嫌いなものがある。 渋滞である。
車を運転している人は分かると思うが、車が連なり思うように先に進まなくなると、私達はあせりや苛立ちを感じる。人生には同じように自分の思い通りに行かないことがある。
20歳の時、学生宣教師としてブラジルに行った。尊い志を持って行ったわけではなく、限りなく現実逃避に近い自分探しの旅であった。遠く離れた異国の地で一人ぼっちになった私に、神様はすっと近づいて来られた。
二年間の奉仕期間が終わる頃、私は将来の進路で悩み祈っていた。帰国後、三育学院の神学部に入学したが、五月の連休明けには自主退学して留学の道を選んだ。途中までは計画通りに行ったのだが、最終的にはその道も閉ざされてしまうのだ。
私は神様に対する怒りと挫折感で一切のやる気を失ってしまった。生きた屍のように何もしない毎日が続いた。レンタルビデオを見続ける日々だった。将来を考えるのが怖かった。このままでは落伍者になる。眠れない夜を過ごし、何ヶ月振りかに布団をかぶって涙ながらに祈った。
その時、内なる声が聞こえた。
「三育学院」。
「えっ、まさか。神様、そこは一度やめたとこですよ。」
かき消そうとすればするほど内なる声は強くなった。
「分かりました。」腹を決めた途端、恐れが消えて不思議な平安が心に満ちた。部屋には朝日が差し込んでいた。
唐木順三という評論家が、「途中の喪失」という文章を書いている。我々の時代はどこか歪んでいる。むやみに突っ走っている。途中を飛ばしている。もっと途中を大事に充実させるべきではないか。そんなことを書いている。急いでいる社会では、「回り道」をさける。回り道に耐えられないのだ。回り道に立たされると、何か人生のコースからはずされたような気がして生きる力を失うのだ。
しかし、回り道は無意味なのか? 本当は大事なのではないか? そのような問いかけをしている。大事な視点だと思う。そして、これは聖書のメッセージでもある。神様は人を用いる前に、必ずと言って良いほど回り道を経験させている。モーセは、イスラエルの民のリーダーとなるまで、40年荒野で羊を飼って過ごした。パウロもダマスコ途上でイエス様に出会って、その後タルソで数年過ごすことになる。その間の記録は無い。何年も何をしていた分からない期間があるのだ。ヨセフもそうだ。彼がエジプトに売られたのは青年時代である。その後獄中生活を送ることになるが、それは10年近くに及んだと思われる。人生の一番良い時期を日陰で過ごしたのだ。しかし、神様はモーセもパウロもヨセフも時が来たら再び持ち上げてくださった。回り道は決して無駄ではなかったのだ。
「神様のなさることはみなその時にかなって美しい」〔伝道の書3:11〕とあるが真理だと思う。時を支配しているのは神様だ。私達はどこまでも自分本位で、自分の考えるペースで自分の思いや計画通りに物事を進めたいと願う。しかし、神様の時があるのだ。神様の持つ時計は私達の考えるものとは違って、時に早く、時にゆっくりと、しかし、確実に事を運んでくださるのだ。
「人は計画し、神は笑う」と言った人がいる。確かに思い通りに行かないことがある。時には回り道を余儀なくされることがある。王道ではなく、わき道を歩かねばならない時もあるかもしれない。しかし、ジタバタしなくても良い。腐ることもあせることもない。神様は真実である。確実に神様の時計に合わせてあなたを導いておられる。
聖書の約束は真理である。
「主にあっては、あなたがたの労苦が無駄になることはない。」〔コリント第二15:58〕
稲田 勤(教団青年部長)
☆ 祈りのテーマ
「教会では、人知れず悩んでいる方、神様の助けを求めている方々との接触で、聖書を基にしてキリストとの関係に入られるように導く準備が十分に整っていますように。」
自然環境、人的環境を見て、すべてに行き詰まりの現象があります。ご再臨の近いことを実感していますので、伝道の進展のために祈って行きたいと思います。(沖縄教区長からの祈りのテーマです。)