさや巧みさは、やがて彼らによって礼拝の対象となってゆきます。神様によって作られたものを神として拝むのです。

それまで神様を知るために与えられていた人間の知性や力は、やがて彼らの礼拝の対象になってゆきます。知性や力をあらわすお金や名声を自分たちの神とします。
やがて人間は自分自身さえ神とするようになるのです。
そのため、神様は十戒(文字に表された神の国の原則)の初めにそのことを明記しておかなければなりませんでした。

「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト20:3)。

1992年5月3日に開かれた「モントリオール地球環境国際会議」の席上でインド代表の老爺が語った「チプコ!」というメッセージを思い出しました。

私たちはチプコと呼ばれている
チプコはインド語で“抱きつく”という意味
私たちは木が切られないように木に抱きつく
木と共に切られてすでに200人が死んだ
今、あなたがたの国からたくさんの人が来て、たくさんの木を切り、
たくさんのダムを作ろうとしている
ダムができると森が沈み、私たちは生きていけない
このようなことが行われないために、
私達10万人のチプコは水に沈む覚悟をした
よく聞いて欲しい
私たちは決して貧しくない、私たちは豊かだ
私たちは何も欲しくない、ダムも電気もお金も
あなた方の宗教は経済
あなたがたの神はお金
あなたがたの儀式は開発
あなたがたの生けにえは地球
あなたがたの神からの贈物は飢えと公害と戦争
開発は自然を殺し、一時の富をもたらすが
永遠の生活と幸せを失う
私たちは開発ではなく、幸せを求めている
小さな土地と小さな水、そして小さな食べ物で十分なのだ
幸せはお城の中ではなく、自然の中にある
悩みは欲の中にあり、幸せとは欲から解放されること
あなた方はどうして、その当たり前のことを
忘れてしまったのか
あなた方はどこに行くのか。
Yes To life! No To death!


大阪  藤田昌孝 
(No.625,08,10,18.大阪センター教会牧師室便りより)

 

今、彼は祈っている

2008-10-16 06:27:29 | メッセージ

すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。(使徒言行録9:11)


 「今、彼は祈っている」(使徒9:11)。この時、サウロ(パウロ)は、何を祈っていたのでしょうか。

 この時、サウロは、目が見えませんでした。彼は、主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んでいましたが、突然、天からの光に照らされ、地に倒れた彼は、主の声を聞き、その時以来、何も見えなくなったのです。

 サウロは、この時、償うことのできない罪、過ちを犯し、どうすることもできなくて、ただ神様に、祈っていたのではないでしょうか。

 殺人事件の裁判の争点のひとつに殺意の有無があります。殺意が有ったか無かったかで、刑が全く違うからです。サウロは、主の弟子たちに対して明らかに殺意がありました(使徒9:1)。
罪が支払う報酬は死です(ローマ6:23)。

 サウロは、殺意を持って人を殺したことで、「自分は、償うことのできない罪、過ちを犯してしまった」と深く悩み、祈っていたのです。

 そんなサウロに、届けられたのが神様の言葉でした。神様から遣わされたアナニアは、サウロに会うと「元通り目が見えるようになり、聖霊で満たされるように。」と告げます(使徒9:17)。
 そうすると、サウロは、聖霊に満たされ、目が開かれます。自分の償いきれない罪のすべてが、イエス様の十字架によって赦されている。神様の恵みの賜物は、罪とは比較にならないほど大きいことを知るのです(ローマ5:15、6:23)。サウロの祈りは、聞かれました。


山口 平賀和弘 
(No.67.08,10,11.防府教会牧師室便りより)

 

律法を愛する

2008-10-13 14:30:06 | メッセージ

先月、北九州合同礼拝に出席した後、その時の礼拝説教者であられる里内勝己牧師(三育学院神学科旧約学教授)と電話でお話する機会があり、その際、里内先生から「律法」についての興味深い文章をメールでいただきました。
今週の教課の学びが「罪の起源」についてでしたので、一部をご紹介させていただきます。参考にしていただければ幸いです。

