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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

神様との静かな時

2009-01-19 20:27:36 | メッセージ

「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイによる福音書 6:6)


 イエス様と父なる神様を知ることから、今日生きる力や知恵、そして、永遠の命が与えられます(ヨハネ17:3)。そのためには、毎日神様と共に過ごす時間を持つことが必要です。聖書の学びと祈りからなる、神様との静かな時を毎日持ちたいと思います(詩編5:4,マルコ1:35,マタイ4:4)。

 今回の牧師室便りでは、その為のガイドラインの例(合計15分)をご紹介させていただきます。とりあえずほんの小さな変化でもいいですので、ぜひ始めてみてください。小さなことでもコツコツと! まず始めましょう。


ステップ1:心の準備をします(1分)
 聖書を用意し開きます。そして、心も神様に対して開きましょう。あなたに対する神様の愛を感謝し、聖書を通じて神様があなたと共にいてくださり、あなたの心に語りかけてくださるように、お祈りしましょう。

ステップ2:神様に話していただきましょう(8分)
 聖書は人の言葉で書かれた、生きる神様の言葉です。御言葉は、生きており力があります。そして、聖霊の神様は、御言葉を理解できるように助けてくださいます。3分あれば聖書をゆっくりと1ページ読むことが出来ます。しかし、読む量にこだわることはありません。読んだことについて考えてみましょう。また、浮かんできた考えをノートに書くことをおすすめします。

ステップ3:聖書を写しましょう(1分)
 今読んだ聖書の箇所の中で心に残る聖句をノートに写してみましょう。その聖句を思い出す助けになります。

ステップ4:神様に話しましょう(5分)
 祈りを持って神様と交わりましょう。祈りは神様との会話です。このときの祈りには、次のことを含むことをおすすめします。
a) 讃美…創造主であり、救い主である神様の愛と恵みを感謝しましょう。あなたの人生に神様が持っておられる計画を感謝しましょう。あなたがどんなに神様を愛しているかも忘れずに申し上げましょう。
b) 告白…告白するというのは、私が過ちをおかしていることを認め、その赦しを願うことです。自分では気づかないこと、あるいは、過ちと思わないことでも、神様の目にはそう映らないこともあります。神様に決めていただきましょう。
c) 感謝…神様の愛、み子イエス様、赦し、寛容、力、導き、守り、聖書、家族、教会、友達等を具体的に感謝しましょう。困難も感謝しましょう。信じて委ねるとき、神様は困難を通して私たちを強くしてくださいます。
d) 執り成しの祈り…今度は、人々の必要のために祈りましょう。心や体を病んでいる人々、困難の中にいる人々、個人的に神様を知らない人々、家族や友人のために、教会や指導者たちのためにも祈りましょう。
e) 願い…最後に自分自身の必要や希望、あるいは計画のために祈ります。霊的、身体的、あるいは物質的な必要のためにも祈りましょう。また、イエス様の弟子として成長させてくださるように祈りましょう。勉強、家族、仕事、あるいは個人的な霊的成長のためにも祈りましょう。


山口 平賀和弘
(No.80.09,1,17.防府教会牧師室便りより)



十字架と二人の強盗

2009-01-14 20:01:13 | メッセージ

2009年!明けましておめでとうございます。
新年の朝、キリストの「愛の十字架」を通してたくさんの恵み、祝福を受けるようにお祈りします。特に、イエス様の十字架上の二人の強盗の姿を通して教訓を得たいと思います。どうぞ、二人の経験が今日と今年私たちの生活と心持を変える力になることを願い、今日の話をしたいと思います。私たちは今どちらの強盗?これからは?


「折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた」(マタイ27:38)。
「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った」(ルカ23:32)。
「そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた」(ヨハネ19:18)。


「イエスと一に十字架につけられたどろぼうたちは、『イエスをまん中にして、・・・・両側に』つけられた(ヨハネ19:18)。これは祭司たちと役人たちの指図であった。どろぼうたちの間のキリストの位置は、彼が3人の中で最も重い罪人であることを示すのであった。このようにして、彼は『とがある者と共に数えられた』との聖句が成就した」(イザヤ53:12)。・・・・・
「キリストの十字架は、罪のうちにある世のまん中に置かれた。そして、悔い改めたどろぼうに語られたゆるしのことばは、地の果てまで照らす光をともした」 (希望への光1074ページ 各時代の希望下78章)。


