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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

希望の旅路

2006-11-11 00:18:22 | 2006 祈祷週

イエスさまに最も愛された弟子といわれているヨハネはイエスさまのことを「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」(ヨハネの黙示録1:4,8)と表現しました。

ヨハネにとって過去のイエスさまとは、寝食を共にした3年半が挙げられます。イエスさまの素晴らしい奇跡を目の当たりにし、いつもイエスさまのメッセージを間近で聞き、それは素晴らしい3年半だったことでしょう。

ヨハネにとって将来のイエスさまとは、ヨハネ自身が書いた福音書で何回も言及しているようにやがて再臨なさるイエスさまです。イエスさまと再会できる希望があります。

ヨハネにとって現在のイエスさまとはどのようなものだったのでしょうか。
ヨハネの黙示録を書いている今、ヨハネはイエスさまを信じているために迫害に遭い、島に流されていました。かつて仲間であった弟子たちはそれぞれ迫害に遭い、既に殉教している。弟子の中でたった一人生き残っている自分は島流し。

普通の感覚でいうならば、ヨハネの現在は、過去・将来と比べて最も辛く孤独なときといえるかもしれません。
「イエスさまに献身してきたのになぜ今このような生活なのだ?」とつぶやき、イエスさまの存在を疑ってもいいかもしれません。

けれどもヨハネは、イエスさまのことを「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」と言いました。歴史は過去、現在、将来と進んでいきます。ヨハネはまず最初に「今おられ」と言いました。人生の中で最も辛く孤独なときにもイエスさまはおられる、と告白したのです。ここにヨハネの信仰をみる思いがします。

読者の皆さん、今までどのような信仰の旅路を歩んで来られたでしょうか。
そして今どのような信仰の状態でしょうか。
「バプテスマを受けた頃の熱い思いが段々と薄らいできてしまった」
「日々の忙しさの中で何か大切なものを忘れかけてしまっているように感じる」「今とても苦しく、この苦しみを分かち合う友もいない」という人もおられるかもしれません。

ヨハネが告白したように「今」イエスさまが共におられるということをいつも覚えていたいと思います。そして私たちの信仰の旅路、現在も過去も将来もイエスさまが共にいてくださることを喜び希望をもって歩んでいきましょう。


柴田俊生
天沼(東京)、釧路(北海道)、三育学院(千葉)、ロマリンダ日本人(米国)の各教会を経て、2006年春から教団青年部担当部長・東京中央教会協力牧師。全国行く先々において献身的で素晴らしい青年たちに出会い、教会の現在、将来は明るいと感じている今日この頃です。



2006-11-10 00:03:03 | 2006 祈祷週

私は沖縄県にある教会付属保育園に働いています。
そして、私は幼い頃この保育園に通っていました。その後、SDAの学校ではありませんでしたが、教会員の方にお世話になり、夏休みなどは教会へ行く事もありました。

短大は県外に進み、教会からは離れてしまいました。生活で不安な時、困った時などは祈り、助けてもらう事もあり、私の心の中には、神様の存在があり、忘れる事はありませんでした。沖縄に戻ってきても教会へ行く機会がなかったのですが、ある日、長老さんが尋ねて来られ、不思議な縁で保育園に働くようになりました。
 働いていると、この職に向いているのだろうかと悩む事もあり色々な壁にぶつかる事もありましたが、今は日々子ども達と楽しく過ごしています。

 沖縄の青年で、マレーシアプロジェクトの話を聞き、是非私も参加したい!と思いましたが、三週間もの間休むのは無理だとあきらめていました。しかし、行かせてもらえる事になり、凄く嬉しく感謝の気持ちで一杯になりました。

 この旅では、教会建築と伝道講演会をしました。メンバーだけではなく、村の方や現地の牧師さんと一緒に建てる事ができ、また講演会も支えられ、毎日沢山の村人が集まって来てくれました。日々神様に祈り頼っていく大切さを感じました。また、凄い力を与えられるんだなと感じました。そして『恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない。わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。』

この聖句を凄く実感する事ができました。
そしてうれしくなりました。
この旅・人を通して、バプテスマを受ける決心をしました。

 今は、『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事に感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあってあなたがたに求めておられる事である。』を心に留めて過ごしています。