「パウロが手紙をとおして新約聖書の中で律法主義に対して厳しい批判を加えていることで、残念ながらキリスト教会ではどちらかというと律法は否定的に捉えられている。SDA教会とて例外ではなく、福音と対立するものとしての律法が理解されることがよくある。教会ではもっと福音的にという言葉があっても、もっと律法的にとは言わない。
しかしヘブライ語聖書では「律法」(狭い意味でモーセ五書)をトーラーと呼ぶ。これは単に律法を意味せず、教えや指示などの意味がある。メシアニックジュー(イエスを救い主と信じたユダヤ人)と言われる人たちは福音書にあるイエス・キリストの教えと言うときに「イエス・キリストのトーラー」と表現する。ユダヤ教徒によってであれ、メシアニックジューによってであれ、トーラーはとても大切にされ、愛されている。キリスト教会のようにネガティブには決してとらえられてはいない。・・・中略
しかしこう書くと、ユダヤ人は律法を行うことにより救いを得る、あるいは神の国に行けると考えているので当たり前ではないかと言われそうだ。
しかしご存知だろうか?ユダヤ人が、人は神の憐れみと恵みによって生かされていることを信じていることを。ユダヤ教の祈祷書、特に平日の朝、唱えられる祝祷に次のようなものがある。「全世界の主人よ。私たちの義によらず、ただあなたの大いなる憐れみにより御前に願いをささげます。我々は何者でしょう?我々の命とは何でしょう?我々の親切とは何でしょう?我々の義とは何でしょう?我々の救いとは何でしょう?我々の力とは何でしょう?我々の勇気とは何でしょう?あなたの御前に我らは何を述べればよいのでしょう?主なる我らの神、我らの父祖たちの神よ。全ての勇者たちはあなたの御前には無き者も同然です。そして名の有る者たちもあたかも存在しなかったかのようです。賢者たちでさえ知恵なき者のようであり、聡明な者らも知性の無き者のようです。なぜなら彼らの多くの業は虚しく、彼らの命の日々はあなたの御前に空だからです。人は獣に勝りません。何故なら全ては空だからです」。

このような祈りをささげながらユダヤ人が憐れみと恵みに気づかないはずはない。それでは恵みと行いはどのような関係にあるのだろうか?イスラエル・トゥデイ2004年11月号15ページにこう記されている。

「良い行いは恵みと同時に働くのである。それは、すべて人間ではなく神からの善意にかかっている。神は私たちに恵みと憐れみを与えられるから、私たちはそれを人々に与えるべきなのだ。クリスチャンたちは、恵みにより良い行いが不要になったと、しばしば誤解している」。

新約聖書もこの恵みと行いが相補的だという、ユダヤ的な観点を強調している。
「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」(Iヨハネ3:18)。

ある日、主イエスが空腹になられ、イチジクの実を求められたことを思い出して欲しい。(マルコ11:13-20参照)実のない葉ばかりのイチジクの木を主イエスは呪われたのである。そしてその木は枯れてしまった。実とは何であろうか?主イエスがその実によって偽預言者を見分けるようにいわれた。すなわち実とはその行いではないだろうか?つまり信仰を告白しても実を結ばないクリスチャンは葉ばかりで実の無いイチジクの木と同じだと考えられないだろうか。


大阪  藤田昌孝
(No.624,08,10,11大阪センター教会牧師室便りより)


新たに生まれる原理

2008-10-07 19:50:32 | メッセージ
新たに生まれなければならない理由
目に見えない世界で起きている霊的な戦い、つまり悪霊と聖霊の戦いは想像以上に深刻な戦いです。その戦いの内幕はこうです。
人は神様によって創られたので、人の主人は神様でした。しかし、サタンに惑わされて人は臨時にサタンの手に渡されてしまいました。サタンはすべて罪人に対して自分の所有権を主張します。
そこでイエス様が来られました。サタンの権勢に入っている人間を救い出し、自分の民にするためです。
サタンは自分の民を渡さないようにする。イエス様は人間を助け出し救おうとする。ここに戦いがあるのです。

この戦いには重要な規則があります。それは、誰も人間の自由意志(選択の自由)を強制することができないということです。人間が罪の中で滅びるか、救われるか、それは本人の自由意思と選択によるものだということです。
イエス様は、人の救いを、新生の原理をもって説明されています。人がサタンの手から救い出され、神様の民になることを、人が新たに生まれる原理を通して説明されるのです。
それは、サタンが罪人の父(偽りの父)だからです〔ヨハネ8:44〕。人間は神様の子供になるため、新しく生まれなければなりません。