(1) 悔い改めなかった強盗
十字架を天国の王冠に変えるチャンスが彼の目の前にあらわれた。しかし、罪というものは私たちを自分に満足させ、自己中心的に生きるようにさせます。
 彼の状況は次のようです。
①自分の罪を自覚しなかった。
②代わりに、イエス様を批難し、悪口を言った。
③現世(肉)の救いだけを求めた。
④結局、霊と肉の滅亡を招いた。
⑤聖書以外のフリラド行伝の本では彼の名前は「ゲスダ」と伝えられる。


(2) 悔い改めた強盗
「瀕死のどろぼうたちは、もはや人間を恐れる気持ちは何もない。しかしその中の一人は、恐るべき神がおられることと、彼をおののかせる将来があることについて深い自覚が起こる」(希望への光1072ページ 各時代の希望下78章)。
彼の状況と行動は次のようです。
①同僚(十字架上の強盗)の失敗を叱った。
②神様を恐れた。
③自分の死を当然と思った。
④イエス様の正しさを証しした。
⑤イエス様に救いを求めた。
⑥結局、「パラダイスの許可を得た者第一号」になった。
⑦聖書以外のフリラド行伝の本では彼の名前は「ディスマ」と伝えられる。

イエス様の十字架の上では三つの十字架がつけられました。 その十字架の一つでキリストは罪を背負って死なれた(愛の十字架)。一人は罪の中で死んだ(侮辱の十字架)。そしてもう一人(悔い改めた)は罪人だったが信仰のうちに死んだ(悔い改めの十字架)。 救われた強盗は罪の中にあったが、罪を背負わなかった。イエス様は罪を背負ったが罪がその中にはなかった。救われなかった強盗は罪の中にあって、その罪を背負った。(ルカ23:39-43)。


(3) 十字架につけられた強盗が与える教訓
①自分が罪人であることを正当に認めた。
②罪は必ず審判を受けることを知った。
③同僚(仲間)に伝えた。
④主の名前を呼んだ。
⑤キリストは私たちのために時間を持っている。
⑥どんな罪人でも神様から見捨てられるほど大きな罪を犯したものはいない。
⑦まずしたことは頼むこと。「私を覚えてください」
⑧キリストの再臨を信じた。「あなたの御国においでになるときには」
⑨もし、真の悔い改めをすると、神様は誰でも、いつでも受け入れるお方。
⑩今日が救いの日。
⑪救われるためにはキリストの死を信じる信仰が必要。
⑫十字架上で悔い改めた強盗は確実に大きな信仰を表してくれた。

キリストなるイエス様の「愛の十字架」!2009年、私たちは「悔い改めの十字架」と「侮辱の十字架」とのどちらの道を歩みますか。どうか、救われた悔い改めた強盗のように!!


大阪  魏守民
(No.637,09,1,10.大阪センター教会牧師室便りより)


“ところが”の神様

2009-01-12 19:19:30 | メッセージ
「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(ルカによる福音書 15:20)

 新しい年が、スタートしました。年の初めに、この一年の幸せを願って、無病息災、家内安全、交通安全、商売繁盛などなど神様に祈られた方もおられるのではないでしょうか。

 しかし、聖書には、終末の時代である今、この先、良いことばかりが起こるとは記されていません。それどころか、戦争や自然災害、また、不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えると記されているのです(マタイ24章)。さらに、私たちは、聖書に記されていなくても、必ずしも良いことばかり起こらないことを知っています。無病息災でありますようにと祈っても、病気になる場合もあるのです。そんな現実に気づくとき、新しい年を前にして、私は、なにか息切れしてしまいそうな感覚すら覚える場合があります。

 では、このような場合、どのように対処すれば良いのでしょうか。それは、まず、現実を受け入れることから、新たな一歩は、はじまります。

 例えば、「私は、病気にならない」「自然災害は、起こらない」と無理矢理自分に言い聞かせようとしても、それは非現実的であって、「そんなことはないだろうな〜」と恐怖心は解消されないのです。まず、「私も、病気になる場合もある」「自然災害も起こる」と認めてしまうのです。

 そして、次に、「ところが」という現実があることを覚えたいと思います。聖書は、“ところが”と、思いもよらない場面で祝福を与えられる神様を記しているのです。主を信じて、新たな一歩を踏み出したいと思います。


