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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

無駄ではなく

2005-11-12 00:07:49 | 2005 祈祷週

嫌いなものがある。 渋滞である。
車を運転している人は分かると思うが、車が連なり思うように先に進まなくなると、私達はあせりや苛立ちを感じる。人生には同じように自分の思い通りに行かないことがある。

20歳の時、学生宣教師としてブラジルに行った。尊い志を持って行ったわけではなく、限りなく現実逃避に近い自分探しの旅であった。遠く離れた異国の地で一人ぼっちになった私に、神様はすっと近づいて来られた。
二年間の奉仕期間が終わる頃、私は将来の進路で悩み祈っていた。帰国後、三育学院の神学部に入学したが、五月の連休明けには自主退学して留学の道を選んだ。途中までは計画通りに行ったのだが、最終的にはその道も閉ざされてしまうのだ。

私は神様に対する怒りと挫折感で一切のやる気を失ってしまった。生きた屍のように何もしない毎日が続いた。レンタルビデオを見続ける日々だった。将来を考えるのが怖かった。このままでは落伍者になる。眠れない夜を過ごし、何ヶ月振りかに布団をかぶって涙ながらに祈った。

その時、内なる声が聞こえた。
「三育学院」。
「えっ、まさか。神様、そこは一度やめたとこですよ。」
かき消そうとすればするほど内なる声は強くなった。
「分かりました。」腹を決めた途端、恐れが消えて不思議な平安が心に満ちた。部屋には朝日が差し込んでいた。

唐木順三という評論家が、「途中の喪失」という文章を書いている。我々の時代はどこか歪んでいる。むやみに突っ走っている。途中を飛ばしている。もっと途中を大事に充実させるべきではないか。そんなことを書いている。急いでいる社会では、「回り道」をさける。回り道に耐えられないのだ。回り道に立たされると、何か人生のコースからはずされたような気がして生きる力を失うのだ。

しかし、回り道は無意味なのか? 本当は大事なのではないか? そのような問いかけをしている。大事な視点だと思う。そして、これは聖書のメッセージでもある。神様は人を用いる前に、必ずと言って良いほど回り道を経験させている。モーセは、イスラエルの民のリーダーとなるまで、40年荒野で羊を飼って過ごした。パウロもダマスコ途上でイエス様に出会って、その後タルソで数年過ごすことになる。その間の記録は無い。何年も何をしていた分からない期間があるのだ。ヨセフもそうだ。彼がエジプトに売られたのは青年時代である。その後獄中生活を送ることになるが、それは10年近くに及んだと思われる。人生の一番良い時期を日陰で過ごしたのだ。しかし、神様はモーセもパウロもヨセフも時が来たら再び持ち上げてくださった。回り道は決して無駄ではなかったのだ。

「神様のなさることはみなその時にかなって美しい」〔伝道の書3:11〕とあるが真理だと思う。時を支配しているのは神様だ。私達はどこまでも自分本位で、自分の考えるペースで自分の思いや計画通りに物事を進めたいと願う。しかし、神様の時があるのだ。神様の持つ時計は私達の考えるものとは違って、時に早く、時にゆっくりと、しかし、確実に事を運んでくださるのだ。

「人は計画し、神は笑う」と言った人がいる。確かに思い通りに行かないことがある。時には回り道を余儀なくされることがある。王道ではなく、わき道を歩かねばならない時もあるかもしれない。しかし、ジタバタしなくても良い。腐ることもあせることもない。神様は真実である。確実に神様の時計に合わせてあなたを導いておられる。
聖書の約束は真理である。
「主にあっては、あなたがたの労苦が無駄になることはない。」〔コリント第二15:58〕

稲田 勤(教団青年部長)


☆ 祈りのテーマ

「教会では、人知れず悩んでいる方、神様の助けを求めている方々との接触で、聖書を基にしてキリストとの関係に入られるように導く準備が十分に整っていますように。」

自然環境、人的環境を見て、すべてに行き詰まりの現象があります。ご再臨の近いことを実感していますので、伝道の進展のために祈って行きたいと思います。(沖縄教区長からの祈りのテーマです。)




マザーテレサから学ぶ

2005-11-11 00:13:03 | 2005 祈祷週

先日、私はオリビア・ハッセーの演ずる、映画「マザーテレサ」を見た。マザーテレサは、私の憧れの人で尊敬する人のひとりであるから、日ごろ、あまり行くことのない映画館へ足を運んだ。