人が新たに生まれる原理
人が新たに生まれて、神様の民になる過程と手続きは、おおよそ次のようです。

1)。神様から呼ばれる(詩篇50:1;2テモテ1:9参考)
人間の救いは、サタンの権勢下にいる罪人が神様から呼ばれることから始まります。人は神様から様々な方法で呼ばれ、招かれます。それは、自然界を通して、良心を通して(イザヤ40:25;ローマ1:20)、聖書を通して、イエス キリストを通して(ヨハネ5:39)、先に信じた人々を通して(ローマ10:14,15;2コリント5:20)、聖霊の声を通して(ヨハネ15:26、27)、時には夢を通して、神様は人々を呼び、救いに招くのです。

2)。呼ばれる声に対する肯定的な反応
信仰:神様から呼ばれる声に素直に肯定的な反応することを「信仰」といいます。「信仰-信じる」とは①神様がいらっしゃることを信じ、②そのお方が信じる者たちに「救い」を与えてくださることを信じることです。(ヘブライ11:6)。

3)。救いの方法が提示される(使徒11:31)
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ5:24)。
この三つの聖句を心から祈りながら慎重に読むならば、実に単純な救いの原理が理解できます。

4)。信仰を持っている証拠(使徒2:37;3:19)
信仰を持っていることの証拠は何でしょうか。使徒2:28節にはそのような信仰を持っている人々の反応が書かれています。
「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」(使徒2:37)。
救いを受け、神様の子供になりたい人はサタンの家から、いち早く戸籍を移して神様の家族になることを心から願います。その願いが「わたしたちはどうしたらよいのですか」という叫びになるのです。これが証拠です。

5)。悔い改め(使徒2:38)
「わたしたちはどうしたらよいのですか」という質問に対する答えがこれです。「悔い改めなさい。めいめい、イエス•キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒2:38)。悔い改め、バプテスマ、罪の赦し、賜物としての聖霊、これらが成し遂げられます。
「悔い改め」とは、自分は死ぬべき存在の罪人だという事実を認めることです。そして、それまでの生涯を反省し、生き方の方向転換をはかり、神様に向かって歩むことです。世の欲望と誉れを求めていた生き方を清算し、その代わりに「神様の義」を学びます。そして「神の義」に従う新たな決心するのです。イエス様を自分の救い主として認めて、そのように生きようとする決心は聖霊の働きによるものです(1コリント12:3)。

6)。バプテスマ(マタイ28:19、20)
このようにイエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、神様の子供になりたいと決心した人は、神様の子供になる手順を踏みます。それがバプテスマです。もともとの意味は完全に水の中で沈むという意味です。バプテスマにはたくさんの意味がありますが、本質的な意味は、サタンに属していた昔の自我に死ぬこと。そして、新たな生命で生まれ変わり、神様の子供として入籍することです。
新たな命は水から生まれることが一般原則です。創世記を見ると、地球も始めのころは水の中で沈んでいました(創1:2)。地球が罪に満たされた時、ノア洪水を通して新しい時代が始まりました。人間の赤ちゃんも羊水の中から生まれます。罪人が新たに生まれるのも、水を通って生まれ出るのです。
人は、聖霊様の働きを通して、イエス様を救い主として信じる新しい心が与えられます。ですから、新しい生命に生まれ変わるため、水のバプテスマを受けた状態を「水と聖霊によって新たに生まれた(ヨハネ3:5)」といいます。

7)聖霊様の導きによって生きる(ローマ8:4)
このような過程を通してバプテスマを受け、神様の子供になった状態をⅡコリント5:17には次のように書かれています。「だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造されたものなのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。神様の子供は神様の義(神様の律法)に従って生きたいと心から願うようになります。

そのように導かれるお方は聖霊様です。その道を歩めるよう力を与えてくださるのも聖霊様です。聖霊様は日ごとに教え、神様の子どもになる力を与えてくださるのです。
「肉ではなく、霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためでした」(ローマ8:4)。水と聖霊によって新たに生まれた人は、もはや自分の力ではなく、聖霊様の導きと、そのお力に頼りながら生きることになります。その具体的な生き方の原理と方法は次回に紹介します。               -

韓国サイン-ズ10月の中で記事翻訳


大阪  魏 守民
(No.623,08,10,4.大阪センター教会牧師室便りより)



主は共にいる

2008-10-01 20:06:42 | メッセージ

先日、防府教会で敬老会が行われました。その敬老会の最後に、聖書の言葉を読み、お祈りをさせていただいたのですが、今回の牧師室便りは、その時にお読みした聖書の言葉をご紹介させていただきます。ヨシュア記の言葉です。


 一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。(ヨシュア記 1:5—9)