比嘉ゆり
今年8月の海外ボランティアプロジェクト(沖縄教区主催)開催中にマレーシア・サラワク州で、バプテスマを決意し、受ける。現在、石川教会教会員、石川三育保育園職員



希望の旅路

2006-11-09 00:55:32 | 2006 祈祷週

「いつか南極へ行きたい」
そう思ったのは小学生の時のことでした。テレビで南極の番組を見て、美しいオーロラ、愛らしいペンギン、そしてどこまでも続く白い氷原に魅せられてしまったのです。

 それから30年が経ち、ようやく南極へ行くチャンスがおとずれました。しかし実際に観測隊への参加が決まるまでには、2つの大きなハードルがありました。

一つ目は私の職場の了解を得ることです。私の職場からは、今まで南極へ隊員を派遣したことはありません。お役所と呼ばれる組織で、まったく前例がない。調整は大変でした。やむを得ず職場のトップに直談判に行きました。すると、思いがけない言葉が。「いいじゃないか。ぜひ実現しよう」。

二つ目のハードルは家族の了解です。妻になんと言おうか。実は南極の件は、今回が初めてではありませんでした。10年前と5年前、今までに2回ほど南極行きを妻に話したことがありました。妻は猛烈に反対しました。
そうは言っても、私は38才。次のチャンスはいつあるか分からない。

妻に話しました。
「南極に行きたいんだ」。
しばらく間をおいて、妻は「分かりました」。
それっきり不機嫌そうな顔をして、口を閉ざしてしまいました。明らかに賛成では無い様子でしたが、それ以上聞くのはやめました。後で聞いたところによると、「後悔を後に残すのはかわいそう」と考えたようです。

こうして私の南極行きは走り出しました。観測隊員の身体検査、訓練、準備作業。いまは連日、南極へ運ぶ観測物資の搬入に追われています。作業着とヘルメット姿。飛び交うフォークリフトに轢かれそうになりながら奮闘しています。南極へ行ってしまえば、1年4ヶ月の間帰ってくる手段がありません。外部からの援助や補給を受けることもできません。越冬観測の成功は、国内での事前の準備にかかっています。

南極でやるべきことはたくさんあります。観測も、調査も、生活も、そして毎日を平安に過ごすことも。しかし何よりも、神様が作られた白い大陸で自分自身を見つめたい、そう願っています。

「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ人への手紙2.13)



新井直樹
東京中央教会員。第48次南極地域観測隊 越冬隊員。2児のパパ



出会い

2006-11-08 00:25:27 | 2006 祈祷週

 私は3年前卵巣膿腫の手術をしました。術後数日が経つと痛みも軽減し、入院生活にも慣れ、病室の方々と会話をしたいと思うようになりました。しかし、なかなか話しかけられないままでおりました。

ある日、私はお見舞いに頂いた物を片付けていました。すると、同じ病室の方が「これ、落ちましたよ」と声をかけて下さいました。その事をきっかけに、その方との交流が始まりました。彼女は私の3つ年上で、卵巣癌の術後の抗生剤投与の為に入院しておられました。繰り返される辛い治療と先の見えない不安な思いなど、心身共にとても苦しんでおられました。私は彼女のために何か出来ることはないかと思い、主人に話をしました。
そして、私は主人が牧師であるということを彼女に話し、「もし良かったら、あなたのためにお祈りをさせて頂いてもよろしいでしょうか」と伝えました。すると、彼女は「お願いします」と応えて下さいました。それから、病室のベッドで主人と3人でお祈りをしました。彼女は涙を流しながら、「祈って頂いて、何だかほっとしました」とおっしゃって下さいました。

退院後、私たちはメル友となり、一緒に食事をしたり、お互いの誕生日を祝ったりと仲良くなっていきました。そして、青年キャンプやクリスマス会等にも参加して下さるようになりました。神様が出会わせて下さり、導いて下さっておられることを感謝しております。また、先日、私たち家族は彼女の結婚式に参列して参りました。彼女の幸せな笑顔に、私自身も幸せな気持ちになりました。これからも親しい交わりを続けさせて頂いて、いつか、彼女がイエス様を信じて人生を歩むことができるように祈っていきたいと思います。

