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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

安息日学校教課  2010 年 第4期11課

2010-12-10 22:50:06 | ディボーション
みなさま

 今年の新語・流行語大賞が発表されました。その中に「無縁社会」という言葉も選ばれていました。これはNHKのドキュメンタリーが元になって、いろいろな人が使うようになったと言われています。
 福祉の世界にいると、無縁社会という言葉が、現代を表すのに最適な言葉だと痛切に感じます。人は様々な縁(かかわり)をもって支え合っています。それが様々な事情で薄れたり無くなってしまったり、中には自ら途絶してしまう方もいたでしょう。けれども高齢になり自分で自分のことができなくなった時に、支 えるものが無くなってしまう方が多くおいでになります。
 「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:10)とキリストは自らの使命を述べられています。これは、わたしたちにも同じことは言えるのではないでしょうか。救い、それはまずは縁を失った方々に、少しでも寄り添うことではないでしょうか。クリスマス、そのような祈りをして行きたいものです。


第11課  ザレプタのやもめ----信仰の飛躍  12月11日


暗唱聖句「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」フィリピ1:6

今週の聖句 列王記上17章、ヨブ記38章、42:5,6、ルカ4:24~28、ヘブライ11:1、黙示録1:17、

今週の研究:今週は、神を選び、一歩一歩信仰の道を歩むことになる無名のやもめの生涯において展開される神とサタンとの間の大争闘に目を向けます。

日曜日:今週の物語は、神が偉大な預言者エリヤにザレプタに行けと命じられるところから始まりますが、この命令が与えられた背景を知っておく必要があります。
 イスラエル王国は偶像礼拝に陥りバアル礼拝もイゼベルによってイスラエルに導入されました。神は御自分の預言者エリヤを通して、露も降りず、雨も降らないと宣言することによって、異教の神バアルに劇的に「挑戦」されます。
 ザレプタは地中海沿岸の、ティルスとシドンの間にありました。それは、あの恐ろしい女王イゼベルの出身地フェニキア地方にありました。バアル礼拝の地ザレプタにあっても、神の導きに従う一人の寡婦に神は御自分の臨在と力を現されるのでした。
 重要なことは、神が預言者エリヤの必要を満たすと同時に、遠く離れたザレプタに住む一人の婦人を救おうとされたことです。
 エリヤは、飢饉によってイスラエルの王を悔い改めに導こうとする神の計画に賛同し協力し、不平を言わずに飢饉の苦しみに耐えました。

火曜日:この物語全体を通して、預言者は女の前に神の代表者としての役割を果たしていることを覚えてください。彼女の最後のパンを要求することによって、預言者は彼女の信仰の飛躍をし、思い切って信じてみるように、そしてすべての持ち物を彼にささげるように招いています。
 ある意味で、これこそが本来の信仰ではないでしょうか。(ヘブライ11:1参照) なぜなら、見ることのできない神に、また完全に理解できない約束に信頼することですから。神は彼女と交流し、彼女も信仰をもって応答し、命じられた通りに実行しています。

木曜日:彼にも、主が少年を生き返らせてくださるという確信がかなったようです。少年の死を神のせいにしているからです。このことからわかるのは、預言者でさえ、次に何が起こるのかを理解できない場合があるということです。(マタイ11:1~3)
 明らかに、かなりの期間、やもめもエリヤも奇跡----小麦粉も油もなくならない----を目の当たりにしながら生活していたので、もっと強い信仰を持っていてもよさそうなものです。それにもかかわらず、このような劇的な出来事をみていながら、彼らの信仰が試されているのです。
 奇跡は信仰を築くうえで一定の役割を持つかもしれませんが、それを信仰の中心としてはなりません。奇跡は何か特別な呪文を唱えたり、預言者が少年を温めたりすることによって起こるのではありません。聖書から明らかなように、少年の命を元にお返しになるのは神です。
 この出来事が婦人の信仰に驚くべき影響を与えたことはもちろんですが、それがエリヤの信仰を助ける結果になったことも確かです。
 やもめの応答は信仰の表明をもって終わります。彼女は今、イスラエルの神が命を支え命を与えることがおできになることを知ります。


 今期の学びは旧約聖書の脇役たちについてですが、今週の学びのザレプタのやもめの話しは、この中では比較的有名な話しではないでしょうか。

 今週の学びで考えさせられたことは2点あります。まずは彼女はエリヤが突然訪れて来てから、毎日の食事が奇跡的に与えられるという奇跡を目の当たりにしていました。そしてしばらくして息子の死に直面しました。
 なぜこれだけの奇跡に毎日接していながら、神さまの預言者の力にすがらなかったのかという疑問がわきます。
 けれども彼女にとって、死は大きな現実でした。最愛の息子が死んだという事実の前に、それまでの不思議なできごとを通して表された神さまの力のことを忘れてしまうくらいの大きさだったのです。
 もしわたしが彼女の立場だったらどうしていたでしょうか。おそらく同じように悲しみ、そうして預言者に文句を言っていたことでしょう。それだけ人間は悲惨な現実を前にして、そこから神さまの恵みを見出すことができなくなってしまいます。その中にある神さまの慈愛に気づくまで時間がかかってしまうのです。
 もしみなさまの中で、愛する人との別れを経験されて、その悲しみからいつまでも立ち直れずにいらしたら、それは信仰が足りかなったり弱かったりするのではありません。人間として当然のことなのです。それだけ大きな痛み苦しみに遭遇した時に、神さまの約束を知っていても、それ以上に現実の苦しみが大きく見え てしまうのでしょう。
 神さまは、そのようなわたしたちの弱さを認めて、いろいろな方法で、時には必要な時間を与えて立ち直らせてくださいます。

 もう一点は、神さまの選びは、時として弱いものを選ばれるのです。それは神さまの栄光がはっきりと現れるためです。
 わたしたちも神さまに選んでいただいたからこそ、真の教会に集うことができました。この真の教会に所属させていただいたことをだけをみて、わたしたちはそのことで安堵したり、また誇ってはいないでしょうか。
 それは大きなまちがいです。わたしたちを通して光が照らされなければならないのです。塩の効き目がなくなったら、吐き出すを神さまはおっしゃっています。
 選ばれたのではなく、選んでいただいたのです。この特権を忘れないで、神さまのすばらしさを伝えることができる器になりたいですね。そのためには、まずわたしたちがみことばからの光を受けて、謙遜で忠実な日常生活を歩むことではないでしょうか。