主は、あなたと共におられます。見放されることはありません。

特別養護老人ホームで働かれている介護士の方のお話です。
『本当に困った時、お祈りをするようにしています。あるとき、非常に不安を訴える方がありました。「このまま眠ったら死んでしまうのではないか…」と思っていらっしゃるのです。肩を抱いてお祈りしましたら本当に安心して眠ってくださいました。』

不安なときも、恐れるときも、主はあなたと共におられます。だから、強く、雄々しくあることもできるのです。


山口 平賀和弘 
(No.66.08,09,27.防府教会牧師室便りより)

 

地の果てに至るまで

2008-09-22 16:17:43 | メッセージ

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)


死者の中より蘇られたイエス様は、使徒たちに現れて、エルサレムばかりでなくサマリアの全土に福音が伝えられると言われました(使徒1:8)。
ここで、心に留めておかなければならないことがあります。それは、福音を伝えるユダヤ人とサマリア人とは、仲がとても悪かったということです(ルカ10:25-37)。

では、彼らは、どのようにして敵対するサマリア人に福音を伝えられたのでしょうか。どのようにしてねたみや敵意、民族の壁を超えたのでしょうか。
それは、思いがけない仕方で起こりました。
ステファノに対する迫害をきっかけにして、教会は大迫害を経験します。そして、迫害を受けた人々が散って行ってサマリアの町に福音が告げ知らされたのです(使徒8:4)。その一人が、フィリポでした(使徒8:5)。

聖書は、福音が、迫害の中で、迫害によって民族の壁を超え、世界に広がっていったと記しています。世界宣教の第一歩は、よく練られた人間の計画によるものではありませんでした。思いがけない神様の仕方で福音は告げ知らされたのです。
フィリポの働きには、めざましいものがありました。彼は、不思議な業としるしを行います。当時、もはや生きていると呼ばれるに値しない、死んだも同然な人々を癒しました(使徒8:6—7)。それは、まさに神様の支配を示すものでした。
そして、サマリアの人々は、その神様の支配を、大変喜んだのです(使徒8:8)。


山口  平賀和弘
(No.65.08,09,20.防府教会牧師室便りより)

 

鈴木陽子さんの告別式

2008-09-15 17:30:17 | メッセージ

鈴木陽子さんの告別式が9月8日(月)に、ありました。ご遺族の希望で、ご兄弟とごく親しい友人たちだけで、お別れの式がなされました。 

前日の前夜式では、マタイ25:31~40までを朗読させていただきました。
聖句の内容はこうです。
イエス様がもう一度この世界に来られた時、天国を継ぐ人々にイエス様はお語りになります。
「お前たちは、わたしが飢え渇いていた時に満たしてくれました。苦しんでいる時に訪れてくれました。悲しんでいる時に慰めてくれました」。
すると、天国を受け継ぐ人々は言います。
「私たちがいつ、あなた様を満たし、訪れ、慰めたでしょうか?」
そこで、イエス様はおっしゃいます。
「あなたのまわりにいた助けを必要としている人々にしたことは、私にしたことなのです!」

E・G・ホワイトはこの場面について、次のような説明を加えています。
 「異教徒の中にさえ、親切心のある人たちがいる。いのちのみことばを聞かないうちから、彼らは宣教師たちと親しくなり、自分自身の生命の危険をおかしてまで宣教師たちに奉仕した。異教徒の中には、知らないで真の神を礼拝している人たち、すなわち人を通して光を与えられたことのない人たちがいるが、それでも彼らは滅びないのである。彼らは書かれた神の律法については無知であるが、自然を通して語りかける神のみ声を聞き、律法に要求されていることを実行した。彼らのわざは聖霊が彼らの心に触れた証拠であって、彼らは神の子らとして認められる」(『各時代の希望』下107-108)。

なくなられた鈴木陽子姉妹が信仰告白をされたのは数週間前のことですが、生前の陽子さんのお人柄を知る方々は、口をそろえておっしゃいます。
「陽子さんは常に、しかも自然に、笑顔を通して、周囲を思いやる心を通して、たくさんの人々に幸せを与えておられました。ご自分の命を分け与えて生きておられたような人でした」。

陽子さんは、そのご生涯で、ご自分の生活を通して語りかける神のみ声を聞き、神様の願うことを実行されていたのだと思われます。それは御霊のお働きを陽子さんが受け止めておられた証拠であって、陽子さんは既に神の子として認められていたのかもしれません。

前夜式、告別式と、陽子さんとの思いでの話しをお聞きしながら、私はあの有名なアッシジの聖フランチェスコによる「平和を求める祈り」を思い出しました。
 幾度かご紹介しましたが、もう一度ご紹介させていただきます。