その映画の中に、マザーテレサが祈りをささげるシーンが何回も、何回もでてきた。例えば、戦乱・飢餓に苦しむ人々に対する祈り、自分のなすべきことを悟り、一歩一歩実行していくときの祈り、また、神様の御心が分からなくなったときの祈りなど、本当にさまざまな祈りのシーンがあった。
神の前にあって、真剣に祈る姿がとても印象的だった。また、「祈りは私の原動力。」と言うマザーテレサのセリフが、私の心の中に凄く残っている。

「祈る」ことを大事にしていたからこそ、マザーテレサは、傷ついたイエスを愛するように貧しい人達を愛することができたのかもしれない…。また、祈りを通して、神様の恵みを知り、愛を受けたからこそ、周りの人に良い影響を及ぼすことが出来たのでしょう。私も彼女のように祈ることを忘れず、神様を愛し、人を愛するクリスチャンでありたいものだ。と、いつも思っている。

聖書に「信仰による祈りは、病んでいる人を救い、そして、主は、その人を立ちあがらせてくださる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。だから、互いに罪を告白し合い、また、いやされるようにお互いのために祈りなさい。義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである。」(ヤコブ5:15,16)とある。

神様に頼るもの、クリスチャンとして、どんな時も祈りの力を信じ、毎日の生活を歩んでいきたいものです。なぜなら、「私達の祈りや施しは、神のみ前にとどいて、おぼえられている。」(使徒10:4)と、私達に約束されているからである。

島袋 望(石川教会教会員)


☆ 祈りのテーマ

「牧師按手礼」

宇田川勇牧師、柳 鍾鉉牧師が11月11日(金)の最終諮問を経て、12日(土)午後、隼人教会において牧師按手礼を受ける予定です。
お二人の牧師とその夫人の上に主のお導きがありますようにお祈り下さい。(西日本教区長からの祈りのテーマです)


灯を消してみる

2005-11-10 00:16:13 | 2005 祈祷週

私が、屋久島に住んでいた頃、台風前夜に、漁船で太平洋に向かって釣りに出かけたことがありました。初めは穏やかな海でしたが、南東の方角に向かって半時間ほど全速力で走ったあたりから雲行きが怪しくなり船は大きく揺れ始めました。
船酔いも激しく、釣りどころではない状態になりましたが、船頭は「ここには屋久サバいるから針をおろしてみろ」といいます。やってみるとすぐに50cmほどの丸々と太った屋久サバが、揚がってきます。その内に船頭は海を見渡して「予定よりも台風が早いな」といって港に戻ることになりました。

ところが360度何も見えない真っ暗な海の上、星も見えず、レーダーもありません。どうするんだろうと不安がよぎったその時、彼は、船の全ての灯りを消してひたすら遠くの水平線のあたりを見つめ始めました。
数分後、私たちの目にもまったくの闇にしか見えていなかったこの海と空の境が確認できるようになってきました。その上、微かではありますが、雲に薄ら明るい光が反射している方角があります。

船頭はこの方向にむけてひたすらに直進し無事に港に着きました。微かな光は、町の光が雲に反射している光だったのです。

私たちの生き方においても時には暗闇に浸りきった方が、良い場合があります。手近な光を振りかざし、振り回して右往左往するよりも暗闇に浸りきったほうが進むべき道を知ることができる時があるのだと思います。
人生の最も暗いと思われる時期にその状況を嘆くだけでは無くて、静かにその状況から逃げずに正面から向き合う時に進むべき道が見えてくるものなのです。ですから、苦悩は決してマイナスであるとは限らないのです。

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:28)

尾上史郎(北浦三育中学校校長)


☆ 祈りのテーマ

「牧師たちの健康が守られますように。」

東日本教区には現在牧師が全員で45人(婦人伝道師 6人、インターン牧師 5人、再雇用&ボランティア牧師 7人含む。)働いています。(東日本教区長からの祈りのテーマです)





人の目、神の目、勝利の目

2005-11-09 00:10:56 | 2005 祈祷週

「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:12)

 罪人マタイが弟子としてイエス・キリストに選ばれたあと、彼の家では多くの罪人たちが集い、盛大なパーティーが催された。いぶかるパリサイ人。考えられない。みすみす人生の負け組みになりにいくようなものだ。いけにえの本質である神のあわれみが見落とされ、神の計画を自分でアレンジしようともくろむことが私にもある。

