みなさま
今年の新語・流行語大賞が発表されました。その中に「無縁社会」という言葉も選ばれていました。これはNHKのドキュメンタリーが元になって、いろいろな人が使うようになったと言われています。
福祉の世界にいると、無縁社会という言葉が、現代を表すのに最適な言葉だと痛切に感じます。人は様々な縁(かかわり)をもって支え合っています。それが様々な事情で薄れたり無くなってしまったり、中には自ら途絶してしまう方もいたでしょう。けれども高齢になり自分で自分のことができなくなった時に、支 えるものが無くなってしまう方が多くおいでになります。
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:10)とキリストは自らの使命を述べられています。これは、わたしたちにも同じことは言えるのではないでしょうか。救い、それはまずは縁を失った方々に、少しでも寄り添うことではないでしょうか。クリスマス、そのような祈りをして行きたいものです。
第11課 ザレプタのやもめ----信仰の飛躍 12月11日
暗唱聖句「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」フィリピ1:6
今週の聖句 列王記上17章、ヨブ記38章、42:5,6、ルカ4:24~28、ヘブライ11:1、黙示録1:17、
今週の研究:今週は、神を選び、一歩一歩信仰の道を歩むことになる無名のやもめの生涯において展開される神とサタンとの間の大争闘に目を向けます。
日曜日:今週の物語は、神が偉大な預言者エリヤにザレプタに行けと命じられるところから始まりますが、この命令が与えられた背景を知っておく必要があります。
イスラエル王国は偶像礼拝に陥りバアル礼拝もイゼベルによってイスラエルに導入されました。神は御自分の預言者エリヤを通して、露も降りず、雨も降らないと宣言することによって、異教の神バアルに劇的に「挑戦」されます。
ザレプタは地中海沿岸の、ティルスとシドンの間にありました。それは、あの恐ろしい女王イゼベルの出身地フェニキア地方にありました。バアル礼拝の地ザレプタにあっても、神の導きに従う一人の寡婦に神は御自分の臨在と力を現されるのでした。
重要なことは、神が預言者エリヤの必要を満たすと同時に、遠く離れたザレプタに住む一人の婦人を救おうとされたことです。
エリヤは、飢饉によってイスラエルの王を悔い改めに導こうとする神の計画に賛同し協力し、不平を言わずに飢饉の苦しみに耐えました。
火曜日:この物語全体を通して、預言者は女の前に神の代表者としての役割を果たしていることを覚えてください。彼女の最後のパンを要求することによって、預言者は彼女の信仰の飛躍をし、思い切って信じてみるように、そしてすべての持ち物を彼にささげるように招いています。
ある意味で、これこそが本来の信仰ではないでしょうか。(ヘブライ11:1参照) なぜなら、見ることのできない神に、また完全に理解できない約束に信頼することですから。神は彼女と交流し、彼女も信仰をもって応答し、命じられた通りに実行しています。
木曜日:彼にも、主が少年を生き返らせてくださるという確信がかなったようです。少年の死を神のせいにしているからです。このことからわかるのは、預言者でさえ、次に何が起こるのかを理解できない場合があるということです。(マタイ11:1~3)
明らかに、かなりの期間、やもめもエリヤも奇跡----小麦粉も油もなくならない----を目の当たりにしながら生活していたので、もっと強い信仰を持っていてもよさそうなものです。それにもかかわらず、このような劇的な出来事をみていながら、彼らの信仰が試されているのです。
奇跡は信仰を築くうえで一定の役割を持つかもしれませんが、それを信仰の中心としてはなりません。奇跡は何か特別な呪文を唱えたり、預言者が少年を温めたりすることによって起こるのではありません。聖書から明らかなように、少年の命を元にお返しになるのは神です。
この出来事が婦人の信仰に驚くべき影響を与えたことはもちろんですが、それがエリヤの信仰を助ける結果になったことも確かです。
やもめの応答は信仰の表明をもって終わります。彼女は今、イスラエルの神が命を支え命を与えることがおできになることを知ります。
今期の学びは旧約聖書の脇役たちについてですが、今週の学びのザレプタのやもめの話しは、この中では比較的有名な話しではないでしょうか。