「平和を求める祈り」
アッシジの聖フランチェスコ

主よ、私をあなたの平和の道具としてください。憎しみのあるところに、愛の種をまき
不和のあるところに、調和を 
侮辱のあるところに、赦しを
誤りのあるところに、真実を  
疑いのあるところに、信仰を
絶望のあるところに、光を  
悲しみのあるところに、喜びを
育てる者としてください。  
聖なる主よ、どうか私が
慰められるよりも、慰めることを  
理解されるよりも、理解することを
愛されるよりも、愛することを求めますように。 
なぜなら私たちは、
自分に死ぬことにおいて、いのちを与えあれ
自分を忘れることにおいて、自己を発見し 
赦すことにおいて、赦され
自ら明け渡すことにおいて、
永遠のいのちへと導かれるからです。


大阪  藤田昌孝
(No.620,08,9,13.大阪センター教会牧師室便りより)


恵みの賜物

2008-09-08 20:25:01 | メッセージ

実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマ 5:6〜8)


「私は、誰も傷つけたことがありません」と言える人は、ひとりもいないのではないでしょうか。
人間誰しもが、人を傷つけてしまったり、不快な思いを与えてしまったり、迷惑をかけてしまうことがあります。

そのことに気づいて謝ることができればいいのですが、あやまる機会を逃してしまい、今も気になっている人が、誰しもひとりは、いるのではないでしょうか。
また、今まで気づかずに、どれだけ多くの人の重荷となってきたかと思います。

ですから、時にはふと立ち止まって、自分が不信心な者、生涯かけても償いきれない負い目を持った人間であることを知るべきです。
そうしなければ、神様の愛を知ることもできませんし、人が人として成長することもないからです。

イエス様は、不信心な者、罪人のために自らの命をささげられ、神様の愛を示してくださいました(ローマ5:8)。反省したとか、謝ったとか、何かしたからではありません。罪人であるにもかかわらず、命を与えてくださったのです。
愛されていることを知って、人は、はじめて成長することができます。神様の愛が、私たちを愛する者へと変えてくださいます(Ⅰヨハネ4:19,ルカ7:4)。


山口  平賀和弘
(No.63.08,09,06.防府教会牧師室便りより)



平和であるとき経験する殉教信仰

2008-09-06 06:50:37 | メッセージ

「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。」マタイ5:10


最近、聖書の勉強をしながら各時代の大争闘を読んでいます。そこで残りの民が各時代に渡って忍耐強く彼らの信仰を守る姿を見ながら私も熱くなりました。何も頼ることがないとき神様の御言葉とイエス•キリストの証が彼らの全てでした。
下の記事は韓国のサインズ(08年9月)に、ホン理事長が書いた内容です。私も殉教信仰の先輩たちのようにイエス様に対する篤い信仰者になりたいと願いつつ、この記事をご紹介いたします。


殉教は教会の種
キリスト教の歴史は一言で表すならば、殉教と犠牲を払った血の歴史だと言えます。イエス様が十字架上で私たちのために流された血をはじめとして、パトモス島に追放された使徒ヨハネを除いては、全ての弟子たちが血を流しながら殉教の道を歩みました。そして、続くローマ帝国時代には大勢のクリスチャンが円形劇場で獅子の餌食となりました。血の行列は初代教会だけにとどまらず、教父時代、中世そして宗教改革時代を通して今までも世のあちらこちらで続けられています。このように大勢の殉教者たちの血の上に立てられたのが、すなわち現在、神様の教会であります。そういうわけで、殉教は教会の種と言えるのです。

殉教者が叫ぶ信仰精神
殉教者たちが死を通して叫ぶ真の信仰の精神はどのようなものでしょうか。

一番目、命をおしまず神様の御言葉、すなわち、祝福を証しをすることです。殉教者の英単語はMARTYRですが、この言葉は「証し-覚えていることを証言する者、自分が聞いて見たことを確証する者」と言う意味のギリシャ語ARUTURIAから来ました。新約聖書では主にイエスが救い主であることを証しする使徒たちを呼ぶときに使われました。使徒たちは主を証しするためなら、いかなる凌辱や迫害をも少しも恐れませんでした。イエス様を証しすることは、すなわち殉教を意味することでした。そういうわけで、この時から殉教者と言う意味は、イエス・キリストの証しする者となるため命さえ惜しまなかった人々を表す言葉となりました。