珍しくスポーツ番組をみていたら、ものすごい歓声があがっていた。
オープン戦でロッテが4連勝したらしい。
しかも31年ぶりの快挙。
バレンタイン監督は、たったの3年で選手たちを再訓練。
最下位からのし上がってきたそうだ。
解説者いわく、勝利の秘訣は監督が勝つことのみに執着したこと。当前じゃっ!とつっこんでしまったが、たとえば今回行われたように、打順を一回戦ごとに変える戦略は通常ありえないのだそうだ。2番打者を次の試合で8番にすれば、ファンや球団関係者からなにを言われるかわからない。ところが、好調な打者を後半に控えさせることによって、前半の打者にゆとりが生まれ、結果全員が好成績を収められたというのだ。なんてクールなんだバレンタイン。そして彼を信じた選手たちもあっぱれ。

 ありえない。非常識だ。そんな叱責をものともせず、犠牲的な言動で勝利へと導く。バレンタインはイエス・キリストとかぶっている。しかもイエス・キリストは「すでに世に勝っている」のだから驚きだ。

これは普通の戦いではない。
勝利者が私を選び、導いてくださっている。
信じて従えば私たちの毎日は連戦連勝。
結果、愛は人を結び、盛大なパーティーが開かれるのだ。
天の歓声が聞こえる。
私も彼のみを見つめよう。
愛の作戦に従おう。
人の目ではなく、神のあわれみの目を最優先とする毎日。
行って学ぼう。

森田美江(SDA天沼教会副牧師夫人)



☆ 祈りのテーマ

「人知れず悩んでいる方、神様の助けを求めている方が、教会との接点を持たれますように。」

(沖縄教区長からの祈りのテーマです。)





大丈夫

2005-11-08 00:11:08 | 2005 祈祷週
 神様は私に御言葉は人生を幸せに導くというメッセージをあたえました。
私が21歳の時にイエス様が私の為に準備してくださった一つの計画を実行しました。エレ29:11に「 ・・災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」とありましたが、私にとって災いそのものでしかありませんでした。

 神様が準備してくださった計画とは、イエスだけに頼れば、神が働かれ幸せを生活の中で体験させてくださるという計画です。しかし、私は神様以外に沢山の頼るものを持っていましたので、私が頼りとしているものを取り除くために、両親が経営する会社を倒産させ、神様を第一に頼るように導きました。
しかし、私は頼れるものには全て頼りました。最たるものは自分です。自分の力で問題を解決しようとしました。なぜなら、借金という問題がある限り私の人生には、安心が得られないと思っていたからです。しかし、神様は、私に「自分が握り締めている自分の人生を明け渡しなさい」と、伝えてきます。私はついに借金という状況、返済に追われる環境が変わらなくても御言葉を握り締めることで心境が変わる経験をさせてもらいました。

 神様は、ヘブル11:1 を通して私に希望を与えてくださいました。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」という御言葉は、私にたとえ借金があろうが、どうであろうが幸せに導くという信仰を与えてくださいました。食事すらままならい状態の中でも「神様は、私を幸せに導くのだから、右に転んでも左に転んでも大丈夫『わけが分からない苦しみでも絶対良い様になる』だよね~神様」。といつも心の中で神様に問いかけていました。すると、本当に思いもよらない方法で色々な問題が解決されていきました。普通なら多額の借金がある人と結婚したがる人はいませんが、神様はまるで鴨がネギをしょってくるかのように私に素晴らしい女性と結婚させてくださいました。その女性は、私に「神様を信じている人は大丈夫よ」と言ったのです。

小濱守宏 (長野教会牧師)


☆ 祈りのテーマ
「西日本教区総会」

2006年1月17日(火)~18日(水)に行われます第10回西日本教区定時総会のためにご加祷下さい。
主のご臨在のもと、主の御心が行われますように。
代議員の方々の上に天来の知恵と識別力が与えられますように。
この総会が西日本の働きをさらに推進するものとなりますように。(西日本教区長からの祈りのテーマです)



海老原 望のとっておきの話

2005-11-07 00:10:22 | 2005 祈祷週
突然ですが、みなさんは素直ですか?
素直に自分の気持ちを相手に伝えることができますか?
自分の弱さを相手に見せることができますか?

先日友達と話していたときのことです。久しぶりに話をした私たちはお互いの近況報告をしていました。その友達は最近、将来について悩み「話を聞いてほしい」とある人に電話をかけたことを話し始めました。
それを聞いたときとても驚きました。自然に「話を聞いて」と言える友達にびっくりしたのです。友達はそんなことに驚いている私に驚いていましたが・・・。

誰かに話を聞いてほしくて電話をかけたとき「何かあった?」と聞いてくれる相手に対してすぐ「別に」と答えてしまう自分。相手が上手に聞きだしてくれてやっと話し始める自分。そんな強がりな部分を私は持っています。最初から「話をきいて」と相手に甘えることができたら、かわいいのになーと思うのにいざそのような場面になると言えないのです。自分の弱さを見られないように強がってしまうのです。