東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第4期5課

2010-10-29 21:07:55 | ディボーション
みなさま

 今月は北浦三育中学校と広島三育学院高校・中学校へ、福祉の働きを紹介するために学校訪問に出向きました。
 それぞれの学校で元気良く明るい生徒のみなさまと接することができました。そして何よりも24時間のすべてをささげて奮闘されている先生方のお働きを見て、これからの人材を育てている姿に感銘を受けました。
 わたしたちのできることは祈ること、さまざまな形での援助をすること、そして学校を信じて生徒に声をかけて送り出すことではないでしょうか。


第5課  アビガイル----状況に左右されない  10月30日

暗唱聖句「聡明な心では知恵を憩っているが 愚か者の中では自らを示す」箴言14:33


今週の聖句 サムエル記上25章、イザヤ書28:23、53:12、ダニエル9:15~19、マタイ15:10、ローマ8:34

今週の研究:あなたはこれまで、自分が状況の犠牲者であると感じたことがありませんか。もしそうなら、今週は、アビガイルの品性について考えてください。
 アビガイルは現実から逃避しようとしていません。彼女は自分の置かれた状況について現実的な見方をしていましたが(サムエル上25:25)、状況によって滅ぼされることがありませんでした。彼女は自分の置かれたところで成長しようとしています。


日曜日:ダビデの部下たちはサウルの手を逃れようとしていました。パランの荒れ野にいたとき、彼らは裕福な地主ナバルの羊と牧童たちに出会います。ダビデと部下たちは羊を奪うことなく、かえって羊と牧童たちを守ってやります。
 やがて羊の毛を刈り時期が来て、お祝いの雰囲気がみなぎっていました。それは感謝をささげ、贈り物をおくる時期でした。ダビデはそのことを知っていたので、10人の部下を遣わして、彼の好意にあずかろうとしました。
 ナバルは呼び名の通りの人間でした。彼はあしざまにダビデの部下を逃亡奴隷呼ばわりをし、何も持たせないで追い返します。それは、ダビデなど眼中にないと言った態度でした。

月曜日:従者の報告を聞くと、アビガイルは直ちに用意を始めます。サムエル記上25:18,19には彼女が用意した食物の種類が書かれています。これらの食物は贅沢なもので、たぶんダビデの10人の部下が期待していたもの以上だったのでしょう。
 私たちは怒りのうちに反応するとき、正しく応答することが非常に困難に成ります。たいていの場合、過剰反応となります。
 彼女はろばに乗り、ダビデに会いに行きます。彼女は揺るがぬ自立心をもって、命をかけて家族を守ろうとしています。
 私たちは言葉の正当性を表すか、否定するかは私たちの行動次第です。アビガイル、ダビデ、ナバルの行動は彼らが何を考えていたか、彼らがどんな精神に基づいて行動したかを雄弁に語っています。

火曜日:執り成しには、一つの共通した特徴があります。取り成す人は、それによってどのような苦境に立たされようとも、執り成される人と一心同体にならねばなりません。彼はすすんで自分の利益を度外視し、相手の最善だけを求めなければなりません。
 私たちは自分では祈れない、あるいは祈ろうとしない人のために祈ります。自分自身の欠乏や必要、願望をわきに置いて、これらの人のために祈らなければなりません。神が私たちに抱いておられる計り知れない同情を理解するのは、人のために祈ることによってです。私たちは自分を呪う者たちを祝福し、自分で虐待す る者たちのために祈ることを学ばなければなりません。(ルカ6:28)

木曜日:アビガイルの生涯は、ダビデと結婚した後でさえ、決しておとぎ話のように幸福なものではありませんでした。
 この聡明で美しい女性はいつまでもダビデ王のそばにいて、重要な役割を果たしたいに違いないと私たちは考えるかもしれませんが、あるのはただ沈黙だけです。
 イエスに従う私たちにとっても、人生は必ずしもおとぎ話しのように幸福なものとは限りません。神はすべてをお見通しですが、人生の有為転変はしばしば人間の理解を超えたものです。私たちに必要なことは神の慈愛に信頼することです。


 アビガイルのことを知ったのは、牧師になってから聖書の女性に関する本を読んだときでした。こんなすごい女性がいたんだと感動しました。
 
 彼女のすごさは、問題の本質を見抜くことと、すばやい決断ではないでしょうか。問題の本質がわかっるからこそ、そのための対応がすぐに取れるとも言えるでしょう。
 そして家来たちも常日頃から彼女の聡明で的確な判断を知っていたからこそ、このような問題が起こったときに、そのことを彼女に伝えたのでしょうね。
 彼女は家族や家来たちを守るために、すぐに行動を起こします。このような迅速で正しい決断ができるような人間になりたいものです。

 この物語から考えたいことをもう一つあげましょう。わたしたちは後年、王になるダビデを知っていますが、このときのダビデは浪人、お尋ね者でした。油は注がれていましたが、それが公になっているわけでありません。
 きっと主人のナバルは、そのようなにしかダビデを見ていなかったからこそ、彼に対して敬意を払わなかったのでしょう。
 しかしどんな人も、人間としての誇りを持っています。ダビデが王にならなかったとしても用心棒としてナバルは彼から恩恵を受けていたはずです。どんなに小さなことでもお世話になったことは覚えて感謝をする、相手が小さなものであってもその存在を認めて尊重することは、とても大切なことです。ナバルの失敗は 、小さなものを大切にすることを忘れていたことでした。
 「貧しい人とりっぱな地位があったり服装の人を差別するな」と聖書は教えています。(ヤコブ2:1~13)
 どんな小さな人であっても、相手の思いに配慮して尊重すること、これは神さまが「隣人を愛するように」と命じていることを実践することなのです。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第4期3課

2010-10-15 20:20:02 | ディボーション

みなさま

 世界中が注目し、祈りつつ待った歓喜の時がやってきましたね。チリでの落盤事故から救出されたみなさんの笑顔を見ながら、死から生への喜びを感じました。
 きっとわたしたちが天国へ迎え入れていただいた時に、同じような喜びに包まれることでしょう。
 チリでの事故にあった作業員のみなさまは、地上から必要な物資を届けられていました。環境は劣悪でしたが、生命をつなぐことはできました。そこへ救援のためのカプセルがやってきたのです。それは必ずしも安全、快適という乗り物ではなかったでしょう。けれども彼らはそれに乗るしか救われる道はありませんでし た。けれどもそのカプセルを信頼したからこそ、彼らは乗ったのでしょうね。
 天国への道はただ一つしかありません。それが確かなものと信じることができる時に、わたしたちは死を恐れることよりも天国の希望が上回るようになるのではないでしょうか。
 ちなみに鉱山の名前、サンホセは、聖ヨハネという意味です。使徒ヨハネのことを指しています。