「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」(コリントの信徒への手紙第二2章14節)


友枝智子 
千葉県出身。平成10年に受洗。平成12年三育学院看護学科卒。現在、小樽教会員。主人(小樽教会牧師)と7ヶ月の息子と3人暮らし。




感謝

2006-11-07 01:26:02 | 2006 祈祷週

『そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。』(ローマ5:3〜5)

 洗礼を授かって間もなくは、新たな希望を抱いて喜びに満ちあふれていました。洗礼を境に、自分自身では生まれ変ったかのように思っていました。
しかし、現実で生きていく中で、思いとは裏腹になかなか変れない自分に苛立ちを覚えていました。理想と現実とのギャップが私に変革を求めていました。身の回りで何か、トラブルが発生すると、直ぐさま、以前の私に逆戻りをするのでした。キリストに似た者として歩もうとする時に、恐れや不安からくる思いに、なかなか古い自分を捨てきれなかったのです。頭のなかでは、すべきことは理解していたのですが、実践することが出来ないでいたのです。それは、私が自分自身のことしか考えることが出来ないでいるためでした。神に愛され、また神を愛していたのですが、隣人を思う愛に欠けていたのです。

『愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。』(コリントI13:4〜8)

これらのことを、すべて実践するのは気の遠くなるようなことです。実際、自分一人では到底できないようなことなのです。神との日々の交わり、また同じ希望に生きる神の家族との交わりを通して“しなければならない”ではなく、“したい”と思えるようになれたことに、神に感謝しています。

神は、教会を通してすべてのことを私に与えて下さいます。一人ではなく、神と共にまた、神の家族と共に歩めることに感謝しています。



栗山尚典
東京神学大学神学生、天沼教会員。天沼教会では第1と第3安息日に青年礼拝をしています。青年会も復活させたばかりなのですが、より多くの青年が礼拝に出席出来るように、みんなで盛り上げているので、よろしくお願いします。



そんな奴に

2006-11-06 00:07:49 | 2006 祈祷週

「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

この聖句は多くの人に希望を与えてきた。

ところでイェス様は、この御言葉をニコデモと言う男に話されたのだった。
彼はイェス様の教えになぜか心が引きつけられていた。
しかしユダヤの国民議会の議員で金持ちであった彼が、片田舎から出てきたイェスに会いに行くのはプライドがくすぶることであり、もし誰かに見られたら笑われるか、最悪の場合その地位も危うい。

それで彼が選んだ時間は真夜中だった。隠れてイェス様に会いに行ったのだ。
ニコデモはそんな奴だった。

しかしイェス様はそんなニコデモに、やがて全世界で最も愛される御言葉を惜しげもなく語られたのだ。
イェス様と自分の地位やプライドを天秤に掛けるような男。
よりによってそんな奴を選び、イェス様は最も深い真理を託されたのだ。 

ニコデモがその御言葉をその後どう噛みしめていったかはわからない。
しかし彼が次に聖書に現れるとき、その行動が全てを物語っている。
それはイェス様が十字架で殺された直後の事だ。
弟子達は、次は自分たちの番だろうと戦々恐々としながら悲しみと失望の中、立ちつくしていた。
しかしニコデモは違った。
彼は友人のヨセフと一緒に亡くなられたイェス様を十字架から大事に降ろし、そして墓に埋葬した。
全てはユダヤ当局が見ている中大胆に行なわれた。
彼は愛するイェス様のためなら全てを失う覚悟が出来ていたのだ。
もうここにいるのは、昔のニコデモではなかった。

私達は神様に向き合うとき、実は二つの間で揺れていることが多いかもしれない。

しかしイェス様はそういう者に今日も、「私はあなたを選んだ。あなたにこそ最も大事な真理を託したいのだ。あなたはそれを、やがて私の代わりに証ししてくれるね?」と愛を持って語っておられる。



根本潤
1962年札幌に生まれる。音楽大学卒業後、沖縄三育中学校教諭を経て、現在は広島三育学院音楽部主任。聖歌隊・ブラスバンドなどの活動の他、作曲家としての作品も多い。