二番目、それは、神様に対する最高の愛、最高の信仰、最高の忠誠がどういったものかを教えてくれます。命より大切なものはありません。ところが、人が神様のみ旨に従うため、生きるか死ぬかの分かれ道に立っているとき、たった一つの命をあきらめ死の道を選ぶということは神様に対する最高の信仰であり、愛であり、忠誠の証拠です。唯一、神様に向けた至高の愛と恥一つない純潔な信仰を持ったものだけが本当の殉教をかなえられるのです。信仰の最高峰は殉教だと言えます。

三つ目、現世を超えて復活の希望の約束をしっかり握る精神です。復活に対する確実な信仰だけが殉教という貴重な選択ができるのです。
「すべての時代にわたって、サタンは神の民を迫害してきた。サタンは彼らを拷問にかけ、死に至らせた。しかし彼らは、死ぬことによって勝利者となった。彼らは、その不屈の信仰によって、サタンよりも強いお方をあらわした。サタンは彼らを責め、肉体を殺すことはできた。しかし、キリストとともに神のうちにかくれている命に触れることはできなかった。サタンは牢獄の中に幽閉することはできたが、その魂をしばることはできなかった。彼らは『わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない(ローマ8:18)』。『このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである』と叫びながら、暗黒のかなたに栄光を見ることができた(2コリント4:17」(『祝福の山』(希望への光)1136ページ)。

殉教者たちは苦難から逃れ、安全を選んだのではなく、神様から与えられる栄光のために死を選んだからこそ勝利者になったのです。

平和のときに経験する殉教信仰
事実上迫害があるときだけ殉教の信仰が必要なわけではありません。今日のような平安なときも殉教の信仰を持つ、そうすると正しい信仰生活ができます。罪と妥協しなければならないとき、神様のみ言葉に従うことはなかなか難しいのです。しかし、神様のみ言葉に全て従うため、不義と妥協するより死を選ぶという精神で生きるなら、これからやってくるどのような艱難や迫害の中でも神様に対する最高の愛と忠誠の表現である殉教の道を歩むことができるのです。
また、殉教的な信仰のためには、殉教の本当の意味である福音を証しする「証人」としての使命を果たすべきです。平和なときに「証人」としての使命を果たす者だけが、迫害の中で福音を証し、殉教することができるのです。
また殉教的な信仰のためには日々我欲を十字架につけ、現世の誘惑に負けず、再臨の希望と復活の約束に固く立つ信仰をはぐくんでいくべきです。暗闇のかなたにある栄光をしっかり見つめる者だけが死から勝利する殉教の信仰を持つことができるからです。


愛する皆様!!毎日毎日私たちの信仰生活を通して神様のみ旨に従い、自分の欲を殺し、殉教生活を経験しましょう。殉教の経験を通してわたしたちと共におられる神様の力を経験しましょう。日々十字架の上で自分自身を殺す経験をする者が永遠なる勝利者になれることを記憶しましょう。

「主イエス•キリストの惠み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」 2コリント13:13。



大阪  魏 守民
(No.619,8,9,06.大阪センター教会牧師室便りより)


律法主義からの解放

2008-09-04 20:27:13 | メッセージ
しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。(ローマ 7:6)


あなたの行動の原則は何でしょうか?「ねばならない」という義務感でしょうか。それとも「したい」という自分の心の願望でしょうか。
神様は、「ねばならない」という生き方から、喜んで「したい」という新しい生き方を私たちに与えてくださいました。聖霊の神様に従うことの幸いを考えさせるひとつの詩をご紹介いたします。


だれの声ですか

あなたをそこまで追いつめるのは、
だれの声ですか?
「しっかりしなさい」「きちんとしなさい」
「勉強しなさい」「学校へ行きなさい」
「もっと仕事をしなさい」
追い立てているのは、いったいだれの声ですか。
おとうさんですか。おかあさんですか。
学校の先生ですか。職場の上司ですか。
友達がなにげなく言った一言ですか。
それとも、心の中のもうひとりのあなたですか。

でも、もういいでしょう。
その声の主が、だれであっても。
もう、その声に従わなくてもいいでしょう。
あなたはその声にずっと従ってきました。
そして、十分苦しんだはずです、
そろそろあなたをその声から解放してはどうですか。
あなたがあなた自身の人生を生きるために。
       (木村藍著『傷つきやすいあなたへ』文芸社)


山口  平賀和弘
(No.62 08,08,30.防府教会牧師室便りより)