第3課  ハンナ---価値のある者であることを学ぶ   10月16日

暗唱聖句「ハンナは祈って言った。『主にあってわたしの心は喜び、主にあってわたしの角は高く上がる。わたしは敵に対して口を大きく開き、御救いを喜び祝おう。聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ』」サムエル記上2:1,2

今週の聖句 サムエル記上1章、2:1~11、ヨブ記2:12,13、マタイ6:19,20、ルカ12:16~21

今週の研究:今週は、政治的、宗教的な名誉を少しでも求めなかった女性、ハンナの生涯について学びます。神が私たちを親しく、また個人的に愛しておられることを学びます。たとえ世がそのことを否定しようとしても、私たちを価値のある者であると言ってくださる神について学びます。


日曜日:ハンナの時代にあっては、社会における女性の役割はおもに子どもを産み育てることにありました。ほかに身を立てる道はありませんでした。
 旧約聖書の中に女性の士師や預言者の例が出てきますが、これらの人たちはごく限られた人たちで、しかも神の直接的な召命によっていました。
 ハンナは子どもによってのみ自分の生涯の価値を見いだし、遺産を残すことができるのでした。彼女にとって、子がないことは、すなわち自分の人生に真の意味が無いことを意味しました。

火曜日:彼女の祈りは形式的な嘆願、あるいは一般的な「どうかわたしを助けてください」という祈りとは異なっていました。聖書の著者はハンナの祈りについて、「主の御前に心からの願いを注ぎだしておりました」と述べています。(サム上1:15)
 このような注ぎだされるような祈りは非常に親密な祈りです。それは、神に対して絶対的に正直であること、心の深みにある痛みや恐れを言い表すことを意味します。
 神は必ずしもすぐに私たちの祈りに堪えてくださるわけではありませんが、私たちが神の前に心を注ぎ出すとき、神がご自身の時期と方法によって私たちの祈りに耳を傾け、答えてくださると確信することができます。(詩編37:4)このことは将来における神の導きを信じる私たちに希望と確信を与えてくれます。

木曜日:子を神にささげた後、彼女はさらに5人の子をもうけました。ささげられたサムエルは神に用いられる人物となりました。彼は後に神の特別な代弁者、最も偉大なイスラエルの教育者また指導者の1人となりました。
 神は私たちのささげものを受け取り、それを増し加え、だれも予想しないような全く新しい次元をそれに加えてくださいます。
 ハンナはかけがえのない宝を神にささげた後、それが神の御心にそうことであることを学びました。私たちがこの世で自分のためにため込むものはすべて、有効には用いられません。
 ハンナは自分が神の前にどのような存在であるか知りました。自分自身の価値を悟ったとき、彼女は自発的に与えることができました。


 わたしたちは聖書の物語の結末を知っています。それを知った上で何かをするのが信仰ではありません。
 ハンナがサムエルをささげた後に五名のこどもに恵まれると知っていて、彼をささげたのではありません。ようやく与えられたサムエルを神さまにささげたのです。

 今週の学びをしながらアナニヤとサフィラの物語を思い出しました。(使徒5章)彼らは自分たちの土地を売って教会にささげるはずでした。きっと教会の働きのためにと決意したのでしょうが、実際に代金を見た時に誘惑に負けてしまいました。」
 ペトロは「売らないでおけば、あなたのものだったのに」と語っています。彼らはささげる義務はありませんでした。けれども自発的にささげようとしたのですが、その約束を果たしませんでした。

 ハンナもサムエルをささげる義務はありませんでした。そして彼が成長して行くと、きっと彼に対する愛情が深まり、きっと手放すことが辛くなったはずです。
 また聖書を見るかぎりでは、サムエルがエリのところへ向かった時に、次のこどもが与えられたとは書かれていません。けれども彼女は約束を果たしたのでした。
 それは神さまへの信頼と愛情の現れです。神さまはそのような彼女を祝福しないわけがありませんよね。
 わたしたちはクリスチャンだから義務を果たすのではなく、神さまを愛しているからこそ、みことばに従うのではないでしょうか。
 ハンナの記録が聖書に残されているのは、彼女がサムエルという偉大な預言者の母親だったというだけでなく、その信仰を神さまがご覧になり祝福してくださった記録でもあります。

東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第4期1課

2010-09-29 17:57:00 | ディボーション

みなさま

 ここ数日、日本と中国の間の問題のニュースが報じられています。中国の横暴さと日本政府の弱腰に、怒りと情けなさを感じているのは、きっとわたしだけではないでしょう。 
 もし日中両国で、原理原則だけを主張し続けたら、平行線で終わるだけでなく、最後は戦火を交えるようになるかもしれません。
 そのような時に、ふと心によぎったのが「右の頬をたたかれたら左も出しなさい」「敵を愛せ」(マタイ5:39、44)というみ言葉です。あのローマ帝国の属国だったユダヤで、この教えをされたキリストを通して示される神さまの愛の深さを思います。すばらしい理想ですが、いざ実践しようとすると、これほど難 しいことはないと実感させられた一週間でした。


第1課  物語と歴史   10月2日

暗唱聖句「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」テモテ第二3:16,17

今週の聖句 創世記39:6~12、ヨシュア記3:9~17、サムエル記上24:1~6、列王記上12:1~16、ヨブ記1:1~12

今週の研究:聖書は伝説や「巧みな作り話」ではなく(ペトロ第二1:16)むしろ神についての、また神と堕落した人類との交流についての真理を刑事している歴史的、個人的な物語です。これらの物語は、現実の問題と格闘し、行ける神と交わる生身の人間について描写しています。神はこれらの問題に答えてくださる お方です。
 どの物語にも背景があります。今週は、これから毎週学ぶ人物をより深く理解するために、それぞれの背景とその歴史的な状況について学びます。


序言:今期、焦点を当てるのは旧約聖書の脇役の人たちです。善良な人たちもいれば、そうでない人たちもいます。彼らについて、多くのことが書かれているわけではありませんが、注意深く研究するなら、これらの人物から多くの教訓を学ぶことができます。
 旧約聖書の隠れた人物に焦点を当てることによって、新たな視点から聖書を読み直し、神のみ言葉から新しい真理を学ぶ喜びを発見することができます。
 また、聖書の脇役たちに目を向ける時に、自分自身の生活と比較してみる必要があります。私たちの隣人や友人、家族は私たちのあかしや聖書の教理、信条に耳を傾ける前に、私たちの個人的な物語を聞こうとします。