今週の学びで考えさせられたことは2点あります。まずは彼女はエリヤが突然訪れて来てから、毎日の食事が奇跡的に与えられるという奇跡を目の当たりにしていました。そしてしばらくして息子の死に直面しました。
なぜこれだけの奇跡に毎日接していながら、神さまの預言者の力にすがらなかったのかという疑問がわきます。
けれども彼女にとって、死は大きな現実でした。最愛の息子が死んだという事実の前に、それまでの不思議なできごとを通して表された神さまの力のことを忘れてしまうくらいの大きさだったのです。
もしわたしが彼女の立場だったらどうしていたでしょうか。おそらく同じように悲しみ、そうして預言者に文句を言っていたことでしょう。それだけ人間は悲惨な現実を前にして、そこから神さまの恵みを見出すことができなくなってしまいます。その中にある神さまの慈愛に気づくまで時間がかかってしまうのです。
もしみなさまの中で、愛する人との別れを経験されて、その悲しみからいつまでも立ち直れずにいらしたら、それは信仰が足りかなったり弱かったりするのではありません。人間として当然のことなのです。それだけ大きな痛み苦しみに遭遇した時に、神さまの約束を知っていても、それ以上に現実の苦しみが大きく見え てしまうのでしょう。
神さまは、そのようなわたしたちの弱さを認めて、いろいろな方法で、時には必要な時間を与えて立ち直らせてくださいます。
もう一点は、神さまの選びは、時として弱いものを選ばれるのです。それは神さまの栄光がはっきりと現れるためです。
わたしたちも神さまに選んでいただいたからこそ、真の教会に集うことができました。この真の教会に所属させていただいたことをだけをみて、わたしたちはそのことで安堵したり、また誇ってはいないでしょうか。
それは大きなまちがいです。わたしたちを通して光が照らされなければならないのです。塩の効き目がなくなったら、吐き出すを神さまはおっしゃっています。
選ばれたのではなく、選んでいただいたのです。この特権を忘れないで、神さまのすばらしさを伝えることができる器になりたいですね。そのためには、まずわたしたちがみことばからの光を受けて、謙遜で忠実な日常生活を歩むことではないでしょうか。
東京 安河内 アキラ
今年の新語・流行語大賞が発表されました。その中に「無縁社会」という言葉も選ばれていました。これはNHKのドキュメンタリーが元になって、いろいろな人が使うようになったと言われています。
福祉の世界にいると、無縁社会という言葉が、現代を表すのに最適な言葉だと痛切に感じます。人は様々な縁(かかわり)をもって支え合っています。それが様々な事情で薄れたり無くなってしまったり、中には自ら途絶してしまう方もいたでしょう。けれども高齢になり自分で自分のことができなくなった時に、支 えるものが無くなってしまう方が多くおいでになります。
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:10)とキリストは自らの使命を述べられています。これは、わたしたちにも同じことは言えるのではないでしょうか。救い、それはまずは縁を失った方々に、少しでも寄り添うことではないでしょうか。クリスマス、そのような祈りをして行きたいものです。
第11課 ザレプタのやもめ----信仰の飛躍 12月11日
暗唱聖句「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」フィリピ1:6
今週の聖句 列王記上17章、ヨブ記38章、42:5,6、ルカ4:24~28、ヘブライ11:1、黙示録1:17、
今週の研究:今週は、神を選び、一歩一歩信仰の道を歩むことになる無名のやもめの生涯において展開される神とサタンとの間の大争闘に目を向けます。
日曜日:今週の物語は、神が偉大な預言者エリヤにザレプタに行けと命じられるところから始まりますが、この命令が与えられた背景を知っておく必要があります。
イスラエル王国は偶像礼拝に陥りバアル礼拝もイゼベルによってイスラエルに導入されました。神は御自分の預言者エリヤを通して、露も降りず、雨も降らないと宣言することによって、異教の神バアルに劇的に「挑戦」されます。
ザレプタは地中海沿岸の、ティルスとシドンの間にありました。それは、あの恐ろしい女王イゼベルの出身地フェニキア地方にありました。バアル礼拝の地ザレプタにあっても、神の導きに従う一人の寡婦に神は御自分の臨在と力を現されるのでした。