Give and Give with LOVE

2006-11-05 00:11:12 | 2006 祈祷週

現在、私は寮で自炊をしています。
ある日、翌朝の為に2人前の夕食を作りましたが、ルームメイトもちょうど帰ってきたので、一緒に食事をする事にしました。
その食事中に突然、“…私、いつも美咲姫からもらってばっかじゃなぃ。なんでくれるの?珍しぃね。”とルームメイトは言い出しました。
私は驚きました。珍しい?これが…???
でもルームメイトは言います。“私だったらあげょぅとも思わないな~。”と。

確かに、各自で自炊なので普通は他人の分は考えないでしょう。逆に下心はないかと疑われるかもしれません。それに、私が普通だと思っている事は決して他人の普通ではないのです。
ただ私にとっては、これまでに多くの人から同様に与えられてきたので、自然な事だと思っていました。

“なんでくれるの?”普通じゃなぃ事、と言っていた。
-だって私も、いつも神様から祝福をいただいているし、独り占めはもったぃ。

似た質問があります。
“なぜこんな事を?”介護してもらった老人が聞いた。
-“だって、あなたを愛しているからよ。”そぅ、マザーテレサは答えた。

“人生は愛すること。そして、愛されることの喜びそのものです。愛は「与えること」で、一番良く表現されうるのです。“(上智社会福祉専門学校・創立記念誌より)

私たちは持っているのなら、それが多かれ少なかれ、又、目に見えても見えないものであっても、神様の愛と共に与えるべきではないでしょうか。日頃からその愛を与え続けていたら、私たちの周りも何かに気付いてくれるかも、何かが変わってくるかもしれません。自分にできることを一生懸命すれば、神様は喜んでくださり、更にまた与えてくださるとの約束もあります。どんな時でも、誰に対しても常に“与える人”になりたいです。

“与えなさい。そうすれば、あなた方にも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。”(ルカ6:38)


大平美咲姫
国際基督教大学1年生、和歌山教会員。2000年伊藤滋牧師よりバプテスマを受ける。光風台三育小学校卒、広島三育学院高校卒業。父は、和歌山・堺東教会牧師




あなたは本当に幸せですか?

2006-11-04 00:07:42 | 2006 祈祷週

 信仰生活で大切なことは何だろうか?

「毎日、自分が本当に幸せでいること」ジョージ・ミュラーは、そう語った。

本当の幸せとは、“神のみが与えられる愛と平安”に生きることである。しかし私たちは、神からの愛と平安の代わりに、別のもので心を満たそうとし、偽りの一時的な幸せに浸るという習慣を持っている。食欲、異性、お金、物の所有、誇り、目標や信念、仕事や遊びへの逃避、悪習慣などである。それらがあまりにも容易に、本当に大切なものに取って代わっていく。

『わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい』ヨハネ15:11-13
 
イエス様は、「わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互に愛し合う」ことが、喜びに満ちあふれ、幸せでいる秘訣であると言っている。

 愛し合う2人が、どこまで愛し合っているかを知る1つの基準がある。それは、2人の間に秘密がどれほど少ないかで見る方法である。アダムとエバは、罪を犯した途端、神にも人にも隠し事ができた。私たち夫婦はこのチャレンジを受け、祈りの中で「隠してきた罪、隠れた悪習慣」を涙によって互いに告白し、悔い改めの祈りをしている。その時、互いの関係、愛が深まり、神の内に一つにされていくことをいつも体験している。

『だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互いのために祈りなさい。』ヤコブ5:16

これは勿論、恋人や家族、友人との交わりでも同様である。建前と本音の使い分けを卒業し、罪を告白し合い祈る。これが互いに愛し合う実際的な聖書的手段である。

「自分が本当に幸せでいる」には、神に対しても人に対しても、このようにどこまでもオープンに生きることが大切である。これは、この世において唯一、教会でしか経験できないものである。



小川春嗣
PMM牧師で韓国ソウル在住。天沼教会、静岡教会、北浦三育教会牧師を経て、2006年より韓国PMM牧師。現在、韓国三育大学にて韓国語を勉強中。家族は、妻・娘・息子の4人家族。 *PMM:Pioneer Mission Movementの略