月曜日:背景は物語の展開を理解する助けになります。ダビデと彼の兵士たちは全く無防備なサウルと遭います。背景はダビデの公明正大な品性を強調しています。
 ヨセフの物語の背景もまた、ヨセフの遭遇した機械を描写しています。ダビデと同様、ヨセフもすぐれた品性を発揮して、この機会を悪用しません。
 しかし、背景だけが物語の重要な要素ではありません。語り手の視点にも留意する必要があります。物語は語り手の目を通して展開し、ふつうは重要な情報を提供します。しかし、そうでない場合もあります。一般の物語の場合は特にそうです。聖書の記事には視点がありますが、それが聖霊の霊感によって書かれたこと 、また啓示された真理が神の真理であることを念頭において読む必要があります。

金曜日:主が私たちを導いてくださった方法と、過去の歴史における主の教えを忘れない限り、私たちは将来に対して恐れるものは何もない。もし、主に信頼しているなら、わたしたちは今も強い民である。神の御言葉の力強い真理を扱っているからである。私たちには感謝すべき多くのことがある。


 今期の学びは旧約聖書に書かれている人物について学びます。わたしはこどものころから教会に通い、聖書物語を何度も聞かされて、その内容はしっかりと覚えていました。
 けれども神学部で学びの中で、なぜその人物が誘惑に負けたのか、このような決断をしたのかなどの背景などに気づくようになったら、聖書の学びが立体的になりました。今期の学びを通して聖書の新しい魅力に出会えると良いですね。

 巻頭にも書きましたが、聖書が教える原則はすばらしいものですが、いざそれを実生活に適用させようとすると、これはとても難しいことがわかります。けれども聖書の言葉は、良い言葉だと心に刻んだだけではまだ足りません。実生活で活かし、日ごとの決断をして行く時に、それに沿った歩みをすることによって、わ たしたちは神さまのみこことを実現することができるのではないでしょうか。
 今期の登場人物が、みことばに対してどのように生きた行ったかを学ぶことは、わたしたちの信仰生活にも有用でしょう。

 もう一点、世界を見ると主役と言われる方々が目立つことは当然のことです。けれども主役のそばには必ず脇役や、見えないところで支える人がいます。その人たちに光があたることは少ないか、ほとんどないでしょう。
 けれども彼らも同じ人間として、それぞれの役割を果たしています。表に見えていることに価値があり、見えないものに価値がないのではなく、見えないものがしっかりしているからこそ、表舞台が本来の役割を果たせるのです。
 それぞれ神さまから与えたれた働きは異なるでしょうが、わたしが何をするように神さまから召されているのか、考える学びの時としたいですね。


東京 安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第3期8課

2010-08-20 19:47:42 | ディボーション

みなさま

 今年は「猛暑」という言葉が、ぴったりの夏ですね。それでも数日前に、家の軒先を見ると太陽の高さが低くなってきているのでしょうが、陽光が部屋の中まで入ってくるようになりました。それがこの暑さを助長しているのかもしれませんね。
 聖書を見ると、イスラエルでかんばつがあったとか、ヨナが暑くて死んだほうがましだと文句を言ったりしている場面もあります。昔から自然の猛威の前には人間は無力でしたね。この暑さを通して神さまがわたしたちに何を語ろうとされているのでしょうか。

 
第8課  ローマ7章で述べられている人   8月21日

暗唱聖句「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」 ローマ7:6


今週の聖句   ローマ7章

今週の研究:ローマ7章はパウロの回心前の経験か回心後の経験であるかについては、学者の間でも意見が異なります。
 どの立場をとるにせよ、重要なことは、イエスの義が私たちを覆うこと、また私たちがイエスの義によって神の前に完全な者として立つことができるということです。あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に、「永遠の福音」を宣べ伝える私たちにとって(黙14:6)、これは理解し、経験しなければならない重要 な点です。


月曜日:そこでパウロは言います。もし「律法」によって教えられていなかったなら、自分はむさぼることが罪であることを知らなかったであろう、と。
 罪は啓示された神の御心に違反することであり、啓示された御心を知らないところには、罪の認識もありません。その啓示された御心を知るとき、人は自分が罪人であって、有罪宣告と死のもとにあることを認めるようになります。この意味において、その人は死ぬのです。
 パウロは、律法は必要なものであったが、その機能は限られていたことを明らかにしています。律法の役割は人の罪を明白にし、救いの必要を示すことであって、決して救いを得る手段を提供しているのではありませんでした。

水曜日:聖霊は、律法を鏡として用いて、人に鏡を見させ、人が神の要求に逆らい、神の怒りの対象となっていることを悟らせてくださいます。罪人はこれらの要求に従おうと望み、律法が善い鏡であり、自分の罪を見せてくれるものであることを認めます。

木曜日:「心の法則」は神の律法、神の御心の啓示です。聖霊の導きの下で、パウロはこの律法に同意しました。彼の心はそれを守りたいと望みましたが、守ることができませんでした。なぜなら、彼の体が罪を犯そうと望んだからです。だれもが同じような葛藤を感じているのではないでしょうか。あなたの心は自分の望 みを知っていますが、あなたの肉が他のことを要求するのです。
 一つの点だけがはっきりしています。つまり、キリストを離れて、自分自身だけでは、罪に対して無力であるということです。一方、キリストが共におられるなら、私たちにはキリストによる新しい命があります。その中にあって、たとえ自我が絶えず出現しようとも、求めさえすれば、勝利の約束は私たちのものです。
 他人が自分に代わって息をすることができないように、だれでもあなたに代わってキリストに従うことができません。そうすることができるのはあなただけです。それ以外に、キリストによって私たちに与えられている約束を自分自身のものとする方法はありません。


 今週の学びをしながら、むかし読んだ新聞の4こま漫画を思い出しました。1人の人が滝に打たれて修行をしています。その滝を、たまたま数名の女性のハイカーが通りかかれます。彼女らは、真剣に修行をしている彼をみて、俳優の○○に似ているわねと言いながら去っていきます。彼は滝から出ると、すぐに宿坊で雑 誌などでその俳優をさがすというものでした。
 人間は、どんなに無我の境地になろうとしても、自らの誉める言葉を喜んだり、必要以上に自分のことを主張したりしてしまいます。
 ある説教者が礼拝直後に、ある婦人から「とても良い説教でした」と言われたら、「悪魔の声をかけないで欲しい」と語ったというエピソードを聞いたことがあります。祈りつつ、神さまの聖霊の助けを受けて語ったのに、自分のことだけ誉められることで、人間は神さまからの助けを忘れて、自分への賞賛を受けること が喜びとなります。

 パウロが、ローマ7章の後半から自らの率直な思いを語っています。そして「なんと惨めな人間なのでしょう」とまで言っています。
 今期の教課の寄稿メッセージを書いている伊能先生は、ここでパウロが「突然、改心前のサウロに変わるということでもあるのでしょうか」と述べていますが、わたしもまったく同感です。
 わたし自身のことを思い返しても、若い頃の穴があったら入りたいような失敗も多々ありますが、今でも自らの心を正視したら、このパウロの想いと同じです。
 キリスト教は、ここから始まるのです。自分ではどうしようもできない、それだったらあなたはどうする?と問われています。その問いに、あなたはどう答えますか?
 そしてこの問いは、クリスチャンとしての歩みを続けているわたしたちにも、常に問いかけられているのではないでしょうか。