山口  平賀和弘
(No.79.09,1,10.防府教会牧師室便りより)


変わらざるもの

2009-01-08 17:23:51 | メッセージ

 昨年一年を代表する漢字は「変」でした。
好景気を謳歌していた国際市場が突如、世界同時不況となり、その影響が日本にまで押し寄せてきました。1年半前についに販売台数世界一に駆け上ったトヨタが赤字に転落、他の自動車メーカーも同様不振となり、期間工、派遣社員は全員契約打ち切り、解雇となり、冬が来るというのにアパートや寮を追い出される人が続出しています。夏には180円にまでなったガソリンが今では110円を割っています。どの経営者、経済の専門家もこの先どうなるのか誰も読めない状況です。2009年はどんな年になるのか、希望を抱いている人より、不安を抱いている人のほうが多いのではないでしょうか。

 こういう世相にあって何か変わらないものはないのでしょうか。どんな時代状況になっても信頼でき、心安んじていられる不動のものはないのでしょうか。
「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉はとこしえに残る。」(1ペテロ1:24)

栄枯盛衰は世の常とよく言われますが、その中にあって神の言葉、すなわち聖書は不変であるというのです。確かに聖書が全巻出来上がるまでに1600年、出来上がってから2000年も経つというのにいつの時代、どこの国の人々にも読み継がれてきたということは聖書が時代や社会の変化の影響を受けない、何か真実なもの、不変のものを有していることの証拠ではないでしょうか。あなたもまだ聖書を読んだことがなければ今年は読んでご覧になってはいかがでしょうか。どうして聖書は不変、不動のものを持っているのでしょうか。それは聖書の著者である神ご自身がそのようなお方だからなのです。「神には、変化と回転の影とか言うものはない。」(ヤコブ1:17)「回転の影」というのは太陽が東から上り、西に沈むとき天空を180度回転し、それに伴って物体の影が刻々と変化することを言います。これを利用したのが日時計ですが、神は時と共に変わるようなお方ではないということです。

「神は愛である」(1ヨハネ4:8)神様の御品性の第一の特徴は愛であり、私たち人間は神様の愛を受ける対象として造られたのです。この愛は不変のものです。そこに私たちは信頼することができ、安心することができるのです。生涯の愛を誓って結婚したカップルが破綻してしまうことがよくあります。理由はいろいろあっても根本的には双方の愛が耐えられなかった、持続することができなかったということです。人間の愛は移ろいやすく、さめやすく、不真実です。しかし神の愛は人間の側の反応によって変わることのないものです。「山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがないとあなたを憐れまれる主は言われる。」(イザヤ54:10)

 ご主人に先立たれ、育ち盛りの二人の子供を抱えた未亡人がいました。ちょうどそのころ、この婦人は教会に出席するようになって聖書を学んでいました。親類は「変な宗教に凝ったりしないで私たちのところに帰ってきなさい。あなたたちを一生面倒を見るから」といわれました。この婦人は見えない神様を頼って生きるか、見える親戚を頼って生きるかの選択を迫られました。そのときこの婦人は「あなたがたは鼻から息の出入りする人に頼ることをやめよ」という聖書の言葉を思い出したのです。(ヤコブ2:22)そして見えない神様に頼って生きる道を選んだのです。神様は奇跡的にこの人に良い仕事を与えてくださり、二人の子供を立派に育てることができました。しかし親戚の方はそれからなしのつぶてでした。もし親戚に頼っていたらだんだん疎ましがられるようになったかもしれません。この方は神様に信頼してよかったと感謝したのでした。 このような神様の愛に信頼して生きる人生には平安があります。新しい年がどのような年になるのかは誰もわかりませんが、どのようなことが起こっても愛の神様があなたと共におられあなたを支えてくださるのです。