重要なことは、神が預言者エリヤの必要を満たすと同時に、遠く離れたザレプタに住む一人の婦人を救おうとされたことです。
エリヤは、飢饉によってイスラエルの王を悔い改めに導こうとする神の計画に賛同し協力し、不平を言わずに飢饉の苦しみに耐えました。
火曜日:この物語全体を通して、預言者は女の前に神の代表者としての役割を果たしていることを覚えてください。彼女の最後のパンを要求することによって、預言者は彼女の信仰の飛躍をし、思い切って信じてみるように、そしてすべての持ち物を彼にささげるように招いています。
ある意味で、これこそが本来の信仰ではないでしょうか。(ヘブライ11:1参照) なぜなら、見ることのできない神に、また完全に理解できない約束に信頼することですから。神は彼女と交流し、彼女も信仰をもって応答し、命じられた通りに実行しています。
木曜日:彼にも、主が少年を生き返らせてくださるという確信がかなったようです。少年の死を神のせいにしているからです。このことからわかるのは、預言者でさえ、次に何が起こるのかを理解できない場合があるということです。(マタイ11:1~3)
明らかに、かなりの期間、やもめもエリヤも奇跡----小麦粉も油もなくならない----を目の当たりにしながら生活していたので、もっと強い信仰を持っていてもよさそうなものです。それにもかかわらず、このような劇的な出来事をみていながら、彼らの信仰が試されているのです。
奇跡は信仰を築くうえで一定の役割を持つかもしれませんが、それを信仰の中心としてはなりません。奇跡は何か特別な呪文を唱えたり、預言者が少年を温めたりすることによって起こるのではありません。聖書から明らかなように、少年の命を元にお返しになるのは神です。
この出来事が婦人の信仰に驚くべき影響を与えたことはもちろんですが、それがエリヤの信仰を助ける結果になったことも確かです。
やもめの応答は信仰の表明をもって終わります。彼女は今、イスラエルの神が命を支え命を与えることがおできになることを知ります。
今期の学びは旧約聖書の脇役たちについてですが、今週の学びのザレプタのやもめの話しは、この中では比較的有名な話しではないでしょうか。
今週の学びで考えさせられたことは2点あります。まずは彼女はエリヤが突然訪れて来てから、毎日の食事が奇跡的に与えられるという奇跡を目の当たりにしていました。そしてしばらくして息子の死に直面しました。
なぜこれだけの奇跡に毎日接していながら、神さまの預言者の力にすがらなかったのかという疑問がわきます。
けれども彼女にとって、死は大きな現実でした。最愛の息子が死んだという事実の前に、それまでの不思議なできごとを通して表された神さまの力のことを忘れてしまうくらいの大きさだったのです。
もしわたしが彼女の立場だったらどうしていたでしょうか。おそらく同じように悲しみ、そうして預言者に文句を言っていたことでしょう。それだけ人間は悲惨な現実を前にして、そこから神さまの恵みを見出すことができなくなってしまいます。その中にある神さまの慈愛に気づくまで時間がかかってしまうのです。
もしみなさまの中で、愛する人との別れを経験されて、その悲しみからいつまでも立ち直れずにいらしたら、それは信仰が足りかなったり弱かったりするのではありません。人間として当然のことなのです。それだけ大きな痛み苦しみに遭遇した時に、神さまの約束を知っていても、それ以上に現実の苦しみが大きく見え てしまうのでしょう。
神さまは、そのようなわたしたちの弱さを認めて、いろいろな方法で、時には必要な時間を与えて立ち直らせてくださいます。
もう一点は、神さまの選びは、時として弱いものを選ばれるのです。それは神さまの栄光がはっきりと現れるためです。
わたしたちも神さまに選んでいただいたからこそ、真の教会に集うことができました。この真の教会に所属させていただいたことをだけをみて、わたしたちはそのことで安堵したり、また誇ってはいないでしょうか。
それは大きなまちがいです。わたしたちを通して光が照らされなければならないのです。塩の効き目がなくなったら、吐き出すを神さまはおっしゃっています。
選ばれたのではなく、選んでいただいたのです。この特権を忘れないで、神さまのすばらしさを伝えることができる器になりたいですね。そのためには、まずわたしたちがみことばからの光を受けて、謙遜で忠実な日常生活を歩むことではないでしょうか。
東京 安河内 アキラ