東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第3期7課

2010-08-13 14:44:59 | ディボーション
みなさま

 毎年、この時期になるとテレビでは戦争に関する様々な番組が流されます。戦争の記録や秘話と言われるものなど、考えさせられるものも多く、この時期は毎年夜更かしをしてしまいます。
 いろいろな番組を見た後に、いつも考えさせられるのは戦争は絶対にしてはいけないことで、どんな理由をつけても正義の戦争はないのです。相手にも言い分があり特に強い立場のものが、それを傾聴することが重要だと考えさせられます。これは日常でも同じでないでしょうか。平和を作り出す人になるようにとの神さ まの声が心に響いてきます。
 

第7課  罪に打ち勝つ   8月14日

暗唱聖句「なぜなら、罪は、もはやあなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるからです」ローマ6:14

今週の聖句   ローマ6章、ヨハネ第一1:8~2:1

今週の研究:聖書では、「聖なる者となる」は、神に「献身する」を意味します。この意味で、聖なる者とされた人々とは、神に献身した人々のことです。しかし、「聖なる者となる」というこの聖書の用法は、決して重要な聖化の教えや、聖化が一生の業であることを否定するものではありません。聖書はこの教えを強く 支持していますが、一般的には、別に言葉を用いてそれを描写しています。
 今週は、誤解しやすい信仰による救いのもう一つの側面、イエスによって救われたものの生活と罪への勝利の約束について学びます。


月曜日:パウロは、「罪に支配されて・・・・はなりません」と言っています。これは、義とされた人が、罪が彼の人生の王として君臨するのを阻止することができることを暗示しています。自分の意志の力を働かせるのは、ここにおいてです。
 私たちが自分の力でそれと闘うとき、悪い願望は強いものまた抵抗できないものとなります。罪は冷酷な暴君のようなもので、決して満足しないだけでなく、つねにより多くのものを求めてきます。ただ信仰によって勝利の約束にすがることによってのみ、私たちはこの無慈悲な主人に打ち勝つことができます。&l t;/ DIV>
 バプテスマを受けた人は、「神に向いて」生きています。神は彼の生活の中心です。彼は神に仕え、神のお喜びになることをしているので、同時に罪に仕えることはできません。彼は「キリスト・イエスに結ばれて神に向いて生きている」のです。

水曜日:人は自分の主人を選べるとパウロは言います。人は罪に仕えて死に至るか、義に仕えて永遠の命に至るか、どちらかです。中立の立場、あるいは妥協の余地がありません。これをとるか、あれを取るかです。私たちは永遠の命か永遠の死のどちらかを選ぶことです。

木曜日:同時に、私たちはみな知っているように、罪の支配から解放されることは罪が無くなること、葛藤が無くなること、さらには堕落することすらなくなることを意味するのではありません。そうではなく、たとえ罪が現実として私たちのうちに残っていても、またたとえ毎日、罪に対する勝利を要求しなければならな いとしても、私たちがもはや罪に支配されるようなことがないという意味です。


 ローマ信徒への手紙の中で、わたしが最も好きなのは5:20~6:2です。
 5:20の前半に「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。」とあります。パウロが何回も律法の役割は、罪をはっきりとさせて、わたしたちが罪深いことをじかくさせるためだと教えています。ここに気づかないと、わたしたちが救いを求めようとしないからです。自分たちが立っている場所が、どんな にか不安定で、不潔で、暗いところが気づかなければ、他へ移りたいとは思いません。
 20節の後半には「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」とあります。現実には気づいたとしても、その泥沼から抜け出せないとしたら、この世界は地獄です。けれども、律法のよって罪に気づかされたとしても、その律法を書いた神さまからの無償の恵み、罪のあがないがセットで与えられ るのです。そしてそれはもっと大きなものなのです。
 5:21では「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」と神さまの恵みの約束をパウロが示しています。
 そして6:1で「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。」 それだったら、罪が赦されるのだったら、今までの快楽の中に留まっていたほうが、楽しく過ごせるのではないだろうか。
 このような考えにパウロは厳しい口調で「決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」と述べています。

 今週の学びである罪に打ち勝つためには、わたしたちが罪から離れたいと心の底から思うかどうかにかかっています。そうなれば、わたしたちの選びもかわります。そして心の中に神さまに住んでいただくことを選ぶことができます。
 放蕩息子がどん底で、父の家に帰ろうとしたように、わたしたちも自らのほんとうに姿を悟らされた時に、心から神さまに助けを求めることができるかもしれませんね。


東京 安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第3期6課

2010-08-07 22:00:02 | ディボーション

みなさま

 厳しい暑さが続いています。天気予報によると、今年は特に猛暑になる要素がそろっているそうです。これが9月まで続くと思うと気が重くなりますね。
 けれども天気だけは、どうこうできませんから、上手につきあって行くしかありません。みなさまの地方ではいかがでしょうか。
 

第6課  信仰を詳述する   8月7日

暗唱聖句「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」ローマ5:1,2


今週の聖句 ローマ5章

今週の研究:パウロはアダムとイエスを対比し、キリストがどのようにしてアダムの行為をもとに戻されるか、またアダムの罪の犠牲者が信仰を通して救い主イエスによって救われるかを明らかにしています。イエスは御自分の血によって、彼を受け入れるすべての人を義としてくださいます。


日曜日:私たちが義と宣言されている、あるいは義と認められているのは、律法の行いによるのではなく、イエス・キリストを受け入れたことによります。イエスが地上で送られた完全な生涯とイエスの完全な律法遵守が、私たちの完全な律法遵守と認められるのです。
 私たちのすべての罪が、身代わりとなられたイエスの上に置かれています。神はイエスがこれらの罪を犯したと見なされ、私たちはキリストの身代わりによって受けるべき刑罰を免れることができます。この刑罰は私たちの代わりに、イエスの上にくだったので、私たち自身は刑罰を受ける必要がありません。罪人にとっ てこれ以上に喜ばしい福音があるでしょうか。
 義とされた人は苦難においても喜ぶことができます。なぜなら、彼らはイエス・キリストを信じ、彼に信頼を寄せているからです。彼らには、神が万事を益としてくださるという確信があります。彼らはキリストのために苦しむことを誇りとします。