静岡  堀内一誠


本当に大事なこと

2009-01-06 17:53:01 | メッセージ

あけましておめでとうございます。
以下は毎日新聞、元旦の余録の一部です。
「『水仙いちりんのお正月です』。放浪の俳人、種田山頭火の昭和6年元日の日記にある句だ。前日の大みそか、手元の四銭を入浴に使い無一文になった彼は知人に金を借り、ささやかな正月準備をした。『見切の白足袋一足十銭、水仙一本二銭、酒一升一円也。これで私の正月支度はできた、さあ正月よ、やってこい!』。『水仙は全く日本的な草花だと思ふ、花も葉も匂ひも、すべてが単純で清楚で気品が高い。しとやかさ、したしさ、そしてうるはしさを持つてゐる、私の最も好きな草花の一つである』。と山頭火は書いている。ちなみにこの年、昭和恐慌さなかの日本は、満州事変へと歴史の迷路にはまり込んでしまった。野山が色彩を失うこの季節、孤高の美で人の心をとらえるスイセンの一輪で祝う正月もある。「雪中花」の異名の通り、厳寒の空の下でも凜(りん)としたたたずまいを失わぬスイセンの花は、しばしば希望にたとえられる。どんな厳しい境遇で迎えるお正月であれ、誰もが一輪の希望をそれぞれ心に抱ける新年であってほしい。私たちの社会は凍てつく風の中でも気品を失わず、春への道を誤りなくたどっていけるだろうか」(09.1.1余録)。

 私はこれを読んでいて、作家の五木寛之さんがその著書で老子と若者の話をしていたのを思い出しました。
中国戦国春秋の時期の話。一人の青年が自分の職を投げ打って、人生で一番大切なものは何かを教わりたく、老子のところへ日参しました。弟子をとらない老子も、とうとう青年を内弟子のようにして住み込みをゆるします。
 しかし老子は、一言も思想とか生き方といったことを口に出してその弟子に教えることはありませんでした。そうこうしているうちに、ある日老子は一人で外国に去ることになります。残される青年は意を決して、老子に願います。
「私は人生で何が真実であるかということを先生から教えていただきたく、職を捨てて、長年、先生のもとで仕えてまいりました。でも先生は一度も私に、これということを教えてくださいません。このままでは、無明の闇に取り残されてしまいます。一言のヒントだけでもいいですから、人生で本当に大事なことを教えてください」。
 老子は腕組して、しばらく弟子の顔をじっとみつめていましたが、おもむろに口をぽかっと大きくあけました。老子は年寄りでしたから、歯は抜け、黒い穴が見えるだけ。
「わかったか?」
「いいえ、何のことやらさっぱりわかりません」。
すると老子はもういっぺん大きく口をあけて、この口を見よと言わんばかりに口中を指差して
「わかったか?」
「すみません。何も理解することができません」。
「わしの口の中に歯はあるか」
「いいえ。先生はご老人ですから、歯はみんな抜けてしまっています」。
「では舌はあるか」
「はい舌はありますけど」
老子はうなずくとそのまま、牛車に乗って去ってゆきます。青年は必死で考えます。師は自分にこのように言おうとされたのだろうか。
「おもてに見える白く強い歯も、やがては抜け落ち、歯の背後で、普段は人に気づかれなかった舌は最後まで役に立っている。これこそ人生で本当に大事なこと。立派で美しく、しっかりとして見えるものもやがては滅び去る。しかし、その背後で目立たずに、人の命を支えているものがある」と。

 イエス様はおっしゃいました。
「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネ6:27)。
「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(6:29)。
 イエス様を信じること、これこそが本当に大切なこと。


大阪  藤田昌孝
(No.636,09,1,3.大阪センター教会牧師室便りより)

 


母の胎内にあるときから

2008-12-24 20:29:37 | メッセージ

「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、」(ガラテヤ 1:15)

 スイスの精神科医のポール・トゥルニエは、『人生の四季』(ヨルダン社)という本の中で、人間の人生を二十年に区切り、それぞれの時代に私たちがしなければならないこと、また、考えなければならないことをまとめておられます。
 彼は、二十歳までを“春”の時期と呼び、準備の時代、二十から四十歳を“夏”の時期と呼び、活動の時代、四十から六十歳を“秋”の時期と呼び、収穫の時代、そして、老いを迎える六十から八十歳を人生の“冬”の時期と呼び、この時期を人生の中で一番の成熟を迎える時期と定義しています。

 「老い」の時期を、「人生の一番の成熟の時期」と捉えているところに、感動を覚えます。冬の時代は、これから何ができるかではなく、現在自分がどんな人間なのかが問われる成熟の時期ではないでしょうか。
 聖書の中でパウロは、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け」(ガラテヤ1:15)と、自分の全生涯が、生まれる前からイエス様のために備えられていたと語っています。