聖書の中にはこんな私とは対照的な人物がでてきます。
収税人のザアカイです。ザアカイはイエス様に「お前の家に泊まりたい」と言われたとき喜んでその申し出を受けいれました。(ルカによる福音書18章)
もし私がザアカイだったら、イエス様に自分が孤独であることを知られていると感じその誘いに応じないかもしれません。本当は嫌われ者の自分に声をかけてもらって嬉しいのに強がってしまうかもしれません。だから私がザアカイだったらイエス様を家に招くことができず、祝福を受けることもできなかったかもしれません。だまし取ったお金を返すことなく嫌われ者のままで終わっていたかもしれません。

第2コリント12章9節 『すると主は「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』

辛いとき悲しいとき、すぐに神様に頼り神様が用意しておられるたくさんの祝福を受け取りたいと思います。自分の弱さを認め、すでに差し伸べられているイエス様のその手にしがみつく素直さを持ちたいと思います。自分の持つ弱さは神様から恵みを受け取れる約束の印であることを忘れないでいたいと思います。

海老原 望(広島三育中学校教諭)


☆ 祈りのテーマ
「東日本教区内の伝道が推進するように。」

健全教会の形成のために8つの要素推進によって、教会が証しと福音の伝道の働きを力強く行うことができますように。
また都市伝道が力強く行われるために青年、壮年、高齢者など、年代における伝道方法の研究と共に国際化に対しても対応できる地域社会に開かれた教会を目指せますように。(東日本教区長からの祈りのテーマです)



understand

2005-11-06 00:12:44 | 2005 祈祷週
 先日、ある主婦の方から次の体験談を聞きました。
「私の親友は子どもが欲しくてもなかなかできませんでした。やっとのことで妊娠したと思ったら2回目の流産。何と声をかけていいのかわからずに彼女の家を訪ねてみると、隣の家の前には『赤ちゃん誕生おめでとう!』といった風船や看板が並んでいます。そこで私は思わず彼女に言いました。『何て無神経なの、隣の家は。こっちは流産して悲しんでいるところなのに。ちょっと文句を言ってくるわ!』。

すると彼女は言いました。
「確かに隣の家は丁度赤ちゃんが産まれたばかりなの。でもダウン症の赤ちゃんなんだって。出産前からわかっていたけれど、与えられた命を心から感謝してお祝いしているのよ」。

それを聞いて私はカッと怒鳴り込みに行かなくて良かったと心の底から思いました。それ以来、人を表面だけで判断することは決してするまい、と思うようになりました。」

 数年前の結婚式で司式の牧師は次の言葉をかけてくださいました。
「結婚するに際して一つの言葉を贈ります。それはUnderstand(理解する)という言葉です。この言葉は二つの言葉から構成されています。下(under)に立つ(stand)こと、これが相手を理解するということなのです。」

 ある川に狭い橋がありました。狭い橋の両側から山羊がそれぞれ真ん中に向かって歩いてきました。お互いがすれ違えないくらい狭い橋。このまま進み続ければ、橋の真ん中で山羊は衝突し、どちらかは川底へと落ちていくかもしれません。山羊が方向転換する幅もありません。緊迫した場面。すると片方の山羊は橋の真ん中で小さく屈みました。その上をもう一方の山羊が通り、お互いは助かりました。

 自分が謙遜に屈むのではなく、相手よりも私が上だ、私は悪くない、謝るのは相手だ、とついつい思ってしまう弱さを誰しもが持っている、これが人間の弱さかもしれません。

 私たちの救い主イエスさまはどこに立たれたのでしょうか。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした。」(フィリピの信徒への手紙2:6~8)

 イエス・キリストは、上から人を見下すのではなく、最も下まで降りて来られ、私たちと共に歩んでくださいます。

 家庭・学校・職場といった人間関係において、あなたは今どこに立っているでしょうか。

(柴田俊生 SDAロマリンダ日本人教会牧師)


☆ 祈りのテーマ
「教団青年部の働きと青年リバイバルのために・・・」

 青年部は全国の青年活動支援を積極的にしたいと考えていますが、青年部長が天沼教会主任牧師兼務のため実際は十分に出来ず、皆さんにご迷惑をおかけして申し訳ありません。どうかこの弱い教団青年部に神様から知恵と力が与えられ、全国の青年達と一緒に青年活動ができるようにお祈りください。
また、全国の青年一人一人が励まされ霊的に成長し、全国各地で土地柄にあうリバイバルが起きるように皆様のお祈りをお願いします。