月曜日:イエス・キリストの血は、神の怒りが世の終わりにおいて最終的に罪を滅ぼす時に、義とされた者たちを守ことの保証となります。
 神は愛と交わりの神です。人々を愛される神は離反を好まれません。愛の神は、愛と荒廃に対して怒りを発せられます。
 神から離反し、反逆した人類のために、キリストは人の身代わりとなって死ぬことによって、神との和解を達成してくださいました。キリストがわたしたちのために死なれたことは大切なことですが、キリストは永遠に死んだのなら、それは非常に悲しいことです。キリストは公生涯中に罪を犯さず、人類の救いをあきら めずに、身代わりの救済を達成してくださいました。
 その上に、キリストはよみがえって、今も生きておられるので、キリストとの再会の希望を持ち、私たちは救われています。

水曜日:シナイ以前の人間は、一般的に、神について限られた啓示しか与えられていなかったことは事実ですが、与えられた光に従って責任を問われました。神は公平な方で、人を不正に罰することはありません。シナイ以前の世界の人間も死にました。死はすべての人に及びました。彼らは自然界を通して神の啓示を受けて いたので、それに従わず、したがって罪の責任を問われたのです。
 イスラエル人が自分自身を神の要求と比較したとき、自分たちがそれから遠くかけ離れた存在であることに気づきました。言い換えるなら、彼らは自分たちの罪の程度を悟りました。このような啓示の目的は彼らに救い主の必要を悟らせ、神によって無償で与えられている恵みを受け入れるように促すことでした。


 今週の教課の学びは、どの言葉を引用しようか迷うほど大切な内容が多くありました。もし時間があったら、目を通して教会へ出席してください。
 
 今週の大きなニュースは、100歳以上の高齢者の行方不明でした。日を追うごとにその数が増えています。
 いろいろな論調があります。たしかに行政の怠慢もあるかもしれません。100歳を過ぎて健康保険や介護保険が全く使われていないとしたら、おかしいと思わないのかという感覚が無い公務員には問題を感じます。
 けれどもそのようなことでは、問題の根本を解決できません。人と人との絆が薄くなったこと、かかわりをもちたくないと考える人が増えたことが原因でしょう。これは言いかえれば、あなたはわたしにとって必要無いと言うことで、忘れられて行く人は、社会からあなたは不要だと突き付けらているのではないでしょう か。

 このような現象を、福祉の世界で働くようになってからは、数多く見ています。だから今回の問題を聞いても、あまり驚きませんでした。
 元気なうちは、絆が無くても生きて行けます。けれども自活できなくなった時に、絆が無く、そしてお金もないと身動きがとれなくなってしまうのです。そのような方々に手を差し伸べるのも社会福祉法人の大きな役割なのです。

 さて、人間が不要と烙印を押すことがあっても、神さまはそのようなことはなさらないと聖書には約束されています。
 今週の学びである、信仰の本質とは、この「すべての人を愛してくださる神さま」の愛情から始まっているのではないでしょうか。この天から注がれている愛情に気づき、応答することしかわたしたちはできません。
 神さまは、このことを気づかせるように律法を与え、み言葉から語りかけ、時には試練をもゆるされることがあります。
 この愛情が全世界のすべての被造物に注がれていること、このことを信じることが、イエスさまを信仰することではないでしょうか。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第3期5課

2010-07-30 21:27:56 | ディボーション

みなさま

 7月下旬から8月上旬まで、各地の教会ではこどもたちのための集会などが開かれるのではないでしょうか。このための教会が一致して、みなさまでこどもたちに福音を伝えるために働かれていることと思います。いつもと勝手のちがうことがあるでしょうが、神さまのために一歩踏み出すことで、必ず神さまは何かをし てくださいます。
 また来週末は、福島県で全日本のパスファインダークラブのキャンポリーが開かれます。特に今回は全国から集まったこどもたちが交流できる新しいプログラムを考えているようです。この集まりが祝福されますようにお祈りください。
 

第4課  義認と律法   7月31日


暗唱聖句「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです」ローマ3:31


今週の聖句   創世記15:6、サムエル記下11、12章、ローマ3:20~23,31、ローマ4:1~17、ヨハネ第一3:4

今週の研究:パウロは救いの計画における三つの主な段階について述べています。
1)神の約束(恵みの約束)、2)その約束に対する人の応答(信仰の応答)、3)信じる者たちに神から与えられる義の宣告(義認)。アブラハムの場合のように、私たちの場合もそうです。
 「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認めた」(創世記15:6)。これを信仰による義認についての、聖書の最も古い記述の一つと見ることができます。


月曜日:もし人が自分の力で救いを獲得しなければならない、あるいは義とされ、赦される前に一定の清めの標準に到達しなければならないとすれば、彼は必然的に内面に目を向け、自分自身と自分の行いを重視するようになります。そして、宗教はきわめて自己中心的なものとなります。
 しかs、もし義認が神からの賜物であって、功績や価値と全く無関係であることを理解するなら、人はずっと容易に、また自然に、自己の代わりに神の愛と憐れみに心を向けるようになります。
 神の愛と品性を反映するのはどちらでしょうか。自己中心の人でしょうか。それとも神中心の人でしょうか。

火曜日:パウロはここで(ローマ4:14~17)、律法を行うことによって神の約束を受けようとすることは信仰を無意味なものとする、と言ったのでした。これは強い言葉です。彼が強調しているのは、信仰は人を救うが、律法は人を罪に定めるということです。彼が教えようとしていることは、人が罪に定められるも のによって救いを得ようとしても無益であるということです。なぜなら、ユダヤ人であれ異邦人であれ、私たちはみな、律法を犯した罪人です。したがって、私たちはみな、アブラハムと同じ者、すなわち信仰によって私たちに与えられるイエスの救いの義を必要としているのです。

木曜日:どこの国でも昔から、うそや殺人、盗みが今もなお罪深く、悪いこととされています。もし神の律法が廃止されたのなら、だれも罰されずに救われるのでしょうか。
もし律法が廃棄されたのなら、だれも死ぬこと無く救われるのでしょうか。そのようなことは聖書に書かれていません。(ヨハネ第一1:7~10、ヤコブ1:14,15)
 新約聖書には、律法と福音の両方が現れます。律法は罪の本質を明らかにし、福井ンはその罪に対する解決法、すなわちイエスの死と復活を示しています。もし律法がなければ、罪もありません。とするなら、私たちは何から救われることになるのでしょうか。律法とその継続的な有効性という背景においてのみ、福音は 意味を持ちます。