 パウロは、始めからそう思っていたのではありません。回心の出来事の後、おそらく、ある程度の年齢になり自分の人生を振り返り、その中に神様の摂理を知ることを許されたと思うのです。冬の時期だからこそ知ることができる神様の祝福もあります。それぞれの時期を丁寧に生きたいと思います。


山口  平賀和弘
(No.77.08,12,20.防府教会牧師室便りより)




親の祈り、ソロモンの祈り

2008-12-14 09:45:16 | メッセージ

「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。」(列王記上3:7)

 『たいせつなひとのために・子どもを守る祈り60』の著者であるストーミー・オマーティアンは、その本のはじめに次のように記しています。

 「どのようにすれば、子供たちにとって申し分のない親になれるか、わかりません。」ある日、私はどうしようもなくなって、神に祈りました。「主よ、子供たちを育てるために、あなたの助けが必要です。」
 神はこの祈りにこたえて、私の心に次の言葉を深く刻みこんでくださいました。「毎日、祈りであなたが子供たちを守っていかなければ、あなたは子供たちの生涯をなりゆきまかせにしてしまうことになります。」
 なんという恐ろしいことでしょう!…
 それから2、3年かけて、子供たちの生涯のあらゆる面のためにどのように祈っていったらよいのかを学びました。同時に、自分は「申し分のない」親になる必要などなかったということも学びました。私はただ「祈る」親にならなければならない。それなら自分にもできるとわかりました。

 旧約聖書に登場するソロモン王も神様に祈り知恵を求めました(列王記上3:7)。あなたの祈りには、力があります。慈しみを絶やすことなく示される神様が(同3:6)、あなたの祈りにこたえてくださるからです。


山口  平賀和弘
(No.76.08,12,13.防府教会牧師室便りより)



さあ、沈黙して主に向かおう

2008-12-08 19:09:50 | メッセージ

「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。
繁栄の道を行く者や/悪だくみをする者のことでいら立つな。」(詩編37:7)

 最近、京都の宿泊施設で、“宿坊”がひそかな人気になっているそうです。宿坊とは、簡単に言ってお寺に併設された宿のことです。
 「寺に泊まると、雑巾がけとか坐禅とか、面倒なことをやらされるのではないか?」と思われる方も多いかもしれません。しかし、そういった体験は、特別な修行体験コースを選択した場合のみで、一般的な宿坊の場合、門限や消灯などが少し早い以外は、普通の宿とあまり変わりないようです。
 さて、ある宿坊では、「ただ、何もしないでボーッとした時間を過ごして欲しい」と、座禅などの修行もなければ、部屋にテレビも置いていないとのことでした。そんな静かな場所を提供してくれる宿泊施設に、私は、たいへん好感を持ちました。

 今年も12月になりました。年の瀬は、何かと慌ただしいものです。しかし、そんな慌ただしい季節だからこそ、静かに沈黙し、神様に向かう時間が必要だと思うのです(詩編37:7)。
 その沈黙は、自分より優れた人や悪だくみをする人を思い起こして、いらいらするときではありません。また、私たちが、一方的に神様に話しかけるようなときでもありません。わたしたちは、黙り、ただ神様だけが語りかけられるのを待つ。そのような沈黙です。

 テレビもない、ラジオもない、インターネットも雑誌も本もない。静かな神様に向かう時間を、せつに願い求めます。


山口  平賀和弘
(No.75.08,12,06.防府教会牧師室便りより)



希望の大切さ

2008-12-02 19:59:41 | メッセージ

今週、立川で開かれました教団年次理事会の閉会メッセージで、NSD総務の鈴木明理先生が「希望を持つことの大切さ」について次のようなお話をしてくださいました。

先生の叔父様の第二次世界大戦でのお話です。
南方の島で戦う叔父様は、3千人以上の兵隊の隊長をされていました。ところが、戦局の悪化が次々と兵士の命を奪ってゆきました。物資・武器・食料の輸送は途絶え、残された部隊は戦々恐々としてゆきます。勝利の希望、祖国へ帰る希望も失い、兵士の心はさめてゆきます。
すると、恐ろしいもので、今まで共に戦ってきた仲間同士の間でいざこざが起こりはじめます。互いに争い、時には殴り合いの喧嘩が起こりました。お酒を飲んでは暴れ、現地の女性と結婚してしまう者も出てきました。

そんな部下たちの様子を見て、叔父様は隊長として心を痛めていました。「この状態をなんとか変えられないだろうか?」叔父様は来る日も来る日も考えましたが、なかなか良い考えが浮かびません。

しかしある日、叔父様はある考えが浮かびました。叔父様は一人で現地の農家を訪れました。広い敷地にたくさんのニワトリを飼っている農家でした。隊長は、満面の笑みを浮かべて現地の言葉で挨拶を交わします。笑顔は世界共通語と言われますが、現地の方は歓迎してくださいました。叔父様はさっそく本題に入りました。

「特別にお願いがあります。あなたのニワトリのヒヨコを分けてもらえないだろうか?」
飼い主は、快く承諾してくださいました。
「どれくらいですか?」。
「兵士の数だけ欲しいのですが・・・」。
「いいでしょう」。
隊長が担いだ南京袋のヒヨコたちがピヨピヨ鳴いています。部隊に着くなり、隊長は兵士たちを招集しました。
「全員集ったか、今日はお前たちに特別の贈り物がある。どうか受け取ってほしい」。
隊長は兵士一人一人に袋から出したヒヨコを一羽ずつ渡しました。
「良く、聞いてほしい。祖国には、お前たちの生還を心から祈っている妻や恋人がいるはずだ。今手にしているヒヨコに、その愛する妻、恋人の名前をつけて、大切に育ててくれ」。

次の日、兵士たちはいつも通り、小さなおにぎりを2つ持って戦いに出かけてゆきました。小さなおにぎり二つが彼らの戦場での食料でしたが、彼らはそれを全部食べずに戦いから帰ってきました。そして残した米粒をヒヨコに与えました。
そのようなことを繰り返しているうちに、ある日、ヒヨコたちが兵士の帰りを見るなり、羽をバタバタさせながら、兵士の胸に飛び込んで来ました。兵士の目に涙が止まりませんでした。
気がつくと、兵士たちの間に喧嘩はなくなり、お酒でクダをまくようなこともなくなりました。彼らの中に、どんなことがあっても、はってでも祖国日本に帰る希望が生まれていました。
そして驚くべきことに、その部隊全員が一人残らず日本に帰ることができたのです。

叔父さんは、鈴木明理先生に、このようにおっしゃったそうです。
「希望が兵士たちを救った。人間には希望が必要だ。お前は牧師として、神様からの希望をもって人々を励ましてあげてくれ」。

「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(ローマ15:13)。

「私たちの旅路は、悩みに耐えなければならないかもしれません。疲れて休みがほしい時に、悩みが続き、弱っている時に戦わなければならず、絶望状態の時に、希望を持たなければならないかもしれません。しかしキリストを道案内とすれば、必ず最後には希望の港に着くことができます(『熟年へのメッセージ』214)。


大阪  藤田昌孝
(No.631,08,11,29.大阪センター教会牧師室便りより)

 


担い、背負い、救い出す神様

2008-11-30 19:58:06 | メッセージ

「あなたたちは生まれた時から負われ
胎を出た時から担われてきた。
同じように白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書46:3−4)


 先日、防府教会で神戸アドベンチスト病院の看護部長である村上寛さんを講師に向かえ、 “寝たきりにならないために”というテーマの講演会が行われました。そして、その講演会の最後に、紹介されたのが、上記の聖句でした。

 寝たきりとは、日常生活を自分の力で営むことができないということです。必ず、介護が必要です。今まで自分で行っていた入浴、着替え、排泄、食事などが、人の助けを得なければできなくなるのです。
 寝たきりになる原因は、様々です。脳梗塞、老化、転倒、若くして事故のためになる場合もあります。しかし、どのような原因であっても、「今まで出来ていたことが出来なくなる」。そういう現実に直面するのです。

 しかし、そのような現実に直面しても悲観する必要はありません。神様がおられるからです。聖書は、神様が、胎を出た赤ん坊を担い、白髪の老人を背負われると記しています(イザヤ書46:3−4)。
 神様は、赤ん坊が、何かできるために担うのではありません。赤ん坊は、何も出来ません。つまり、神様は、「行為」ではなく、ただそこにいるだけで赤ん坊が愛しい、その「存在」を喜ばれるのです。

 「何もできなくても、あなたが生きているだけで、私は、うれしい。」と言って神様は、わたしたちを担い、背負われるのです。


山口  平賀和弘
(No.74 08,11,29.防府教会牧師室便りより)