 パウロはローマ4章で、ユダヤ人がよく知っているアブラハムの人生をたとえとして、信仰による義を説明しています。
 アブラハムは創世記15章で、神さまから「子孫を天の星のように増やす」と約束されました。そして神さまはアブラハムとの契約のしるしとして、動物などを二つに裂いて並べました。神さまはその中を歩かれたのです。これはもしこの契約を破った時には、この動物のようになってもいたしかたないという重い約束で した。国家同士の条約を結ぶ時などに用いられた方法と言われています。
 アブラハムにはこどもがいませんでしたが、彼は神さまの約束を信じました。その彼を神さまは義と認めてくださったのです。

 その後の聖書の記録を見ても、神さまの約束を信じて前進した人を、神さまは必ず守り祝福をしてくださいました。
 同じように、わたしたちは神さまのお働きを始めようとする時に、必ず守ってくださると信頼して一歩を進めると、次々に不思議な方法で導いてくださいます。けれどもわたしたちが何もしなければ何も起こりません。
 その神さまの力を信じて、今日まで歩んだからこそ、このような小さな教会で全国に教会だけでなく学校や病院、福祉、出版、食品などの事業を展開することができようになりました。機関で働くようになり、わたしが属している福祉の働きを見ても、さまざまな専門分野での業務が次々に増えて行ったり制度が変わって 行ったりしている現実を目の当たりにしながら、それでも事業が推進されていること自体に神さまの守りを感じます。

 このように、日ごとの歩みにおいて、神さまの守りや導きなどを深く感じることができると、神さまをより深く信頼することができます。
 神さまの約束に応答すると、祝福が与えられるという循環をくりかえすことにより、わたしたちと神さまの絆がますます太くなり、信仰が深められて行くのではないでしょうか。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第3期4課

2010-07-23 21:41:00 | ディボーション

みなさま

 先週の安息日、北海道の南東部、えりも岬に近い日高地方にある静内集会所が創立60周年、教会堂献堂30周年の記念礼拝のために訪れました。
 戦後すぐの混乱期に、林亮牧師のお母様、林道子姉のご主人が静内に赴任され宣教が始まりとなりました。当時の写真を見せていただきましたが、家庭での集会にたくさんのこどもたちや大人も集まっていました。
 そこでたくさんの方々が導かれ、今でも各地でご活躍されています。今日、小さな集まりですが、そのころ林先生の集会に小学生として出席していた方が毎週礼拝に出席し、教会の手伝いなどをご奉仕してくださっています。
 わたしにとっては、神学生としての最後に年に、学生文書伝道で訪れた街でした。この教会の講壇を毎週守り、集まる方々に聖書研究をさせていただきながら、みことばが伝える楽しさを実体験し、福音を伝える道を選ぶ一因ともなりました。
 一夏が終わり、みなさまとお別れするときに、少しオーバーでしたが「次は天国でお目にかかりたいですね」と話しました。それだけもうこの場所には来ないだろうと思っていましたが、2年後から兼務で担当するようになり、足かけ17年にわたり牧会をさせていただきました。
 今日までに神さまの導きを感謝するとともに、この地において神さまのおなぐさめを伝える教会になって欲しいと語りました。

 
第4課  信仰によって義とされる   7月24日


暗唱聖句「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」ローマ3:28

今週の聖句   ローマ3:19~28

今週の研究:今週から、「ローマ信徒への手紙」の基礎的な主題である「信仰による義認」について学びます。
 私たちが「信仰によって」イエスの義を受けいれるとき、イエスの義が私たちのものとなります。私たちの過去がどうであれ、イエスの義が私たちのものになります。私たちの過去がどうであれ、イエスの義によって受けいれるとき、私たちは私たちを救うことのできるただ一つの義、イエスの義によって神の前に立つの です。


日曜日:律法のしたにあることは、律法の支配下にあることを意味します。しかしながら律法は神の前における人間の欠点と罪責を明らかにします。律法はこの罪責を取り除くことができません。律法にできることは、罪人を導いて、罪の解決法を求めさせることです。
 「ローマの信徒への手紙」をユダヤ人の律法が機能を失った現代に適用するとき、律法は特に道徳律を意味すると考えられます。ユダヤ教の制度がユダヤ人を救うことができないのと同様に、この律法は私たちを救うことができません。罪人を救うことは道徳律の機能ではありません。道徳律の機能は神の品性を現すこと 、また人間がどんな点で神の品性を反映することができないかを示すことです。

月曜日:イエス・キリストの信仰(ロマ3:22英語、聖書参照)とは、イエス・キリストを信じる信仰のことです。この信仰がクリスチャンのうちに働くとき、それは知的な同意以上のものとなります。それは、単にキリストの生涯と死とについての事実を認めること以上のものです。むしろ、イエス・キリストを信じる真の信仰とは、キリストを救い主、身代わり、保証、主として受 けいれることです。それはイエスの生き方を選択することです。それはイエスに信頼し、信仰によってイエスの戒めに従って生きようとすることです。

木曜日:律法の行いは過去の罪を贖うことができません。義認は自力では獲得することができません。それはキリストの贖いの犠牲を信じる信仰によってのみ受けることができます。私たちのうちに義認に値するものが何ひとつなくても、キリストへの信仰によって義とされるという意味です。
 しかし、多くのクリスチャンがこの聖句(ロマ3:28)を誤解し、誤って適用しています。彼らは、行いと神への従順、さらには道徳律の遵守すら軽視し人のなすべきことはただ信じることだけである、と言います。それによって、彼らは完全にパウロの言葉を誤って解釈しています。
 パウロが強調しているのは、律法に対する従順は義認の手段ではないということです。信仰によって義とされた人はなお神の律法を守るし、義とされていない馬絵rながらの人は決して律法の要求を満たすことができません。


 今週、韓国から元死刑囚の女性が来日して話題となっています。彼女の責任だけとは言えない事件ですが、多くの犠牲者を生んだ事件の当事者で、死刑判決を受けましたが恩赦を受け、その後神さまとも出会い、事件を悔いて祈りつつある毎日と聞いています。
 今週の学びは、ローマ信徒への手紙の主題に入って行きます。信仰による義認について学びます。
 この元死刑囚の女性のように、裁判において罪が確定して死刑となったとしても、それを国家が執行せずに恩赦を与えれば、生きることがゆるされます。
 わたしたちもまさにこれと同じ状態なのではないでしょうか。わたしたちが何か善いことをしたから罪が赦されたのではなく、イエス・キリストの十字架を信じてすがったから、神さまから赦しを与えられました。ここに至るまで、わたしたちがすることは、十字架にすがることを救いの手段として選ぶだけです。

 問題は、ゆるされたわたしたちはどうするでしょうか。どうすべきでしょうか。神さまはどのような生き方を期待しているのでしょうか。これが今週の学びのポイントです。
 元死刑囚の女性が、仮にもといた国家や組織を礼賛しつづけたら、恩赦は認められるでしょうか。彼女が罪を認めて回心したからこそ、そしてその後の生き方が変わらなければ、どのような他の思惑があったにせよ、恩赦は認められなかったでしょう。

 わたしたちは、赦されるために善い行いが義務のようなことを教えているわけではありません。
 赦しを求めるということは、自分たちの今までしていることからは救いの手段が見つけられないから、神さまのもとへ向かうのです。そして神さまを主人、新しい親として信頼して従うとしたら、その神さまがお喜びになる生き方をするのは当然のことではないでしょうか。
 わたしたちは、神さまのこどもとしてふさわしい歩みをしたいものです。それにより、まずわたしたちが幸せな人生を歩むことができ、そして多くの方々が、神さまに従う生き方が幸せな歩みであることを、生活をもってあかしすることができるのです。

東京 安河内 アキラ



安息日学校教課  2010 年 第3期3課

2010-07-15 20:33:58 | ディボーション
みなさま

 今から4年ほど前、札幌教会に「癌との闘病中で余命半年です」と電話をかけてきた方がいらっしゃいました。山形謙二先生が著された「隠されたる神」を読んで、神さまにすべてをゆだねたいがために教会へお越しになりました。
 洗礼を受けてからも、次々に不思議な癒しと、また困難な戦いが続きました。三度の余命半年との宣告を受けながらも、厳しく苦しい病との闘いをしながら、自分が救われた喜びを各地であかしされました。
 この方は、アドベンチストライフ誌5月号の表紙の裏にあかしが掲載された林美智子姉でした。けれども今朝、神さまから休みが与えられました。全国のみなさまが彼女のためにお祈りくださいましたが、神さまがこの時を最善とされたと信じます。
 「何の不安もありません」と、すべてを神さまにゆだねていらっしゃった彼女は、神さまのもとですべての苦しみから解放されて、再び目を覚ます時までしばしの休みの時となりました。またお目にかかれる時が、一日も早くやってくることをお祈りしています。
 

第3課  すべての人が罪を犯した   7月17日

暗唱聖句「人は皆、罪を犯して神の栄光が受けられなくなっています」ローマ3:23

今週の聖句 ローマ1:16,17、22~23、2:1~10、17~24、3:1,2
3:10~18、23

今週の研究:私たちアドベンチストは、十戒(実際には安息日の戒め)を忠実に守っているという理由でユダヤ主義者、あるいは律法主義者であるという非難を受けてはいないでしょうか。 
 私たちは今や新しい契約のもとにあるのだから、律法(安息日の戒め)は廃止されたのである、という声を聞かないでしょうか。
 その一方で、私たちの教会には旧約聖書の規定や規則に従うべきであると主張する人たちもいます。
 この意味で、ローマ信徒への手紙は、当時のローマ教会と同様、今日の私たちにとっても重要なメッセージを持っています。


月曜日:私たちは確かに罪深い人間ですが、それでも希望がないわけではありません。第一にすべきことは、私たちが自力ではどうすることもできないほど罪深く、無力な存在であることを認めることです。
 このような自覚をもたらすのは聖霊の働きです。罪人が聖霊に逆らいさえ
しなければ、彼は聖霊に導かれて自己防衛や見せかけ、独善の仮面を捨て、キリストの憐れみを求めて次のように言います。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」ルカ18:13

水曜日:ある人々は、自分自身に目をつぶり、自分がまだ人よりましであると考えて安心しています。パウロは自国民に対して、軽率に異邦人を裁いてはならないと警告しています。というのは、ユダヤ人も選民ではありましたが、罪人であって、ある意味では、自分たちが軽率に裁いている異教徒よりも罪が深いのです。 なぜなら、彼らはユダヤ人として異邦人以上に光を与えられてきたからです。
 パウロがここで強調しているのは、私たちはだれひとり義ではなく、だれひとり神の標準を満たさず、だれひとり生まれつき善、生得的に聖ではないということです。私たちはみな罪人であって、福音に啓示された神の恵みがなければ、だれひとり希望がありません。

木曜日:神の憐れみが罪人を悔い改めに導く(強制するのではない)ことに留意してください。神は決して強制されません。神は限りなく忍耐深いお方で、愛をもってすべての人を引き寄せられます。強制された悔い改めというものは、悔い改めの目的そのものを無意味にします。もし神が悔い改めを強調するなら、すべて の人が救われることになります。それゆえ、ある人に強制し、ある人は強制しないというのでしょうか。そのようなことはありません。
 真心から出た真の悔い改めには、いつでも悔い改めによって捨てるべきものに勝利し、それを離れるという決心がともないます。


 「悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタイ、ルカ3:8)というバプテスマのヨハネのメッセージが今週学びながら心に浮かんだ聖句でした。
 心から悔い改めたら、行いは変わるはずです。まちがいを犯した人は、謝罪をします。けれどもそれが真心からものかは、その後の歩みを見て判断するしか、わたしたちにはできません。
 クリスチャンになるということは、神さまを主人とすることです。今までの自分のためという目的が、神さまのみこころを成し遂げるためにに変わります。
 牧師の働きにおける喜びは、このように人が変わっていくというのか、変えられて行く姿を、そばで見ることができることです。

 本日の巻頭に書かせていただいた林美智子姉は、起業家として成功されました。けれどもその彼女に病魔が襲いかかったのでした。病室でなぜわたしが死なねばならないのか、泣きながらさまざまな本を読んで答えを見つけようとしました。
 「捜せ、そうすれば、見いだすであろう」(マタイ7:7)の約束どおり、神さまに出会いました。彼女は徹底的に聖書とあかしの書を読まれていました。毎週、学びのときにたくさんの質問を持ってこられました。
 そしてみことばからたくさんの光を受けることにより、彼女の歩みは変わったのでした。それまで病室で泣いてばかりいたのに、生きることが喜びに変わったのです。主治医や病棟の看護士が、その変化に気づかないはずがありません。逆に彼らがその秘訣を問うてくるようにまでなりました。
 神さまの守りのうちに、すべてをゆだねて歩むとき、状況は変わらなくても、そこにおいて平安に歩むことができます。神さまがともに歩んでくださる時に、この地上の苦しみの中にあっても天国となるのです。

「たとい死の影を谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。」(詩編23:4)

 「人間は死亡率100%だから」と聞いたことがあります。それは、厳然とした事実でしょう。そのことを教えているのが今週の暗唱聖句ローマ3:23です。けれどもそれで終わっていません。次の24節には、死ななければならないわたしたちを導いてくださった神さまに従って歩むとき、最後にある永遠の祝福が約束されています。罪を犯したことを認める時に、永遠の道が開かれるのです。


東京  安河内 アキラ